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【第9章】水を与える
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始業のベルが鳴り、
私は席に座って誰と話す訳でもなく担任が教室に現れるのを待っていた。
未だ肌寒い毎日ではあったが先日からの衣替えにより、
開襟シャツで登校していた。
クラスの数人はその寒さに耐えられず指定のカーディガンを羽織っている。
私はそれを持って来なかった事を後悔し鳥肌の立った腕を摩っていた時、
扉が開き担任の佐山が入ってきた。
号令と共に起立し挨拶をして着席をする。
古典文学の担当でもある佐山は相変わらずな厚化粧でその香水の臭いが教室中に充満した。
同級生らはそんな彼女の事を
『化粧ババァ』と呼んだ。
噂によると技術担任の赤間先生と不倫をしているという話しだが
実際のところそれは噂などではなく、
うちで経営しているホテルに何度か二人が訪れた事を私は知っている。
そんな事情もあり化粧ババァと赤間は
いつしか私に対して冷ややかな態度をとるようになった。
ある時、廊下ですれ違った私に声をかけたババァは
その手に紙切れを握らせ嫌みっぽい笑顔で職員室に入っていった。
すぐに開いてメモを見た私は陰険な教師への怒りの末に呆れ果てて立ちすくんだ。
『吉田さんへ。 あなたが私について知っていることは、あなたのこれからの未来にとても不利になる事なの。意味が分かるでしょう。ご両親もあなたの進学を期待しているようだし、もしあなたもそう願うなら何も語らないでいる事が賢明です。』
私はそのメモをゴミ箱へ投げ捨て授業を受けず家へ帰った。
部屋に戻った私はベッドに潜り込み独り泣きながらいつしか深い眠りにおちた。
その時の夢を今でもハッキリと思い出す事ができる。
何故なら、
それが私自身における全ての始まりだったからだ。
私はホテルのフロントへ立っている。
二人の男女が訪れチェックインを済ませ客室へ入っていった。
薄暗いロビーに静かに鳴り響く古時計の音。
すると壁の向こうから聞こえてきた激しい息づかいがその静寂を破った。
私はその喘ぎ声に耳を塞ぎBGMのボリュームをフルに廻してみるが、
一向に耳から離れる事の出来ないその声に恐怖と好奇心が入り交じった。
気がつくとフロントの前にどす黒い血にまみれた女が私を見つめて立っていた。
声にならない叫びをあげた私に彼女は言った。
「あなたは何でも知っているのね」
私は咄嗟に
「何も知りません! 何も知りません!」と叫んだ瞬間、
女はあの静かな川に浮かび流れて行った。
数日後、校内には数人の警察官が出入りしていた。
すると教室を訪れた校長先生が私を呼んで会議室に連れて行きいくつかの質問をした。
「君の家はホテルを経営してるそうだね。」
私は俯いたまま次の質問を待った。
「実はね、君にとても大切な話しがあるんです。とても大事で警察の方々もあなたの協力を必要としておられる。だから正直に話してもらえるかな。」
私はするどい警察官の視線におののきながらも校長先生の穏やかな言葉に「はい。」と答えた。
「実は大変な事が起きました、、。我が校にとっては大変な事件ですが、それ以上に生徒にとっては刺激が強過ぎる事でもある事は言うまでもありません、、。実は、君の担任の佐山先生が夕べ何もかによって殺害され川で発見されたんです。」
私は言葉を失い校長の目を見つめた。
「それで警察の方々は、どうも君ん家のホテルを佐山先生が誰かと度々訪れていたという風に思っているらしい。何か心当たりはないだろうか?」
私は俯いたまま固い椅子に座り続け数十分が過ぎた頃、
父と母が警察官と共に入って来て私の身体を抱いた。
「私は何も知らない! 何も知らない!」
次の日、
学校を訪れた私はあきらかに違う同級生の視線を感じた。
それはとてつもなく冷ややかでまるで私を拒絶しているかのような目つきだった。
どうして私が、、。
誰が何を言う訳でもなくその空気は浸透し
いつしかこの校内で私は孤立して行った。
ある同級生はまるで私が犯罪に関わったような事を言いふらし、
またある後輩や先輩らは私を悪魔だと罵った。
私は次第に登校拒否をするようになり、
以前あの忌まわしいババァが手渡したメモを思い出し
部屋ですすり泣きを繰り返した。
私は何も知らない、、。
***
年が明け少しずつ学校へ復帰し始めたある日、
家に戻った私をホテルのロビーで母は待っていた。
フロントに立つ父は暗い表情で俯き、
その後ろに姉がぼんやりと壁に寄り添う様にうなだれていた。
「真利江、あなたには悪いけどお母さん出て行く事に決めたの。」
「え? なによそれ、、。急過ぎるよ!」
私は状況をよめずに声を上げた。
「お姉ちゃんはここに残ると決めたみたい。あなたはどうする?」
「どうするって、、?。急過ぎるよ、、。」
母は私の肩に手をのせて静かに言った。
「あの事件以来、このホテルも大変なのよ。あなたは未だ中学生だし、きちんと進学や就職もさせてあげたいの。わかるでしょう? だからお母さんといらっしゃい。こうするしか無いのよ。分かって、、。」
母は涙を浮かべながら私を強く抱いた。
旅行カバンに着替えと僅かな荷物を詰め込み私はホテルを後にした。
父は何も言わずただ俯いたままで私の目を見る事も別れを言う事もなかったが、
姉が駆け寄り私が母から距離が出来るのを見計らってから静かに言った。
「あなたは私と一緒だよ。分かってる? 今まで周りと違うって思ってたでしょう。でもそれは間違っていないから。私もそうだったの。だから、それを人の為になるようにしなさい。いつでもここの扉はあなたの為に開いてあるから、、。」
姉はそう言って「サヨウナラ。」と言った。
母と私は東京の阿佐ヶ谷に居る親戚を訪ねそこに住み込むようになった。
叔母は数年前に叔父を亡くし独り住まいだった事もあり
私たちの急なお願いを「家族が増えて嬉しい。」とあたたかく迎えてくれた。
母は新しい仕事をすぐに決め私は地元の中学に通い始めた。
私が自分の不思議な能力に気付き始めたのは丁度その頃からであった。
新しい学校にも馴れ始め友達も少しずつ増えていった私に、
ある時クラスメートの男子が偶然に手を触れた。
その瞬間、
彼が自転車を走らせカーブを曲がった瞬間に
車と衝突する映像がアタマの中でフラッシュした。
私はすぐにその手を離し教室へ走った。
次の日の朝、
担任は彼が学校帰りに車と正面衝突にあい重傷だと伝えた。
高校に入学し私の力は更に強くなっていった。
それまでは悪い予感だけが浮かび上がっていたが、
いつしかその人々の未来をも見れる程に進化していた。
そしていつの間にか噂が流れ
私は女子の間で『占い師』のように崇められ
男子の間ではまたしても『悪魔』と呼ばれるようになった。
高二の夏、
付合い始めた先輩が私を体育館の倉庫へ呼んでキスをした。
私は初めての出来事に硬直し
それまでの体質が変わったかの様に思えた。
埃っぽいマットの上で彼の固いものが入った瞬間、
私の中で何かが壊れ始め
それらが新しい形成をし始めたのをハッキリと感じた。
息を荒げ腰を激しく上下する男を抱きしめながら
私は胸の中で叫んだ。
私は進化している。
進化している!
それ以来の私はセックス以外では何も感じられぬようになった。
私自身に於いては幾分楽にもなれたりもしたが、
その後付き合い始めた男達や
行き当たりばったりで関係を持った人々に感じた未来と過去のフラッシュは
リアルに増すばかりだった。
ところがある日、
私は何も感じられない事に気付いた。
それまで自分を苦しめてきた不思議な力を失った私は
その開放感と共に幾分寂しささえも感じ始めていた。
その時、
急に姉に会いたくなり
母には旅行に出かけると告げ私は連絡もせずに静岡の実家へ出かける事にした。
東京駅から新幹線に乗り、
途中で在来線に乗り換える。
バスで向かう途中、
私と母が家を出た時の別れ際に言った姉の言葉を思い出した。
「あなたは私と一緒だよ。それを人の為になるようにしなさい。いつでもここの扉はあなたの為に開いてあるから、、。」
五年振りに訪れた我家『ニュー・ホライズン』の看板は
すっかり錆び付き赤々としていたレンガも随分と風化していた。
ガラスの扉を開けロビーに入った私は、
その懐かしい臭いと変わらない雰囲気に胸を撫で下ろした。
しばらくすると奥から女性が現れ
背筋を伸ばしてフロントで会釈をした。
「いらっしゃいませ」
「姉さん!」
フロントに立つ姉は私をしばらく眺めてから驚いた様子で笑みを浮かべた。
「真利江なの! ビックリしたじゃない!」
彼女はロビーに走りより私に抱きついた。
「元気で良かった」
私たちは変わらないソファに座り
姉が煎れてくれた珈琲を飲みながら向かい合って座った。
「元気だった?」
「うん、元気よ。お母さんも元気だから心配しないで。」
「良かったぁ。あの日以来、連絡とってなかったからずっと心配していたのよ。」
「実はね、お母さんに内緒で来たの、、。」
「分かったわ。でも凄く嬉しいわよ。」
「お父さんは? 元気なの?」
姉は少し俯いてから言った。
「実は、お父さん出て行ったのよ。」
「え? じゃぁ、姉さんがここ独りでやってるの?」
「そうよ。もう三年くらいになるかな。でも悪くないわよ。繁盛もしてないけど、それなりに楽しんでやってるわ。」
私は姉の苦労も知らずに過ごしていた自分に情けなさを感じた。
「真利江は何も心配しなくていいのよ。私独り分くらいは何とか稼いでいけるし、何よりも楽しいの。会社でOLやってるよりはマシよ。」
姉は昔と変わらない笑みをしてみせた。
「ねぇ、今日ここに泊まってもいい?」
「あたりまえじゃない。あなたの部屋も残ってるわよ。」
「うぅん、客室に泊まりたいのよ。考えてみればまともに一度も泊まった事ないし。」
姉は嬉しそうな表情で立ち上がり、
私のカバンを手にとって
「ようこそ、ニュー•ホライズンへ。」と会釈した。
三階
、一番奥の部屋を目指し私はエレベーターに乗る。
変わらないその狭さが妙に懐かしく、
すっかり都会育ちに馴れた私にとっては居心地が良い田舎のビジネスホテルのようだった。
十メートルほどの廊下には真っ赤な絨毯が塵ひとつなく聳え、
その一番奥の扉に鍵を入れ開けた。
客として初めて泊まった我家のホテル。
子供の頃は単なる遊び場でしかなかったこの客室が何だかとても愛おしく感じられた。
手の行届いた隅々は清潔で古いながらも洗練された歴史さえ感じられた。
落ち着いた壁にはあの馴れ親しんだ公園の風景だと思われる油絵が飾られ
ベッドには皺ひとつないパリっとした布団がかぶせられてあった。
私はユニットバスの蛇口をひねりバスタブに熱いお湯を注いだ。
すると備え付けの電話器が鳴ったので出てみると、
姉が嬉しそうにキビキビと言った。
「夕食の準備が出来ましたので、一階ロビーへおこしください。」
薄暗いロビーのテーブルを訪れると、
既に夕食の準備がしてあった。
熱々のポークソテーだ。
姉はきっとわざわざ私の好物をこしらえてくれたのだろう。
コンソメスープとサラダ、ライスを運んで来た姉は、
「お腹空いてるんでしょ。熱いうちに早く食べなさい。」と私を促した。
私がそれを食べている間、
向かいに座った姉は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
その姿はすっかり大人びていてホテルの支配人としての風格も漂っていた。
最後の一口を食べ終えた時、
姉はキッチンに戻り熱い珈琲を二つ運び私たちはそれを飲みながらやっと落ち着いた。
「姉さん綺麗になったような気がする。」
姉は首を傾げておどけた。
「あなたもね。だってあれから五年が過ぎたのよ。」
私はその五年という月日を重く感じた。
「ねぇ、あの時に言った言葉の意味が少しずつ分かったような気がするわ。」
姉は壁の絵に視線を移した。
「そう、、。きっと辛い事も沢山あったでしょう。でもだからあなたはここに戻って来た。私には分かっていたのよ。」
私は煙草に火をつけた。
「どうしたらいいんだろうって最近思って。私なりに色々経験もしたし迷ったりもしたの。でもどうしても分からない、、。私は何をするべきなのか。うぅん、上手く言えないけどとにかくここを訪れなきゃって思ったの。どうしてかしら? 自分でも分からないのよ。」
姉はしばらく黙り込み壁の油絵を指して言った。
「ねぇ、あの公園を覚えてる? よく子供の頃一緒に行ったでしょう。」
私はそこに描かれた公園のベンチに座る影を見つめた。
「ところであなた、しばらくいるの?」
「そうね、別にやる事もないしもうちょっといようかな。」
「仕事は? あなた仕事あるんじゃないの?」
「実は今、休職中なの。しばらくゆっくりするわ。」
「そう、じゃぁゆっくりするといいわ。お客さんとしてね。公園も随分と整理されちゃったけど訪れてみればいいかも。あそこから眺める風景は変わっていないし。」
そう言った姉は立ち上がり
「おやすみ。」と言って珈琲カップを下げた。
部屋に戻る途中、
三階の自動販売機コーナーに寄り数本のビールを買った。
とくに何もする事もなかったのでバスタブにゆっくり入ることにした。
スタンダードサイズのユニットバスは背の高い私には少し狭めではあったが、
備えてあったジャスミンの入浴剤がとても心地よい香りで癒してくれた。
開放感に浸った私は下着も付けず裸で缶ビールを飲みながら考えた。
どうして私はここに戻って来たのだろう?
さっき姉は私が戻ってくる事を分かっていたと言った。
単に帰省すると言う意味だろうか、、。
でも今回の帰省は決してそれだけの意味ではない。
私は必然的にここに戻ってきたのだ。
いや、導かれたのかもしれない。
そんな気がした。
でもどうして?
気がつくと私はベッドの上で眠りこんでいた。
喉がカラカラに乾いている。
数時間前に買ったビールは既に飲みつくしてしまったので
仕方なく立ち上がりジュースを買いに部屋を出た。
扉を閉めエレベーターに向かおうとしたその時、
一番奥のこの部屋の左隣りに見覚えの無い扉に気付く。
客室?
恐らく増築でもしたのだろうが、
どうして今まで気付かなかったのだろう。
私はその扉のノブに手をかけてみる。
どうせ誰も泊ってやいない。
ゆっくりと回してみるとそれは抵抗もなく開かれた。
まずい、誰かいるのかも、、。
客室は物音ひとつせずに静寂に包まれていたが、
しばらくすると独特な臭いが私の鼻へ入り込んできた。
何だ、この臭いは?
油と黴にまみれたような臭いに耐えられずすぐに扉を閉めた。
振り返りエレベーターへ向かった私は
飲んだビールのせいか足下がフラフラとして前に進む事も間々ならない。
酔っているのだろうか?
僅か十メートルほどの廊下をやっとの思いで歩き
辿り着いたエレベーターに乗り込んだ私は
数秒後に開かれた扉へ導かれるように這い出た。
するとそこは一階ロビーだった。
誰もいない薄暗いロビー。
やけに重い身体を引きずりながらソファに座り込んだ私はしばらく俯いたまま動く事も出来ずにいた。
喉が渇いた。
無意識のまま立ち上がった時、
かすかに感じた臭いに反応した。
この臭い、、。
その扉をゆっくりと開き中へ入る。
湿度の高いその真っ暗な奥へと歩いていると、
途中で足下が柔らかい土に変わったのをハッキリと感じた。
進むにつれ次第に高くなる天井に違和感をもった私は立ち止まり目を凝らして辺りを見回した。
すると頭上にはぼんやりと月が浮かんでいる。
目の前に立ちはだかる恐ろしい程の壁に気付いた時、
夜空が真っ赤に色づいた。
するとそれと同時に耳をつんざくような爆音が地鳴りと共に鳴り響いた。
私は咄嗟に耳を塞ぎその状況を理解出来ずにパニックに陥った。
なに! なんなのこれ!
その壁の向こう側から聞こえる怒号はおさまる事もなく私を混乱させる。
一体この壁の向こうで何が起こっているの!
その場に座り込み身じろぎひとつ出来ずにいた時、
かすかに壁の向こうから誰かが叫んでいる声を聞いた。
すぐに耳をあてた私は鳴り響く怒号の中で確かにその声を耳にした。
「今、助けにいくからな! 待っておれ!」
混乱した私はその声に向かって大声で叫んだ。
「誰なの? 真利江よ! 助けて! 早く助けて!」
鳴り止まない恐ろしい音に耐えきれなくなった私は
その壁の向こうから聞こえる声もかまわずに走り出した。
遠くへ、もっと遠くへ逃げなきゃ!
あの壁からもっと遠くへ逃げなきゃ!
一心不乱に走った私は気がつくとやっと落ち着いた町へ辿り着いていた。
お腹がペコペコだ。
少し歩いた路地裏で見つけた店に入った私はテーブルに座りこんだ。
間もなく水を運んで来た店員は私の顔を覗き込みゆっくりと言った。
「お電話ですよ。あなたに。」
ポケットから出された受話器を受け取り私は応じた。
「もしもし?」
すると電話の向こうで老婆らしい女が静かに話し始めた。
「あんた、あれじゃろ? そうか、そうか。ずっと待っていたんだよ。もう私も長くないからね。だからあんたに押してもらわなきゃどうする事もできんのですよ。好むと好まざるの問題じゃなく、、。それじゃ、よろしくたのんだよ。」
老婆はそれだけを告げすぐに電話を切った。
私が押さなければならないもの?
一体何を押せというのだろう、、。
店員が運んできた温かいミネストローネをゆっくりと飲みながら
私はその言葉の意味を考え続けた。
すると新聞を広げて読んでいた隣りの席の男が声をかけた。
「まだ分からんのか? まったく最近の若い奴ときたらこれだからかなわん。」
私は意味が分からずに答えた。
「スイッチ?」
男は怪訝そうな顔つきで首を振りながら答えた。
「スイッチじゃよ。簡単な事だ。スイッチを押しちまえばいいんじゃ。」
***
目が覚めた時、
私は柔らかいベッドにいた。
見慣れない天井をしばらく見つめた後
ゆっくりと起き上がり
散乱した自分の下着を着けてから扉を開けた。
「おはよう。ゆっくり寝れた? 今、珈琲煎れるよ。」
澤村は立ち上がりキッチンへ移動した。
「すいません。こんな時間まで寝てしまって。」
珈琲をドリップしながら彼は笑った。
「いいんだよ。日曜がオフなんて君も久しぶりだろ?」
夕べ、
事務所で澤村と仕事の打ち合わせをした後に飲みに誘ったのは私の方だ。
いつになく酔いがまわってしまい
気分を良くした私は彼を誘って何軒かハシゴし
挙げ句の果てに彼を求めた。
いや、
それはある意味、
私の願望という策略だった事を彼は気付いていない。
彼には会った時から惹かれていたのは事実だし、
こういうチャンスを伺っていたりもしていた。
幸いお互い独身でもあったので何の問題もない。
この部屋を訪れてからの記憶は殆どない。
それでも下半身に残る異物感だけはしっかりと感じとる事ができた。
窓から入り込んだ風が涼しい。
私は向かいのソファに座る彼に手を伸ばした。
「ねぇ、ベッドに戻らない?」
英司は首を傾げ笑った。
「今から? もう朝だよ。」
彼の隣りに移動し両手を回した。
「朝が好きなの。」
ベッドに潜り込んだ私たちは
カーテンの閉まっている薄暗い部屋で抱き合った。
するとその時、
私は確かに感じた。
あの忌まわしい臭いの中で起こった恐怖と絶望を。
そうだ、スイッチを入れなければ!
今すぐそれを押さなければ!
私の上で呼吸を荒げた男がふいに覗き込んで言った。
「好むと好まざるの問題じゃないんだよ。まだ分からないのかい?」
私はその目を見つめながら朦朧と答えた。
「スイッチはどこ? どこにあるの!」
男は不機嫌そうな顔でゆっくりと耳元で続けた。
「扉の中だよ。オマエも入ったじゃないか。そう、水を与えないと。」
「私も入った? それってあの扉なの?」
「そうだよ、ほら。オマエの扉さ。もうスイッチは目の前じゃよ。早く入れなきゃ間に合わんぞ。」
私は上体を起こし男の固く勃起したペニスを深く飲み込んだその瞬間、
回路がスリーブした。
しばらくするとスクリーン・セーバーが開始され
黴臭い暗闇の中で私の記憶が巡り始めた。
するとそこに少しずつ映像がフラッシュした。
幼い頃のイジメ、
別れ際の父の悲しげな顔、
カウンターに佇む姉、
公園の油絵、
ロビーの扉、
湿った土、
奥へと歩き続ける男、
皿の上の満月、
群衆の怒号とサイレン、
泣き叫ぶ老人、
立ちはだかる巨大な壁、、。
私は物音ひとつしない公園でその壁の前に立っている。
冷たいコンクリートに手をあててやがて声を出して聞いた。
「あなたは誰なの?」
満月の下、
ベンチに座っていた女は
川の流れを見つめたままやがてゆっくりと語りだした。
「私のことかしら? いいえ、私のことかしら? あらあら、どちらでもないわね。そうでしょ、ミキコさん。あらごめんなさい、ミキコさんだったかしら。とうとうこっちに来れなかったようだね。いえ、そんな事ありませんよ。彼は今でもここを探しているんですもの。あんたに会えて良かったよ。悲しい気分も減ったしね。あなたの御陰ですよ。ところであなたはどちらにいるのかね。私はきっと東側なのかもしれませんね。そう思います。そうかいそうかい。じゃ私も同じかもしれませんね。あなたはまだ待ち続けるおつもりかい? はいもうちょっと待ってみようと思っています。それもいいかもしれませんね。きっとおいでになるでしょう。あのスイッチをポチんっと押しさえすればいい事ですよ。そうすれば誰かが水を与えてくれるでしょう。そうですね。でも心配です。きっとあの壁が邪魔させるでしょうから。それは分からない事ですよ。あれを乗り越えられる人ならきっとここに辿りつけますから。でもそれが果たして私たちにとって幸せな事なのでしょうか? 残念ながらそれは分かりませんが、それを探し始めた時にしか知り得ない場所でもありますからね。きっとここに辿り着いた時、答えが見つかるでしょう。」
私はベンチで
水の入った皿を持ち覗き込んだ。
その水面に浮かぶ満月を眺め人差し指で縦に割ってみる。
映り込んだ月はたちまち揺らぎやがて消えてしまった。
立ち上がるとそこに老人が倒れ込んでいる。
「おじいさん、大丈夫ですか。おじいさん! おじいさん!」
振り向くとそこにあったベンチは影も形もなくなっている。
すると老人が優しく言った。
「なにもかも老いぼれてしまったのじゃよ。好むと好まざるの問題じゃなくな。実に悲しい話じゃよ。実に悲しい話じゃ、、。」
ベンチの姉が私の髪をゆっくりと優しく掻き分けてくれた。
「誰だって、やるべき事があるのよ。あなたもそうであるように。あなたは出来る子だから心配しなくていいのよ。ほら、静かにいきなさい。心配しないで、もういきなさい。」
私は姉の腕の中で静かにエンドルフィンの放出を感じ、
激しいオルガズムに達し眠りにおちた時、
そのずぶ濡れになった扉を開けた。
もう行かなきゃ。
私は席に座って誰と話す訳でもなく担任が教室に現れるのを待っていた。
未だ肌寒い毎日ではあったが先日からの衣替えにより、
開襟シャツで登校していた。
クラスの数人はその寒さに耐えられず指定のカーディガンを羽織っている。
私はそれを持って来なかった事を後悔し鳥肌の立った腕を摩っていた時、
扉が開き担任の佐山が入ってきた。
号令と共に起立し挨拶をして着席をする。
古典文学の担当でもある佐山は相変わらずな厚化粧でその香水の臭いが教室中に充満した。
同級生らはそんな彼女の事を
『化粧ババァ』と呼んだ。
噂によると技術担任の赤間先生と不倫をしているという話しだが
実際のところそれは噂などではなく、
うちで経営しているホテルに何度か二人が訪れた事を私は知っている。
そんな事情もあり化粧ババァと赤間は
いつしか私に対して冷ややかな態度をとるようになった。
ある時、廊下ですれ違った私に声をかけたババァは
その手に紙切れを握らせ嫌みっぽい笑顔で職員室に入っていった。
すぐに開いてメモを見た私は陰険な教師への怒りの末に呆れ果てて立ちすくんだ。
『吉田さんへ。 あなたが私について知っていることは、あなたのこれからの未来にとても不利になる事なの。意味が分かるでしょう。ご両親もあなたの進学を期待しているようだし、もしあなたもそう願うなら何も語らないでいる事が賢明です。』
私はそのメモをゴミ箱へ投げ捨て授業を受けず家へ帰った。
部屋に戻った私はベッドに潜り込み独り泣きながらいつしか深い眠りにおちた。
その時の夢を今でもハッキリと思い出す事ができる。
何故なら、
それが私自身における全ての始まりだったからだ。
私はホテルのフロントへ立っている。
二人の男女が訪れチェックインを済ませ客室へ入っていった。
薄暗いロビーに静かに鳴り響く古時計の音。
すると壁の向こうから聞こえてきた激しい息づかいがその静寂を破った。
私はその喘ぎ声に耳を塞ぎBGMのボリュームをフルに廻してみるが、
一向に耳から離れる事の出来ないその声に恐怖と好奇心が入り交じった。
気がつくとフロントの前にどす黒い血にまみれた女が私を見つめて立っていた。
声にならない叫びをあげた私に彼女は言った。
「あなたは何でも知っているのね」
私は咄嗟に
「何も知りません! 何も知りません!」と叫んだ瞬間、
女はあの静かな川に浮かび流れて行った。
数日後、校内には数人の警察官が出入りしていた。
すると教室を訪れた校長先生が私を呼んで会議室に連れて行きいくつかの質問をした。
「君の家はホテルを経営してるそうだね。」
私は俯いたまま次の質問を待った。
「実はね、君にとても大切な話しがあるんです。とても大事で警察の方々もあなたの協力を必要としておられる。だから正直に話してもらえるかな。」
私はするどい警察官の視線におののきながらも校長先生の穏やかな言葉に「はい。」と答えた。
「実は大変な事が起きました、、。我が校にとっては大変な事件ですが、それ以上に生徒にとっては刺激が強過ぎる事でもある事は言うまでもありません、、。実は、君の担任の佐山先生が夕べ何もかによって殺害され川で発見されたんです。」
私は言葉を失い校長の目を見つめた。
「それで警察の方々は、どうも君ん家のホテルを佐山先生が誰かと度々訪れていたという風に思っているらしい。何か心当たりはないだろうか?」
私は俯いたまま固い椅子に座り続け数十分が過ぎた頃、
父と母が警察官と共に入って来て私の身体を抱いた。
「私は何も知らない! 何も知らない!」
次の日、
学校を訪れた私はあきらかに違う同級生の視線を感じた。
それはとてつもなく冷ややかでまるで私を拒絶しているかのような目つきだった。
どうして私が、、。
誰が何を言う訳でもなくその空気は浸透し
いつしかこの校内で私は孤立して行った。
ある同級生はまるで私が犯罪に関わったような事を言いふらし、
またある後輩や先輩らは私を悪魔だと罵った。
私は次第に登校拒否をするようになり、
以前あの忌まわしいババァが手渡したメモを思い出し
部屋ですすり泣きを繰り返した。
私は何も知らない、、。
***
年が明け少しずつ学校へ復帰し始めたある日、
家に戻った私をホテルのロビーで母は待っていた。
フロントに立つ父は暗い表情で俯き、
その後ろに姉がぼんやりと壁に寄り添う様にうなだれていた。
「真利江、あなたには悪いけどお母さん出て行く事に決めたの。」
「え? なによそれ、、。急過ぎるよ!」
私は状況をよめずに声を上げた。
「お姉ちゃんはここに残ると決めたみたい。あなたはどうする?」
「どうするって、、?。急過ぎるよ、、。」
母は私の肩に手をのせて静かに言った。
「あの事件以来、このホテルも大変なのよ。あなたは未だ中学生だし、きちんと進学や就職もさせてあげたいの。わかるでしょう? だからお母さんといらっしゃい。こうするしか無いのよ。分かって、、。」
母は涙を浮かべながら私を強く抱いた。
旅行カバンに着替えと僅かな荷物を詰め込み私はホテルを後にした。
父は何も言わずただ俯いたままで私の目を見る事も別れを言う事もなかったが、
姉が駆け寄り私が母から距離が出来るのを見計らってから静かに言った。
「あなたは私と一緒だよ。分かってる? 今まで周りと違うって思ってたでしょう。でもそれは間違っていないから。私もそうだったの。だから、それを人の為になるようにしなさい。いつでもここの扉はあなたの為に開いてあるから、、。」
姉はそう言って「サヨウナラ。」と言った。
母と私は東京の阿佐ヶ谷に居る親戚を訪ねそこに住み込むようになった。
叔母は数年前に叔父を亡くし独り住まいだった事もあり
私たちの急なお願いを「家族が増えて嬉しい。」とあたたかく迎えてくれた。
母は新しい仕事をすぐに決め私は地元の中学に通い始めた。
私が自分の不思議な能力に気付き始めたのは丁度その頃からであった。
新しい学校にも馴れ始め友達も少しずつ増えていった私に、
ある時クラスメートの男子が偶然に手を触れた。
その瞬間、
彼が自転車を走らせカーブを曲がった瞬間に
車と衝突する映像がアタマの中でフラッシュした。
私はすぐにその手を離し教室へ走った。
次の日の朝、
担任は彼が学校帰りに車と正面衝突にあい重傷だと伝えた。
高校に入学し私の力は更に強くなっていった。
それまでは悪い予感だけが浮かび上がっていたが、
いつしかその人々の未来をも見れる程に進化していた。
そしていつの間にか噂が流れ
私は女子の間で『占い師』のように崇められ
男子の間ではまたしても『悪魔』と呼ばれるようになった。
高二の夏、
付合い始めた先輩が私を体育館の倉庫へ呼んでキスをした。
私は初めての出来事に硬直し
それまでの体質が変わったかの様に思えた。
埃っぽいマットの上で彼の固いものが入った瞬間、
私の中で何かが壊れ始め
それらが新しい形成をし始めたのをハッキリと感じた。
息を荒げ腰を激しく上下する男を抱きしめながら
私は胸の中で叫んだ。
私は進化している。
進化している!
それ以来の私はセックス以外では何も感じられぬようになった。
私自身に於いては幾分楽にもなれたりもしたが、
その後付き合い始めた男達や
行き当たりばったりで関係を持った人々に感じた未来と過去のフラッシュは
リアルに増すばかりだった。
ところがある日、
私は何も感じられない事に気付いた。
それまで自分を苦しめてきた不思議な力を失った私は
その開放感と共に幾分寂しささえも感じ始めていた。
その時、
急に姉に会いたくなり
母には旅行に出かけると告げ私は連絡もせずに静岡の実家へ出かける事にした。
東京駅から新幹線に乗り、
途中で在来線に乗り換える。
バスで向かう途中、
私と母が家を出た時の別れ際に言った姉の言葉を思い出した。
「あなたは私と一緒だよ。それを人の為になるようにしなさい。いつでもここの扉はあなたの為に開いてあるから、、。」
五年振りに訪れた我家『ニュー・ホライズン』の看板は
すっかり錆び付き赤々としていたレンガも随分と風化していた。
ガラスの扉を開けロビーに入った私は、
その懐かしい臭いと変わらない雰囲気に胸を撫で下ろした。
しばらくすると奥から女性が現れ
背筋を伸ばしてフロントで会釈をした。
「いらっしゃいませ」
「姉さん!」
フロントに立つ姉は私をしばらく眺めてから驚いた様子で笑みを浮かべた。
「真利江なの! ビックリしたじゃない!」
彼女はロビーに走りより私に抱きついた。
「元気で良かった」
私たちは変わらないソファに座り
姉が煎れてくれた珈琲を飲みながら向かい合って座った。
「元気だった?」
「うん、元気よ。お母さんも元気だから心配しないで。」
「良かったぁ。あの日以来、連絡とってなかったからずっと心配していたのよ。」
「実はね、お母さんに内緒で来たの、、。」
「分かったわ。でも凄く嬉しいわよ。」
「お父さんは? 元気なの?」
姉は少し俯いてから言った。
「実は、お父さん出て行ったのよ。」
「え? じゃぁ、姉さんがここ独りでやってるの?」
「そうよ。もう三年くらいになるかな。でも悪くないわよ。繁盛もしてないけど、それなりに楽しんでやってるわ。」
私は姉の苦労も知らずに過ごしていた自分に情けなさを感じた。
「真利江は何も心配しなくていいのよ。私独り分くらいは何とか稼いでいけるし、何よりも楽しいの。会社でOLやってるよりはマシよ。」
姉は昔と変わらない笑みをしてみせた。
「ねぇ、今日ここに泊まってもいい?」
「あたりまえじゃない。あなたの部屋も残ってるわよ。」
「うぅん、客室に泊まりたいのよ。考えてみればまともに一度も泊まった事ないし。」
姉は嬉しそうな表情で立ち上がり、
私のカバンを手にとって
「ようこそ、ニュー•ホライズンへ。」と会釈した。
三階
、一番奥の部屋を目指し私はエレベーターに乗る。
変わらないその狭さが妙に懐かしく、
すっかり都会育ちに馴れた私にとっては居心地が良い田舎のビジネスホテルのようだった。
十メートルほどの廊下には真っ赤な絨毯が塵ひとつなく聳え、
その一番奥の扉に鍵を入れ開けた。
客として初めて泊まった我家のホテル。
子供の頃は単なる遊び場でしかなかったこの客室が何だかとても愛おしく感じられた。
手の行届いた隅々は清潔で古いながらも洗練された歴史さえ感じられた。
落ち着いた壁にはあの馴れ親しんだ公園の風景だと思われる油絵が飾られ
ベッドには皺ひとつないパリっとした布団がかぶせられてあった。
私はユニットバスの蛇口をひねりバスタブに熱いお湯を注いだ。
すると備え付けの電話器が鳴ったので出てみると、
姉が嬉しそうにキビキビと言った。
「夕食の準備が出来ましたので、一階ロビーへおこしください。」
薄暗いロビーのテーブルを訪れると、
既に夕食の準備がしてあった。
熱々のポークソテーだ。
姉はきっとわざわざ私の好物をこしらえてくれたのだろう。
コンソメスープとサラダ、ライスを運んで来た姉は、
「お腹空いてるんでしょ。熱いうちに早く食べなさい。」と私を促した。
私がそれを食べている間、
向かいに座った姉は嬉しそうに笑みを浮かべていた。
その姿はすっかり大人びていてホテルの支配人としての風格も漂っていた。
最後の一口を食べ終えた時、
姉はキッチンに戻り熱い珈琲を二つ運び私たちはそれを飲みながらやっと落ち着いた。
「姉さん綺麗になったような気がする。」
姉は首を傾げておどけた。
「あなたもね。だってあれから五年が過ぎたのよ。」
私はその五年という月日を重く感じた。
「ねぇ、あの時に言った言葉の意味が少しずつ分かったような気がするわ。」
姉は壁の絵に視線を移した。
「そう、、。きっと辛い事も沢山あったでしょう。でもだからあなたはここに戻って来た。私には分かっていたのよ。」
私は煙草に火をつけた。
「どうしたらいいんだろうって最近思って。私なりに色々経験もしたし迷ったりもしたの。でもどうしても分からない、、。私は何をするべきなのか。うぅん、上手く言えないけどとにかくここを訪れなきゃって思ったの。どうしてかしら? 自分でも分からないのよ。」
姉はしばらく黙り込み壁の油絵を指して言った。
「ねぇ、あの公園を覚えてる? よく子供の頃一緒に行ったでしょう。」
私はそこに描かれた公園のベンチに座る影を見つめた。
「ところであなた、しばらくいるの?」
「そうね、別にやる事もないしもうちょっといようかな。」
「仕事は? あなた仕事あるんじゃないの?」
「実は今、休職中なの。しばらくゆっくりするわ。」
「そう、じゃぁゆっくりするといいわ。お客さんとしてね。公園も随分と整理されちゃったけど訪れてみればいいかも。あそこから眺める風景は変わっていないし。」
そう言った姉は立ち上がり
「おやすみ。」と言って珈琲カップを下げた。
部屋に戻る途中、
三階の自動販売機コーナーに寄り数本のビールを買った。
とくに何もする事もなかったのでバスタブにゆっくり入ることにした。
スタンダードサイズのユニットバスは背の高い私には少し狭めではあったが、
備えてあったジャスミンの入浴剤がとても心地よい香りで癒してくれた。
開放感に浸った私は下着も付けず裸で缶ビールを飲みながら考えた。
どうして私はここに戻って来たのだろう?
さっき姉は私が戻ってくる事を分かっていたと言った。
単に帰省すると言う意味だろうか、、。
でも今回の帰省は決してそれだけの意味ではない。
私は必然的にここに戻ってきたのだ。
いや、導かれたのかもしれない。
そんな気がした。
でもどうして?
気がつくと私はベッドの上で眠りこんでいた。
喉がカラカラに乾いている。
数時間前に買ったビールは既に飲みつくしてしまったので
仕方なく立ち上がりジュースを買いに部屋を出た。
扉を閉めエレベーターに向かおうとしたその時、
一番奥のこの部屋の左隣りに見覚えの無い扉に気付く。
客室?
恐らく増築でもしたのだろうが、
どうして今まで気付かなかったのだろう。
私はその扉のノブに手をかけてみる。
どうせ誰も泊ってやいない。
ゆっくりと回してみるとそれは抵抗もなく開かれた。
まずい、誰かいるのかも、、。
客室は物音ひとつせずに静寂に包まれていたが、
しばらくすると独特な臭いが私の鼻へ入り込んできた。
何だ、この臭いは?
油と黴にまみれたような臭いに耐えられずすぐに扉を閉めた。
振り返りエレベーターへ向かった私は
飲んだビールのせいか足下がフラフラとして前に進む事も間々ならない。
酔っているのだろうか?
僅か十メートルほどの廊下をやっとの思いで歩き
辿り着いたエレベーターに乗り込んだ私は
数秒後に開かれた扉へ導かれるように這い出た。
するとそこは一階ロビーだった。
誰もいない薄暗いロビー。
やけに重い身体を引きずりながらソファに座り込んだ私はしばらく俯いたまま動く事も出来ずにいた。
喉が渇いた。
無意識のまま立ち上がった時、
かすかに感じた臭いに反応した。
この臭い、、。
その扉をゆっくりと開き中へ入る。
湿度の高いその真っ暗な奥へと歩いていると、
途中で足下が柔らかい土に変わったのをハッキリと感じた。
進むにつれ次第に高くなる天井に違和感をもった私は立ち止まり目を凝らして辺りを見回した。
すると頭上にはぼんやりと月が浮かんでいる。
目の前に立ちはだかる恐ろしい程の壁に気付いた時、
夜空が真っ赤に色づいた。
するとそれと同時に耳をつんざくような爆音が地鳴りと共に鳴り響いた。
私は咄嗟に耳を塞ぎその状況を理解出来ずにパニックに陥った。
なに! なんなのこれ!
その壁の向こう側から聞こえる怒号はおさまる事もなく私を混乱させる。
一体この壁の向こうで何が起こっているの!
その場に座り込み身じろぎひとつ出来ずにいた時、
かすかに壁の向こうから誰かが叫んでいる声を聞いた。
すぐに耳をあてた私は鳴り響く怒号の中で確かにその声を耳にした。
「今、助けにいくからな! 待っておれ!」
混乱した私はその声に向かって大声で叫んだ。
「誰なの? 真利江よ! 助けて! 早く助けて!」
鳴り止まない恐ろしい音に耐えきれなくなった私は
その壁の向こうから聞こえる声もかまわずに走り出した。
遠くへ、もっと遠くへ逃げなきゃ!
あの壁からもっと遠くへ逃げなきゃ!
一心不乱に走った私は気がつくとやっと落ち着いた町へ辿り着いていた。
お腹がペコペコだ。
少し歩いた路地裏で見つけた店に入った私はテーブルに座りこんだ。
間もなく水を運んで来た店員は私の顔を覗き込みゆっくりと言った。
「お電話ですよ。あなたに。」
ポケットから出された受話器を受け取り私は応じた。
「もしもし?」
すると電話の向こうで老婆らしい女が静かに話し始めた。
「あんた、あれじゃろ? そうか、そうか。ずっと待っていたんだよ。もう私も長くないからね。だからあんたに押してもらわなきゃどうする事もできんのですよ。好むと好まざるの問題じゃなく、、。それじゃ、よろしくたのんだよ。」
老婆はそれだけを告げすぐに電話を切った。
私が押さなければならないもの?
一体何を押せというのだろう、、。
店員が運んできた温かいミネストローネをゆっくりと飲みながら
私はその言葉の意味を考え続けた。
すると新聞を広げて読んでいた隣りの席の男が声をかけた。
「まだ分からんのか? まったく最近の若い奴ときたらこれだからかなわん。」
私は意味が分からずに答えた。
「スイッチ?」
男は怪訝そうな顔つきで首を振りながら答えた。
「スイッチじゃよ。簡単な事だ。スイッチを押しちまえばいいんじゃ。」
***
目が覚めた時、
私は柔らかいベッドにいた。
見慣れない天井をしばらく見つめた後
ゆっくりと起き上がり
散乱した自分の下着を着けてから扉を開けた。
「おはよう。ゆっくり寝れた? 今、珈琲煎れるよ。」
澤村は立ち上がりキッチンへ移動した。
「すいません。こんな時間まで寝てしまって。」
珈琲をドリップしながら彼は笑った。
「いいんだよ。日曜がオフなんて君も久しぶりだろ?」
夕べ、
事務所で澤村と仕事の打ち合わせをした後に飲みに誘ったのは私の方だ。
いつになく酔いがまわってしまい
気分を良くした私は彼を誘って何軒かハシゴし
挙げ句の果てに彼を求めた。
いや、
それはある意味、
私の願望という策略だった事を彼は気付いていない。
彼には会った時から惹かれていたのは事実だし、
こういうチャンスを伺っていたりもしていた。
幸いお互い独身でもあったので何の問題もない。
この部屋を訪れてからの記憶は殆どない。
それでも下半身に残る異物感だけはしっかりと感じとる事ができた。
窓から入り込んだ風が涼しい。
私は向かいのソファに座る彼に手を伸ばした。
「ねぇ、ベッドに戻らない?」
英司は首を傾げ笑った。
「今から? もう朝だよ。」
彼の隣りに移動し両手を回した。
「朝が好きなの。」
ベッドに潜り込んだ私たちは
カーテンの閉まっている薄暗い部屋で抱き合った。
するとその時、
私は確かに感じた。
あの忌まわしい臭いの中で起こった恐怖と絶望を。
そうだ、スイッチを入れなければ!
今すぐそれを押さなければ!
私の上で呼吸を荒げた男がふいに覗き込んで言った。
「好むと好まざるの問題じゃないんだよ。まだ分からないのかい?」
私はその目を見つめながら朦朧と答えた。
「スイッチはどこ? どこにあるの!」
男は不機嫌そうな顔でゆっくりと耳元で続けた。
「扉の中だよ。オマエも入ったじゃないか。そう、水を与えないと。」
「私も入った? それってあの扉なの?」
「そうだよ、ほら。オマエの扉さ。もうスイッチは目の前じゃよ。早く入れなきゃ間に合わんぞ。」
私は上体を起こし男の固く勃起したペニスを深く飲み込んだその瞬間、
回路がスリーブした。
しばらくするとスクリーン・セーバーが開始され
黴臭い暗闇の中で私の記憶が巡り始めた。
するとそこに少しずつ映像がフラッシュした。
幼い頃のイジメ、
別れ際の父の悲しげな顔、
カウンターに佇む姉、
公園の油絵、
ロビーの扉、
湿った土、
奥へと歩き続ける男、
皿の上の満月、
群衆の怒号とサイレン、
泣き叫ぶ老人、
立ちはだかる巨大な壁、、。
私は物音ひとつしない公園でその壁の前に立っている。
冷たいコンクリートに手をあててやがて声を出して聞いた。
「あなたは誰なの?」
満月の下、
ベンチに座っていた女は
川の流れを見つめたままやがてゆっくりと語りだした。
「私のことかしら? いいえ、私のことかしら? あらあら、どちらでもないわね。そうでしょ、ミキコさん。あらごめんなさい、ミキコさんだったかしら。とうとうこっちに来れなかったようだね。いえ、そんな事ありませんよ。彼は今でもここを探しているんですもの。あんたに会えて良かったよ。悲しい気分も減ったしね。あなたの御陰ですよ。ところであなたはどちらにいるのかね。私はきっと東側なのかもしれませんね。そう思います。そうかいそうかい。じゃ私も同じかもしれませんね。あなたはまだ待ち続けるおつもりかい? はいもうちょっと待ってみようと思っています。それもいいかもしれませんね。きっとおいでになるでしょう。あのスイッチをポチんっと押しさえすればいい事ですよ。そうすれば誰かが水を与えてくれるでしょう。そうですね。でも心配です。きっとあの壁が邪魔させるでしょうから。それは分からない事ですよ。あれを乗り越えられる人ならきっとここに辿りつけますから。でもそれが果たして私たちにとって幸せな事なのでしょうか? 残念ながらそれは分かりませんが、それを探し始めた時にしか知り得ない場所でもありますからね。きっとここに辿り着いた時、答えが見つかるでしょう。」
私はベンチで
水の入った皿を持ち覗き込んだ。
その水面に浮かぶ満月を眺め人差し指で縦に割ってみる。
映り込んだ月はたちまち揺らぎやがて消えてしまった。
立ち上がるとそこに老人が倒れ込んでいる。
「おじいさん、大丈夫ですか。おじいさん! おじいさん!」
振り向くとそこにあったベンチは影も形もなくなっている。
すると老人が優しく言った。
「なにもかも老いぼれてしまったのじゃよ。好むと好まざるの問題じゃなくな。実に悲しい話じゃよ。実に悲しい話じゃ、、。」
ベンチの姉が私の髪をゆっくりと優しく掻き分けてくれた。
「誰だって、やるべき事があるのよ。あなたもそうであるように。あなたは出来る子だから心配しなくていいのよ。ほら、静かにいきなさい。心配しないで、もういきなさい。」
私は姉の腕の中で静かにエンドルフィンの放出を感じ、
激しいオルガズムに達し眠りにおちた時、
そのずぶ濡れになった扉を開けた。
もう行かなきゃ。
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