ホテル・ニュー・カリフォルニア

藤原雅倫

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【第14章】突然の訃報

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 空は雲ひとつなくどこまでも真っ青に広がっていた。
間も無く訪れる冬の少し冷たい風が、
お線香の香りを漂わせていた。
母は義父の訃報を受けすっかり元気を失ってしまった。
そして何故、
母が東京から静岡に越したかをやっと理解する事が出来た。

 昨夜、仕事から戻ると、
留守電に母からの生気を失ったような声のメッセージが入っていた。
私は心配になりすぐに電話すると、
母は泣きながら義理の父が亡くなったと言った。
私は心の底から驚き、声を上げずに驚愕した。

祖父がいたなんて!。


義の祖父、、?
私は完全に混乱した。
母は「ごめんね、、美樹子、、。」と呟いた。
恐らく今はそれ以上話す事は出来ないだろうと思い、
私は手短に聞いた。

「お通夜と葬儀はいつなの?」
しばらくしてからすすり泣きが一旦止んだ。

「お通夜は今夜だったの、、。さっき帰ってきたところ。葬儀は明日の十一時からよ。」
私は少し考えてから伝えた。

「じゃ、明日の朝にそっちに行くね。お母さん、大丈夫? しっかりしてね、、。」

「うん、、ごめんね、、。秘密にしていた訳じゃないのよ、、。ただね、、。」
私は元気に答えた。

「大丈夫よ。心配しないで。事情は後ででいいから。じゃ明日行くね。」
母は「ありがとう。」と小さな声で呟き電話を切った。

私は受話器を置いてしばらくの間ボ~ッとした。
以前離婚した父の祖父母は知っているが、
母方に於いては幼い頃から既に亡くなったと言われていたのだ。
だから私は何の不思議もなく母のおじいさんとおばあさんの事について聞いた事も疑った事もなかった。
母が隠し続けた理由とは一体何なのだろう?
私は立ち上がり上司に連絡をし、
事情を説明して数日休みを頂くお願いをしてから旅行鞄に荷物を積め込み、
クローゼットからクリーニングのビニールが被さったままの礼服を取り出し入念にチェックした。
よし、大丈夫だ。
あとは明日の新幹線の切符をみどりの窓口で買うだけ。
平日だから恐らく自由席に座れるだろう。
そして熱い風呂にゆっくりと浸かった。


 東海道新幹線は予想通り平日とあって空いていた。
一ヶ月前に母の住む静岡から戻ったばかりだったので容易に訪れる事も出来そうだ。
出発する前に「英司」にも連絡し、
祖父の葬儀でまた静岡に行ってくると伝えた。
朝早かった事もあり寝起き声で「気をつけてな。」と彼は答えた。

 車窓の風景を眺めながら私は母の事を考えていた。
義理の父と言っていたような気がする。
いや、確かに母はそう言っていた。
という事は、本当の父ではないと言う事なのだろうか?
考えれば考えるほど混乱するだけだったので私は少しの間眠る事にした。

 ホームを出て階段を下り近くのコーヒースタンドに入った。
朝から何も食べていなかったので深煎りのコーヒーとサンドウィッチを注文し、
やっと落ち着いて小さな窓から真っ青な空を眺めた。
間も無く運ばれてきた熱いコーヒーを飲み、
一息入れてからサンドウィッチを手にした。
卵とベーコン、レタスのシンプルなものだけど私は妙な違和感を感じた、、。
私は多分「英司」と付き合うようになってから、
何故か一般的な四角のパンを斜めに切った山形の三角形のものや、
長方形のサンドウィッチに違和感を抱くようになっていた。
きっとそれは彼の作るサンドウィッチが世界一好きになってしまったからだと思う。
何故なら彼の作るサンドウィッチは決まって丸型だったからだ。
丸いお月様みたいな形のサンドウィッチが私は大好きだ。
だから、どうしても普通の形のものを見ると好きになれないのだ。
と言っても、
そんな丸いサンドウィッチを出す店なんて恐らく何処を探したって無いだろう。
私は何だか可笑しくなって、
そのちょっとヨレヨレなレタスのサンドウィッチを頬張った。


 バスのタイミングも良かったので、
私は予定よりも一時間ほど早く到着する事が出来た。
すっかり馴染みの出来た街並みはまるで実家に帰省したかのような不思議な感覚だった。
余りに清々しい天気だったので、
久しぶりにあの公園を訪れたかったが今はとにかく母の元へ急ぐ事にした。

 母は幾分落ち着いた様子だった。
そして私の手を取り「ありがとう。」と言った。
私達は居間のテーブルに座り、
しばらくの間お互いに無言で熱い緑茶を飲んだ。
私は移動する時間を考え礼服に着替えながら母に聞いた。

「ここからどれくらいかかるのかしら?」
母はテーブルを片づけながら静かに答えた。

「すぐよ。すぐ近くなの。歩いても十五分か二十分くらい。」
私はビックリした。

「そんな近くに住んでたの?」
すると母は再び座り直し、
考え込んでから着替える私に向かって語り出した。

「そうなの。黙っていてごめんね、、。本当は、あなたがここに居た時にきちんと紹介しようとは思っていたんだけど、、。」
私は真っ黒いレースのストッキングを履きながら「ふ~ん。」とだけ返した。

「実は五年前に、母が亡くなったの。あなたにとってのおばあちゃんよ。その時に父に会ったんだけど随分身体も弱っていた様だし東京に居るよりもおじいさんの近くにいる方がいいかなって思ったの。」
私は母の話を聞いて「父」と言う言葉に引っかかった。
確かに昨夜は電話で「義理の父」と言っていた。
ただ単に混乱していたからだろうか?
今の母にあれこれと質問するのも迷惑だろうと思い、
疑問は問わない事にした。

「それでね、、美樹子に一つお願いがあるの。」
私は鏡台に座り髪をブローしながら聞いていた。

「今日のお葬式、私とあなたはね、あくまで知人、ご近所さんとして出席するの。」

「どうして?」
私はその言葉の後に後悔した。

「うん、、。あのね、おじいさんには二人のお子さんがいるのよ。」
私はまた頭が混乱したが、
とにかく母の言う通りにする事にした。
きっと私の知らない事情があるのだろう。

「分かった。大丈夫よ。何も心配しないで。」
母は目を細めて私を見つめた。


 外に出ると、相変わらず空には雲ひとつなくどこまでも真っ青に広がっていた。
私たちは無言のまましばらく歩き続けた。
亡くなった祖父の家を知らない私はただひたすら母が歩みを進める方向へ着いて行くだけだった。
来た時と同じ道を駅前に向かって進んでいくと、
あの公園の下にさしかかった。

「私、この公園好きよ。」
母は土手の上の方に顔を上げた。

「そうね。私も好きな場所よ。川の風景を見てるだけで落ち着くわね。」

私はベンチで、
英司と二人で食べた丸いサンドウィッチを思い出しながら歩き続けた。
すると母が右に曲がったので慌ててその後ろを付いていった。
以前も随分と散策しながら歩き回ったりしたが、
結構忘れてしまうものだ。
既に自分がどこを歩いているのかさっぱり見当もつかないし、
方角だって分からない。
ただ何となくではあるが、
頭の隙間の方から見たような風景らしき記憶を感じていた。

何かを思い出そうとしていた。

それが一体何なのかは分からないが、
私の中の何かが思い出させようとしているのだ、、。


「すぐ向こうにある小さなホテルにあなた行った事あったでしょ。ほら、英司さんが来た時に。
母の言葉で私はやっと思い出した。
そうだ!
確かこの近くのホテルに英司が泊まったのだ。
私は歩きながら周囲をよく見渡してみたがそれらしい建物が見つからなかった。
母は不思議そうに私を見て続けた。

「昔、あそこで殺人事件があったらしいのよね。」
私は驚いてギョッとした。

「そうなの! やだ~何にも知らなかった、、。」
もしかして私も英司も何も知らずに
その殺人事件があった部屋で毎晩抱き合っていたのかと思うと背筋がゾッとした。
でも、そう言えば英司が不思議な、、夢、
いや確か『夢のようなもの』を見たって言っていたのを思い出した。
その内容までは思い出せないが、
あのホテルのベッドで私達はいつになく貪るように激しく抱き合った。
そして彼は、
私の中に何度も激しく射精した。


 気がつくと何処からか風に乗ってお線香の香りが漂ってきた。
目を前にやると喪服姿の人達が集まっている入口が見えた。
隣を歩く母の生気が近づくにつれ薄らいでいくのを感じた。
私はそっと手を繋いだ。

 門の前まで到着した時、
私は初めてその祖父の名前を知ることとなった。


『深谷達三』


フ カ ヤ タ ツ ゾ ウ 。
という名前だろうか?

私達は受付を訪れ、
お悔やみの言葉と一緒にお香典を渡した。
頭を下げて受け取ったふくよかな、
母と同じくらいの歳の女性は帳簿に手を差し出し
「よろしければこちらに御記帳をお願いします。」とまた一礼をした。
母は少し迷った後に、
筆ペンを手に取り自分の名前と私の名前、そして母が住む現在の住所を記入した。
私は母の肩を抱き抱えながら玄関へ向かう途中に一つだけ質問をした。

「ねぇ、おじいさんの名前って『フカヤタツゾウ』さんって言うの?」
母は口に真っ白いハンカチを押し当てたままコクリと頷いた。

 開けっ放しの玄関には十数人ほどの黒い靴が並べられていて、
家内は落ち着いた雰囲気で玄関の壁には水彩画が飾られていた。
母の後ろについて居間らしき部屋に入ったその時、
祭壇の遺影写真を見て私は一瞬にして凍りついた。


この人、、
このおじいさん、、
このおじいさんを私は知っている。
そうだ、、私は会った事がある、、。
私は写真を見つめたままその場で硬直し、
声を上げずに驚愕した。


 僧侶がお経を唱えている間、
私はずっと「深谷達三」の写真を見つめ考えた。
僅か数ヶ月前、
あの公園で知り合い声をかけてくれた優しいおじいさんだ。
一緒にベンチに座り風景を眺めながら涙を流したおじいさんに私はハンカチを渡した。
おじいさんが何度も何度もお礼を言いながら涙を拭いた出来事を今もハッキリと覚えている。
あの時の事を克明に思い出す事が出来るのだ。
そしておじいさんは突然ベンチから倒れ身体中を震わせて痙攣し始めた。
私は何度も何度も声を上げて叫び、呼び続け、周りの人達にも助けを求めた。
やがて誰かが呼んでくれた救急車が到着し、
すぐに担架で運ばれ病院へと走り去って行った。
その時、隊員におじいさんの名前や住所を聞かれたものの、
さっき知り合ったばかりだと言う事を告げると、
集まった数人の地元の方々が色々と情報を知らせてくれた。
それが、私と「達三おじいさん」の最初で最期の出会いだったのかと思うと
胸が締め付けられるような気持ちなった、、。

 木魚がポクポクと鳴り響く音を聞きながら、
私はその時の風景や出来事の断片を少しずつ繋ぎ合わせようとしていた。
そして「達三おじいさん」が倒れる前に私に告げた言葉を思い出した。


名前だ。『ミキコ』


そうだ!
私の名前が亡くなった奥さんの名前と一緒だと驚いていたのだ。
そしておじいさんは倒れた、、。

え、、でもそうなると、、
私の祖母、、
すなわち母のお母さんの名前が「ミキコ」? 私と同じ名前?

もしかしてあの時「達三おじいさん」は私に気付いていたのだろうか?
いや、でも確かに偶然なのだ。でも、
もしかして私を自分の孫と知っていたのだろうか?
いや、そんなことは絶対にあり得ない。
母は既に東京から越し近所に住み、ここを訪れていただろう。
恐らく娘である私の存在も伝え知っていたに違いない。
でもそれだけで気付く事なんてどう考えてもあり得ない、、。
私は考えれば考えるほど混乱し頭が爆発しそうだった。


 葬儀の帰り際、
息子夫婦と思われる男性に会食への参加を勧められたが、
母は丁寧にお断りをした。
すると、玄関を出て数歩進んだところで、
母は急に私の腕を掴み顔にハンカチを当て下を向いたまま急ぎ足で私を引っ張るように門の外へ急いだ。

「どうしたの?」
母は無言のまま近くに停車していたタクシーに乗り込んだ。
発車した時、
祖父の家を振り返って見ると私たちを見つめる女の姿が見えた。

誰?

女はタクシーが見えなくなるまでずっと私たちを見つめていた。
母は相変わらず沈黙したままだ。
私は窓から真っ青な空を眺めながら母に呟いた。

「私ね、あのおじいさん知ってる、、。前に一度だけ会った事があるの。」
母は驚いてこちらを振り向いたようだったのでゆっくりと続けた。

「前に公園で倒れたおじいさんの話したよね。そのおじいさんだった、、。」

「そうだったのね、、。」
私は少し考え込み、
倒れた祖父の事自体知らなかったのだろうか?
と不思議に思ったが、
今日は解明不明な出来事が沢山あり過ぎて疲れきっていた事もあり何も聞かずにシートにもたれた。



   ***



 東京に戻ってから一週間が過ぎた。
あれからずっと静岡での出来事を考えていたが、
やはり何も答えは見つからなかった。
私はすっかり考える事を諦めたが、
一つだけ分かった事があった。(実際には英司が思い出した)
それはあのホテルが『ニューホライズン』と言う名前だった事。
英司に「よく覚えてたわね?」と聞くと
彼は笑いながら
「だって中学校の時の英語の教科書と同じ名前だったから忘れられなくてさ。」と
美味しそうにビールを飲みながら私のブラジャーのホックを外した。


 週末、久しぶりに予定がなかったので一人でブラブラする事にした。
天気もいいし、
ウィンドウショッピングでもしながらどこかお洒落な店でランチをしながらゆっくり読書でもしよう。

 電車内は大きなバッグを背負った外国人観光客やらで混雑していたが殆どの人達は東京駅で下車し、
その後はすっかり空いてしまった。
一体、この日本のターミナル駅には毎日どれくらいの人達が集まってくるのだろうか?
間もなく到着した有楽町で私は降りた。

人混みが今日はとても心地良く感じられ、
何となく今の私の気持ちを落ち着かせてくれた。
晴海通りへ出て数寄屋橋の交差点を渡り銀座四丁目の交差点へ向かう途中のショーウィンドウの眺めはどれも、
ソフィスティケイトされた都会的でファッショナブル、
そして色鮮やかに私を癒してくれた。

私は迷う事なく度々伺う「すずらん通り」にあるイタリア料理のレストランを目指した。
去年、職場の先輩と待ち合わせた時に初めて訪れたその店は、
映画『ティファニーで朝食を』でしか見た事がなかった
イタリアの宮殿のような圧倒的な造りをしたレストランだった。
私はまるで「オードリー・ヘプバーン」にでもなったかのような気分で
初めて食べる本格的なイタリア料理に舌鼓し
「スプマンテ」や「キャンティ・クラシコ」に酔いしれた。
それ以来、
私はフランス料理よりもイタリア料理に魅力を感じるようになってしまった。
四丁目交差点にある銀座和光の時計は間もなく十二時に差し掛かっていた。

 店の入り口には入店待ちの人達が何組かいたので、
私は予約をしなかった事に少し後悔をした。
それでも十分ほどするとすぐに案内された席は窓際の日当たりの良い広いテーブルだった。
清楚なパンツスーツを着たほっそりとした色白のレセプションの女性が丁寧にお辞儀をして
優雅に入口へと戻って行くと、
入れ替わりに少し白髪混じりな黒服のカメリエーレがゆっくりと

「いらっしゃいませ。」

とお辞儀をして熱いおしぼりを置き、
すぐさま他の黒服がテーブルのグラスに冷たい水を注ぎ
私がおしぼりで手を拭き終わった事を確認した後にメニューを渡した。

いつ訪れてもそのスマートさには圧巻させられる。
これが高級レストラン、
所謂リストランテなのだ。
でも、フレンチの堅苦しいギャルソンとの違いは、
イタリア料理のカメリエーレの方が圧倒的にフレンドリーである事が私を引きつけた要因なのかもしれない。
どの黒服の接客もどこか愛着が沸き安心してゆったりと食事をする事が出来る。
それはもしかしたら、
料理や食事に対するフランスとイタリアの文化の違いなのだろうかと度々思ったりもした。

ワインの味にしても私は同じ事を考えずにはいられない。
食前酒にヴェネトの「プロセッコ・スプマンテ」と
食事はいつものように「プランゾ・スペチャーレ」を注文し
私は間もなくフルートグラスに注がれた
しっかりと冷やされたプロセッコを爽やかに飲みながら
カバンから村上春樹の「ノルウェイの森」の真っ赤な上巻を取り出し、
料理が運ばれてくるまで読みふけった。

 最初に運ばれた料理は、
前菜の三種盛合せ「アンティパスト・ミスト」。
真っ白い大きなお皿には
「カンパチのカルパッチョ」
「鴨肉のロースト」
「秋野菜のフリット」が色鮮やかに盛り付けられていた。
そのどれもが視覚的優美さと素材を最大限に引き出した味わいだったが、
中でも初めて食べた
「マルメラータ」と言う
鴨肉に添えられたオレンジのジャムソースに驚いた。
肉料理をフルーツのジャムで食べるなんて日本人では考えられない事ではあるが、
これがビックリするほど美味しい!
私は改めてヨーロッパの食文化の奥深さを知る事となり、
カメリエーレに相談して
スッキリとしたフルーティーな
サルデーニャの白ワイン「ベルメンティーノ」を注文し前菜と共に堪能した。

店内にはいつもの様に
気にならない程度の絶妙な音量で
「ルチアーノ・パヴァロッティ」のオペラが流れていた。

次に運ばれて来たのは、
カボチャのスープ「ズッパ・ディ・ズッカ」
鮮やかなオレンジがかった黄色みを帯びたそのスープの味わいはどこまでもまろやかで優しかった。
一体あのゴツゴツした硬いカボチャを
どう調理したらここまでクリーミーで優しい味わいの料理にする事が出来るのか不思議でたまらなかったが、
それはあっという間に私の胃袋へとゆっくりと流れ込んで行った。
それはまるで(恐らく不適切な表現かもしれないが)
愛する「英司」が射精した熱い精液が私の中に飲み込まれて子宮に到達する感覚と似ていた。

そんな事を考えながらオペラに耳を傾けていると、
真っ白な白髪をオールバックにした
長身のスタイリッシュなカメリエーレが私に

「ワインと料理のマリアージュはいかがですか」

と笑顔でパスタを私の前に置き

「どうぞ、熱いうちにお召し上がりください」

と一礼して静かに立ち去った。
パスタ!
これがパスタだ!

「フェットチーネ・ディ・ボンゴレ・ビアンコ」

この店を訪れる前までの私は
ナポリタンやミートソースと言ったスパゲティしか知らなかったのだ。
しかも、スパゲティがイタリア料理だと言う事すらも知らなかった、、。
今日は敢えて
「ボンゴレ・ビアンコ」にしてみた。
アサリ貝のオリーブオイル・パスタ。
魚介の風味が何ていい匂いなのだろう。
私は丁寧に貝殻からその身をフォークで取りながら
絶妙なアルデンテのちょっと平たいフェットチーネと一緒に口に頬張り口一杯の磯の香りと共に「ベルメンティーノ」を喉に流し込んだ。
一緒に運ばれた焼きたてで熱々のイタリアパン「フォカッチャ」をちぎりパスタのソースに絡めると、
そこには私の知らない欧州の歴史を垣間見た様なスパイスの色彩と潤いが輝いていた。

 私はそこそこお腹も大分満たされていた。
するとカメリエーレが近寄り、

「お客様、次はメインのお肉料理となりますが、いかがなさいますか?」
と聞いてきたので少し後でお願いする事を伝え、
一度飲んでみたかった赤ワイン「ヴァルポリチェッラ」を注文した。

私はしばしの間「ノルウェイの森」の続きを読んでいると、
カメリエーレが厳かなグラスに赤ワインを注ぎメイン料理が運ばれてきた。

「仔羊のロースト・カチャトーラ風でございます。」
私は読んでいた本を閉じその料理の美しさと漂う香りなど全てに言葉を失いその料理をただ見続けた。
すると黒服の男が

「カチャトーラとは、猟師風の料理と言う意味なんですよ。ごゆっくりお召し上がりください。」
と言って静かに立ち去った。
私はまず赤ワインを一口飲み、
その今まで味わった事のない美味さに驚いた。

これが美味しい赤ワインなのだ!

何て優雅でエレガントな味わいなのだろう。
この表現が合っているかどうかは分からないが、
とにかく美味しい!
私は訪れたことも無いイタリア・ヴェネト州の川に浮かぶ船に乗って
優雅にこのワインを飲みながら観光している風景を思い、
そのローストされたジューシーな子羊の肉を丁寧に骨からナイフで切り落とし口に頬張った。
そしてその肉は下垂れる赤く若い血とともに私の胃へとゆっくりと流れ消化していった。

 メインのお皿が下げられると
程なくしてドルチェが運ばれてきた。

「ティラミス」だ。

私はこれが食べたくてこの店を訪れると言っても過言では無い。
しっかりとしたエスプレッソの苦味と
ふんだんなマスカルポーネの甘さのコントラストが最高に素晴らしい。
これでもかと上から降り注がれたカカオパウダーが
口元に付いてしまう事も気にせずに
私はスプーンで大きくすくい口に入れた。

ハァ~何て幸せなのだろうか。

「エスプレッソ・ドッピオ」と共にあっという間に食べ終えてしまった。


 満足感に満たされた私は店を出て
銀座四丁目交差点を渡り
中央通りの「松屋・銀座」を訪れた。
エスカレーターを上りファッションフロアで目についた物をゆっくりと品定めしたが、
特に今欲しい物も無かったのでただひたすら目を保養させる事とした。
ひとしきり各階を巡った後に地下に向かい洋菓子のフロアへ向かった。
そこでちょっと高級なカスタードプリンとアップルパイを二つずつ買い、
階段を上がって再び中央通りへ出た。
週末は歩行者天国の為、
備えられたカラフルな日傘の付いたテーブルの周りには優雅に過ごす人々で溢れていた。
銀座という街はこんなに人が多いのにも関わらず、
むさ苦しさや嫌な気がしない。
そして何よりも余計な音が一切ないのだ。
店頭から流れてくるうるさい音楽やBGM、
客引きの声などが全くない。
何もかもがソフィスティケイトされている。
「木村屋」の「あんぱん」ですら
スタイリッシュに見えてくる。
私はプリンとアップルパイの入った真っ白い箱を下げながら「伊東屋」を訪れ、
イタリア・ヴェネト州の風景写真の絵葉書やレターセットなどを購入した。
厳かなガラスケースの中に飾られた「モンブラン」の真っ黒い万年筆を眺めていると、
いつの間にか白い星型のマークが「金平糖」に思えてきて可笑しくなった。
足取りは軽く、
そのまま中央通りを京橋~日本橋へと歩き
「明治屋」や「高島屋」などをはしごして当てもなく訪れ、
欲しいものがあれば購入した。
やがて陽は暮れ始めていた。


 家に戻り、
リビングのソファでプリンを食べながら絵葉書の風景を眺めていると、
玄関のベルが鳴った。
私はプラスチックのスプーンを口に咥えたまま玄関のドアアイから外を確認すると、
知らない黒い帽子を深々と被った中年の男の姿が見えた。
私は鍵を開けずに内側から

「どなたですか?」
と尋ねると、
その男は扉に近づき

「法律事務所の田崎と申します。」と返した。


法律事務所?


私は首を傾げて思い当たる事を考えた。

「何のご用でしょうか?」
すると男は周囲をサッと見渡し

「お預かりしているものをお渡しに伺いました。深谷様からのものです。」
私はしばらく考えてから静かに扉を開けた。

「こんな時間に大変申し訳ありません。」
男は帽子を脱いで頭を下げた。
見た感じ怪しい気配もなかったし身形もしっかりしていたので私は男を玄関に入れた。

「ありがとうございます。突然、本当に申し訳ありません、、。」
男は内ポケットから名刺を取り出し私に差し出した。
その名刺には『田崎法律事務所 田崎洋介』と印刷されており、
確かに住所が静岡県と記されていた。
私はしっかり確認し、
恐らく玄関話だけで終わるような用事では無いと悟り男をリビングへ促し、
テーブルの上をサッと片付けた。

「ありがとうございます。急なご訪問で本当に申し訳ありません。」
その田崎と言う男は床に正座し再び頭を下げた。
私はテーブルにコーヒーを出し向かいのソファに腰掛けた。

「念の為、ご確認なのですが、時田美樹子様でよろしいでしょうか?」
私は「はい。」と頷いた。

「ありがとうございます。実は本日、お亡くなりになりました時田様の義理のお祖父様でいらっしゃる『深谷達三』様からの遺言でお預かりした封書をお渡しに参りました。」
私は一瞬にして混乱した、、。

「あの、、今、私の義理の祖父と申しましたが、それは確かな事なんでしょうか? 義理の祖父なんでしょうか?」
すると田崎は驚いた顔で答えた。

「さようでございます。確かに義理のお祖父様の『深谷達三』様でいらっしゃいます。」
私は一体何が本当の事なのか訳が分からなくなってしまった。
しかし法律事務所の人間が
わざわざ静岡から訪ねそう言っているのだから間違いは無いだろうと解釈する事にした。

田崎はカバンから封筒を取り出しテーブルに置いた。

「これが深谷様よりお預かりした時田様宛の封書でございます。」
私はそれを長い間見つめた。

「あの、、お伺いしたいのですが、、達三さんは私が義孫である事を知っていたんでしょうか?」
田崎はやや首を傾げた。

「それにつきましては、私共といたしましては判断出来かねますが、遺言で、義孫である時田美樹子様にこの封書を直接お渡しして頂きたいと記されておりました事は間違いございません。それとなんですが、、。」
田崎は何やらしばらく考え込んでから続けた。

「何と申しますか、、ここに綴られている内容はとても大事な事のようでして、、絶対に秘密にして頂きたいとの事が記されておりました。」
私の眉間の皺はおさまるどころか余計に深くなった。

「秘密? よく分かりませんが、、母はこの事を知っているんでしょうか?」
田崎は慌てた様子でハンカチを取り出して汗を拭いた。

「いえいえ、お母様もご存知ありませんし、これは遺言なのであなた以外はどなたも存じておりません。勿論、正確にはあなたと私以外はと言う事になりますが、私共に於きましてはあくまで法律的な立場にございますので絶対に他言する事はありません。どうぞご安心ください。」
私はその言葉を聞き、
この男は嘘を言ってはいないと確信し、
これ以上聞いたところで恐らく何の進展も無いだろうと思った。

「わかりました。」
そう伝えると田崎はホッとした様に大きく肩で息をした。


 男が残した真っ白い封筒を私は冷酷なまでに見つめた。
決して「達三」を疑っている訳では無い。
ただ何か、
恐らくきっと何か未知な事が記されているには違いないだろう。
私はその封筒をリビングの棚の引き出しにしまい、
電子レンジでアップルパイを温めて食べた。
テレビはもうすぐ開通するらしい「横浜ベイブリッジ」の話題で賑わっていた。
さて、
まずは準備をしよう。

ゆっくりお風呂に浸かり、
しっかりと冷やしたビールを飲んでから開封する事にした。


 濡れた髪をバスタオルで丁寧に拭き、
パジャマに着替え冷蔵庫からハイネケンを取り出してプルタブを勢いよく開けグラスに注いだ。
私はそれを一気に飲み干し、
残ったビールを注ぎリビングの棚から封筒を取り出してソファに腰を下ろした。
テーブルにその真っ白い封筒を置きしばらく眺めてから、
ステレオに入れっぱなしのカセットテープを再生した。
スピーカーからは「ケイト・ブッシュ」の「嵐が丘」が流れた。
私はそれをしばらく聴いてから、
ペーパーナイフで丁寧にその封筒を開封した。
すると一瞬、
懐かしいあの静かな公園の香りがした様な気がした。

封筒の中には三枚の白い便箋が入っており、
そこには「達三」の直筆であろう達筆な筆ペンで書き残した文章が綴られていた。
字体のゆらめきさから察すると恐らく大分病床の末期だった事が伺えた。
私はビールを一口飲んでから、
その遺言の文章をゆっくりと時間をかけて読み始めた。
そして次第に、
その信じ難い内容に私は完全に支配され驚愕し
何度もその手紙を読み返した。

気がつくと
ステレオのカセットテープはA面で止まっていた。
ソファから立ち上がりキッチンに閉まっていた
「ヘイマンズ」のドライ・ロンドン・ジンを取り出し、
氷を入れたグラスに注ぎゆっくりと喉に流し込んだ。
ジンはゆっくりと食道をつたって
やがて胃袋へと流れ込み、
私の身体全体を温めてくれた。

 「達三」は恐らくひとつの賭けに出たのだろうと推測した。

勿論、
あくまでも推測だ。
それが何の為であるかは私には分からないが、
何か重要な過去の出来事を隠し守り続けてきた事は間違いないだろう。
そこには母の出生の謎も絡んでいるに違いないが、
それは察するに
母自身も分かり得ない事なのだと理解した。
じゃ、どうして


その秘密を私に伝えようとしたのだろうか?


私は「達三おじいさん」が生涯を持って隠し守り続けた謎を考えてはみたが、
その長い歴史を知る事は出来る筈もなかった。
それに私は祖母の「ミキコ」にも会ったことすらないのだ。
これは「達三」が私に残したゲームなのだろうか?
それとも私にその何かを守る事を引き継がせたのだろうか?

しかし何をどう考えたところで、
私はその達三が残した秘密の内容は知らない。
ただ、
あの場所にそれがあるという事だけを知っている。

きっと、私だけが。
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