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■Ⅱ■IN BANGKOK■
[6]▽泡沫(うたかた)の秘密 *
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放課後──。
夕焼けが窓辺に差し込み、それ以外の空間には仄かな闇が漂い始めていた。
自分は何しに教室へ戻ったのだろう? 思い出せないが、何かを忘れて取りに戻ったのだろう。
誰もいない筈の室内に、何故だか取り残されたような生徒が独り着席していた。
「帰らないのか?」
その問いかけに真っ黒な頭が振り向いたが、夕日に照らされて顔の細部は見えない。えっと……誰だっけ? こんな女子、前からいたか?
「帰るよ。空夜くんのこと、待ってたの」
「え?」
どうして自分が教室に戻ってくるだなんて、この子は分かったのだろう? いきなり立ち上がった影に驚いて何も問いかけられなかった。忘れ物を手にして踵を返した背中に、一緒に下校するのが当たり前のようについて来る少女。女子と帰るなんて誰かに見られたら恥ずかしい。ぶっきら棒に早足になり距離を作る。それでも気にすることなく、少女は同じ早足で離されないように後ろを追いかけてきた。
「お前の家、こっちなのか?」
校門を出て、初めの曲がり角で足を止めた。振り返った先にはもう夜の帳が降りていた。黒髪が闇に溶けて長いのか短いのかも分からない。口元だけが微かに見えた。ニコリと笑ってこう言った。
「ううん、わたし、もう引っ越すの」
「引っ越す? どこへ?」
「遠いところ」
少女は暗がりの中で背を向けた。顔だけはこちらに向けて、そうして確か言ったのは──
「ねぇ、空夜くん。大人になったら必ず地質学者になって。博士になって。空夜くんがなってくれたら──」
「──なったら?」
「……──てほしいの」
「え? 何て言った?」
肝心なところが聞こえなかった。訊き返したのに、少女はもう一度口元に微笑みを宿しただけ。それから夜の中へ消えてしまった。引っ越した先に向かうのだろうか?
そして少女は自分の前に、二度と現れることはなかった──。
瞼の開いた先には、夢の中と同じ宵闇が広がっていた。
「……何時間、眠っちまったんだ?」
カーテンを開いたままの窓の向こうに幾つかの照明が見えた。ベランダはないので、ベッド越しの窓を僅かに開く。スコールが降ったのだろうか。湿気を含んだ涼しい風がクウヤの頬を心地良く撫でていった。
「変な夢だったな」
あれは何年前の自分だったのだろう? 教室の雰囲気はおそらく小学校だ。地質学者になれと言われたけれど、クウヤがそうなりたいと思ったのはその入学以前であるから、あの夢の時期が低学年なのか高学年なのかは分からない。そして夢に出てきた微笑みの少女が幾つくらいの年齢であったのか、目覚めた後にはもう思い出せなかった。
夢の中のお願いは、現実にあったことだったのか? もしそうだとしたら、自分はその願いを叶えたことになるのか? 一度は地質学者という地位に立った時代がある。小学時代のあだ名ではなく、普通に博士と呼ばれていた期間もある。が、そうした自分に少女は何をしてほしかったのか? 知らず叶えていたのなら、彼女は「ありがとう」と言うために、いつか自分の前に現れるのだろうか?
「アホか……夢の中のことを真剣に考えてどうする?」
脳は眠っている間に経験したことを整理してくれると言うが、現状混沌とした脳内は依然変わっていなかった。メリルのこと、ネイのこと、そして『エレメント』のこと。これから眠っては目覚める度、「本当は全ては夢だったのではないか?」ときっと思うに違いない。もちろん今後もちゃんと目覚めることが出来れば、だが。
充電の完了したメディアのスクリーンが示す時間は、現地時刻で午後七時だった。
「腹、減ったな……」
心は苦悩を抱えていても、身体は必要な欲を求めてアピールしてくるのだから、人間とはまったく単純な生き物だな、とクウヤは呆れたように自分を哂った。夕飯はどうするつもりなのだろう? この宿は食事も付いているのだろうか? 部屋へ入るまでのクウヤは何も考えられる状態でなかったから、メリルが説明したところで理解は出来なかっただろうが……となれば、今はまだ考えられる余裕が出来ただけ少しは落ち着いたのだな、と自身を判断した。
買ってもらったTシャツと、幅広のズボンに二本の紐のついた「タイパンツ」とも呼ばれる「フィッシャーマンズパンツ」を腰に巻きつけ、クウヤは隣のメリルの部屋をノックしたが、しばらく待っても応答はなかった。まだネイの部屋に赴いたままなのか、それとも自分のように眠ってしまったのか──が、そこまで考えてはたと気付く。メリルが人間のように眠る訳がない。やっぱりまだ混乱してるなーと髪を搔き乱し、フロントのある一階へ降り立った。
「あー、クウたん、おはよー」
中央の応接には数人の客にお茶を配るネイの姿があった。夕飯時な所為か、皆テーブルにタイ料理を広げて歓談しているが、その中にメリルの姿はない。大きなトレイに幾つかのグラスを乗せて運ぶネイは、端目から見ても相当危なっかしく、手を出さずにはいられなかった。
「お前、やったことあんのかよ? ほら、お茶が零れてるぞ?」
クウヤは慌ててトレイの端を握り締めた。グラグラ揺れていた茶色い液体がやっと安定するが、反面ネイの機嫌は損ねてしまったようだ。
「んーもうっ! アタシだって出来るもん! だってさ~ポーが帰ってこないから。まったくどこで油を売ってるんだか~」
無事お茶を提供したネイは、トレイを抱えたままぼやいてみせた。
「メリルは?」
「メリたんなら買い物に行ったよークウたんの所為で下着が買えなかったからって」
「えっ!?」
キョロキョロと辺りを見回していた首を急停止させ、クウヤは思わず驚きの声を上げた。口をあんぐりと開いたまま、いやらしそうに嗤うネイと目をかち合わせた。
「聞いたよ~色々と! クウたん、メリたんの買い物中、下着売り場から逃げ出したんだって~? 意外とカワイイところあるんじゃない?」
「お前はそこらにいる話題に飢えたエロおやじか? 別に……トイレに行きたかっただけだっ」
クウヤはそう言い訳しながらも、あの場所に居心地の悪さを感じたことは否めなかった。と同時に「アンドロイドに下着なんて必要なのか?」なんてその中身を想像し、自分もエロおやじ化していることには到底気が付かないのだが。
「それよりいつから俺をそんな風に呼ぶようになったんだ? 年上なんだから「クウヤさん」くらい呼べって」
思い出されたのは同級生である啓太の「クウちゃん」だった。キャストの「クーヤさん」にメリルの「クウヤ様」はまぁ良しとしても、おチビのネイに「クウたん」と呼ばれるのは、まったく舐められているとしか思えない。
「んん? 言っておくけどココにいる誰よりも、アタシ年上だよ? 多分」
「……え? ──あ! ああ……」
いつの間にか「十歳にも満たない子供」と会話しているつもりの自分がいた。「マザー・コンピュータ」──ネイは一体いつ造られたのだろう?
「まぁまぁ、アタシのことは後にして~クウたん、お腹空いたんじゃない? メリたんが買ってきたお食事がしまってあるから、あっためてきてあげるよー」
そう告げてネイはオフィスの奥へ駆けていってしまった。クウヤの中に生まれた幾つかの疑問を、訊かれる前に解消してから──この「ホテル・マイペンライ」は食事を提供していないので、メリルが一度外へ出て、クウヤの分の食事を買ってきたこと。応接は既に埋まっているので、中庭のテーブルで食べたらどうか? との提案も含めて、だ。
一面ガラス張りの角に見つけた透明扉を開き、クウヤはお先に外へ出た。食事を終えた若者が数人、右奥隅のリクライニングチェアに横になって談笑している。その手前に三つの丸テーブルと椅子が数脚、スコールの後に拭いたらしく雨には濡れていない。夜独特の澄み通る匂いと雨で洗われたような空気の透明感があるお陰で、気温はまだ高いのだろうが、嫌な暑さはもはやなかった。
「お待ちどおさま~!」
案の定おぼつかない足取りでネイが料理を運んできたので、クウヤは慌ててトレイを迎えに行った。今回は「タイの焼きそば」とも称される「パッタイ」の大盛に、青パパイヤのサラダ「ソムタム」とココナッツジュースだ。
「ジュースはネイからのおごり~」
真ん前の椅子に腰掛けたネイは、両手で頬杖を突きニコニコと笑った。
「悪いな。んじゃ……いただきます」
日本人らしく両手を合わせたクウヤは、少し気まずそうに食事を始めた。ソムタムの酸っぱ辛さが広がった口の中に、パッタイの柔らかい味がちょうど良く合う。ココナッツジュースはミルクを含まない透明の物なので、ほのかな甘さを漂わせながらも清涼感があった。
「ごちそうさま~」
食事を終えるやネイはそそくさと片付け、再び同じ席に戻ってニコニコとクウヤを見上げた。
「おかしな奴だな。俺の顔になんかついてるか?」
あれほど突っかかってきたネイが、笑顔を向けるばかりで無言で見つめては、どうも調子が狂ってしまう。クウヤも片手で頬杖を突き、落ち着かないように宙を見上げた。
「顔には何もついてないけどさ~首の下にはついてるんでしょ?」
「……ネイの興味はそっちか」
顔をそむけたまま視線だけを少女へ戻す。向けられているのはいかにも「見せて」と言いたげな笑顔だ。クウヤはジュースをごちそうしてくれたお礼も兼ねて、軽くTシャツの襟を引き、他には見えないようこっそりネイに披露した。
「むむぅ、これはまた面妖な」
「お前の言い方の方がよっぽど面妖だ」
そんなツッコミを入れながら、自身が少しずつ冷静さを取り戻していることに気付かされた。今のところ『エレメント』は何も悪さをしてこない。今いるこの場所もネイによって守られている。食事はメリルが運んでくれる……『今』というこの時は、心を落ち着かせるために与えられた時間なのかもしれない。
「なぁ、コンピュータとして、ネイには何か見解が出てこないか?」
そんな穏やかな自分が、やっと外からの意見を求められるようになった。
「うーん、メリたんが分からないくらいだからねー、アタシにも分かんないな~」
けれど帰ってきた答えは、そう簡単には自分の意に沿わないというのが現実というべきものらしい。
「そうか……」
やや消沈して背もたれにどっぷりと身体を預け、クウヤは空の彼方の『ムーン・シールド』へ目を向けた。この宇宙から来た『エレメント』が、地球の鉱石スピネルと結合して出来上がった奇跡の物質。そんな「エイリアン」に守られているのだから、不可思議なことが多いのも仕方のないことなのかもしれない。
「ただいま戻りました、ネイ様」
ふと聞こえた左からの声に、態勢はそのまま首だけをそちらに回した。見えたのは赤毛と青緑の瞳と……やっとまともな格好をしたメリル、だった。
「良くお休みになられましたか? クウヤ様」
淡いピンク色のカットソーに、赤を基調としたエスニック柄の腰巻を巻いている。荷物は抱えていないので、どうやら先に自室へ置いてきたのだろう。服装が変わった所為か、あの冷たい眼差しがやや柔らかく思えたのは気のせいか? スタイルの良さは相変わらずで、その胸の高さについ目が引き寄せられてしまうが、これも全て偽物なのだとクウヤは自身に言い聞かせた。
「ああ。食事もありがとな。さっきごちそうになった」
「お口に合いましたなら何よりです」
ネイに促され、その隣に腰を下ろすメリル。
「ネイ様、ソムチャーイ様はお帰りになられましたか?」
「ううん~まだ。何処まで行っちゃったんだろう?」
けれど困ったようなネイの答えに、メリルはあっと言う間に立ち上がった。
「わたくし、探しに参ります!」
──え!?
クウヤの声も出ない内に、メリルの姿は見えなくなっていた──。
夕焼けが窓辺に差し込み、それ以外の空間には仄かな闇が漂い始めていた。
自分は何しに教室へ戻ったのだろう? 思い出せないが、何かを忘れて取りに戻ったのだろう。
誰もいない筈の室内に、何故だか取り残されたような生徒が独り着席していた。
「帰らないのか?」
その問いかけに真っ黒な頭が振り向いたが、夕日に照らされて顔の細部は見えない。えっと……誰だっけ? こんな女子、前からいたか?
「帰るよ。空夜くんのこと、待ってたの」
「え?」
どうして自分が教室に戻ってくるだなんて、この子は分かったのだろう? いきなり立ち上がった影に驚いて何も問いかけられなかった。忘れ物を手にして踵を返した背中に、一緒に下校するのが当たり前のようについて来る少女。女子と帰るなんて誰かに見られたら恥ずかしい。ぶっきら棒に早足になり距離を作る。それでも気にすることなく、少女は同じ早足で離されないように後ろを追いかけてきた。
「お前の家、こっちなのか?」
校門を出て、初めの曲がり角で足を止めた。振り返った先にはもう夜の帳が降りていた。黒髪が闇に溶けて長いのか短いのかも分からない。口元だけが微かに見えた。ニコリと笑ってこう言った。
「ううん、わたし、もう引っ越すの」
「引っ越す? どこへ?」
「遠いところ」
少女は暗がりの中で背を向けた。顔だけはこちらに向けて、そうして確か言ったのは──
「ねぇ、空夜くん。大人になったら必ず地質学者になって。博士になって。空夜くんがなってくれたら──」
「──なったら?」
「……──てほしいの」
「え? 何て言った?」
肝心なところが聞こえなかった。訊き返したのに、少女はもう一度口元に微笑みを宿しただけ。それから夜の中へ消えてしまった。引っ越した先に向かうのだろうか?
そして少女は自分の前に、二度と現れることはなかった──。
瞼の開いた先には、夢の中と同じ宵闇が広がっていた。
「……何時間、眠っちまったんだ?」
カーテンを開いたままの窓の向こうに幾つかの照明が見えた。ベランダはないので、ベッド越しの窓を僅かに開く。スコールが降ったのだろうか。湿気を含んだ涼しい風がクウヤの頬を心地良く撫でていった。
「変な夢だったな」
あれは何年前の自分だったのだろう? 教室の雰囲気はおそらく小学校だ。地質学者になれと言われたけれど、クウヤがそうなりたいと思ったのはその入学以前であるから、あの夢の時期が低学年なのか高学年なのかは分からない。そして夢に出てきた微笑みの少女が幾つくらいの年齢であったのか、目覚めた後にはもう思い出せなかった。
夢の中のお願いは、現実にあったことだったのか? もしそうだとしたら、自分はその願いを叶えたことになるのか? 一度は地質学者という地位に立った時代がある。小学時代のあだ名ではなく、普通に博士と呼ばれていた期間もある。が、そうした自分に少女は何をしてほしかったのか? 知らず叶えていたのなら、彼女は「ありがとう」と言うために、いつか自分の前に現れるのだろうか?
「アホか……夢の中のことを真剣に考えてどうする?」
脳は眠っている間に経験したことを整理してくれると言うが、現状混沌とした脳内は依然変わっていなかった。メリルのこと、ネイのこと、そして『エレメント』のこと。これから眠っては目覚める度、「本当は全ては夢だったのではないか?」ときっと思うに違いない。もちろん今後もちゃんと目覚めることが出来れば、だが。
充電の完了したメディアのスクリーンが示す時間は、現地時刻で午後七時だった。
「腹、減ったな……」
心は苦悩を抱えていても、身体は必要な欲を求めてアピールしてくるのだから、人間とはまったく単純な生き物だな、とクウヤは呆れたように自分を哂った。夕飯はどうするつもりなのだろう? この宿は食事も付いているのだろうか? 部屋へ入るまでのクウヤは何も考えられる状態でなかったから、メリルが説明したところで理解は出来なかっただろうが……となれば、今はまだ考えられる余裕が出来ただけ少しは落ち着いたのだな、と自身を判断した。
買ってもらったTシャツと、幅広のズボンに二本の紐のついた「タイパンツ」とも呼ばれる「フィッシャーマンズパンツ」を腰に巻きつけ、クウヤは隣のメリルの部屋をノックしたが、しばらく待っても応答はなかった。まだネイの部屋に赴いたままなのか、それとも自分のように眠ってしまったのか──が、そこまで考えてはたと気付く。メリルが人間のように眠る訳がない。やっぱりまだ混乱してるなーと髪を搔き乱し、フロントのある一階へ降り立った。
「あー、クウたん、おはよー」
中央の応接には数人の客にお茶を配るネイの姿があった。夕飯時な所為か、皆テーブルにタイ料理を広げて歓談しているが、その中にメリルの姿はない。大きなトレイに幾つかのグラスを乗せて運ぶネイは、端目から見ても相当危なっかしく、手を出さずにはいられなかった。
「お前、やったことあんのかよ? ほら、お茶が零れてるぞ?」
クウヤは慌ててトレイの端を握り締めた。グラグラ揺れていた茶色い液体がやっと安定するが、反面ネイの機嫌は損ねてしまったようだ。
「んーもうっ! アタシだって出来るもん! だってさ~ポーが帰ってこないから。まったくどこで油を売ってるんだか~」
無事お茶を提供したネイは、トレイを抱えたままぼやいてみせた。
「メリルは?」
「メリたんなら買い物に行ったよークウたんの所為で下着が買えなかったからって」
「えっ!?」
キョロキョロと辺りを見回していた首を急停止させ、クウヤは思わず驚きの声を上げた。口をあんぐりと開いたまま、いやらしそうに嗤うネイと目をかち合わせた。
「聞いたよ~色々と! クウたん、メリたんの買い物中、下着売り場から逃げ出したんだって~? 意外とカワイイところあるんじゃない?」
「お前はそこらにいる話題に飢えたエロおやじか? 別に……トイレに行きたかっただけだっ」
クウヤはそう言い訳しながらも、あの場所に居心地の悪さを感じたことは否めなかった。と同時に「アンドロイドに下着なんて必要なのか?」なんてその中身を想像し、自分もエロおやじ化していることには到底気が付かないのだが。
「それよりいつから俺をそんな風に呼ぶようになったんだ? 年上なんだから「クウヤさん」くらい呼べって」
思い出されたのは同級生である啓太の「クウちゃん」だった。キャストの「クーヤさん」にメリルの「クウヤ様」はまぁ良しとしても、おチビのネイに「クウたん」と呼ばれるのは、まったく舐められているとしか思えない。
「んん? 言っておくけどココにいる誰よりも、アタシ年上だよ? 多分」
「……え? ──あ! ああ……」
いつの間にか「十歳にも満たない子供」と会話しているつもりの自分がいた。「マザー・コンピュータ」──ネイは一体いつ造られたのだろう?
「まぁまぁ、アタシのことは後にして~クウたん、お腹空いたんじゃない? メリたんが買ってきたお食事がしまってあるから、あっためてきてあげるよー」
そう告げてネイはオフィスの奥へ駆けていってしまった。クウヤの中に生まれた幾つかの疑問を、訊かれる前に解消してから──この「ホテル・マイペンライ」は食事を提供していないので、メリルが一度外へ出て、クウヤの分の食事を買ってきたこと。応接は既に埋まっているので、中庭のテーブルで食べたらどうか? との提案も含めて、だ。
一面ガラス張りの角に見つけた透明扉を開き、クウヤはお先に外へ出た。食事を終えた若者が数人、右奥隅のリクライニングチェアに横になって談笑している。その手前に三つの丸テーブルと椅子が数脚、スコールの後に拭いたらしく雨には濡れていない。夜独特の澄み通る匂いと雨で洗われたような空気の透明感があるお陰で、気温はまだ高いのだろうが、嫌な暑さはもはやなかった。
「お待ちどおさま~!」
案の定おぼつかない足取りでネイが料理を運んできたので、クウヤは慌ててトレイを迎えに行った。今回は「タイの焼きそば」とも称される「パッタイ」の大盛に、青パパイヤのサラダ「ソムタム」とココナッツジュースだ。
「ジュースはネイからのおごり~」
真ん前の椅子に腰掛けたネイは、両手で頬杖を突きニコニコと笑った。
「悪いな。んじゃ……いただきます」
日本人らしく両手を合わせたクウヤは、少し気まずそうに食事を始めた。ソムタムの酸っぱ辛さが広がった口の中に、パッタイの柔らかい味がちょうど良く合う。ココナッツジュースはミルクを含まない透明の物なので、ほのかな甘さを漂わせながらも清涼感があった。
「ごちそうさま~」
食事を終えるやネイはそそくさと片付け、再び同じ席に戻ってニコニコとクウヤを見上げた。
「おかしな奴だな。俺の顔になんかついてるか?」
あれほど突っかかってきたネイが、笑顔を向けるばかりで無言で見つめては、どうも調子が狂ってしまう。クウヤも片手で頬杖を突き、落ち着かないように宙を見上げた。
「顔には何もついてないけどさ~首の下にはついてるんでしょ?」
「……ネイの興味はそっちか」
顔をそむけたまま視線だけを少女へ戻す。向けられているのはいかにも「見せて」と言いたげな笑顔だ。クウヤはジュースをごちそうしてくれたお礼も兼ねて、軽くTシャツの襟を引き、他には見えないようこっそりネイに披露した。
「むむぅ、これはまた面妖な」
「お前の言い方の方がよっぽど面妖だ」
そんなツッコミを入れながら、自身が少しずつ冷静さを取り戻していることに気付かされた。今のところ『エレメント』は何も悪さをしてこない。今いるこの場所もネイによって守られている。食事はメリルが運んでくれる……『今』というこの時は、心を落ち着かせるために与えられた時間なのかもしれない。
「なぁ、コンピュータとして、ネイには何か見解が出てこないか?」
そんな穏やかな自分が、やっと外からの意見を求められるようになった。
「うーん、メリたんが分からないくらいだからねー、アタシにも分かんないな~」
けれど帰ってきた答えは、そう簡単には自分の意に沿わないというのが現実というべきものらしい。
「そうか……」
やや消沈して背もたれにどっぷりと身体を預け、クウヤは空の彼方の『ムーン・シールド』へ目を向けた。この宇宙から来た『エレメント』が、地球の鉱石スピネルと結合して出来上がった奇跡の物質。そんな「エイリアン」に守られているのだから、不可思議なことが多いのも仕方のないことなのかもしれない。
「ただいま戻りました、ネイ様」
ふと聞こえた左からの声に、態勢はそのまま首だけをそちらに回した。見えたのは赤毛と青緑の瞳と……やっとまともな格好をしたメリル、だった。
「良くお休みになられましたか? クウヤ様」
淡いピンク色のカットソーに、赤を基調としたエスニック柄の腰巻を巻いている。荷物は抱えていないので、どうやら先に自室へ置いてきたのだろう。服装が変わった所為か、あの冷たい眼差しがやや柔らかく思えたのは気のせいか? スタイルの良さは相変わらずで、その胸の高さについ目が引き寄せられてしまうが、これも全て偽物なのだとクウヤは自身に言い聞かせた。
「ああ。食事もありがとな。さっきごちそうになった」
「お口に合いましたなら何よりです」
ネイに促され、その隣に腰を下ろすメリル。
「ネイ様、ソムチャーイ様はお帰りになられましたか?」
「ううん~まだ。何処まで行っちゃったんだろう?」
けれど困ったようなネイの答えに、メリルはあっと言う間に立ち上がった。
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