そろそろ諦めてください、お父様

鳴哉

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 卒業も間近になった冬の頃、領地を隣り合わせる伯爵家の御令息から、私に直接婚約のお申出をいただいた。

「私との婚姻を考えていただけませんか?」

 そう言って微笑んだヘリオ様に、胸がざわついた。私は淑女の仮面を被り、微笑み返す。

「前向きに検討させてください」

 記憶の底から引き摺り出された似た顔を思い出して、あの時はわからなかったことを、今ようやく理解した。

 ヘリオ様から婚約を申し込まれたことを、父には話さなかった。父が即座に断ることが目に見えていたから。


 何度か学院内でお会いして、週末の休みにヘリオ様のご自宅に招待していただけることになった。

 訪問した先で、彼のご両親にお会いする。ヘリオ様によく似た現伯爵の顔を見て、私は確信した。

「初めまして、ヒルデロッタ嬢」

「……いいえ、初めまして、ではございません、ルター伯爵様」

 私の返した言葉に、伯爵以外は怪訝な表情を浮かべる。そうか、ヘリオ様や奥様はご存知のないことなのか。

 顔には出さないよう、気をつけて皆の様子を伺う。

「私が幼い頃、我がヒルデロッタ家に母のお見舞いにおいでになりましたよね?」

 そう問いかけておきながら、私は返事を待つことなく続ける。

「いえ、お見舞いではございませんでしたわ」

 まさか、あの時まだ子どもだと思っていた私が、覚えているとは思っていなかったのだろう。ルター伯爵の顔が僅かに引き攣っている。何をどこまで覚えているのか、不安なのだと思う。

「あの時、伯爵様は、私の母にこうおっしゃいましたよね」

 私は、ヘリオ様を切欠に思い出すまでその意味を理解できていなかった彼の言葉を、思い出したままに口にした。


「おまえのおっとのさいごは、じつにまぬけで、あっけないものだったな」

「おまえはぶざまにいきのこったようだが、もうながくはもたないだろう」

「しんぱいせずとも、おまえなきあとはこのわたしがこうけんにんとして、ひるでろったりょうのめんどうをみてやる」

「いきているあいだは、わたしのめかけにでもなってわたしにつくすがいい」


 目の前の男が、父が亡くなった事故の際の怪我で寝たきりになってしまったお母様に向けた暴言だった。

 10歳の私には、彼の言った言葉の意味がよくわかってはいなかったのだけど、醜悪なその表情と共に記憶の底に残っていたのだ。


 あの時不安に駆られた私は、一番近くにいて、一番信頼していたあの方に相談した。意味のわからない呪詛のような男の言葉をそのままに。

 そうしたら、あの方は、優しく力強く笑って、

「大丈夫だよ、私が何とかするから。マリーもマリーの母君もヒルデロッタ家も、必ず私が守る」

と言ってくれた。
 そうして、本当に何とかしてくれた。

 その時、あの方は私の新しい父となったのだ。



「マリー!!」

 淀んだ空気を吹き飛ばすように、部屋の扉を開けたのは、父だった。

 他家の応接間に先導もなく飛び込んできていい訳がないのだけれど、私はほっと息を吐いた。

「無事で良かった!」

 ソファに腰掛ける私の横に跪き、父は手を握った。私のことを心配して駆けつけてくれた。それがとても嬉しい。


 自らの父、自らの夫の過去の暴挙を、まだ半信半疑のままに思考停止していたヘリオ様とルター伯爵夫人は、私の父の突然の登場に、さらに混乱してしまっている。

 ルター伯爵だけは、その顔に過去に見た醜悪な表情を浮かべていた。

「……そうか。だからあの時、急にお前がしゃしゃり出て来たのか」

 小さく呟いた言葉は、私の耳だけでなく父にも届いたようだった。

「ヒルデロッタ家を貴方に乗っ取らせる訳にはいきませんでしたので」

 そう言った父の瞳は、怒りに染まっている。そんな顔を私が見たことは、一度としてない。
 そんな顔をさせたくなくて、一人で確かめにここに来たのに。


 私の実の父が死に、母が大怪我を負ったあの不慮の事故が起きたあの時、私との婚約の話が進んでいた今の父カーティスは、私のお母様と結婚した。
 既に成人していた彼は、寝たきりのお母様に代わり、ヒルデロッタ伯爵家を支えてくれた。1年も経たずお母様が亡くなってからも、変わらずに。
 その間、ずっと、私の家族として、傍にいてくれた。

 私が頼ったあの時の言葉通り、私を、私のお母様を、ヒルデロッタ伯爵家を守ってくれたのだ。


「今度は娘に手を出そうとするとは、どれだけヒルデロッタ領は、貴方に魅力的に映っているのでしょうねえ」

 口元に皮肉の笑みを浮かべて、父が言えば、ルター伯爵は貴族らしからず舌打ちをした。それは肯定しているも同じ。


「我が娘は渡しません」

 そう言った父は私を立ち上がらせる。

「婚約のお話はなかったことに。では、失礼」

 入ってきた時とは真逆に、丁寧過ぎる礼を取った父に合わせ、私もカーテシーをもってその場を辞した。



 帰り道は、父が乗ってきたヒルデロッタ家の馬車で共に帰ることになった。

 沈黙する父に、かける言葉を探す。何を話せば良いのやら。
 とりあえず、軽口を叩くことにする。

「また、婚約成立になりませんでしたわ」

「ルター家は駄目だ! 伯爵はうちを乗っ取る気だ!」

 まあ、そうよね。どう考えても、ヘリオ様との婚約はあり得ない。弱ってるお母様を侮辱して妾にしようとした義父なんて、絶対受け入れられない。

 溜息と共に父が問うた。

「どうして、私に婚約の申出があったことを相談しなかった?」

 婚約の話を父に通さず、勝手にルター伯爵家まで行ったのは。

「確認したかったの。どうしてお母様と結婚したのか」

 真正面から父を見た。答え合わせをするために。

「お母様と結婚しても、ヒルデロッタ伯爵にはなれない。嫁入りしてきたお母様には一代限りの権利しかないから。お母様が亡くなったら、次の後継者は私。婚約の話が進んでいた私でなく、どうしてお母様と結婚することになったのか、どうしても知りたかった」

 成人前の私の代理としてヒルデロッタ伯爵を名乗る父から、すぐに返事は返って来なかった。
 だからルター伯爵の顔を見て、完全に思い出した記憶から、私が辿り着いた答えを示す。

「私が、ルター伯爵の話をしたから。ヒルデロッタ家が乗っ取られないように、私たちを守るために、お母様と結婚してくれたのね」

 父は返事をしなかった。
 だけど、表情で丸わかりだった。

「ありがとう。カーティス様」

 こんな言葉だけでは足りないのは分かっている。でも、言わずにはいられなかった。

「……父と呼べと、何度言ったら分かるんだ、マリー」

 父を名前で呼ぶ私へのいつもの苦言で返した父、いやカーティス様に、私は話を続ける。

「お母様がお亡くなりになる前に聞いているわ。お母様とカーティス様の婚姻は、書類上だけのものだって」

「書類上だけでも、夫婦だ」

 視線を逸らす彼は、きっと私以上にいろいろなものに囚われている。
 私は望んでいる。彼と私が囚われているものから解放されることを。

「もうひとつ、聞いているの」

 私は、座っている席を立ち上がり、向かいに座るカーティス様の隣に座り直した。

「私とカーティス様の養子縁組はなされていないということ」

 目に見えるほど、カーティス様の肩が震えた。

「私たちは親娘ではないのよ、カーティス様」







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