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1「気づくわけない」夫は愛人のベッドで笑った
しおりを挟むベッドの上でぐったりと横になっている女に、優一は服を着ながら声をかけた。
「そろそろ起きた方がいいんじゃないか。仕事に遅れたら、まずいだろ」
女はシーツを胸元まで引き上げたまま、上目遣いで聞く。
「……奥さんには?」
「大丈夫だよ」
優一は軽く笑った。
「気づくわけない」
頭に浮かんだのは、妻の里奈の顔だ。
会社に行った夫を送り出し、部屋で一人、ミシンを踏んでいる。
顔立ちは悪くない、だが、妻には面白みがないと思っていた。
外に出ても映画、美術館、手芸の材料探しというのが殆どだ。
自分とは、世界が違うと思っていた。
一緒にいる理由は一言で言うなら、生活の為だ。
料理、家事ができる、口答えや余計な詮索をしない。
それに浮気をしない、だから、都合がいいのだ。
「あなたの顔、好きよ」
ベッドから女が起き上がり、甘えた声で近づいてくる。
優一は視線を向けた、そんなこと、言われなくても分かっている。
「ばれないようにしてくれ」
女は嬉しそうにうなずく。
その仕草を見ながら、優一は思った、そろそろ、潮時だと。
だから口にしたのだ、別れの言葉を。
優一は薄く笑った、自宅へ帰る準備をするふりをしながら、ゆっくりと鞄のファスナーを開いた。
中から一枚の写真、数枚のコピー用紙を取り出した。
写真を差し出した瞬間、女の顔色が変わった。
言い訳をする余裕もないのだろう。
「ちょっ……どういう……」
声が震えている、青ざめた顔が見ものだと思った。
「理由、それは、俺のほうが聞きたいよ」
先ほどまでベッドで女を抱いていた男とは別人の笑いだ。
相手を見下しきった、冷たい嘲りの笑み。
「仕事のミス。借金、男との揉め事、まだあるな」
テーブルの上に、ゆっくりと証拠を並べていく。
領収書にメッセージのコピー。
他の男が怒鳴り込んできた日時の記録。
彼女が隠そうとしていた過去の借金の契約書の画像。
女は目を逸らせないままだ。視線を落とせば、そこに事実がある。
「誤解なの。本当に……!」
弱々しい声、だが、声には説得力の欠片もない。
優一は瞬きをひとつしただけで、その言葉を切り捨てた。
「誤解? そういうことにしてほしいのか、お前は」
静かだ、だが、冷たくも熱くもない。
感情のない声で優一は女をじっと見つめた。
言葉が刃物のように突き刺さる。
「誤解かな?」
投げ捨てるような響きだった。
場の空気を、一気に冷やす。
「いや、全部、嘘ってことにしておくか?」
追い詰めるつもりで言っているのではない。
確認、違う、現実を突きつけているのだ。
女は口を開こうとしたが、声も言葉も出てこない。
優一は女を見ながら笑っていた。
唇の端だけがゆっくりと歪む、怒りでも嘲りでもない。
それは、見下すような視線だ。
「舐めるなよ、俺を」
低く鋭い、突き放すような声に女の表情が固まった。
優一はその顔に興味すらなさそうに視線を逸らし、終わったなと思った。
「いってらっしゃい」
玄関のドアが閉まる。鍵が回る音を聞いて、里奈はようやく息を吐いた。
台所を片づけ、自分の部屋でパソコンを立ち上げる。
昨夜仕上げたサコッシュを撮影し、フリマサイトにアップした。
市販の薄い布や革では物足りない。手に馴染むよう少しだけ小さくし、内側にはポケットも付けた。
感想をひとつずつ確認する。
「丁寧に作られている」「使いやすい」「手に馴染む」
中には男性のコメントもあった。
「妻へのプレゼントにしたい」
「恋人の誕生日に、ラッピングをお願いしたい」
——自分の作ったものが、誰かの気持ちを運ぶ。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
これは仕事じゃない。趣味の延長だ。そう言い聞かせる癖が、いつの間にか身についていた。
次に作りたいのは、大きめで丈夫な斜めがけバッグ。
そう考えた瞬間、里奈の胸の奥に小さな欲が芽生えた。
——新しいミシンがほしい。
二、三万円もあれば買える。買えない額じゃない。
けれど、夫の優一の顔が浮かぶと、ためらいが生まれる。
反対はされない。きっと、こう言うだけだ。
「家のことや家計に支障がないなら、いいんじゃないか」
優一の淡々とした言葉が、里奈には“距離”に聞こえる。
それなら、通販で買おう。夫が帰る時間を外して届くように。
大げさな秘密じゃない。そう思うのに、胸がどきりとした。
里奈はスマホを握り直す。
小さな決だ、けれど、彼女にとっては確かな一歩だった。
正雪はナレーションの収録を終えると、スタジオの外に出た。
冷たい風が頬を刺し、思わず襟元を押さえる。
その瞬間、ひんやりした感触が指先に触れた。
雨粒、いや、雪だ。
珈琲でも飲もうかと思い、近くの喫茶店を覗いたが諦めた。
店内は満席で、その光景に、ふっと肩の力が抜けた。
待つほどの気力は、今日の自分にはもうなかった。
ふと、息子夫婦の顔が頭に浮かんだ。
いや、正確には息子の優一の顔ではない。
里奈の穏やかな笑顔だ。
何故、彼女の顔だけがこんなにはっきり思い出せてしまったのか。
突然連絡したら、迷惑かもしれないと思ったが、正幸の手はスマホを取り出していた。
突然の連絡に、優一は少し驚いたようだった。
「寒くなってきたからな。体に気をつけろよ」
『ああ。それよりオヤジは?インフルとか気をつけろよ。喉をやられたら大変だろ』
「気をつけているよ。……里奈さんはどうだ」
『今、晩飯の用意してる。かわろうか?』
その言葉に、正幸は一瞬、返事を迷った。
「いや、いい」
自分でも意外なほど、声が早く出た。
「忙しいだろう」
『そうか?』
「風邪をひいてないかと思ってな」
少し言葉を選んで、そう付け足す。
『里奈も元気だよ』
それだけのやり取りだった。
父と息子の近況報告は、長く続くものではない。
通話が切れ、正幸はスマホを手にしたまま立ち止まった。
かわろうか、と言われた瞬間、どうしてあんなふうに、すぐ断ったのか。
理由は分からない。
「いや、いい」
断った瞬間、胸の奥がざわついた。
声を、聞きたがっている自分に気づいたからだ。
ただ、今は、それでよかったと思っていた。
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