「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」

木桜 春雨

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3 「もう、あの部屋には戻れなかった」

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 よく眠った——そう思いながら目を開けると、窓から差し込む光がいつもより明るかった。
 スマホを見ると九時。驚いたが、今日は昼からの仕事だと思い出し、肩の力が抜ける。

 着替えて台所へ向かうと、里奈が振り返って柔らかく笑った。
 「おはようございます。朝ごはんできてます。味噌汁とごはんです。卵は、だし巻きと目玉焼き、どちらがいいですか?」
 選べるのか、と正幸は一瞬返事を忘れた。
 「……だし巻きを、できたら」
 すぐにフライパンが温まる音がする。

 焼き立ての卵。白菜ときゅうりの塩もみ。梅干し。
 たったそれだけの食卓なのに、胸の奥が静かにほどけていった。
 箸を伸ばし、塩もみを口に運ぶ。さっぱりして朝に合う。
 梅干しをひとつ口に入れた瞬間、正幸はふと眉を上げた。
 「……これは、自家製かな」
 里奈が驚いたようにこちらを見る。
 「塩、きつかったですか?」
 正幸は小さく笑って首を横に振った。
 「いや。最近は甘い梅干しが多いだろう。あれはどうも口に合わなくてね」
 梅干しひとつで、こんな気持ちになるとは思わなかった。
 この家では、丁寧なものが当たり前のように食卓にある——その事実が、静かな衝撃だった。

 食事が済み、正幸は里奈に声をかけた。
 「俺のことは無理に“正幸さん”でなくていい。お義父さんで構わない」
 里奈ははっと顔を上げたが、真剣な表情で首を振った。
 「優一さんに言われたんです。“お義父さん”って呼ぶと、声が聞こえたときに正幸さんが声優だって気づかれるかもしれないって」
 「俺なんかが、そんな目に?」
 本音が漏れる。だが里奈は迷わなかった。
 「今は、誰でも撮られるんです。“声が似てる”だけで話題になって、勝手に写真を上げられたり、盗撮されたり……拡散されることもあります」
 正幸は小さく息を吐いた。
 「……そういうことも、あるかもしれないな」

 その夜、優一が急に真面目な声音で切り出した。
 「来週、一週間ほど出張で家を空ける」
 予想していなかった言葉に、正幸の呼吸が一瞬止まった。
 驚きはそれだけではなかった。
 「それと、あの部屋の水漏れ……危なくないか。漏電の可能性もあるし、床も傷んでるだろう」
 淡々と言われ、正幸の胸が沈む。
 ブルーシートを敷いて、“いつか直る”と処理していた自分の無防備さが浮き上がった。

 「上の階の住人、また同じことをしないって保証はない。寝たばこのボヤ、二回目だよな?」
 正幸の思考が止まった。
 二回? 聞いていない。自分が知っているのは一度だけだ。
 ——自分だけが知らされていなかったのか。
 その疑念が、胸の奥に冷たく落ちた。

 夕食後、二人きりになったタイミングで、優一が続けた。
 「出張は海外だ。延びるかもしれない」
 国内だと思い込んでいた正幸は目を見開く。
 優一は仕事の話のように冷静に言葉を並べる。
 「俺が長く家を空けるなら、里奈を一人にするのは正直、不安だ」
 正幸は返す言葉を失った。正論だ。義父として求められている役割も理解できる。
 「……そうか。確かに、里奈さんを一人にするのは心配だな」
 自分でも驚くほど素直に言えた。
 「わかった」

 翌日、正幸は近所の電気屋に来てもらった。
 濡れた家電を確認した若い店員は、慎重に見てから静かに首を振る。
 「正直、買い替えた方がいいです。万が一があるので」
 「万が一?」
 「漏電もそうですが、発火の可能性も否定できません。床もまだ湿っています」
 正幸は黙り込み、薄い湿り気の残る床を見つめた。

 その後、管理人の立ち会いで床の確認が行われた。昼を少し過ぎた頃だ。
 玄関先から管理人は落ち着きがなく、視線が合うとすぐ逸らす。
 ブルーシートを外すと湿った床が露わになり、業者が膝をついて触れた。
 押し込むと、わずかに沈む。
 「……まだ水、残ってますね」
 管理人が気まずそうに咳払いをした。
 「ええ、その……昨日の今日ですから」

 業者は湿った床を見渡し、淡々と言った。
 「表面が乾いても、中は時間がかかります。放置すれば歪みや腐食が進む可能性もありますね」
 管理人の動きは終始ぎこちなかった。
 ただの不手際ではない。何かを隠している。

 業者がふと正幸を見る。
 「上の階のトラブル、今回が初めてじゃありませんよね?」
 管理人の肩がわずかに跳ねた。
 「……以前にも、少し」
 その曖昧な言い方が、逆に全てを物語っていた。
 知っていた。けれど、正幸には伝えていなかった。

 立ち会い書類をまとめる間、正幸は床を見つめた。
 騒音、水漏れ、寝タバコ——積み重ねは想像より深刻で、危険ですらある。
 『寝タバコのボヤ、二回目だよな?』
 優一の言葉が脳裏によみがえる。
 息子は、自分より先に危険性に気づいていたのだ。

 ——それでも。
 上の階から笑い声が落ちてきた。
 低い声が混じった気がして、正幸の背筋に冷たいものが走った。



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