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20話 「こちらで管理します」いえ、片をつけるの間違いでは
「あなたと一緒に桜川のことを調べている女。信用しているの?」
桜川の声は静かだ。だが、その問いだけで英太郎は返事を失った。
今まで、自分は疑問を挟まずに動いてきた。
誰が何のために動いているのか、そこまで考えたことがなかった。
「……信用するな、ってことか」
「断言はしない。でも、雇われている可能性はある」
英太郎は息を呑んだ。
「優一に好意がある可能性もある。――これは憶測よ。私の想像」
その言い方が、かえって不気味だった。
決めつけではない。だが、何も知らない英太郎よりは、ずっと多くを知っている口ぶりだった。
英太郎は黙り込んだ。
正直、そこまで考えたことはなかった。
今までの自分の動きは、正しかったのか。
軽率だったのではないか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
「深入りしない方がいい」
桜川はそう言って、小さく息を吐いた。
「でも、ここまで来たってことは、もう遅いかもしれない」
その一言に、英太郎は顔を上げた。
桜川はコートのポケットからスマホを取り出した。
「連絡先、交換しましょう」
差し出された画面を見ながら、英太郎は眉を寄せる。
「あなたは優一の友人。……でも、どこまで彼のことを知ってるの?」
その問いは、責める口調ではなかった。
「……昔、あの人はうちに来たことがあるの」
桜川のその一言に、英太郎は息を詰めた。
優一は、桜川家の応接室にいた。
この部屋では、会話の内容さえ“家の品位”に合わせて整えられる。
そういう空気が、隅々まで行き渡っていた。
男は書類から目を上げた。
笑ってはいたが、その顔に緩みはない。
「困っていると、おっしゃっていましたが」
「桜川さんの件で、ご親族の方にお話ししておくべきだと思いまして」
優一の口調は丁寧だった。
だが、最初から一線を引いているのが分かる話し方だった。
「僕は、彼の気持ちに応えることはできません」
結論を先に置く。
角が立たないように、けれど逃げ道だけは残さない。
「嗜好や性癖は個人の自由だと思っています。それを否定するつもりはありません」
「僕には今、余裕がないんです。大学生活もある。就職もある。今の成績や実績が、そのまま将来に繋がる時期です」
わずかに視線を伏せて、優一は続けた。
「中途半端に期待させて、相手を傷つけるのも嫌なんです」
拒絶の理由は、相手ではなく自分の事情。
言葉は丁寧に選ばれていた。
「だから、距離を置きたい。……いえ、関わらないでほしいんです」
男は黙って聞いていた。
「僕にも、守らないといけないものがあります」
男の視線が、わずかに鋭くなる。
「父が、長く声優の仕事をしています。この業界では、ある程度知られた人です」
その瞬間、男の顔から受け流すための笑みが消えた。
芸能という、その単語だけで、この場の意味が変わった。
桜川家は、優一を“普通の学生”だと、父親も、どこにでもいる会社員だと思っていた。
多少の火種があっても、家の中で収められる話だと思っていた。
だが、芸能が絡めば話は別だ。
名前だけが独り歩きすることがある。
噂は速度を持ち、勝手に膨らみ、こちらの意思と無関係に広がっていく。
「……分かりました」
男は丁寧な口調を崩さない。
だが、部屋の空気は、先程と同じではない。
「この件は、こちらで管理します」
その言葉が落ちた瞬間、桜川家の中で何かが動き出した。
「……私だ」
返事を待たず、男は用件だけを落とした。
「優一の父親が、芸能の人間だ。それだけじゃない。長く声優をやっている」
受話口の向こうで、息を呑む気配がした。
言葉は返ってこない。だが、その沈黙だけで十分だった。
相手もまた、その情報の意味を一瞬で理解したのだ。
「本人が黙っていても、周囲が勝手に嗅ぎ回る」
男の頭の中では、すでに幾つもの経路が組み上がっていた。
誰が知るのか。どこから漏れるのか。
どの名前が、どの順番で外へ出るのか。
噂は厄介だ。
一度形を持てば早い。
あとは勝手に独り歩きする。
事実かどうかは、もはや問題ではない。
人の口に乗った時点で、噂は勝手に肉をつけ、別の意味を持ち始める。
今は時期が悪い。
表に立つ者にとって、火種そのものより厄介なのは、
それを「火種として扱われること」だ。
「だから、こちらで管理する。接触は止めろ。今後は弁護士を通せ」
受話口の向こうで、短く返答があった。
声の調子が変わる。
もう相談ではなく、処理の段階に入ったのだと分かる。
男は続けた。
「情報線を洗い直せ。どこから漏れるか分からない」
今度は受話口の向こうで、誰かに指示を出す声が重なった。
怒鳴り声ではない。むしろ逆だった。
言葉数は減り、判断だけが速くなる。
事態が深刻であればあるほど、この家の人間は声を荒げない。
男は、その冷えた速度に耳を澄ませたまま、最後に言った。
「優一は“普通の学生”じゃない」
それだけ告げて、通話を切る。
数秒、男はその場を動かなかった。
手の中の端末は、まだ熱を持っている。
だが、その熱とは裏腹に、思考は妙なほど澄んでいた。
見誤っていた。
あの青年は、ただ距離を置きたいと願う学生ではなかった。
自分の立場と、相手が恐れるものを正確に見極めたうえで、
最も効果的な言葉だけを選んで置いていった。
あれは感情ではない。
計算だ。
厄介なのは、本人がそれを脅しの形にしていないことだった。
脅迫ではなく、あくまで「起こりうる現実」として差し出してきた。
だからこそ否定しにくく、扱いが難しい。
男は画面を二度タップした。
別の番号を呼び出す。秘書だ。
「調査会社を押さえろ。今夜中に」
間を置かず、さらに告げる。
「表向きは“手続きの確認”でいい」
そこで初めて、男の声にわずかな硬さが混じった。
「火種を、外に出すな」
通話を終えた後も、男はしばらくその場に立っていた。
優一がこの家に持ち込んだのは、ただの厄介事ではない。
家の外へ繋がる火だった。
桜川の名に傷をつけかねない、災厄だった。
それはもう、“個人の問題”では済まされない段階に入っていた。
桜川の声は静かだ。だが、その問いだけで英太郎は返事を失った。
今まで、自分は疑問を挟まずに動いてきた。
誰が何のために動いているのか、そこまで考えたことがなかった。
「……信用するな、ってことか」
「断言はしない。でも、雇われている可能性はある」
英太郎は息を呑んだ。
「優一に好意がある可能性もある。――これは憶測よ。私の想像」
その言い方が、かえって不気味だった。
決めつけではない。だが、何も知らない英太郎よりは、ずっと多くを知っている口ぶりだった。
英太郎は黙り込んだ。
正直、そこまで考えたことはなかった。
今までの自分の動きは、正しかったのか。
軽率だったのではないか。
そんな考えが浮かんだ瞬間、言葉が喉の奥で止まった。
「深入りしない方がいい」
桜川はそう言って、小さく息を吐いた。
「でも、ここまで来たってことは、もう遅いかもしれない」
その一言に、英太郎は顔を上げた。
桜川はコートのポケットからスマホを取り出した。
「連絡先、交換しましょう」
差し出された画面を見ながら、英太郎は眉を寄せる。
「あなたは優一の友人。……でも、どこまで彼のことを知ってるの?」
その問いは、責める口調ではなかった。
「……昔、あの人はうちに来たことがあるの」
桜川のその一言に、英太郎は息を詰めた。
優一は、桜川家の応接室にいた。
この部屋では、会話の内容さえ“家の品位”に合わせて整えられる。
そういう空気が、隅々まで行き渡っていた。
男は書類から目を上げた。
笑ってはいたが、その顔に緩みはない。
「困っていると、おっしゃっていましたが」
「桜川さんの件で、ご親族の方にお話ししておくべきだと思いまして」
優一の口調は丁寧だった。
だが、最初から一線を引いているのが分かる話し方だった。
「僕は、彼の気持ちに応えることはできません」
結論を先に置く。
角が立たないように、けれど逃げ道だけは残さない。
「嗜好や性癖は個人の自由だと思っています。それを否定するつもりはありません」
「僕には今、余裕がないんです。大学生活もある。就職もある。今の成績や実績が、そのまま将来に繋がる時期です」
わずかに視線を伏せて、優一は続けた。
「中途半端に期待させて、相手を傷つけるのも嫌なんです」
拒絶の理由は、相手ではなく自分の事情。
言葉は丁寧に選ばれていた。
「だから、距離を置きたい。……いえ、関わらないでほしいんです」
男は黙って聞いていた。
「僕にも、守らないといけないものがあります」
男の視線が、わずかに鋭くなる。
「父が、長く声優の仕事をしています。この業界では、ある程度知られた人です」
その瞬間、男の顔から受け流すための笑みが消えた。
芸能という、その単語だけで、この場の意味が変わった。
桜川家は、優一を“普通の学生”だと、父親も、どこにでもいる会社員だと思っていた。
多少の火種があっても、家の中で収められる話だと思っていた。
だが、芸能が絡めば話は別だ。
名前だけが独り歩きすることがある。
噂は速度を持ち、勝手に膨らみ、こちらの意思と無関係に広がっていく。
「……分かりました」
男は丁寧な口調を崩さない。
だが、部屋の空気は、先程と同じではない。
「この件は、こちらで管理します」
その言葉が落ちた瞬間、桜川家の中で何かが動き出した。
「……私だ」
返事を待たず、男は用件だけを落とした。
「優一の父親が、芸能の人間だ。それだけじゃない。長く声優をやっている」
受話口の向こうで、息を呑む気配がした。
言葉は返ってこない。だが、その沈黙だけで十分だった。
相手もまた、その情報の意味を一瞬で理解したのだ。
「本人が黙っていても、周囲が勝手に嗅ぎ回る」
男の頭の中では、すでに幾つもの経路が組み上がっていた。
誰が知るのか。どこから漏れるのか。
どの名前が、どの順番で外へ出るのか。
噂は厄介だ。
一度形を持てば早い。
あとは勝手に独り歩きする。
事実かどうかは、もはや問題ではない。
人の口に乗った時点で、噂は勝手に肉をつけ、別の意味を持ち始める。
今は時期が悪い。
表に立つ者にとって、火種そのものより厄介なのは、
それを「火種として扱われること」だ。
「だから、こちらで管理する。接触は止めろ。今後は弁護士を通せ」
受話口の向こうで、短く返答があった。
声の調子が変わる。
もう相談ではなく、処理の段階に入ったのだと分かる。
男は続けた。
「情報線を洗い直せ。どこから漏れるか分からない」
今度は受話口の向こうで、誰かに指示を出す声が重なった。
怒鳴り声ではない。むしろ逆だった。
言葉数は減り、判断だけが速くなる。
事態が深刻であればあるほど、この家の人間は声を荒げない。
男は、その冷えた速度に耳を澄ませたまま、最後に言った。
「優一は“普通の学生”じゃない」
それだけ告げて、通話を切る。
数秒、男はその場を動かなかった。
手の中の端末は、まだ熱を持っている。
だが、その熱とは裏腹に、思考は妙なほど澄んでいた。
見誤っていた。
あの青年は、ただ距離を置きたいと願う学生ではなかった。
自分の立場と、相手が恐れるものを正確に見極めたうえで、
最も効果的な言葉だけを選んで置いていった。
あれは感情ではない。
計算だ。
厄介なのは、本人がそれを脅しの形にしていないことだった。
脅迫ではなく、あくまで「起こりうる現実」として差し出してきた。
だからこそ否定しにくく、扱いが難しい。
男は画面を二度タップした。
別の番号を呼び出す。秘書だ。
「調査会社を押さえろ。今夜中に」
間を置かず、さらに告げる。
「表向きは“手続きの確認”でいい」
そこで初めて、男の声にわずかな硬さが混じった。
「火種を、外に出すな」
通話を終えた後も、男はしばらくその場に立っていた。
優一がこの家に持ち込んだのは、ただの厄介事ではない。
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それはもう、“個人の問題”では済まされない段階に入っていた。
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