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21 「君は今も、嘘をついてるのか」
女が喫茶店から出てきたときだ。
一人の男が近づいてきて、紙を一枚だけ差し出した。
弁護士名義の短い通知だった。
『以後の接触を控えよ』
顔を上げる。
少し離れた場所で、スーツの男がまだこちらを見ていた。
近づいてこない、その距離の取り方が、余計に怖い。
渡された瞬間の男の声が、まだ耳に残っていた。
「あなたの安全のためです」
女はスマホを握りしめた。
英太郎に連絡するため、すぐに通話ボタンを押す。
だが、呼び出し音は鳴らなかった。
画面に出たのは、短く「圏外」の文字だけだった。
女は通話を切り、メッセージ画面を開いた。
打ちかけた指が止まったが、それも一瞬だった。
『桜川の件で弁護士から通知がきた。会って話したいの。』
送信して、しばらく待ってから画面を確認する。
既読はついていなかった。
もしかして、と思った。
時間だけが過ぎていく。
だが、その日、英太郎から連絡はなかった。
次の日の夕方、英太郎から連絡が入った。
メールではなく、通話だった。
意外に思いながらも、女はすぐに出る。
「会って話したいの」
「……分かった」
返事は早かった、だが、声は固い。
「こっちも確認したいことがある」
当日、指定された喫茶店。
英太郎の顔を見た瞬間、女は違和感を感じた。
表情が硬い。今まで向けられていたものとは、明らかに違う。
「まず、大事なことを言っておく」
英太郎は息を吸い、はっきりと線を引いた。
「先に言っておく。正幸さんと里奈さんには近づくな。絶対にだ」
女の表情が変わった。
「今まで俺は、君の言葉を信じて動いてきた」
「……あなた、私を疑ってるの?」
英太郎は頷いた。
「俺は、君が“亡くなった”と言った桜川に会った」
女は言葉を失った。
「俺のことを覚えていた」
どういうこと。
英太郎の目は、はっきりと疑いに傾いていた。
それだけで胸の奥が冷えた。
英太郎の声には、感情より先に判断があった。
「昨日、墓の確認に行った先で会った」
「……会った、って……」
ふ
その沈黙ごと、相手の反応を見ているようだった。
「しかも、俺のことを覚えていた。初対面の反応じゃない」
女の顔が白くなる。
違うと言おうとして、言葉が喉に引っかかった。
「君が嘘をついたのか。桜川が嘘をついたのか。――それとも、君が誰かに嘘をつかされたのか」
英太郎は視線を逸らさなかった。
「俺が知りたいのは一点だけだ」
女は息を呑んだ。
「君は今も、俺に嘘をついてるのか?」
ずっと好きな女がいた。
いつからだったのか、はっきりとは分からない。
気づけば目で追っていたし、声を聞けばその日一日が少しだけ明るくなるような、そんな相手だった。
けれど、口にしたことは一度もない。
言えばいい、たったそれだけのことが、どうしてもできなかった。
桜川の名を背負っている以上、自分が誰かを好きになることさえ、どこかで“家の都合”に汚される気がしていたからだ。
親族は他人を値踏みする。
あの家では、誰かを好きになることさえ、まっすぐでいられない。
名前が先に立つ。立場が先に立つ。
気持ちはいつも、そのあとだった。
好きな相手にだけは、自分の家の空気を触れさせたくなかった。
自分が桜川の人間だと知られた瞬間、その女の見る目が変わるかもしれない。
あるいは、親族がその女を値踏みするかもしれない。
そう思うだけで、口の中が苦くなった。
それが臆病さだと、男の桜川は分かっていた。
分かっていて、それでも一歩も踏み出せなかった。
だから、見ているだけだ、何でもない顔で隣に立ちながら、何一つ言えないまま。
その女が優一を好きになったと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。
最初は、ただ話題に出る回数が増えただけだった。
あの人は感じがいい。
話しやすい。優しい。気が利く。
そんなありふれた言葉の端々に、隠しきれない熱が混じっていた。
その言葉を男は黙って聞いていた。
言える立場ではないし、口を挟む権利はない。
そう自分に言い聞かせた。
優一は、分かりやすく奪うような男ではなかった。
派手に口説くわけでもない。
誰の前でも無神経な態度を取るわけでもない。
むしろ逆だった。穏やかで、距離の取り方がうまくて、相手に不快感を与えない。
だからこそ厄介だった。
曖昧なまま相手を引き寄せ、安心させるだけ安心させておいて、最後の責任だけは取らない。
そのやり方が、男はどうしても好きになれなかった。
だが、その頃はまだ、嫌悪と呼ぶほどではなかった。
ただ、目障りな男だった。
決定的だったのは、その女が壊れていくのを見たときだ。
笑わなくなった。
人前で気丈に振る舞うのが上手かった女が、ある時を境に目を合わせなくなった。
優一の名前が出るだけで、ほんのわずかに呼吸が止まる。
平気な顔をしているつもりでも、指先だけが冷えて、声の端がかすかに揺れる。
気づかない人間には気づけない程度の変化だった。
だが、ずっと見ていた男には分かった。
けれど、それでも直接は聞けなかった。
結局、自分には何もできないのだと思い知らされた。
手を伸ばすことも、止めることも、何ひとつ。
その無力さが、日に日に内側に澱のように溜まっていった。
ある日、その女はぽつりと言った。
「私、何を期待してたんだろうね」
笑っていた。
だが、その目は少しも笑っていなかった。
男の桜川は、そのときも何も言えなかった。
その夜、優一という男を初めて憎んだ。
女を好きになったことを後悔したわけではない。
優一に惹かれた女を責めたいわけでもなかった。
許せなかったのは、何も失っていない優一の方だった。
女が傷ついても、優一は変わらない。
まるで、自分だけは最初から何も汚していないみたいな顔で。
一人の男が近づいてきて、紙を一枚だけ差し出した。
弁護士名義の短い通知だった。
『以後の接触を控えよ』
顔を上げる。
少し離れた場所で、スーツの男がまだこちらを見ていた。
近づいてこない、その距離の取り方が、余計に怖い。
渡された瞬間の男の声が、まだ耳に残っていた。
「あなたの安全のためです」
女はスマホを握りしめた。
英太郎に連絡するため、すぐに通話ボタンを押す。
だが、呼び出し音は鳴らなかった。
画面に出たのは、短く「圏外」の文字だけだった。
女は通話を切り、メッセージ画面を開いた。
打ちかけた指が止まったが、それも一瞬だった。
『桜川の件で弁護士から通知がきた。会って話したいの。』
送信して、しばらく待ってから画面を確認する。
既読はついていなかった。
もしかして、と思った。
時間だけが過ぎていく。
だが、その日、英太郎から連絡はなかった。
次の日の夕方、英太郎から連絡が入った。
メールではなく、通話だった。
意外に思いながらも、女はすぐに出る。
「会って話したいの」
「……分かった」
返事は早かった、だが、声は固い。
「こっちも確認したいことがある」
当日、指定された喫茶店。
英太郎の顔を見た瞬間、女は違和感を感じた。
表情が硬い。今まで向けられていたものとは、明らかに違う。
「まず、大事なことを言っておく」
英太郎は息を吸い、はっきりと線を引いた。
「先に言っておく。正幸さんと里奈さんには近づくな。絶対にだ」
女の表情が変わった。
「今まで俺は、君の言葉を信じて動いてきた」
「……あなた、私を疑ってるの?」
英太郎は頷いた。
「俺は、君が“亡くなった”と言った桜川に会った」
女は言葉を失った。
「俺のことを覚えていた」
どういうこと。
英太郎の目は、はっきりと疑いに傾いていた。
それだけで胸の奥が冷えた。
英太郎の声には、感情より先に判断があった。
「昨日、墓の確認に行った先で会った」
「……会った、って……」
ふ
その沈黙ごと、相手の反応を見ているようだった。
「しかも、俺のことを覚えていた。初対面の反応じゃない」
女の顔が白くなる。
違うと言おうとして、言葉が喉に引っかかった。
「君が嘘をついたのか。桜川が嘘をついたのか。――それとも、君が誰かに嘘をつかされたのか」
英太郎は視線を逸らさなかった。
「俺が知りたいのは一点だけだ」
女は息を呑んだ。
「君は今も、俺に嘘をついてるのか?」
ずっと好きな女がいた。
いつからだったのか、はっきりとは分からない。
気づけば目で追っていたし、声を聞けばその日一日が少しだけ明るくなるような、そんな相手だった。
けれど、口にしたことは一度もない。
言えばいい、たったそれだけのことが、どうしてもできなかった。
桜川の名を背負っている以上、自分が誰かを好きになることさえ、どこかで“家の都合”に汚される気がしていたからだ。
親族は他人を値踏みする。
あの家では、誰かを好きになることさえ、まっすぐでいられない。
名前が先に立つ。立場が先に立つ。
気持ちはいつも、そのあとだった。
好きな相手にだけは、自分の家の空気を触れさせたくなかった。
自分が桜川の人間だと知られた瞬間、その女の見る目が変わるかもしれない。
あるいは、親族がその女を値踏みするかもしれない。
そう思うだけで、口の中が苦くなった。
それが臆病さだと、男の桜川は分かっていた。
分かっていて、それでも一歩も踏み出せなかった。
だから、見ているだけだ、何でもない顔で隣に立ちながら、何一つ言えないまま。
その女が優一を好きになったと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。
最初は、ただ話題に出る回数が増えただけだった。
あの人は感じがいい。
話しやすい。優しい。気が利く。
そんなありふれた言葉の端々に、隠しきれない熱が混じっていた。
その言葉を男は黙って聞いていた。
言える立場ではないし、口を挟む権利はない。
そう自分に言い聞かせた。
優一は、分かりやすく奪うような男ではなかった。
派手に口説くわけでもない。
誰の前でも無神経な態度を取るわけでもない。
むしろ逆だった。穏やかで、距離の取り方がうまくて、相手に不快感を与えない。
だからこそ厄介だった。
曖昧なまま相手を引き寄せ、安心させるだけ安心させておいて、最後の責任だけは取らない。
そのやり方が、男はどうしても好きになれなかった。
だが、その頃はまだ、嫌悪と呼ぶほどではなかった。
ただ、目障りな男だった。
決定的だったのは、その女が壊れていくのを見たときだ。
笑わなくなった。
人前で気丈に振る舞うのが上手かった女が、ある時を境に目を合わせなくなった。
優一の名前が出るだけで、ほんのわずかに呼吸が止まる。
平気な顔をしているつもりでも、指先だけが冷えて、声の端がかすかに揺れる。
気づかない人間には気づけない程度の変化だった。
だが、ずっと見ていた男には分かった。
けれど、それでも直接は聞けなかった。
結局、自分には何もできないのだと思い知らされた。
手を伸ばすことも、止めることも、何ひとつ。
その無力さが、日に日に内側に澱のように溜まっていった。
ある日、その女はぽつりと言った。
「私、何を期待してたんだろうね」
笑っていた。
だが、その目は少しも笑っていなかった。
男の桜川は、そのときも何も言えなかった。
その夜、優一という男を初めて憎んだ。
女を好きになったことを後悔したわけではない。
優一に惹かれた女を責めたいわけでもなかった。
許せなかったのは、何も失っていない優一の方だった。
女が傷ついても、優一は変わらない。
まるで、自分だけは最初から何も汚していないみたいな顔で。
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