「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」

木桜 春雨

文字の大きさ
21 / 28

21 「君は今も、嘘をついてるのか」

 女が喫茶店から出てきたときだ。
 一人の男が近づいてきて、紙を一枚だけ差し出した。
 弁護士名義の短い通知だった。
 『以後の接触を控えよ』
 顔を上げる。
 少し離れた場所で、スーツの男がまだこちらを見ていた。
 近づいてこない、その距離の取り方が、余計に怖い。

 渡された瞬間の男の声が、まだ耳に残っていた。
 「あなたの安全のためです」
 女はスマホを握りしめた。
 英太郎に連絡するため、すぐに通話ボタンを押す。
 だが、呼び出し音は鳴らなかった。
 画面に出たのは、短く「圏外」の文字だけだった。
 女は通話を切り、メッセージ画面を開いた。
 打ちかけた指が止まったが、それも一瞬だった。
 『桜川の件で弁護士から通知がきた。会って話したいの。』
 送信して、しばらく待ってから画面を確認する。
 既読はついていなかった。
 もしかして、と思った。
 時間だけが過ぎていく。
 だが、その日、英太郎から連絡はなかった。

 次の日の夕方、英太郎から連絡が入った。
 メールではなく、通話だった。
 意外に思いながらも、女はすぐに出る。
 「会って話したいの」
 「……分かった」
 返事は早かった、だが、声は固い。
 「こっちも確認したいことがある」

 当日、指定された喫茶店。
 英太郎の顔を見た瞬間、女は違和感を感じた。
 表情が硬い。今まで向けられていたものとは、明らかに違う。
 「まず、大事なことを言っておく」
 英太郎は息を吸い、はっきりと線を引いた。
 「先に言っておく。正幸さんと里奈さんには近づくな。絶対にだ」
 女の表情が変わった。
 「今まで俺は、君の言葉を信じて動いてきた」
 「……あなた、私を疑ってるの?」
 英太郎は頷いた。
 「俺は、君が“亡くなった”と言った桜川に会った」
 女は言葉を失った。
 「俺のことを覚えていた」
 どういうこと。
 英太郎の目は、はっきりと疑いに傾いていた。
 それだけで胸の奥が冷えた。
 英太郎の声には、感情より先に判断があった。
 「昨日、墓の確認に行った先で会った」
 「……会った、って……」
 ふ
 その沈黙ごと、相手の反応を見ているようだった。
 「しかも、俺のことを覚えていた。初対面の反応じゃない」
 女の顔が白くなる。
 違うと言おうとして、言葉が喉に引っかかった。
 「君が嘘をついたのか。桜川が嘘をついたのか。――それとも、君が誰かに嘘をつかされたのか」
 英太郎は視線を逸らさなかった。
 「俺が知りたいのは一点だけだ」
 女は息を呑んだ。
 「君は今も、俺に嘘をついてるのか?」


 ずっと好きな女がいた。
 いつからだったのか、はっきりとは分からない。
 気づけば目で追っていたし、声を聞けばその日一日が少しだけ明るくなるような、そんな相手だった。
 けれど、口にしたことは一度もない。
 言えばいい、たったそれだけのことが、どうしてもできなかった。
 桜川の名を背負っている以上、自分が誰かを好きになることさえ、どこかで“家の都合”に汚される気がしていたからだ。
 親族は他人を値踏みする。
 あの家では、誰かを好きになることさえ、まっすぐでいられない。
 名前が先に立つ。立場が先に立つ。
 気持ちはいつも、そのあとだった。
 好きな相手にだけは、自分の家の空気を触れさせたくなかった。
 自分が桜川の人間だと知られた瞬間、その女の見る目が変わるかもしれない。
 あるいは、親族がその女を値踏みするかもしれない。
 そう思うだけで、口の中が苦くなった。

 それが臆病さだと、男の桜川は分かっていた。
 分かっていて、それでも一歩も踏み出せなかった。 
 だから、見ているだけだ、何でもない顔で隣に立ちながら、何一つ言えないまま。
 その女が優一を好きになったと知ったのは、ずいぶんあとになってからだった。
 最初は、ただ話題に出る回数が増えただけだった。
 あの人は感じがいい。
 話しやすい。優しい。気が利く。
 そんなありふれた言葉の端々に、隠しきれない熱が混じっていた。
 その言葉を男は黙って聞いていた。
 言える立場ではないし、口を挟む権利はない。
 そう自分に言い聞かせた。
 優一は、分かりやすく奪うような男ではなかった。
 派手に口説くわけでもない。
 誰の前でも無神経な態度を取るわけでもない。
 むしろ逆だった。穏やかで、距離の取り方がうまくて、相手に不快感を与えない。
 だからこそ厄介だった。
 曖昧なまま相手を引き寄せ、安心させるだけ安心させておいて、最後の責任だけは取らない。
 そのやり方が、男はどうしても好きになれなかった。
 だが、その頃はまだ、嫌悪と呼ぶほどではなかった。
 ただ、目障りな男だった。
 決定的だったのは、その女が壊れていくのを見たときだ。
 笑わなくなった。
 人前で気丈に振る舞うのが上手かった女が、ある時を境に目を合わせなくなった。
 優一の名前が出るだけで、ほんのわずかに呼吸が止まる。
 平気な顔をしているつもりでも、指先だけが冷えて、声の端がかすかに揺れる。
 気づかない人間には気づけない程度の変化だった。
 だが、ずっと見ていた男には分かった。
 けれど、それでも直接は聞けなかった。
 結局、自分には何もできないのだと思い知らされた。
 手を伸ばすことも、止めることも、何ひとつ。
 その無力さが、日に日に内側に澱のように溜まっていった。

 ある日、その女はぽつりと言った。
 「私、何を期待してたんだろうね」
 笑っていた。
 だが、その目は少しも笑っていなかった。
 男の桜川は、そのときも何も言えなかった。
 その夜、優一という男を初めて憎んだ。
 女を好きになったことを後悔したわけではない。
 優一に惹かれた女を責めたいわけでもなかった。
 許せなかったのは、何も失っていない優一の方だった。
 女が傷ついても、優一は変わらない。
 
 まるで、自分だけは最初から何も汚していないみたいな顔で。
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

ねえ、テレジア。君も愛人を囲って構わない。

夏目
恋愛
愛している王子が愛人を連れてきた。私も愛人をつくっていいと言われた。私は、あなたが好きなのに。 (小説家になろう様にも投稿しています)

戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました

Mag_Mel
恋愛
しばらく床に臥せていたエルマが久方ぶりに参加した祝宴で、隣国の姫君ルーシアは戦地にいるはずの夫ジェイミーの名を口にした。 「彼から恋文をもらっていますの」。 二年もの間、自分には便りひとつ届かなかったのに? 真実を確かめるため、エルマは姫君の茶会へと足を運ぶ。 そこで待っていたのは「身を引いて欲しい」と別れを迫る、ルーシアの取り巻きたちだった。 ※小説家になろう様にも投稿しています

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

有名俳優の妻

うちこ
恋愛
誰もが羨む結婚と遺伝子が欲しかった そこに愛はいらない