「クズ夫と愛人にざまぁを。嫁が選んだのは“義父”でした」

木桜 春雨

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22 「守ると決めた夜に、監視が始まる」

 「正幸さんですよね」
 声をかけられて振り返ると、正幸の表情がわずかに曇った。
 だが、すぐに思い出す。以前、元妻と会ったとき、そばにいた若い男だ。
 「何か用かね」
 自分に声をかけてくる意味が分からない。
 男は一瞬ためらい、それでも言葉を吐いた。
 「俺、捨てられるかもしれない」
 自業自得だ、と正幸は冷ややかに思った。
 体と金で繋がっていた関係だ。正直、自分には関係ない。
 だが、男の顔は必死だった。
 逃げ場のない人間の目をしている。
 「見せたいものがある。俺、もう後がない。現金がほしい。……ここにはいられないんだ」
 言葉の端々が切羽詰まっている。
 正幸の中で状況が形を結んだ。
 男は何かをやらかした。
 元妻に切られる。――浮気だろう。ばれたのだ。
 元妻にとって、男に裏切られることは屈辱だ。
 いや、自分が選んだ“玩具”に舐められるのが許せないのだろう。
 男はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。
 そこには、優一と知らない女が並んで写っていた。笑っている。距離が近い。
 正幸の表情が、わずかに固まる。
 男は勝ち誇るでもなく、泣きつくでもなく、歪んだ顔で言った。
 「あんたの元嫁は、息子の浮気を知ってた」
 「……」
 「ホテルも、ばれないように手伝ってた。やり取りもある」
 正幸の胸の奥が冷たく沈む。
 怒りより先に感じたのは嫌悪だった。言葉が出てこない。
 男は声を落とした。
 「金がほしい。現金で」
 声は震えていた。
 「この街じゃ……もう無理だ。俺は、もう……」
 ああ、そういうことか。
 男の言いたいことが、正幸には分かった。元妻を怒らせたのだ。
 その時点で、この男の“夜”は終わる。
 稼ぎ口を断たれた人間は、逃げることすら難しい。
 カードは使えない。いや、跡が残ることを恐れているのだろう。
 「店も……辞めさせられた。現金が欲しい」
 正幸はしばらく男を見つめ、それから視線を外した。
 「……ついて来い」
 
 コンビニに入ると、正幸はATMで現金を下ろし、プリペイドカードも買った。
 人通りの少ない場所まで来て、封筒を男に渡す。
 男の指が震えながら、封筒を掴んだ。
 「勘違いするな」
 正幸は低い声で言った。
 「二度と俺の前に出るな。連絡もするな。次はない」
 男は何か言いかけたが、結局、何も言わなかった。
 封筒を隠すように抱えると、逃げるように去っていく。
 正幸も同じだった。
 少しでも早く、この場を離れたかった。
 それでも、先ほど見せられた写真と男の言葉だけが、視界の裏に貼りついたまま剥がれない。
 脳裏に焼きついて、離れなかった。
 握り潰したレシートの感触が、右手に残っている気がした。
 息子が浮気をしている。
 その事実を、正幸はまだうまく飲み込めずにいた。
 結婚前から。
 結婚してからも。
 信じたくなかった。
 だが、それ以上に気持ちを悪くしたのは、元妻が協力していたという事実だ。
 それは裏切りではない。
 共犯だ、と正幸は思った。
 ホテルを選び、痕跡を消し、ばれないように整える。
 彼女に罪悪感などないのだろう。
 「やるなら上手くやりなさい」
 そんな顔で、当たり前のように手を貸したのかもしれない。
 彼女にとっては生活の延長なのだ。
 自覚があったのかさえ疑わしい。
 いや、あるからこそ厄介なのかもしれない。
 悪いと分かったうえで、平然とやるのだ。
 文句を言ってやりたいと思った。
 だが、連絡する気にはなれなかった。
 声を聞きたくない、というだけではない。
 話をしても、会話にならないことを正幸は知っている。
 あの女は言い返す、笑って切り返す。
 「何を今さら」
 「あなたが気づかなかっただけ」
 そう言って、こちらの怒りを燃料にして、平気で場を支配する。
 謝らない。反省しない。
 話し合いの形を取っても、最後に残るのは疲労だけだ。
 結論は最初から決まっている。
 だから、やめた。
 連絡先を開きかけた手が止まり、そのまま画面を閉じる。
 関わった瞬間に、また何かを削られてしまう気がした。
 今の自分に、あれを相手にする余力も気持ちもない。
 元妻と関わり合いになること自体が嫌だった。
 答えは最初から分かっている。だから切る。そして前だけを見る。
 里奈は知っているのか。
 いや、知っているはずがない。
 同居を始めてからも、彼女は優一のことを気にかけていた。
 優一のために必要なものを選び、黙って荷造りしていた背中が浮かぶ。
 丁寧に畳まれた服。
 忘れ物がないか確かめる手つき。
 そこに計算や芝居の影はない。誰かに見せるための善意ではない。
 だからこそ、胸が痛んだ。
 彼女は何も知らない。
 知らないまま、優一を信じている。信じようとしている。
 知らせるつもりはなかった。
 真実をぶつけてしまえば、彼女の優しさは折れる。
 疑いを植えつければ、もう戻らない。
 守るべきなのは、優一の面子ではない。
 彼女の生活と心だ。
 写真も、浮気の事実も、元妻の共犯も。
 全部、自分の胸の奥に沈める。
 元妻には連絡しない。
 あの女に言葉を投げたところで、何も変わらない。削られるのは自分だけだ。
 忘れる、思い出していいことなど、一つもない。
 帰って、いつものように振る舞う。
 平気な顔をするしかない。
 それが自分の選んだやり方だと、正幸は決めた。

 「おかえりなさい」
 里奈の声がした。
 それだけで胸の奥がきしむ。
 平気な顔をしろ、自分は決めたはずだ。
 「……ただいま」
 握り潰したレシートの感触が、まだ右手に残っている気がした。
 里奈が顔を出し、首をかしげて笑う。
 「寒くなかったですか。珈琲とお茶、どちらがいいですか」
 「お茶を頼もうか」
 声が平坦になっていないか、自分で確かめる。
 大丈夫だ。まだ崩れていない。
 彼女は何も知らない。
 知らないまま、優一の無事を祈っている。
 守るのは、ここだ。
 正幸は息をひとつ吸い、胸の奥で言い切った。
 今日のことは持ち込まない。写真も、男の言葉も、元妻の影も。
 ここには持ち込まない。
 そう改めて決めた、そのときだった。

 
 ふと、視線を感じて振り返る。
 少し離れたところに、長身の女が立っていた。
 こちらを見ている。
 女が一歩踏み出すより先に、相手がゆっくり距離を詰めた。
 靴音が、やけに整って聞こえる。
 「関係のない人間を巻き込むのはやめなさい」
 淡々とした口調。低い声。
 女は笑ってみせた。
 「あなたは?」
 あり得ないと思った、
 「……桜川? 本当に……“本物”?」
 相手は、ただ、値踏みするように見下ろした。
 「男の桜川といい、あなたといい。関係ない人間は出しゃばらないでほしいの」
 切り捨てるように言い、続ける。
 「あなたも桜川も、必要ない」
 女の笑みが、わずかに固まる。
 「うちの人間は、あなたみたいなタイプが嫌いなの」
 そして、最後に静かに言った。
 「英太郎から手を引きなさい」
 そう言うと、長身の女はスマホを取り出した。
 画面を見もせず、どこかへ繋ぐ。
 「……忠告はしたわ」
 通話が繋がっているのかどうか、女には分からなかった。
 相手の声も聞こえない。
 それでも長身の女は、口元だけで笑った。
 「監視をつけたから」
 桜川は去っていく。
 姿が見えなくなった、そのときだった。
 女のスマホが鳴った。
 英太郎ではない。
 表示された名前を見た瞬間、指先が冷えた。
 通話に出る。

 『……余計なことをしたな。桜川が動いた。』
 「私は――」
 『言い訳はいい。君はドジを踏んだ』
 冷えた声が、間を置かずに続く。
 『次はない。英太郎から離れろ。連絡も切れ』
 「……」
 『“回収”はこっちでやる』
 通話は切れた。
 女は呆然と、その場に立ち尽くした。
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