1 / 3
1 火事の夜に義父の前へ現れたのは、息子の“復讐者”だった
しおりを挟む
真夜中の火事だった。
アパートの住人たちは皆、外に追い出され、言葉もなく立ち尽くしている。
夜気は本来なら冷たいはずなのに、立ち上る煙と炎の熱で、肌にまとわりつく空気は生ぬるかった。
消防車が到着し、赤色灯が闇を切り裂く。
放水の音を聞きながら、雄一は焼けた自分の部屋の中を思い浮かべていた。
仕事用のデスクトップパソコンは、もう使い物にならないだろう。
だが、脚本のデータはノートパソコンに保存してある。
次回作の原稿も、プロットも。
それだけは失われていない――そう思うことで、かろうじて現実を受け止めていた。
問題は、今夜の寝場所だった。
時刻はすでに深夜に近い。
この時間からホテルを探すのは現実的ではない。
息子に連絡するしかない。
瑛太の顔が脳裏をよぎり、雄一は小さく息を吐いた。
そのときだった。
「すみませんっ」
切羽詰まった女性の声が、騒然とした空気の中に響いた。
聞き覚えのある声だった。
まさか、と思って振り向く。
視界の先で、一人の女性がこちらを見つけ、駆け寄ってくる。
街灯の下で、その顔を認識した瞬間、雄一はわずかに目を見開いた。
「雄一さんっっ!」
息子の嫁、桜だった。
「ニュースで、それに、サイレンも聞こえて、場所を確認したら、ここだったので」
桜の顔は青ざめていた。
炎に照らされて、血の気が引いているのがはっきり分かる。
「怪我は、大丈夫ですか」
「今日は夕方から出かけていてね。無事だったよ」
そう答えると、桜はようやく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が、目に見えて抜ける。
「帰りましょう。瑛太さんにも連絡しました」
「あいつは仕事か」
桜は小さく頷いた。
「今夜は遅くなるって、もしかしたら、泊まりになるかもって」
相変わらず仕事ばかりだな、と雄一は思った。
だが、その感想を口にすることはなかった。
翌朝、火事の原因はタバコの不始末ではないか、というニュースが流れていた。
雄一はそれを聞きながら、アパートの住人の顔を思い出していた。
ヘビースモーカーの男、過去に二度、ボヤを出している。
建物も古く、立て直しの話が出ていたこともある。
この際、別の住まいを探すべきだろう。
そう考えていた矢先だった。
「父さん、どうせなら、一緒に住もう」
瑛太の言葉に、雄一は思わず顔を上げた。
「いや、おまえたち夫婦の生活があるだろう」
結婚して三年。
そんな二人の家に、父親が同居するなど、考えたこともなかった。
「桜も同意してくれてる」
瑛太は、あっさりと言った。
「それに、俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は、一瞬、言葉を失った。
「俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
予想していなかった、というより、考えたことすらなかった言葉だった。
「理由を聞いてもいいのか」
慎重に問い返すと、瑛太は肩をすくめるようにして答えた。
「深い理由じゃないよ。今は何かと大変だろ」
そう言ってから、続ける。
「物価も上がってるし。俺の給料だって無限じゃない。桜も、ネットで小遣い稼ぎみたいなことはしてるけどさ」
淡々とした口調だった。
まるで、家電の買い替えでも話すような軽さで。
確かに、出産、育児、教育費。
現実を考えれば、楽な話ではない。
雄一自身、それを否定できる立場ではなかった。
だから、それ以上は踏み込まなかった。
「それに、部屋だって余ってるし」
瑛太はそう言って、気にするなというように笑った。
その笑顔を見ながら、雄一は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えていた。
理由が薄いわけではない。
だが、何かが決定的に語られていない、そんな感覚だけが、静かに残った。
「この部屋を使ってください」
そう言われて、雄一は一瞬、返事を忘れた。
息子の家に同居することを決めてから、慌ただしい数日が過ぎていた。
火事で濡れたアパートの家具は、ほとんどが使い物にならなかった。
着替えだけでは足りない。
暖房器具、寝具、ラグマット――生活に必要なものは、想像以上に多い。
それらを揃えるため、桜と二人で買い出しに出かけた。
息子の嫁と並んで歩くのは、結婚の挨拶以来だったかもしれない。
そう思うと、少しだけ居心地の悪さを覚える。
「雄一さん、足りないものがあったら言ってください」
桜はカートを押しながら、声をかけてくる。
「あと、食べ物の好き嫌いも教えてください」
気遣いに、計算は感じられなかった。
義理だから仕方なく、という様子でもない。
夫の父親の世話など、負担に感じても不思議ではない。
だが桜は、どこか楽しそうに動き回っている。
「雄一さんのドラマ、私、見てます」
唐突な一言だった。
雄一は思わず足を止めそうになる。
義父の仕事に興味を示す、それを特別とも思っていない顔だ、普通の家庭なら、ありえない。
雄一はそう思った。
彼女の視線には、煩わしさも、距離を置こうとする警戒もなかった。
そこにあるのは、ただ一人の人間として向けられる、まっすぐな関心だった。
その日、雄一は久しぶりに友人と会っていた。
仕事関係ではない、古い付き合いの相手だった。
「火事に遭ったんだってな。大変だったろ」
グラスを置きながら、友人が言う。
「それで、息子の家に同居か。大丈夫なのか?」
「ああ、今のところはな」
雄一は曖昧に頷いた。
「よくしてもらっている」
その返事に、友人はわずかに目を見開いた。
「そうか」
短くそう言ってから、間を置く。
「理由を聞いたら、まずいか?」
息子夫婦の家に同郷なんて、最近はあまり聞かないだろうと言われて確かにと思った。
「子供を作るつもりはないらしい。部屋も余っているし、問題ないって」
「ああ、そういうことか」
友人は納得したように頷いた。
「今は多いぞ。子供を持たない夫婦。金もかかるし、覚悟もいる」
「そうなのか」
「現実は厳しいからな」
会話はいったん途切れた。
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。
「あのな」
友人が声を落とした。
「実は、今日呼び出したのは、それだけじゃない」
「俺を心配してくれたんじゃないのか」
それもある、と友人は言った。
だが、その表情はどこか曇っている。
「お前の息子のことだ。瑛太」
雄一は、言葉を待った。
友人は声を落とし、言葉を選ぶように一度間を置いた。
「浮気、してないか」
雄一は、すぐに返事ができなかった。
喉の奥が、わずかに詰まる。
「気のせいかもしれない」
友人は慌てて続けた。
「勘違いってこともあるしな」
だが、雄一は知っていた。
友人が根拠のない冗談を口にする性格ではないことを。
「もしかして、見たのか」
問いかける声は、思った以上に低くなった。
友人は、ゆっくりと頷いた。
「女と一緒に歩いていた」
短く、それだけを言う。
「仕事関係、って雰囲気じゃなかった。少なくとも、俺にはそう見えた」
それ以上、友人は何も付け加えなかった。
言葉を重ねれば、断定になってしまうことを分かっているようだった。
雄一は、黙ってグラスを見つめた。
確信している。
そう思ったのは、友人の態度そのものだった。
断言しない慎重さが、逆に事実味を帯びている。
瑛太の顔が脳裏に浮かぶ、仕事だと言って遅くなる夜、軽く笑顔が。
そして妻の桜の笑顔が浮かんだ。
息子、瑛太が浮気をしているかもしれない。
その可能性を、雄一ははっきりと否定できずにいた。
友人の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
確信はない。
桜は、知っているのだろうか。
いや、気づいている様子はなかった。
少なくとも、雄一の目にはそう映る。
ここ数日、桜は忙しそうに動き回っていた。
自分の世話に、時間を割いている。
「雄一さん、パソコン、デスクトップ、買いましょう。仕事に必要でしょう?」
笑いながら、そう言った顔を思い出す。
話すべきなのか、いや、そんなことは、できない。
雄一は公園のベンチに腰を下ろし、
答えの出ない思考に身を委ねていた。
平日の昼間、人影はまばらだった。
そのときだった。
「隣、いいですか」
低く、落ち着いた女性の声。
不意を突かれ、雄一は顔を上げた。
声の主は、すでにベンチの端に立っていた。
短く整えられた髪。
中性的な服装。
年齢は、はっきりとは分からない。
戸惑う雄一に、女性は視線を合わせたまま、静かに言った。
「瑛太さんの父、雄一さんですよね」
名を呼ばれて驚いた。
何故、自分を知っている。
どうして、今、ここで。
「失礼ですが」
女性は一度、言葉を切る。
「少しだけ、お話ししたいことがあるんです」
午後の公園、空気は乾いて澄んでいるのに、隣に座った女の存在だけが、周囲から温度を奪っていくようだった。
サングラスをかけた女の表情は読めなかった。だが、口元だけはわずかに動いた。
「あなたの息子、相変わらずですね」
冷たい、いや、違う、むしろ何も感じていない、そんな無の響きだ。
「結婚して妻がいるのに、昔と何も変わっていない」
耳に届いたその言葉が、現実なのか、すぐには判断できなかった。
だが、心の奥が妙にざわつく。理性が、直感を追いかけている。
「あなたは、瑛太を知っているのか」
絞り出すように尋ねると、女はゆっくりと頷いた。
「あなたに、見せたいものがあるんです」
女の手がゆっくりとバッグへと伸びた。
慎重で、ためらいのない動き。
中から取り出されたのは、一枚の茶封筒だった。
「これを見て、決心がついたら、連絡してください」
何の決心なのか、すぐには理解できなかった。
「持ち帰っては駄目です。奥さんには見せないで、すぐに処分してください」
女はそれだけ告げると、静かに立ち上がった。
サングラスの奥の視線は終始読めず、ただ、彼女の声だけが妙に現実味を持って胸に残った。
ゆっくりとした足取りで去っていく姿が完全に見えなくなるまで、雄一は動けなかった。
取り残されたベンチの上で、茶封筒だけが不気味な存在感を放っている。
震える指先で封を切った。
中から出てきたのは、数枚の写真だった。
一枚目を見た瞬間、雄一は息を飲んだ。
そこには瑛太が映っていた。
桜ではない若い女と、親しげに腕を組んで歩いている。
恋人のように、自然に、笑って。
もう一枚、さらにもう一枚。
写っている女性は、どれも違った。
時間、場所、服装。
偶然ではない。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
雄一は写真の隅に印字された日付に目を落とした。
指先の震えが止まらなかった。
結婚直後。
その翌月。
最近。
喉の奥が締めつけられるように痛んだ。
「結婚したときから、ずっと、裏切っていたのか」
声が、かすかに漏れた。
桜の笑顔が脳裏に浮かぶ。
無邪気で、優しく、夫を信じて疑わない顔。
怒りでも、哀しみでもなかった。
もっと静かで、逃げ場のない感情だった。
理解。
息子は、最初から桜を裏切っていた。
その事実だけが、乾いた冬の空気の中で、妙に鮮明だった。
写真を持ち帰るわけにはいかない。
雄一は、処分の方法をいくつも思い浮かべた。
ゴミ箱など論外だ、燃やすのも、今の時代では目立ちすぎる。
図書館、役所、コピー機のそばに置かれている、機密文書ボックスを思い出した。
投入口から落ちた紙は二度と取り出せない。
中身を確認されることもない、確実に処分できる。
写真のうち、一番新しいものだけをスマホで撮影した。
証拠として残すためだ。
それ以外はすべて、封筒ごと細かく折り、ジャケットの内ポケットに押し込む。
封筒の底に、小さな紙片が残っていた。
連絡先の番号、「A子」という名前。
スマホに登録し、紙片も細かくちぎった。
女が言った通り、持ち帰る必要はない。
むしろ、存在してはならない。
決断はもう終わっていた。
後は、自分がどう動くかだけだ。
その夜、夕食を終えたあと、雄一は「散歩してくる」とだけ告げて家を出た。
夜風は冷たく、吐く息さえ白い。
電話の内容を、桜に聞かせるわけにはいかなかった。
スマホの呼び出し音が一度鳴っただけで、相手は出た。
「待っていました」
A子の声は静かだった。
自分がかけてくるのを最初から知っていたように。
「君は、何をするつもりだ」
雄一は低い声で問いかけた。
「少し間を置いて、A子は淡々とした口調で返してくる。
「まず聞きたいんですけど……写真、合成だとか偽造だとか、そうは思わなかったんですか?」
夜道に、彼女の問いだけが響いた。
雄一は、言葉を探した。
だが、喉の奥で何かが固まって、うまく動かない。
沈黙。
それが、答えになってしまっていた。
「父親なのに、認めるんですか」
A子の声は静かだったが、その静けさが逆に鋭く胸に刺さった。
雄一は、何も言わなかった。
否定も、肯定もできなかった。
「あなたの息子に復讐したい、協力者を集めています」
その言葉に、雄一は小さく眉を動かした。
自分以外にも、声をかけている者がいるというのか。
「淳一という男性、知っていますか。瑛太さんの大学時代の友人です。彼は、私のことも知っています」
雄一は、思わず歩みを止めた。
胸の奥に、鈍い衝撃が広がる。
淳一、名前だけは聞いたことがある。
だが、その男が彼女の過去を知っているという事実が、重くのしかかる。
A子は続けた。
「でも、復讐の前に……大事なことがあります」
「なんだ」
息を整えて尋ねた。
わずかに声が掠れたのが、自分でもわかった。
「桜さんのことです」
その名前が出た瞬間、雄一の胸が静かに、だが確かに揺れた。
「彼女を不幸にはしたくない。私みたいな人間を増やしてはいけないんです」
夜気の中で、A子の言葉だけが鮮やかに響いた。
雄一は驚きを隠せなかった。
復讐を口にする女が、桜の幸せを案じている。
そこに、憎しみだけでは割り切れない“別の感情”が混ざっていることが、雄一には分かった。
「桜を、幸せに?」
「彼女を幸せにして、そのうえで瑛太に復讐するんです。
同時に、です」
あまりに矛盾した宣言に、雄一の呼吸が一瞬止まった。
幸せにする。
復讐する。
両立しないはずの言葉が、彼女の口から平然と並べられている。
だが、不思議と嘘には聞こえなかった。
胸の奥で、何かが音を立てて動き始める。
驚き、戸惑い、説明できない、別の感情。
このとき、雄一は電話の向こうの女性を敵とも他人とも思えなくなっていた。
アパートの住人たちは皆、外に追い出され、言葉もなく立ち尽くしている。
夜気は本来なら冷たいはずなのに、立ち上る煙と炎の熱で、肌にまとわりつく空気は生ぬるかった。
消防車が到着し、赤色灯が闇を切り裂く。
放水の音を聞きながら、雄一は焼けた自分の部屋の中を思い浮かべていた。
仕事用のデスクトップパソコンは、もう使い物にならないだろう。
だが、脚本のデータはノートパソコンに保存してある。
次回作の原稿も、プロットも。
それだけは失われていない――そう思うことで、かろうじて現実を受け止めていた。
問題は、今夜の寝場所だった。
時刻はすでに深夜に近い。
この時間からホテルを探すのは現実的ではない。
息子に連絡するしかない。
瑛太の顔が脳裏をよぎり、雄一は小さく息を吐いた。
そのときだった。
「すみませんっ」
切羽詰まった女性の声が、騒然とした空気の中に響いた。
聞き覚えのある声だった。
まさか、と思って振り向く。
視界の先で、一人の女性がこちらを見つけ、駆け寄ってくる。
街灯の下で、その顔を認識した瞬間、雄一はわずかに目を見開いた。
「雄一さんっっ!」
息子の嫁、桜だった。
「ニュースで、それに、サイレンも聞こえて、場所を確認したら、ここだったので」
桜の顔は青ざめていた。
炎に照らされて、血の気が引いているのがはっきり分かる。
「怪我は、大丈夫ですか」
「今日は夕方から出かけていてね。無事だったよ」
そう答えると、桜はようやく息を吐いた。
張り詰めていた肩の力が、目に見えて抜ける。
「帰りましょう。瑛太さんにも連絡しました」
「あいつは仕事か」
桜は小さく頷いた。
「今夜は遅くなるって、もしかしたら、泊まりになるかもって」
相変わらず仕事ばかりだな、と雄一は思った。
だが、その感想を口にすることはなかった。
翌朝、火事の原因はタバコの不始末ではないか、というニュースが流れていた。
雄一はそれを聞きながら、アパートの住人の顔を思い出していた。
ヘビースモーカーの男、過去に二度、ボヤを出している。
建物も古く、立て直しの話が出ていたこともある。
この際、別の住まいを探すべきだろう。
そう考えていた矢先だった。
「父さん、どうせなら、一緒に住もう」
瑛太の言葉に、雄一は思わず顔を上げた。
「いや、おまえたち夫婦の生活があるだろう」
結婚して三年。
そんな二人の家に、父親が同居するなど、考えたこともなかった。
「桜も同意してくれてる」
瑛太は、あっさりと言った。
「それに、俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は、一瞬、言葉を失った。
「俺たち、子供は作らないつもりだから」
雄一は一瞬、言葉の意味を測りかねた。
予想していなかった、というより、考えたことすらなかった言葉だった。
「理由を聞いてもいいのか」
慎重に問い返すと、瑛太は肩をすくめるようにして答えた。
「深い理由じゃないよ。今は何かと大変だろ」
そう言ってから、続ける。
「物価も上がってるし。俺の給料だって無限じゃない。桜も、ネットで小遣い稼ぎみたいなことはしてるけどさ」
淡々とした口調だった。
まるで、家電の買い替えでも話すような軽さで。
確かに、出産、育児、教育費。
現実を考えれば、楽な話ではない。
雄一自身、それを否定できる立場ではなかった。
だから、それ以上は踏み込まなかった。
「それに、部屋だって余ってるし」
瑛太はそう言って、気にするなというように笑った。
その笑顔を見ながら、雄一は胸の奥に、小さな引っかかりを覚えていた。
理由が薄いわけではない。
だが、何かが決定的に語られていない、そんな感覚だけが、静かに残った。
「この部屋を使ってください」
そう言われて、雄一は一瞬、返事を忘れた。
息子の家に同居することを決めてから、慌ただしい数日が過ぎていた。
火事で濡れたアパートの家具は、ほとんどが使い物にならなかった。
着替えだけでは足りない。
暖房器具、寝具、ラグマット――生活に必要なものは、想像以上に多い。
それらを揃えるため、桜と二人で買い出しに出かけた。
息子の嫁と並んで歩くのは、結婚の挨拶以来だったかもしれない。
そう思うと、少しだけ居心地の悪さを覚える。
「雄一さん、足りないものがあったら言ってください」
桜はカートを押しながら、声をかけてくる。
「あと、食べ物の好き嫌いも教えてください」
気遣いに、計算は感じられなかった。
義理だから仕方なく、という様子でもない。
夫の父親の世話など、負担に感じても不思議ではない。
だが桜は、どこか楽しそうに動き回っている。
「雄一さんのドラマ、私、見てます」
唐突な一言だった。
雄一は思わず足を止めそうになる。
義父の仕事に興味を示す、それを特別とも思っていない顔だ、普通の家庭なら、ありえない。
雄一はそう思った。
彼女の視線には、煩わしさも、距離を置こうとする警戒もなかった。
そこにあるのは、ただ一人の人間として向けられる、まっすぐな関心だった。
その日、雄一は久しぶりに友人と会っていた。
仕事関係ではない、古い付き合いの相手だった。
「火事に遭ったんだってな。大変だったろ」
グラスを置きながら、友人が言う。
「それで、息子の家に同居か。大丈夫なのか?」
「ああ、今のところはな」
雄一は曖昧に頷いた。
「よくしてもらっている」
その返事に、友人はわずかに目を見開いた。
「そうか」
短くそう言ってから、間を置く。
「理由を聞いたら、まずいか?」
息子夫婦の家に同郷なんて、最近はあまり聞かないだろうと言われて確かにと思った。
「子供を作るつもりはないらしい。部屋も余っているし、問題ないって」
「ああ、そういうことか」
友人は納得したように頷いた。
「今は多いぞ。子供を持たない夫婦。金もかかるし、覚悟もいる」
「そうなのか」
「現実は厳しいからな」
会話はいったん途切れた。
グラスの中で、氷が小さく音を立てる。
「あのな」
友人が声を落とした。
「実は、今日呼び出したのは、それだけじゃない」
「俺を心配してくれたんじゃないのか」
それもある、と友人は言った。
だが、その表情はどこか曇っている。
「お前の息子のことだ。瑛太」
雄一は、言葉を待った。
友人は声を落とし、言葉を選ぶように一度間を置いた。
「浮気、してないか」
雄一は、すぐに返事ができなかった。
喉の奥が、わずかに詰まる。
「気のせいかもしれない」
友人は慌てて続けた。
「勘違いってこともあるしな」
だが、雄一は知っていた。
友人が根拠のない冗談を口にする性格ではないことを。
「もしかして、見たのか」
問いかける声は、思った以上に低くなった。
友人は、ゆっくりと頷いた。
「女と一緒に歩いていた」
短く、それだけを言う。
「仕事関係、って雰囲気じゃなかった。少なくとも、俺にはそう見えた」
それ以上、友人は何も付け加えなかった。
言葉を重ねれば、断定になってしまうことを分かっているようだった。
雄一は、黙ってグラスを見つめた。
確信している。
そう思ったのは、友人の態度そのものだった。
断言しない慎重さが、逆に事実味を帯びている。
瑛太の顔が脳裏に浮かぶ、仕事だと言って遅くなる夜、軽く笑顔が。
そして妻の桜の笑顔が浮かんだ。
息子、瑛太が浮気をしているかもしれない。
その可能性を、雄一ははっきりと否定できずにいた。
友人の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
確信はない。
桜は、知っているのだろうか。
いや、気づいている様子はなかった。
少なくとも、雄一の目にはそう映る。
ここ数日、桜は忙しそうに動き回っていた。
自分の世話に、時間を割いている。
「雄一さん、パソコン、デスクトップ、買いましょう。仕事に必要でしょう?」
笑いながら、そう言った顔を思い出す。
話すべきなのか、いや、そんなことは、できない。
雄一は公園のベンチに腰を下ろし、
答えの出ない思考に身を委ねていた。
平日の昼間、人影はまばらだった。
そのときだった。
「隣、いいですか」
低く、落ち着いた女性の声。
不意を突かれ、雄一は顔を上げた。
声の主は、すでにベンチの端に立っていた。
短く整えられた髪。
中性的な服装。
年齢は、はっきりとは分からない。
戸惑う雄一に、女性は視線を合わせたまま、静かに言った。
「瑛太さんの父、雄一さんですよね」
名を呼ばれて驚いた。
何故、自分を知っている。
どうして、今、ここで。
「失礼ですが」
女性は一度、言葉を切る。
「少しだけ、お話ししたいことがあるんです」
午後の公園、空気は乾いて澄んでいるのに、隣に座った女の存在だけが、周囲から温度を奪っていくようだった。
サングラスをかけた女の表情は読めなかった。だが、口元だけはわずかに動いた。
「あなたの息子、相変わらずですね」
冷たい、いや、違う、むしろ何も感じていない、そんな無の響きだ。
「結婚して妻がいるのに、昔と何も変わっていない」
耳に届いたその言葉が、現実なのか、すぐには判断できなかった。
だが、心の奥が妙にざわつく。理性が、直感を追いかけている。
「あなたは、瑛太を知っているのか」
絞り出すように尋ねると、女はゆっくりと頷いた。
「あなたに、見せたいものがあるんです」
女の手がゆっくりとバッグへと伸びた。
慎重で、ためらいのない動き。
中から取り出されたのは、一枚の茶封筒だった。
「これを見て、決心がついたら、連絡してください」
何の決心なのか、すぐには理解できなかった。
「持ち帰っては駄目です。奥さんには見せないで、すぐに処分してください」
女はそれだけ告げると、静かに立ち上がった。
サングラスの奥の視線は終始読めず、ただ、彼女の声だけが妙に現実味を持って胸に残った。
ゆっくりとした足取りで去っていく姿が完全に見えなくなるまで、雄一は動けなかった。
取り残されたベンチの上で、茶封筒だけが不気味な存在感を放っている。
震える指先で封を切った。
中から出てきたのは、数枚の写真だった。
一枚目を見た瞬間、雄一は息を飲んだ。
そこには瑛太が映っていた。
桜ではない若い女と、親しげに腕を組んで歩いている。
恋人のように、自然に、笑って。
もう一枚、さらにもう一枚。
写っている女性は、どれも違った。
時間、場所、服装。
偶然ではない。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
雄一は写真の隅に印字された日付に目を落とした。
指先の震えが止まらなかった。
結婚直後。
その翌月。
最近。
喉の奥が締めつけられるように痛んだ。
「結婚したときから、ずっと、裏切っていたのか」
声が、かすかに漏れた。
桜の笑顔が脳裏に浮かぶ。
無邪気で、優しく、夫を信じて疑わない顔。
怒りでも、哀しみでもなかった。
もっと静かで、逃げ場のない感情だった。
理解。
息子は、最初から桜を裏切っていた。
その事実だけが、乾いた冬の空気の中で、妙に鮮明だった。
写真を持ち帰るわけにはいかない。
雄一は、処分の方法をいくつも思い浮かべた。
ゴミ箱など論外だ、燃やすのも、今の時代では目立ちすぎる。
図書館、役所、コピー機のそばに置かれている、機密文書ボックスを思い出した。
投入口から落ちた紙は二度と取り出せない。
中身を確認されることもない、確実に処分できる。
写真のうち、一番新しいものだけをスマホで撮影した。
証拠として残すためだ。
それ以外はすべて、封筒ごと細かく折り、ジャケットの内ポケットに押し込む。
封筒の底に、小さな紙片が残っていた。
連絡先の番号、「A子」という名前。
スマホに登録し、紙片も細かくちぎった。
女が言った通り、持ち帰る必要はない。
むしろ、存在してはならない。
決断はもう終わっていた。
後は、自分がどう動くかだけだ。
その夜、夕食を終えたあと、雄一は「散歩してくる」とだけ告げて家を出た。
夜風は冷たく、吐く息さえ白い。
電話の内容を、桜に聞かせるわけにはいかなかった。
スマホの呼び出し音が一度鳴っただけで、相手は出た。
「待っていました」
A子の声は静かだった。
自分がかけてくるのを最初から知っていたように。
「君は、何をするつもりだ」
雄一は低い声で問いかけた。
「少し間を置いて、A子は淡々とした口調で返してくる。
「まず聞きたいんですけど……写真、合成だとか偽造だとか、そうは思わなかったんですか?」
夜道に、彼女の問いだけが響いた。
雄一は、言葉を探した。
だが、喉の奥で何かが固まって、うまく動かない。
沈黙。
それが、答えになってしまっていた。
「父親なのに、認めるんですか」
A子の声は静かだったが、その静けさが逆に鋭く胸に刺さった。
雄一は、何も言わなかった。
否定も、肯定もできなかった。
「あなたの息子に復讐したい、協力者を集めています」
その言葉に、雄一は小さく眉を動かした。
自分以外にも、声をかけている者がいるというのか。
「淳一という男性、知っていますか。瑛太さんの大学時代の友人です。彼は、私のことも知っています」
雄一は、思わず歩みを止めた。
胸の奥に、鈍い衝撃が広がる。
淳一、名前だけは聞いたことがある。
だが、その男が彼女の過去を知っているという事実が、重くのしかかる。
A子は続けた。
「でも、復讐の前に……大事なことがあります」
「なんだ」
息を整えて尋ねた。
わずかに声が掠れたのが、自分でもわかった。
「桜さんのことです」
その名前が出た瞬間、雄一の胸が静かに、だが確かに揺れた。
「彼女を不幸にはしたくない。私みたいな人間を増やしてはいけないんです」
夜気の中で、A子の言葉だけが鮮やかに響いた。
雄一は驚きを隠せなかった。
復讐を口にする女が、桜の幸せを案じている。
そこに、憎しみだけでは割り切れない“別の感情”が混ざっていることが、雄一には分かった。
「桜を、幸せに?」
「彼女を幸せにして、そのうえで瑛太に復讐するんです。
同時に、です」
あまりに矛盾した宣言に、雄一の呼吸が一瞬止まった。
幸せにする。
復讐する。
両立しないはずの言葉が、彼女の口から平然と並べられている。
だが、不思議と嘘には聞こえなかった。
胸の奥で、何かが音を立てて動き始める。
驚き、戸惑い、説明できない、別の感情。
このとき、雄一は電話の向こうの女性を敵とも他人とも思えなくなっていた。
0
あなたにおすすめの小説
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
地味な私を捨てた元婚約者にざまぁ返し!私の才能に惚れたハイスペ社長にスカウトされ溺愛されてます
久遠翠
恋愛
「君は、可愛げがない。いつも数字しか見ていないじゃないか」
大手商社に勤める地味なOL・相沢美月は、エリートの婚約者・高遠彰から突然婚約破棄を告げられる。
彼の心変わりと社内での孤立に傷つき、退職を選んだ美月。
しかし、彼らは知らなかった。彼女には、IT業界で“K”という名で知られる伝説的なデータアナリストという、もう一つの顔があったことを。
失意の中、足を運んだ交流会で美月が出会ったのは、急成長中のIT企業「ホライゾン・テクノロジーズ」の若き社長・一条蓮。
彼女が何気なく口にした市場分析の鋭さに衝撃を受けた蓮は、すぐさま彼女を破格の条件でスカウトする。
「君のその目で、俺と未来を見てほしい」──。
蓮の情熱に心を動かされ、新たな一歩を踏み出した美月は、その才能を遺憾なく発揮していく。
地味なOLから、誰もが注目するキャリアウーマンへ。
そして、仕事のパートナーである蓮の、真っ直ぐで誠実な愛情に、凍てついていた心は次第に溶かされていく。
これは、才能というガラスの靴を見出された、一人の女性のシンデレラストーリー。
数字の奥に隠された真実を見抜く彼女が、本当の愛と幸せを掴むまでの、最高にドラマチックな逆転ラブストーリー。
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる