恋が落ちる時

八月一日

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あと一歩の距離

三浦太一の場合

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 カキーン


ツーアウト、ランナー一塁二塁。1点差で迎えた9回裏。
敵も見方も、たまたま居合わせただけの人も、固唾を飲んで見守る、そんな場面。

ピッチャーから放たれた豪速球は、キャッチャーのミットではなくバッターの振るったバットに押し返され、ピッチャーの後ろに広がる夏の空へと勢い良く消えて行った。

アルプススタンドからは吹奏楽部が鳴らすファンファーレが響き、歓声と解説者の興奮がそれに呼応して、テレビ前の観客を賑わせているのだろう。
本塁打を放ったランナーが溢れんばかりの笑顔で、ホームベースに戻る姿をカメラが追う。
片手を高らかに挙げた本日のヒーローがそこに帰還した時、ベンチから選手がわっと駆けて来て、喜びを分かちあった。

マウンドに立ち尽くして、そんな彼らをぼんやりと眺める。
頭上のギラついた太陽が影を落とし、どこからか落ちた雫が、そこに更に濃い染みを作った。

俺たちの夏は、こうして終わった


とは言え、本当の夏はもう少し続く。
試合には負けたが、勝負はまだ続いているのだ。


「先輩、また来たんですか」

久保田が洗濯物で溢れ返ったカゴを抱え直した。
あまり表情をくずさない彼女は、周囲からはいつでも少し不機嫌そうに見られている。

「なんか習慣がね~」

へらっと笑いながら、大股で彼女に近づいた。
悪天候の日以外は一緒に野外にいたはずなのに、久保田の腕は初めて会った頃から変わらず真っ白だ。その細く白い腕から洗濯カゴを奪い取る。

「そんなんだと浪人どころか留年しますよ」

いつか彼女に打ち明けた青臭い夢を、彼女は忘れずにいてくれた。
部活を引退してからも少し時間があれば顔を出してマネの仕事を奪ったり、後輩に喝を入れたりしている俺を見て、彼女なりに心配してくれているのだ。ちなみに後輩にはそこそこ好かれているので、迷惑がられてはいない。と、思いたい。
分かり辛い思いやりに、思わず顔がにやけそうになる。

「久保田に心配されるほど、俺頭悪くねーよ」

照れくささを隠すため、つっけんどんな態度をとってしまう自分に、毎度のことながらげんなりしてしまう。
仕方がない。こちとら健全な男子高校生なのだ。この歳で好きな女の子にそう簡単に優しくできるような奴は、きっと多くないだろう。

有無を言わさなないように歩き出した俺に、言い争う事に懲りた彼女は雛鳥のように大人しく後を追ってきた。

可愛い

隣を歩くため、歩幅に気をつけて歩く。
視界の端に、彼女の襟足付近で結んでいる短い髪がひょこひょこ跳ねるのが写った。

…可愛い。

いつからこんなに意識するようになったのだろう。最初はただ、細くて白い子という印象しか無かったはずなのに。

「三浦先輩?どこまで行くんですか」

「え?」

彼女に見とれないようにと、最大限の理性を総動員して一心に前を見ていたら、洗濯場を通り過ぎていたことに気が付かなかった。とはいえ彼女の歩幅で3歩位の距離だ。

「何やってるんですか」

一足飛びで近寄れそうな距離にいる彼女が、楽しそうに笑った。

        *

「将来のこと、ちゃんと真剣に考えてるのか」

右からお兄さん、おじさんひとつ飛ばさずにおじいさんの3人に、何故か圧迫面接のように詰め寄られている。

「真剣に考えているからこそ、練習量を減らしたいんです。なんなら退部したいです」

真ん中に座る、ジャージを着こなし真っ黒に日焼けした巨漢は、野球部の顧問である。
最近何かと部活を休むようになったことを言いたいのだろう。

「お前は、今年から野球部のエースだ。うちの野球部はお前がいないと戦えない訳では無いが、お前がいるからこその強さは確実にある。利道とのバッテリーも固い。必要な選手なんだ」
「ですが、勉強が疎かになるのは困ります。自分の将来のために、今は学生の本分を取り戻したいと思って何が悪いんですか」

こちらが折れるまでいつまでも水掛け論を続ける構えの顧問に、俺の言い方にも険が混じる。
俺だって完全に辞めるのは本意ではない。だが、3年に上がって最初の実力テストが思ったよりも奮わなかったことに、焦っていたのだ。
そのやり取りに顧問の右に座った、まだ若い担任はどうしようと肩を竦めているし、進路担当のじじいは口も挟まず悠然としている。物見遊山気分ならもう帰って欲しい。

「三浦、俺はお前がプロに入れる資質を持っていると思ってる。これからの球界を牽引していけるんじゃないかと本気で期待してるんだ」

顧問の瞳と声に、乞うような気色が帯びる。
…気色悪ぃ
なんでも自分の教え子からプロを出すのが、積年の夢なんだそうだ。ここに来てようやく念願を果たせそうなチャンスが巡ってきたのを、どうにか逃すまいと必死になっている。

「俺の夢は、日本のプロ野球選手でも大リーガーでもなく、医者になることです」

そのために、めちゃくちゃ勉強して県内随一の特進クラスを有する進学校に入った。
今でもめちゃくちゃ勉強して、その傍らで部活もして、でも特進クラス在籍を維持したのだ。
高校教師なら、俺の頑張りを認めるべきである。

野球は好きだ。
体を動かすのが好きだった俺は、小学校の低学年で地元の野球クラブに入団した。
クラブでも、中学の部活でも、レギュラーで先発投手を任されたほど、自分で言うのもなんだが野球は上手い方だと思う。

しかし、最近プロや大学のスカウトの人が覗きに来ているのは榎と水田だろう。俺より野球が上手い奴なんて、強豪校といわれるこの学校にはゴロゴロいるのだ。

野球選手になりたいと、俺は本気で思ったことがない。

医者を目指す切っ掛けになったのは、野球を始めるもっと前の、幼稚園に入園してすぐの出来事にある。

俺は入園式の日、人生初の緊急入院を果たした。

その日、祖母と母が張り切って、豪勢な入園祝いの料理を作ってくれた。その中で一際美味しそうに見えた、大きなエビフライにかぶりつき、いきなり倒れたのだそうだ。

俺は、甲殻類が食べられなかった。

その後すぐ、日頃見かける度にピーポーピーポーと指差しては興奮していたかっこいい乗り物に乗り込み、病院へと搬送された。らしい。

一時は危ない状態だったのだが、先生方の処置が良かったのだろう。入院期間はさほど長くならなかった。生涯悩まされるような後遺症も発現せず、俺は今でも元気にグラウンドを走り回ることが出来ている。

そんな経験と、野球をやるようになって友達に致命的な故障をした奴が出て、スポーツ医学を学び整形外科医になりたいと思い始めたのだ。


「本気で部活に打ち込みながら医学部を目指すのは、確かに容易ではありませんねぇ」

それまで黙していた進路指導の中村先生がゆっくりと口を開いた。
狸爺とあだ名されるだけあって、どちらに味方すれば得か、皮算用でもしていたのかもしれない。

「三浦くん。志望大学はどこでしたっけ」
「…K大です。前の模試ではC判定でした」

そうですかと狸は大きく頷いた。

「部活は続けなさい。もっとも、うちの学校は文を尊び武を重んずることを校訓に掲げているのですから、部活は必修です。」

そして、と言葉を継いで、今度は顧問の方へ向き直る。

「岸先生。我が校からプロ野球選手を輩出できるとすれば、それはとても誉なことです。ですが、医学生になってくれるのも、それと同じくらい喜ばしいことですよ」

丸メガネの奥の、細い瞳がきらりと不穏に光る。

「これは三浦くんに限らずですが、勉強と部活をきちんと両立できるよう監督するのが、顧問の務めです。教師の名に恥じない行いをなさい」

中村先生の一喝に、顧問が小さくなって力なく返事を返し、担任は肩の荷がおりたとばかりに分かりやすく安堵の息を吐いた。
どちらかと言うと、生徒の肩を持ったように見えるが、結局のところどっちでも構わないが卒業と同時にしろ、という圧力であると感じた。
どこまでも食えない狸爺である。

塩をかけられたナメクジのようになっている顧問は、練習時間を見直して朝と休日練については部員を交代制にする事を約束してくれた。
休日などは試合形式や、他校との練習試合も多い。溢れた部員は応援しているか、空いたスペースでキャッチボールやピッチング練習をしているかになっているので、その方がいいと強く頷く。

「さぁ、話が纏まったなら早く部活へ行きなさい」

さっさと出て行けとばかりに、中村先生が解散を宣言した。

「三浦、」

指導室を出て直ぐに、岸に呼び止められた。

「…悪かった。でも本当に、今の部はお前を必要としている。一日練習しないと腕が落ちるとは言わないが、できるだけ部に来て欲しかったんだ」

そう言って、彼は口を噤んだ。
情けなく眉を下げ、20も年下の子どもに、本気で謝っているのが分かった。いかにも担当教科は体育、のように見せて数学教師の彼は、思ったよりも素直なようだ。

「こちらこそ、すみませんでした。これからもご指導をよろしくお願いします。…甲子園は俺も憧れてるんです。去年は連れて行って貰えなかったですから」

去年は地区選抜の準決勝で惜しくも敗退したのだ。折角やるなら、甲子園の土を踏むまで辞められない。
しおしおとしていたの岸先生はその言葉に痛く感激したようだった。水を得たナメクジのようにその体を復活させ、早く着替えてグラウンド来いよ!と足早に去っていった。


男臭い部室で着替えを済ませ、時計を見上げると、軽くアップを終えればちょうどノック練習に間に合うくらいの時間だった。
ノックにはいくつか種類があり、ピッチャーの俺は内野とシートノックの2つにしか参加しない。うちの部では外野、内野、シートノックの順番で行われるので、内野には確実に間に合ってしまう。

行くのめんどくさいな

遅れたことによってサボり心がむくむく育つ。
テーピングしてないし、どこかでマネージャーか誰か捕まえてやってもらおう。見つかるまではちょっと遅れてもしょうがないよな。

そんな言い訳を組み立てて、部室のドアを開けた。

けれどマネージャーは直ぐに見つかった。
とは言え、まだ顔を見なれていない仮入部の1年生だ。こちらは彼女を知っているが、向こうは俺の事なんか分からないだろうなと思いながらも声をかける。

「久保田さん」

後ろから声をかけてしまって、もし間違っていたら恥ずかしいなと保険のように「だっけ、」と付け足した。
彼女はきょろきょろと顔を動かし、声をかけた奴を探している。
こっち、と軽く肩を叩くと、零れそうなほど大きな瞳がこちらに振り返った。

白くて細くて小さくて瞳の大きな彼女は、その腕に給水用のタンクを2つも抱えている。
いつも部員がすぐに飲み干してしまって、もう少し大きいのにしたらいいのに、などと思っていたのだが、彼女が持っているのを見てこれ以上は無理だ、むしろもう少し小さいのは無いのかと180度意見を翻した。

いつも遠目から見ていただけの彼女は、桜色の唇に訝しげな音を乗せた。

「どうかしました?」

その声にハッとして、手に持っていたテーピングテープを彼女に差し出した。

「ちょっとテーピング取れちゃって。巻いてくれない?」
「…いいですよ」

少し逡巡したようだが、彼女は小さく頷いた。

「ありがと。助かる」

手に持っていたタンクは邪魔にならないよう隅の方へ置き、彼女はテープを受け取った。
流れるような動作で端を見つけて、ビッと引き出す。

「何処ですか?」

彼女は俺の右手や左手に視線をさまよわせ、早く差し出せとばかりの雰囲気を出す。
その様子に、驚いた。
引き受けてはくれたが、きっと彼女はそんなことやった事ないだろうと内心決めつけていたのだ。
想像との違いに、逆にこちらが固まってしまっていると、動かない俺に彼女が痺れを切らして顔を上げた。

「いや、ちょっと吃驚した。ごめん」

俺の言に、こんどは彼女が軽く首を傾げて固まった。
ほんの少しだけ眉間が寄っている。

「ほんとごめん。やる気満々というか、テーピングなんかしたことなさそうなのに、何も聞かずにやってくれようとしてるし」

慌てて言い訳をするも、全く上手い言葉が出てこない。そういう時は重ねれば重ねるほど裏目に出る。その事にさらに慌てていると、彼女は花が綻ぶように笑った。

「こっちこそ笑ってごめんなさい。中学の時にバド部だったんで、ちょっとだけですけど知識はあるんです。でもどうやるのか教えてください」

ふふふ、と鈴を転がすような声が脳裏に木霊する。

なんとかテーピングをしてもらって、俺は彼女の持っていたタンクを取り上げ勝手に歩き出した。

この女の子に、こんな物を持たせるのは忍びなく感じたのだ。

いつもは出来ないが、今日は居合わせられたのだからと心の中で自分に言い訳をする。
とは言え話題など浮かばなくて、とりあえず部活のことばかり話してしまった。

「久保田さんも、甲子園行ってみたいって思ったりするの?」

あまり脈絡なく尋ねた問に、彼女は一瞬キョトンとした後、いたずらっぽい光を瞳に湛えて、

「ユキを甲子園へ連れてって?」

と小首を傾げて笑った。




遠くのほうから、カキーンと甲高い音が聞こえた気がした。

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