恋が落ちる時

八月一日

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鼻歌と雨音

矢内千代の場合

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雨の日だけ。

昨日までは湿気で髪がまとまらなくなるし、なぜか頭も痛いし、靴が濡れて気持ち悪いし、雨なんて大っ嫌いだったはずなのに。

明日の雨予報に心が躍る、そんな日が来るなんて。
読みかけの文庫本から目線だけ上げて、彼を探すときの幸福感。

彼はどんな声をしているのだろう。
どんな顔をして笑うのかな。
…好きな人とか、居るのだろうか。

そんなことを考えながら、がたがた揺れるバスの中で吊革に掴まっている彼の黒い学生帽が落とす影を、ただじっと見つめていた。




家の最寄りバス停から学校までは15分くらい。

その日はバケツをひっくりかえしたような大雨だった。

バス、動いてるのかな。
分からないけど、家にいたって仕方ないからとりあえずバス停へ向かってみることにする。

「お母さん、行ってくるね」

「あら、こんな日に行くことないのに」

眉を下げて言う母に、どうしてもバスが来なければ戻ってくると言って、私は家を出た。



傘をさしても、家から数歩行っただけで肩から下が徐々に濡れていく。

持っていたハンカチでその度に抑えるけれどあまり意味はなくって、最後はバス停のその小さな天井の下に逃げ込んだ。
革靴は水を吸っていて、乾いていた地面に足跡を残した。靴下までびしょ濡れになっていて、歩く度にぐちゅぐちゅという嫌な音が響く。

やっぱり母の出してくれた農作業用の長靴を大人しく借りておくんだった。

今朝着た時には明るい色をしていたセーラー服のスカートも、水を含んで色が重たくなっている。
その裾をギュッと掴むと、ダムが決壊するように水が溢れた。

「おぉ」

その様子に、思わず声が漏れる。こんなんじゃ今日は学校へ行けたとしても、明日は風邪をひいて休んでしまう。
よし、帰ろう。
スカートの裾を直そうとしたところでこちらに向かって歩いてくる、学ラン姿の男の子が見えた。

雨にけぶって、顔なんて見えないのに、あれは彼だと私にはわかった。

彼が1歩足を踏み出す度に、行き場を無くして地面に溜まっていた雨水がぴしゃりと跳ね上がっている。
その音が、すぐ側の天井を雨粒が叩く音よりもよっぽど大きく感じた。

そして彼はこちらに辿り着き、大きなこうもり傘を閉じて、ばっさばっさと傘に残った水気を払い落とした。
その様子を私がじっと見ていたものだから、彼がこちらに振り返った時、目が合ってしまうのも当然は当然で。
穴が開くように見ていた気まずさを隠すため視線を逸らしたのも、仕方の無い事だった。

一歩外に出れば雨音が煩く響いているのに、屋根の下には静寂が満ちている。
ずぶ濡れのまま、ベンチに腰掛けることも憚られて、なんとなく二人並んで、ぼんやりと外を見たりしていた。

静寂を破ったのは、彼の方だった。

「学校、みんな来ていますかね」

ポツリと、呟かれるように零されたそれは、私に向かって言われたのか測りかねて、躊躇いつつもそちらを見上げると、こちらを見ている切れ長の黒い瞳にぶつかった。

「汽車は動いてるんでしょうか」

はっきりと、こちらに向けて言われた言葉にけれど私はどう返せばいいかわからなくて、結局俯いてしまう。

そんな自分が情けなくて、カバンの持つ指に自然と力がこもった。
どうしよう。もう、こんな機会無いかもしれないのに。
胸の内が、キシキシと痛む。

彼はそんな私を見て、何やらカバンを漁り始めた。
なかなか目当てのものが見つからないらしく最後はしゃがんで探し出した。

「あぁ、あった。良かった」

ホッとした声を出し、見つけたそれを私に差し出してくる。

「良かったら使ってください」

その手には、中の荷物に潰されて折目が乱れた手ぬぐいが握られていた。

「そのままでは風邪をひいてしまう」

それは彼も一緒なのに、私を心配してくれたのが嬉しかった。
でも受け取るのは忍びなくて、どうしようと彼の顔と手ぬぐいを往復していると「汚くないですよ。今朝、入れたものですから。いや、見た目は汚いけれど」と、ちょっと困ったように眉を下げて笑った。

「…ありがとうございます」

閉じ気味の喉を叱咤して、どうにかお礼の言葉を紡げば、彼は嬉しそうに表情を綻ばせた。
それで肩辺りを拭っていると、彼は少し警戒が解けた仔猫をこのまま手懐けようとするかの如く喋りかけてきた。

「それにしても、よく降りますね」
「そうですね」

同意以外、なにも上手く返せなかった返答。それなのに、彼は私から反応があったことに安心したようだった。

「僕は、この先にある高等学校に通っている、福間栄吉と言います。お名前を聞いても?」

福間、栄吉さん。
ずっと知りたかったそれを、彼の方から教えてくれるなんて思いもしなかった。
感動して、何度もその名前を心の中で繰り返していると、彼が頬をポリポリ搔いた。どうやら猫を手懐けるのに失敗したとでも言うような雰囲気だ。

「や、矢内千代と言います!」

慌てて言ったものだから、叫ぶような不細工な自己紹介になってしまって、そのかっこ悪さに泣きそうになる。

「矢内さん」
「はいぃ!」

彼の顔にまた苦笑いが浮かぶ。

「そんなに、怯えんでください。何も取って食ったりなんかしないですから」

その目が傷ついたように歪んでいる。
その事に、また私の胸が痛んだ。

「ごめんなさい。福間さんが怖いのではなくって、その、なんというか…緊張してしまって」

ずっと遠くから見ていた人と初めて言葉を交わすとき、緊張しない女の子なんてきっと居ない。
普段、どんなに兄と言い合いの喧嘩していようと、好きな人の前では上手く話すことも出来なくなるのが、恋する乙女というものだろう。
むむむと眉を寄せた私に反して、隣の空気はふっと軽くなる。

「そうですか」

目を細めて笑う福間さんは、驚くほどかっこ良かった。

「普段は自転車で学校まで通っているのですが、雨の日は流石に億劫でバスを使うんです」

よく、存じております
心の中だけでそう返して、実際は「そうなんですね」と返事をした。

「どうも、バスに乗っていると気持ち悪くなってしまって。矢内さんはそんなことありませんか」
「私は、大丈夫です。いつも車内では本を読んだりしていて」
「何を読んでおられるのですか」

ほぉと感心したように聞いてくる彼は、もう「はい」か「いいえ」で会話出来る質問をくれそうにない。

「げ、ゲーテです…」
「ゲーテ。詩集ですか」
「は、はい」

顔に熱が昇っていくのが分かる。
ゲーテなんて、先生に勧められるがままに読み始めてしまって、正直面白みなんて分かっていない。

「僕は宮沢賢治が好きなのですが、少々子供っぽいでしょうか」

ちょっと自信なさげな彼が、今度はとっても可愛く見えた。

「いえ、私も賢治は大好きです!」
「そう言って貰えると、なんだか嬉しいですね」

安心したような彼は、しかし私の顔を見てすぐに眉根を寄せた。

「矢内さん、顔が赤くなっていますよ」

バレるほど赤くなっていたなんて
慌てて両頬を覆ったものの、彼は私の体調が悪くなったのだと勘違いをして話を進める。

「バスも来ないようですし、このままでは本当に風邪をひく。矢内さん、良ければ送っていきましょう」
「え?そんな、」
「こんなところに女性を1人残して、自分だけ帰るなんて出来ません。さぁ、早く」

そう言って彼は、自らは雨避けになって前を歩き、私を家まで送ってくれた。


去り際、「ではまた」と言ってくれたのが、堪らなく嬉しかった。







「なのか知ってる!そういうの、王子様っていうの!」

右手に握る、小さな手。
最近の子はませるのが早いと言うが、まだ幼稚園に通う孫に夫との馴れ初めを話すことになるだなんて、彼に出会った頃は考えもしなかった。

「そうねぇ。おじいちゃんは王子様みたいな人よ」

肯定されたのが嬉しかったのか、菜乃花がそうだろうと大きく頷く。
しかし夫にあなたは王子様みたいと言ったら、どんな顔をするんだろう。知らず想像してしまい、忍び笑いを漏らす。菜乃花が不思議そうにこちらを仰ぎみた。
その様子に、心に幸せが満ちた。

「菜乃花にも、そんな素敵な出会いがあるといいわね」

そう微笑みかけた先の小さな女の子は、分かっているのかどうか、「うん!」と元気よく頷いた。

送ってもらったあと、私は手ぬぐいを返していないのに気がついて、それを母の目を盗んでちょっといい石鹸で洗い、彼に返せるその日まで大事に持っていた。
次の日からはあの日がうそのような晴天だったのだ。

そして、それを彼が宝物のように大事に持っていたことを、結婚してから知ることになる。

しかしそれはまた、別のお話。



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