霊和怪異譚 野花と野薔薇Ⅱ〜エイエン語り〜

野花マリオ

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蜂黒須怪異談∞X∞

0074話「無視会社」

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 一

 社会人生活二十余年。私は総合商社の営業部に勤める中間管理職だ。
 四十七歳。微妙な年齢。上からは早期退職を促され、下からは古いと笑われる。だが、生活も家族もある。まだ辞めるわけにはいかない。

 そんな焦りを抱えていたせいかもしれない。
 ある日から、私は「会社で誰にも相手にされなくなった」。

 ⸻

 二

 月曜の朝、タイムカードを押すと、機械は反応しなかった。何度差し込んでもランプは点かない。
 総務の若手に声をかけても、こちらを一瞥もせず、すぐにパソコン画面へ視線を戻す。

 デスクに向かえば、部下たちが談笑している。私が挨拶しても返事はない。書類を配ろうとしても受け取ってくれない。

 「……無視か?」

 心臓が縮む。
 リストラが迫っているのだろうか。私を人間扱いしないことで、既に排除が始まっているのか。

 ⸻

 三

 昼休み。食堂に行っても、給仕の女性は誰一人こちらを見ない。
 カレーを取ろうと手を伸ばしても、別の社員の手がすり抜けるように私の前を横切り、皿を持っていってしまう。

 「……おい!」
 声を荒げても、誰も振り向かない。

 やがて空腹に耐えられず、無造作にテーブルに座ると、近くの若手二人が囁き合った。
 「……ここ、冷えるな」
 「誰か座ってるみたいだ」

 そう言いながら、彼らは別の席に移っていった。

 ⸻

 四

 私は自分が「存在しない」かのように扱われていることに苛立った。

 会議で発言しても、誰も頷かない。
 資料を渡そうとしても、机の上を素通りする。
 目の前に立っているのに、同僚たちは私を透かして後ろのホワイトボードを見つめている。

 鏡を覗けば、確かに私は映っている。
 だが、その姿はどこか薄く、輪郭が曖昧に揺れて見えた。

 「俺は……もう死んでいるのか?」

 そんな疑念が心をかすめた。

 ⸻

 五

 恐る恐る家に帰った。
 だが、妻も息子も私を普通に迎えてくれた。
 夕飯を共にし、息子の受験の話もした。

 会社と違って、家庭では私は存在していた。
 ――ならば、やはりおかしいのは会社の方だ。

 ⸻

 六

 翌日もオフィスに行った。
 すると、エレベーターの中で先輩社員と二人きりになった。
 チャンスだ、と思い、意を決して声をかけた。

 「なあ、どうして俺を無視するんだ?」

 先輩は、ゆっくりと私を見た。
 確かに「見た」のだ。だが、その目は冷たく濁り、瞳孔が開ききっていた。
 そして何も言わず、ふっと顔を逸らした。

 エレベーターが開き、先輩は歩き去った。
 残り香のように、湿った土の匂いだけが残った。

 ⸻

 七

 私は調べ始めた。
 過去の新聞記事を検索し、会社名を入力した。
 だが、検索結果に会社名は出てこなかった。

 代わりに出てきたのは、三年前の記事だった。

 ――「石山商事本社ビル火災 社員百二十名全員死亡」

 私は声を失った。
 写真には、黒煙を上げる見慣れたビルの姿があった。

 ……全員死亡?
 じゃあ今、毎日顔を合わせているあの人たちは?
 課長も、部下も、総務の女性も?

 私は記事を何度も読み返した。だが、どの新聞も同じ結論を記していた。
 「社屋全焼、奇跡的な生存者なし」

 ⸻

 八

 背筋が凍りついた。
 会社に戻ると、確かに人々はデスクで働いていた。電話が鳴り、書類が回り、会議室には笑い声もある。
 だが、その光景は三年前に止まった幻影に過ぎないのではないか。

 「じゃあ……俺は?」

 なぜ私だけが生き残り、彼らの中に混じっているのか。

 答えは簡単だった。
 あの日、私は偶然出張で社を離れていた。火災のニュースを出張先で知り、放心した。
 だが翌日、なぜか何事もなかったかのようにオフィスに足が向いた。
 ――そして、社員たちの中に入り込み、今まで通りの日々を送ってしまった。

 ⸻

 九

 私は理解した。
 無視されていたのは、私ではない。

 無視されていたのは、社員たちの方だ。

 彼らはすでに死んでいて、社会から存在を消されている。
 それでもなお、毎日同じ時間に出社し、同じ業務を繰り返している。
 私はただの生者だから、彼らの輪に入れなかった。だから「無視」されているように見えただけだ。

 ⸻

 十

 翌朝、出社すると、課長が声を上げた。
 「おはよう」
 ――確かに聞こえた。

 振り返ると、課長は満面の笑みを浮かべていた。
 だが、その口元から黒い煤がこぼれ落ちた。
 頬には火傷の痕。スーツは焦げて穴だらけ。

 部下たちも次々と私に挨拶をしてきた。
 だが誰も彼も、火傷や崩れた顔をしていた。

 私の存在に、ようやく彼らは気づいたのだ。
 ――生者が紛れ込んでいることに。

 ⸻

 十一

 社員たちは一斉に笑いながら近づいてくる。
 「一人だけ、生き残っていたのか」
 「さあ、一緒に働こう」
 「ここでは、ずっと同じ日々が続くんだ」

 桜の花びらのように黒い灰が舞い、オフィス全体を覆っていく。

 私は叫び、逃げ出そうとした。
 だが背中に冷たい手が触れ、耳元で囁かれた。

 「もう無視しないよ」

 次の瞬間、視界は暗転した。

 ⸻

 …………


「どう?こういう怪異談だけどね」

「ぞわりと感じました♡赤木さん」

「ははは。そりゃよかった。ではこの辺で」

「毎度ありがとうございます。タクタク♡」

 タクシーを降りた私は一言。

「彼女も気づくといいな。私の存在」

 そっと外の空気はひんやりと冷たかった。

 無視会社 完
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