霊和怪異譚 野花と野薔薇Ⅱ〜エイエン語り〜

野花マリオ

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蜂黒須怪異談∞X∞

0045話「牙獣点生」

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 一 

 鐘技《かねわざ》市旧市街――〈静錦館〉は、百年前に建てられた木造三階建ての古い美術展示館である。その春、企画展《きかくてん》「怪異水墨の世界」が静かに幕を開けていた。

 墨の濃淡が織りなす幽玄の世界。だが、来場者が展示室に足を踏み入れる前に、まずその視線を射抜くのは、廊下を埋め尽くす獣たちの絵だった。虎、狐、狼、龍……。

 どれもが、紙という檻を打ち破ろうとするような躍動を孕んでいた。

「うわ……この虎、睨んできたわ……」

 思わず一歩引いたのは、鐘技高校に通う二年生、白百合姫子《しらゆり・ひめこ》。肩を覗きこむように身を寄せてきたのは、親友の安良田恵《あらた・めぐみ》だった。

「息してるみたい……すごいね。墨の絵って、こんなに生々しかったっけ?」

「ただの筆圧よ。大げさ」

 冷たく鼻を鳴らしたのは鬼村星華《おにむら・せいか》。表情には余裕があるものの、鋭い瞳の奥には微かな緊張が滲んでいた。

「うん、私はこういうの好きだなあ」

 夢道亜矢《むどう・あや》が微笑む。彼女の声は、まるで水墨の余白に吸い込まれるように淡く響いた。

 この四人は親友同士で、今は揃って春休み。古い街並みに誘われて訪れた静錦館で、思いがけず“絵の呼吸”に包まれていた。

 やがて姫子が、周囲をはかるように小声で囁いた。

「……実はね、この館のオーナー、寺山さんって人。うちの叔父の知り合いなのよ。さっき、裏から入ってきたときにちょっとだけ話してたらさ、特別に“見せたいもの”があるって」

「本気?」

 亜矢が目を丸くする。

「やめてよ、そういう怪異談めいたノリ」

「信じるか信じないかは、あなた次第……ってやつ?」

 ニヤリと笑う姫子の後を追って、四人は関係者以外立入禁止と書かれた扉の奥へと足を踏み入れた。

 

 二 

「筆に命が宿る。――君たちは、信じるかね?」

 重く響いた声の主は、静錦館の館主・寺山総一《てらやま・そういち》。額の深い皺と煤けた和服が、時代から切り離された存在のように見えた。

 彼が指し示した先にあったのは、大正末期に描かれた巨大な六曲屏風《びょうぶ》。そこには荒れ狂うように描かれた獣たち――虎、狼、狐、龍、猿、そして、中央には奇妙な人物が墨の筆を振るいながら、迫る獣に抗っていた。

「……これ、描かれてるのって……人間?」

「そう。鐘技に一時期だけ暮らしていた謎の絵師、立花幽篁《たちばな・ゆうこう》が、自らを描き込んだ“封印の屏風”だと言われている」

 寺山の口調には、噺家のような滑らかさと、どこか呪術師めいた冷ややかさがあった。

「封印……って、何を?」

 星華が眉を寄せる。

「“筆に宿る魔”さ。幽篁は、生涯で一切の風景も人物も描かなかった。ただ、獣ばかりを描いた。だが、ある時から彼は怯え始める――“描いた獣が動き出す”と」

 恵が、思わず屏風に手を伸ばしかける。が、その手を寺山が遮った。

「触ってはいけない。この絵には、“宿り”がある」

「まさか、それって……」

「幽篁は、最後の夜、こう呟いていた。“筆先が呼ぶ、あの黒が、夢を裂く”とね。そして、ある日を境に姿を消した。遺されたのは、この絵だけ。彼の肉声も、日記も、遺品さえも見つからなかった」

 冗談にしては、あまりにも重い声だった。

 そして、画面に描かれた男の顔――それは幽篁そのものとされるが、墨のにじみがどうにも不気味だった。まるで、こちらを見返してくるように、黒の奥に光を宿している。

 姫子が震える声で尋ねた。

「この絵……動いたり、しませんよね?」

「もし、動くなら。それは、“見てしまった者”が、何かを引き寄せた証拠かもしれんよ」

 その瞬間だった。

 〈ギィ……ギシ……〉と、展示室の床が軋む。

「……何?」

 振り返る亜矢の背後、屏風の中の虎の眼が――わずかに、確かに、瞬いた。

 

 三 

 〈パァンッ!〉

 激しい破裂音が鳴り、展示室の照明が一斉に消えた。闇が濃墨のように押し寄せる。

 次の瞬間、耳元で咆哮が響いた。

「きゃあっ!?」

「走って!」

 星華の叫びとともに、四人は本能的に暗闇を駆け出した。

 だが、足元に広がる黒い液体に似た何かが、じわじわと染み出してきている。壁の屏風から、床へ、足へ、呼吸するように這い寄ってくる。

「墨が……流れてきてる! 絵の中から!」

「そんなの……ありえない!!」

 恵が叫ぶが、現実は覆された。床を這う黒が、彼女の足首を掴んだかと思うと、次の瞬間、〈ズ……ズズズ……〉という音を立てて、彼女の体を床下に引きずり込もうとする。

 それは、まるで水墨の地獄。紙の檻から解き放たれた“何か”が、牙を剥いて、獲物を喰らおうとしていた。

「離して……いやっ!!」

「つかまって!!」

 姫子が恵の腕を掴んだが、力は及ばず――そして次の瞬間、まるで墨に染まった水面に飲まれるように、四人は一斉に、闇の中へと――

 

 四 

 その後、白百合姫子、安良田恵、鬼村星華、夢道亜矢の四名は行方不明となった。

 警察の捜索にもかかわらず、館内に異常は発見されず、館主・寺山総一もまた消息を絶っていた。

 ただ、閉鎖された〈静錦館〉の解体工事にあたった作業員の一人が、奇妙な証言を残している。曰く――

「屏風の絵に、見覚えのある四人の少女が、墨で描き足されていたんです。まるで、助けを求めて手を伸ばしてるような……そんな目をして」

 それが幻だったのか、絵の“宿り”だったのか。真実は誰にも分からない。

 ただ一つ。
 あの屏風は、現在もどこかに在る――という噂だけが、今日も語られている。

 牙獣点生 完
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