霊和怪異譚 野花と野薔薇Ⅱ〜エイエン語り〜

野花マリオ

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蜂黒須怪異談∞X∞

0049話「福習商店街 牛肉コロッケ」

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 ■1.

 ――忘れたら、取りにくる。

 その商店街は、今はもう地図に載っていない。
 いや、いつの間にか、誰の記憶からも抜け落ちたのだ。

「福習商店街(ふくならい しょうてんがい)」

 昭和の匂い、煤けた看板、色あせたポスター。
 時が止まったままのように残っているが、その存在を知る者はもういない。

 そこは――
「忘れたくなかったもの」だけが、たどり着く場所。

 そしてその通りの一角には、ひときわ異様な人気を誇る惣菜屋がある。

 田沼屋。
 看板商品は、牛肉コロッケ。

 ただの惣菜ではない。
 “一度食べたら、二度と忘れられなくなる味”――

 まことしやかに、そう囁かれていた。

 ⸻

 ■2.

 大学生の**結(ゆい)**が、その商店街に迷い込んだのは、祖母の葬儀の翌日だった。

 理由はわからない。ただ、「行かなければ」と体が勝手に動いた。
 初めてのはずなのに、歩くたびに胸の奥がちり、と疼く。

 ひしゃげた標識。錆びたベンチ。ひび割れた歩道。
 すべてが、夢の中で何度も歩いた景色のように馴染んでいた。

 そして――
 香ばしい揚げ油と甘辛い牛肉の匂いが、風に乗って漂ってくる。

 導かれるように進むと、シャッター通りの中にただ一軒だけ、明かりの灯った店があった。

 田沼屋。

 シャッターは半開き。
 人影はない。なのに背後から、囁きが聞こえた。

「……食べていきな。」

 振り返っても誰もいない。
 だが気づけば、結の手には、温かな紙包みが握られていた。

 ⸻

 ■3.

 商店街の端にある古びたベンチに腰を下ろし、紙をそっと開く。

 湯気は立っていない。なのに、揚げたてのような香りが鼻腔を満たす。
 黄金色に揚がったコロッケ。ころんと丸い、不思議な懐かしさを誘う形。

 一口かじった瞬間、胸に鈍い衝撃が走った。

「……あ」

 脳裏に熱い奔流が流れ込む。

 ——祖母の声。

「おまけ、ひとつ入れておいたからね」
「熱いうちに食べなよ、冷めると寂しくなるから」
「小食なあんたでも、これだけは食べきったっけね」

 幼い頃の記憶。ぼやけていたはずの情景が、鮮やかに蘇る。
 あの日、台所の匂いまで。

 その瞬間、耳元に低い囁きが重なった。

「……最後まで、食べてね。全部、思い出して……」

 ザリ、ザリ、と。
 自分の咀嚼音に、もうひとつの咀嚼音が重なる。

 真後ろから。吐息混じりで、すぐ首筋にかかる距離から。

 確かに――誰かが一緒に食べていた。

 ⸻

 ■4.

 調べてみると、田沼屋は半世紀以上前に全焼していた。
 焼け跡からは、老婆の遺体がひとつ。

 火元は不明のまま、ただ一つ、こんな証言が残っていた。

「あの人はね、“忘れた味”を探してるんだよ」
「奪った人間には食わせるのさ。思い出させるために」
「でも……忘れたまま食べ残したら、迎えにくるって話だ」

 実際、商店街の片隅でコロッケを食べた後、数人が消息を絶ったという噂もあった。

 ――香りに釣られて戻れなくなったのだろう。

 それでも結は、また足を運んだ。
「もう一度、あの味に会いたくて仕方なかった」

 ⸻

 ■5.

 三日目の夜。

 結が福習商店街を訪れると、そこには何もなかった。
 田沼屋は跡形もなく消えている。

 ただひとつ、足元に油染みのついた紙包みだけが落ちていた。

 拾い上げると、にじんだ油の模様に、うっすらと文字が浮かび上がる。

 ――大事な味、忘れちゃだめだよ。
  忘れたら、あたしが迎えに行くからね。

 結の目に涙が滲んだ。
 それでも、どこか安心していた。

 最後にもう一度だけ、自分のために作ってくれたのだ。
 祖母が。

 ⸻

 ■6.

 それ以来、結は祖母の命日である七月二十三日だけ、コロッケを揚げるようになった。

 レシピは知らない。けれど、手が勝手に覚えている。

 食べた人は、口々に言う。

「どこかで食べた味だな」
「昔、ばあちゃんに出してもらった気がする」

 その夜。

 結の台所の隅に、油の匂いを纏った影が立つ。
 皺だらけの手。微笑をたたえた横顔。

 それが、静かにうなずいて消えていく。

「……ありがとう。最後まで食べてくれて」

 ⸻

 ■7

 味とは、記憶。
 記憶は、ときに怪異に変わる。

 けれど、それは誰かを想う祈りにもなる。

 だからあなたも――忘れないで。
 その味を。

 ――忘れたら、取りにくる。

 ⸻

 ■8

「……という怪異談なんだよ」

 正夢先生が話を締めると、私たちは教室で黙って牛肉コロッケを食べていた。

「ん?どうした?みんな」

 そう、ここは魑魅魍魎が集う独霊商店街。
 だが料理は絶品で、怪談よりも食欲が勝つ。

 友紀が図々しくおかわりをねだり、私もついでに差し出す。
 不思議と、涙がにじむほど懐かしい味だった。

 ⸻

 福習商店街 牛肉コロッケ 完
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