私、悪役令嬢でしたっけ?……あら、茶柱が立ちましたわ

にとこん。

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1話

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朝の日差しがレーヴェンロー邸の東の窓から差し込み、銀のカーテンがそっと揺れた。

「ふふ、立ちましたわ」

ゆったりとした動作でティーカップを持ち上げたのは、公爵令嬢シャルロット=ド=レーヴェンロー。寝起きの髪をゆるく結ったまま、薄緑の部屋着に身を包んだ彼女は、ただその一言で一日を始めた。

茶柱がまっすぐ立っている。

それは、この王国において“最上級の吉兆”とされる現象。政略結婚を決める貴族もいれば、遠征を決意する軍人もいるほどの奇跡。

けれどシャルロットは、ただほのかに笑っただけだった。

「今日もいい一日になりますわね、グレイ」

机の上で香箱座りしていた黒猫が、片目だけ開けて「ニャ」と短く鳴いた。

「お嬢様、おはようございます。朝食の準備が整っております」

静かに入ってきたのは、執事長セバスティアン。白手袋をした手で丁寧に一礼する。

「ごきげんよう、セバスティアン。茶柱が立ちましたのよ」

「それは、なによりでございます」

まったく動じないセバスティアンに、シャルロットはふわりと微笑むと、カップを持ったまま立ち上がった。庭のハーブが今朝は特に香っていた気がした。

「今日は、卒業舞踏会でございます」

「まあ。そうでしたのね」

「……お忘れで?」

「いえいえ。ドレスの準備も整っておりますわよ? たしか白に銀の刺繍でしたかしら。あら、でも今朝は藤色の気分ですわね」

「すでに縫製担当が待機しておりますので、どうかお好きにお選びくださいませ」

セバスティアンの声には一切の焦りがない。彼はもう長年、この娘が“突発的に流れを変える”ことに慣れていた。

着替えを済ませると、シャルロットはドレスの裾を摘んで庭へ向かった。

「……蝶が飛んでおりますわ」

「お嬢様、舞踏会の送迎馬車が……」

「少しだけ。すぐ戻りますわ」

そう言いながら、彼女は庭園の奥、ラベンダーの茂みに向かってふわりと走り出す。ふわふわのドレスが揺れ、グレイがその後を軽やかに追った。

数分後。

「お嬢様が……お戻りになりません」

執事長がふと顔を上げた時には、庭には風と残り香だけがあった。

***

そのころ、王立学園の舞踏会場では。

「……なぜ来ない」

壇上で宣告の言葉を待ち続けていた王太子アルベリヒが、苛立たしげに椅子を蹴る。神殿の聖女リリィは不安げに王太子の袖を掴み、神官長ミカエルはただ静かに目を伏せた。

「彼女が逃げたとでも? 断罪から?」

「陛下、舞踏会の進行に支障が――」

「黙れ。彼女は――あの女は、策を弄して我々の計画を……」

その時、グレイが小さく「ニャ」とくしゃみのような声を上げた。  
だが、その場にはもう、シャルロットの影はなかった。

***

「……あら。ここはどこかしら」

庭の裏手の林を抜けて、別邸とのあいだにある小道に出たシャルロットは、周囲を見回して首を傾げた。

「まあ、いい香り。……このあたりのミント、強く育ちましたのね」

紅茶のポットを片手に、彼女は小さな腰掛けに座る。

「学園? ……あら、今日でしたの? でもまあ、茶柱が立ちましたもの。大丈夫ですわ」

風が静かに吹いて、木の葉が揺れた。

誰も知らぬうちに、王国の“運命”は、ふわふわと迷子になった公爵令嬢によって、静かに逸れていったのだった。
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