悪役令嬢まさかの『家出』

にとこん。

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夜明け前のフェリシェ侯爵邸は、いつものように静謐に包まれていた。厳格な父と淑やかな母が納めるこの屋敷では、使用人たちの動きも時計仕掛けのように整っており、一糸の乱れも許されない。しかし、今日という日だけは、ほんの少しの“ズレ”が生じていた。

「お嬢様が……お部屋にいらっしゃいません」

侍女の震える声に、執事長が眉ひとつ動かさず問い返す。

「……どのくらい前から?」

「夜半にはお休みになられたのを確認しております。ですが、今朝、起こしに参りましたら……」

ふわりと薔薇の香りが残る部屋には、整えられたベッドと、机の上に置かれた一通の書き置きだけが残されていた。

『ちょっと腹を立てて気持ちが晴れないので気晴らしに出て参ります。朝食には戻りますので、心配はご無用に』

フェリシェ侯爵家の長女、ルゥナ=フェリシェ。  
誰に対しても優しく、言葉遣いも丁寧で、礼儀も身に付きすぎるほどに身についている――が、彼女の最大の欠点は、“目的の無い自由”を愛しすぎることだった。

「……馬鹿者が!」

怒号を上げたのは侯爵ギルベルトその人。  
一国の令嬢が、護衛も付けずに屋敷を出るなど。

「近衛を呼べ!城にも伝えるのだ!」

「かしこまりました」



フェリシェ侯爵家が朝から騒がしくなっている頃、肝心の令嬢はというと、穏やかな風と陽の匂いのする草原の中で、空を見上げていた。

「まあ、綺麗な雲……。あの形、どこかの騎士団の紋章に似ておりましたわ」

小さな道を外れ、気の向くままに歩き続け、気づけば山道を越え、川を渡り、草原を抜けて、境界線の立札すら見落とし――

「……ええと、ここはどちらの領地でして?」

地図を取り出してみるが、上下が逆。しかもその地図は幼少期に使った子ども用のもので、装飾と詩文ばかりが目立つ代物だった。

「わたくし、まさか王都からこんなに離れて……? でもまあ、きっと誰かに尋ねれば――」

そんな淡い希望が砕けたのは、その直後だった。

「そこの者、名を名乗れ。帝国領にて許可なき通行者、発見した」

現れたのは鎧姿の帝国兵たち。剣を抜いて、明らかに警戒している。

「あらまあ。通行? わたくし、ただのお散歩中でしてよ」

「黙れ、不審者! 即刻連行する!」

「不審者……まあ、失礼ですわ」

彼女が困ったように頬を指でなぞったその一瞬、兵士たちは息を呑んだ。  
目の前の令嬢は、どこにも隙がないほど優雅で、美しい。そして、完全に状況を把握していない。

「……抵抗するつもりはございませんの。ただ、どこに連れていかれるのか、少しだけ教えていただけます?」

「……黒鉄の塔だ。帝都近郊の牢獄施設にて、余所者は尋問の後、処分が下る」

「まぁ。処分とは穏やかでありませんわね」

それでも、ルゥナは歩調を崩さない。ただふんわりと、「散歩道が牢獄に続くとは予想外ですわね」と呟き、帝国兵たちの護送に従った。

こうして、王国令嬢ルゥナ=フェリシェは、誰にも気づかれぬまま、帝国の中心部へと連行されることとなった。

だが、まだ誰も知らなかった。  
この“迷子”が、帝国の運命すら揺るがす存在となることを。
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