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第四章:王都燃ゆ、過去からの咆哮
第32話:怒りの暴走、悲しみの残響
しおりを挟む王都での戦いは、場所を変え、その激しさを増していた。俺たちが次に辿り着いたのは、かつては市民の憩いの場であっただろう、大きな広場だった。しかし、その面影は、もはやどこにも残されてはいない。
広場の中央には、慈愛に満ちた表情で水を司る、美しい女神の石像があったのだろう。今はその繊細な腕は無残にもぎ取られ、穏やかだったはずの顔には、まるで悪意に満ちた獣に爪で引き裂かれたかのような、無数の深い傷が刻まれている。女神は、まるで自らが守るべき都の惨状を嘆き、声なく涙を流しているかのようだった。
女神像が囲む噴水は、とうの昔にその流れを止め、本来なら澄んだ水を湛えているはずの受け皿は、おびただしい血と、燃え盛る建物から流れ出した油で、赤黒く、不気味に濁っていた。風が吹くたびに、その汚れた水面が揺れ、逆さまになった地獄の空を映し出す。
空気は、先ほどまでいた市街地の大通りよりも、一層重く、粘性を帯びていた。鉄と煙の匂いに、はっきりと分かる、死の匂いが混じり始めていたからだ。それは、嗅覚だけでなく、魂に直接まとわりついてくるような、不快で、冷たい匂いだった。
頼みの綱だった月の光は、いつの間にか厚い煙の雲に完全に隠され、広場を照らすのは、周囲で燃え盛る建物の炎と、あちこちで焚かれる臨時の焚き火の、頼りない明かりだけだった。揺らめく炎は、人々の顔に、そして建物の壁に、まるで狂ったように踊る亡霊の影を映し出し、この場所が、もはや人の世のものではない、地獄の舞台そのものであることを、俺たちに嫌というほど見せつけていた。
その、悪夢のど真ん中に。奴らは、音もなく姿を現した。
「――来たか」
龍之介が、眼帯の奥の片目を細め、忌々しげに吐き捨てる。俺たちの前に立ちはだかったのは、十数名の兵士の一団だった。しかし、その姿は、およそ兵士と呼べるものではなかった。
奴らは、もはや人の形を、かろうじて留めているに過ぎなかった。
全身の至る所から、血錆鉱のどす黒く、そして赤い結晶が、まるで忌まわしい腫瘍のように突き出している。関節はありえない方向に捻じ曲がり、何本もの腕を持つ者や、獣のように四つん這いで駆ける者までいる。その皮膚の下では、赤い光が、まるで不規則な心臓のように、明滅を繰り返していた。
「紅い刃」の親衛隊ともいえる、強化兵士。人の心と、痛みという最後のストッパーを、禁断の鉱石によって完全に破壊された、ただの殺戮人形の群れだった。
一体の強化兵士が、奇声を発しながら彩葉に斬りかかる。彩葉の閃光のような一閃が、その腕を肩口から切り落とした。しかし、兵士は悲鳴一つ上げない。それどころか、ケタケタと、乾いた嗤い声を上げながら、残った腕でなおも攻撃を仕掛けてくる。切り落とされた腕の断面からは、血の代わりに、シューッという音を立てて、赤い蒸気が噴き出している。
その光景を目にした瞬間。俺の隣にいた、源の喉の奥から、ひゅっ、と奇妙な音が漏れた。
「……あ、あぁ」
それは、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのような、乾いた、か細い声だった。俺が訝しんで彼の横顔を見ると、その顔から、血の気が完全に引いていた。鍛え上げられたその巨体は、小刻みに、しかし明らかに震えている。彼の視線は、ただ一点。嗤いながら、赤い蒸気を噴き出す、強化兵士の姿に釘付けになっていた。
「源? どうした、しっかりしろ!」
俺の声が、果たして彼の耳に届いていたのか。彼の瞳の中で、目の前の地獄の光景と、彼の記憶の奥底に固く封印されていたであろう、過去の悪夢が、ぐにゃりと歪みながら二重写しになっていくのが、俺には分かった。
強化兵士たちの、人間性を失った嗤い声が、暴走した恋人・美咲の、泣き笑いの顔に見える。
仲間たちの、「源、しっかりしろ!」という必死の叫びが、遠のいていく意識の中で聞いた、師範の悲痛な声に聞こえる。
彼の心の中で、何かが、ぷつん、と焼き切れる音がした。
それは、あまりにも細く、張り詰めていた、最後の理性の糸だった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」
源の口から放たれたのは、もはや言葉ではなかった。それは、傷つき、追い詰められた獣が、己の痛みと悲しみの全てをぶちまけるかのような、魂そのものの咆哮だった。
その叫びと同時に、彼の肉体が、爆発的な勢いで変貌を遂げる。着ていた道着が、内側からの圧力でビリビリと裂け、その下の筋肉が、異常なまでに隆起していく。全身の血管が、まるで蠢く無数のミミズ腫れのように、その皮膚の上にくっきりと浮かび上がった。その瞳は、激しく赤く充血し、もはや理性も、悲しみも、何一つ映してはいない。ただそこにあるのは、純粋な、そして底なしの破壊衝動だけだった。
彼は、敵も、味方も、壊れた建物も、もはや何も区別していなかった。
目に入るもの全てを、ただ、壊す。
「そこを、どけぇぇぇぇっ!」
咆哮と共に、源の拳が一体の強化兵士に叩き込まれた。しかし、それはもはや拳法の技などではなかった。ただの暴力の塊。巨大な隕石の衝突。兵士の体は、原型を留めないほどに砕け散り、その衝撃波だけで、背後にあった建物の壁が、蜘蛛の巣状に砕け散った。
「源! やめろ、源!」
龍之介が必死に叫ぶが、その声は届かない。暴走する源の拳は、今度は敵ではなく、広場の中央に立つ、傷ついた女神像へと振り下ろされた。ゴォン! という凄まじい轟音と共に、女神像の胴体から上が、粉々に砕け散る。
「危ない!」
栞の声と同時に、小夜が咄嗟に俺たちの前に防御結界を展開する。しかし、その霊的な守りの壁も、源の拳の前では、まるで薄いガラス細工のようだった。バキィィン! という甲高い音を立てて、結界は跡形もなく砕け散り、その衝撃で小夜は吹き飛ばされ、地面に強く体を打ち付けた。
「小夜ちゃん!」
鈴が悲鳴を上げて駆け寄る。俺たちは、その圧倒的な暴力の前に、完全に手出しができなかった。ただ、彼の悲しい過去が、最悪の形で、今、この場所で繰り返されようとしているのを、どうしようもない無力感と共に、見つめることしかできなかった。
なぜだ。どうして、こんなことに。
俺は、暴れ狂う源の瞳を、必死に見つめた。そこにあるのは、全てを焼き尽くさんばかりの、燃え盛る炎のような怒り。
だが、その奥に。
ほんの一瞬だけ。俺は、見てしまった。
その燃え盛る怒りの、さらに奥の、最も深い場所で。
全てを凍てつかせる氷のような、深く、そして救いのない、悲しみと後悔の色が、確かに、揺らめいていたのを。
彼の本当の敵は、目の前の強化兵士ではない。彼の本当の苦しみは、ただの怒りなどではない。
そのことに気づいた時、俺は、ただ唇を噛みしめることしかできなかった。彼の咆哮は、まだ止まない。それは、まるで、終わることのない悲しみの残響のように、煙と炎に包まれた王都の夜空に、いつまでも、いつまでも響き渡っていた。
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