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第四章:王都燃ゆ、過去からの咆哮
第34話:【回想】初めて血に染まった拳
しおりを挟むその日の空は、不吉なほどに静かだった。
風がない。いつもなら、山の稜線を撫で、道場の古い屋根をそっと揺らしていくはずの風の息遣いが、ぴたりと止んでいた。鳥の声も聞こえない。夜明けと共に目を覚まし、澄んだ朝の空気を切り裂くようにさえずるはずの鳥たちが、まるで示し合わせたかのように、その存在を消していた。
道場を包む朝霧だけは、いつもと同じだった。乳白色の帳(とばり)が、まだ眠りから覚めやらぬ山々の輪郭を柔らかくぼかし、湿った土の匂いと、夜露に濡れた下草の青い香りを運んでくる。だが、その霧さえも、今日に限ってはどこか重く、粘りつくように感じられた。まるで世界そのものが、これから起ころうとしている悲劇を予感し、息を殺しているかのようだった。
道場の内では、いつもと変わらない朝が始まっていた。板張りの床を踏みしめる足音、兄弟子たちの他愛ない軽口、朝餉の支度をする台所から漂ってくる、味噌と出汁の温かい香り。その全てが、この世で最も尊く、そして二度と戻らない平和な日常の最後の輝きだった。
俺、神田 源は、その日常のただ中にいた。縁側で、汗を拭いながら竹筒の水を呷る。隣には、同じように汗を光らせる美咲がいた。彼女の白い稽古着の襟足が、汗で肌に張り付いている。その横顔を盗み見ては、心臓が馬鹿みたいに跳ねる。そんな、いつもと同じ朝だった。
「源は、まだ振りが大きいわね。もっと腰を入れないと」
「う、うるせえ。わかってる」
美咲が、楽しそうにくすくすと笑う。その笑顔が、俺の世界の太陽だった。この笑顔を守るためなら、どんなことだってできる。そう、本気で信じていた。
その時だった。
最初の悲鳴は、あまりにも唐突に、そして甲高く響き渡った。
それは、道場の外で見張りをしていた門下生の声だった。その一声は、まるで静かな水面に投げ込まれた石のように、平和な日常の全てを、ガラス細工のように粉々に砕け散らせた。
「て、敵襲ーっ!!」
何が起きたのか、誰にも理解できなかった。道場に満ちていた活気は一瞬で凍りつき、誰もが音のした山門の方を見つめる。
霧の中から、それらは音もなく現れた。
鬼の面。能で使われるような、無表情で、底知れない不気味さを湛えた白い面。その集団は、まるで霧そのものから滲み出すように、輪郭を現した。黒い装束に身を包み、その胸には、血を連想させる禍々しい赤で描かれた、三枚の刃が交差する紋章が染め抜かれている。
彼らは、一切の言葉を発さなかった。ただ、その手に握られた抜き身の刀だけが、霧の中で鈍い光を放っている。目的は、ただ一つ。道場の奥深く、禁じられた蔵に封印されているはずの『血錆鉱に関する古文書』。彼らは、それを奪いに来たのだ。
「構えろッ!」
師範の怒号が、凍りついた道場の空気を震わせた。門下生たちが、一斉に得物を手に取り、臨戦態勢に入る。しかし、相手はただの山賊や野盗ではなかった。その動き、その殺気、全てが常軌を逸していた。
先頭にいた兄弟子が、雄叫びを上げて斬りかかる。だが、鬼面の男の一人が、柳の枝が風に揺れるかのように、その太刀をひらりとかわした。そして、すれ違いざまに、まるで置き土産でもするかのように、その脇腹を浅く斬り裂いた。兄弟子の体から、鮮血が舞う。桜の花びらのように、美しく、そして残酷に。
一人、また一人と、仲間たちが斬り伏せられていく。道場の板張りの床は、あっという間に血で濡れそぼり、生暖かい鉄の匂いが、朝の澄んだ空気を上書きしていく。
「源! 美咲! お前たちは奥へ!」
師範が、その巨体で敵の刃を受け止めながら叫ぶ。その背中には、すでに数筋の深い傷が刻まれていた。師範は、流水の如き体捌きで敵を翻弄するが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。敵の数が多すぎる。
俺もまた、必死で戦っていた。まだ若く、荒削りな拳。それでも、守りたい一心で、格上の敵に食らいつく。だが、現実とは非情なものだ。俺の拳は空を切り、敵の刃が俺の肩を浅く、しかし確実に抉っていく。熱い痛みが走り、体から力が抜けていくのが分かった。じりじりと壁際に追い詰められ、死が、すぐそこまで迫っていた。
これが、現実か。ラノベの主人公のように、都合よく覚醒したりはしない。ただ、無力に奪われていくだけなのか。
絶望が、道場全体を支配しようとしていた。師範も深手を負い、兄弟子たちの半数以上が、すでに動かなくなっていた。残された者たちも、もはや時間の問題だった。
その、誰もが諦めかけた、その時だった。
「――私が行きます」
凛とした、静かな声が響いた。声の主は、美咲だった。彼女は、傷ついた門下生の手当てをしていた手を止め、静かに立ち上がっていた。その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。ただ、全てを懸ける覚悟を決めた者だけが持つ、凪いだ湖面のような静けさが広がっていた。
「美咲! ならん! それだけは、絶対にならん!」
師範が、血を吐きながら叫ぶ。その声は、懇願に近かった。
だが、美咲は首を横に振った。そして、師範の制止を振り切り、道場の最も奥、決して足を踏み入れてはならないと教えられてきた、禁じられた蔵へと、迷いなく走り出した。彼女の白い稽古着の背中が、薄暗い廊下の闇へと消えていく。
「美咲!」
俺は、叫んだ。行くな、と叫びたかった。だが、声にならなかった。俺には、彼女を止める資格も、この状況を打開する力もなかった。ただ、胸を締め付けるような、どうしようもない不安と、万に一つの奇跡を願う、かすかな期待だけが、心の中で渦巻いていた。
蔵の中から、空気が震えるような、禍々しい気配が漏れ出してくる。それは、この道場にあるはずのない、異質で、冒涜的な力だった。
やがて、美咲が再び姿を現した。
その両腕には、今まで見たこともない、異様な籠手(こて)が装着されていた。
それは、まるで生物の血管のように、赤黒い紋様が浮かび上がった金属でできていた。そして、その甲の部分には、血のように赤く、不気味な光を放つ鉱石が、心臓のように埋め込まれている。血錆鉱。道場の禁忌、そのものだった。
「美咲、お前……」
師範が、絶望に染まった声で呟く。
美咲は、そんな師範の言葉には答えず、ただ自分の両腕の籠手を、恍惚と、そしてどこか悲しげに見つめていた。
「これがあれば……みんなを、守れる」
彼女が、誰に言うでもなく呟き、その籠手を強く握りしめた、瞬間だった。
「――ぁ、ああああああああああああああッ!!」
美咲の口から、絶叫が迸った。凄まじい力が、彼女の華奢な体を内側から蹂躙し、駆け巡る。彼女の全身の血管がミミズ腫れのように浮かび上がり、その体は苦痛に弓なりに反り返った。しかし、その表情はすぐに変わった。苦痛に歪んでいた顔が、まるで神の祝福でも受けたかのように、恍惚とした表情へと変わっていく。
彼女の瞳から、優しかった光が、すうっと消えた。
代わりに宿ったのは、氷のように冷たく、ただ目の前の敵を「排除」することだけを目的とする、非人間的な輝きだった。
変貌した美咲は、もはや人間ではなかった。
彼女の体が、ふっとその場から消えたかと思うと、次の瞬間には、鬼面の男たちの一人の背後に立っていた。男の胸には、美咲の白魚のような拳が、深々とめり込んでいた。
「ゴハッ!」
男が血反吐を吹き出し、その巨体は、まるで紙くずのように、道場の壁を突き破って外へと吹き飛んでいった。
それは、武術ではなかった。ただの、破壊だった。
彼女の拳は、音速を超えていた。一撃で分厚い鎧を紙のように砕き、その内側にある肉体を、骨ごと粉砕する。彼女の動きは、かつて俺たちが共に汗を流して学んだ「流水館」の、流れるように美しい型、そのものだった。しかし、その結果もたらされるのは、あまりにも残酷な死と破壊だけだった。その恐ろしいまでのギャップが、俺の正気を少しずつ削り取っていく。
敵が振り下ろした太刀を、彼女は籠手で受け止める。甲高い金属音と共に、鍛え上げられたはずの刀身が、まるで砂糖菓子のように、あっけなく砕け散った。
返り血が、雨のように降り注ぐ。その赤い飛沫が、彼女の美しい顔を汚し、白い稽古着をまだらに染め上げていく。だが、彼女は気にする素振りも見せない。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、機械のように、目の前に立つ敵を一体、また一体と、効率的に破壊し続けていくだけだった。
「美咲……?」
俺は、か細い声で、彼女の名を呼ぼうとした。だが、声が出なかった。
目の前にいるのは、俺が愛した美咲ではない。
仲間を救うために立ち上がった、希望の光でもない。
それは、人の心を失い、ただ目の前の事象を破壊し続ける、この世のものとは思えぬほどに美しい、魔物だった。俺は、その光景を、圧倒的な恐怖と、どうしようもないほどの無力感と共に、ただ見つめることしかできなかった。
やがて、道場には静寂が訪れた。
あれほどいた鬼面の男たちは、もはや誰一人、立っている者はいなかった。道場は、破壊され、血の海に沈み、まるで地獄の縮図のようだった。
その中心に、彼女は、一人で佇んでいた。
血溜まりの中に、静かに立つ美咲。その白い稽古着は、返り血で赤黒く染まり、風に吹かれた彼女の黒髪からは、ぽたり、ぽたりと、まだ温かい血の雫が滴り落ちていた。
師範も、生き残った門下生たちも、そして俺も、誰もが声を出せずにいた。彼女のそのあまりに異様な姿に、圧倒されていたのだ。助けられたはずなのに、感謝の言葉一つ、出てこない。
俺は、震える足で、一歩、彼女に近づいた。
「美咲……?」
今度は、声が出た。ひどく掠れて、情けない声だった。
俺の声に、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返った。
その顔に浮かんでいたのは、勝利の喜びではなかった。仲間を救った安堵の表情でもなかった。
それは、乾いていた。
まるで、心の井戸が、その一滴まで完全に枯れ果ててしまったかのような、空虚な笑みだった。全てを諦め、全てがどうでもよくなってしまったかのような、ただ唇の端だけを吊り上げた、壊れた笑顔だった。
その笑顔が、春の柔らかい陽光を浴びて、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲しく、俺の心に、永遠に消えることのない傷として、深く、深く、突き刺さった。
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