寄せ集めの英雄と、涙を隠した君の笑顔。この世界の結末は俺たちが決める!

Gaku

文字の大きさ
34 / 85
第四章:王都燃ゆ、過去からの咆哮

第34話:【回想】初めて血に染まった拳

しおりを挟む


その日の空は、不吉なほどに静かだった。

風がない。いつもなら、山の稜線を撫で、道場の古い屋根をそっと揺らしていくはずの風の息遣いが、ぴたりと止んでいた。鳥の声も聞こえない。夜明けと共に目を覚まし、澄んだ朝の空気を切り裂くようにさえずるはずの鳥たちが、まるで示し合わせたかのように、その存在を消していた。

道場を包む朝霧だけは、いつもと同じだった。乳白色の帳(とばり)が、まだ眠りから覚めやらぬ山々の輪郭を柔らかくぼかし、湿った土の匂いと、夜露に濡れた下草の青い香りを運んでくる。だが、その霧さえも、今日に限ってはどこか重く、粘りつくように感じられた。まるで世界そのものが、これから起ころうとしている悲劇を予感し、息を殺しているかのようだった。

道場の内では、いつもと変わらない朝が始まっていた。板張りの床を踏みしめる足音、兄弟子たちの他愛ない軽口、朝餉の支度をする台所から漂ってくる、味噌と出汁の温かい香り。その全てが、この世で最も尊く、そして二度と戻らない平和な日常の最後の輝きだった。

俺、神田 源は、その日常のただ中にいた。縁側で、汗を拭いながら竹筒の水を呷る。隣には、同じように汗を光らせる美咲がいた。彼女の白い稽古着の襟足が、汗で肌に張り付いている。その横顔を盗み見ては、心臓が馬鹿みたいに跳ねる。そんな、いつもと同じ朝だった。

「源は、まだ振りが大きいわね。もっと腰を入れないと」
「う、うるせえ。わかってる」

美咲が、楽しそうにくすくすと笑う。その笑顔が、俺の世界の太陽だった。この笑顔を守るためなら、どんなことだってできる。そう、本気で信じていた。

その時だった。

最初の悲鳴は、あまりにも唐突に、そして甲高く響き渡った。

それは、道場の外で見張りをしていた門下生の声だった。その一声は、まるで静かな水面に投げ込まれた石のように、平和な日常の全てを、ガラス細工のように粉々に砕け散らせた。

「て、敵襲ーっ!!」

何が起きたのか、誰にも理解できなかった。道場に満ちていた活気は一瞬で凍りつき、誰もが音のした山門の方を見つめる。

霧の中から、それらは音もなく現れた。

鬼の面。能で使われるような、無表情で、底知れない不気味さを湛えた白い面。その集団は、まるで霧そのものから滲み出すように、輪郭を現した。黒い装束に身を包み、その胸には、血を連想させる禍々しい赤で描かれた、三枚の刃が交差する紋章が染め抜かれている。

彼らは、一切の言葉を発さなかった。ただ、その手に握られた抜き身の刀だけが、霧の中で鈍い光を放っている。目的は、ただ一つ。道場の奥深く、禁じられた蔵に封印されているはずの『血錆鉱に関する古文書』。彼らは、それを奪いに来たのだ。

「構えろッ!」

師範の怒号が、凍りついた道場の空気を震わせた。門下生たちが、一斉に得物を手に取り、臨戦態勢に入る。しかし、相手はただの山賊や野盗ではなかった。その動き、その殺気、全てが常軌を逸していた。

先頭にいた兄弟子が、雄叫びを上げて斬りかかる。だが、鬼面の男の一人が、柳の枝が風に揺れるかのように、その太刀をひらりとかわした。そして、すれ違いざまに、まるで置き土産でもするかのように、その脇腹を浅く斬り裂いた。兄弟子の体から、鮮血が舞う。桜の花びらのように、美しく、そして残酷に。

一人、また一人と、仲間たちが斬り伏せられていく。道場の板張りの床は、あっという間に血で濡れそぼり、生暖かい鉄の匂いが、朝の澄んだ空気を上書きしていく。

「源! 美咲! お前たちは奥へ!」

師範が、その巨体で敵の刃を受け止めながら叫ぶ。その背中には、すでに数筋の深い傷が刻まれていた。師範は、流水の如き体捌きで敵を翻弄するが、その動きは明らかに精彩を欠いていた。敵の数が多すぎる。

俺もまた、必死で戦っていた。まだ若く、荒削りな拳。それでも、守りたい一心で、格上の敵に食らいつく。だが、現実とは非情なものだ。俺の拳は空を切り、敵の刃が俺の肩を浅く、しかし確実に抉っていく。熱い痛みが走り、体から力が抜けていくのが分かった。じりじりと壁際に追い詰められ、死が、すぐそこまで迫っていた。

これが、現実か。ラノベの主人公のように、都合よく覚醒したりはしない。ただ、無力に奪われていくだけなのか。

絶望が、道場全体を支配しようとしていた。師範も深手を負い、兄弟子たちの半数以上が、すでに動かなくなっていた。残された者たちも、もはや時間の問題だった。

その、誰もが諦めかけた、その時だった。

「――私が行きます」

凛とした、静かな声が響いた。声の主は、美咲だった。彼女は、傷ついた門下生の手当てをしていた手を止め、静かに立ち上がっていた。その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。ただ、全てを懸ける覚悟を決めた者だけが持つ、凪いだ湖面のような静けさが広がっていた。

「美咲! ならん! それだけは、絶対にならん!」

師範が、血を吐きながら叫ぶ。その声は、懇願に近かった。

だが、美咲は首を横に振った。そして、師範の制止を振り切り、道場の最も奥、決して足を踏み入れてはならないと教えられてきた、禁じられた蔵へと、迷いなく走り出した。彼女の白い稽古着の背中が、薄暗い廊下の闇へと消えていく。

「美咲!」

俺は、叫んだ。行くな、と叫びたかった。だが、声にならなかった。俺には、彼女を止める資格も、この状況を打開する力もなかった。ただ、胸を締め付けるような、どうしようもない不安と、万に一つの奇跡を願う、かすかな期待だけが、心の中で渦巻いていた。

蔵の中から、空気が震えるような、禍々しい気配が漏れ出してくる。それは、この道場にあるはずのない、異質で、冒涜的な力だった。

やがて、美咲が再び姿を現した。

その両腕には、今まで見たこともない、異様な籠手(こて)が装着されていた。

それは、まるで生物の血管のように、赤黒い紋様が浮かび上がった金属でできていた。そして、その甲の部分には、血のように赤く、不気味な光を放つ鉱石が、心臓のように埋め込まれている。血錆鉱。道場の禁忌、そのものだった。

「美咲、お前……」

師範が、絶望に染まった声で呟く。

美咲は、そんな師範の言葉には答えず、ただ自分の両腕の籠手を、恍惚と、そしてどこか悲しげに見つめていた。

「これがあれば……みんなを、守れる」

彼女が、誰に言うでもなく呟き、その籠手を強く握りしめた、瞬間だった。

「――ぁ、ああああああああああああああッ!!」

美咲の口から、絶叫が迸った。凄まじい力が、彼女の華奢な体を内側から蹂躙し、駆け巡る。彼女の全身の血管がミミズ腫れのように浮かび上がり、その体は苦痛に弓なりに反り返った。しかし、その表情はすぐに変わった。苦痛に歪んでいた顔が、まるで神の祝福でも受けたかのように、恍惚とした表情へと変わっていく。

彼女の瞳から、優しかった光が、すうっと消えた。

代わりに宿ったのは、氷のように冷たく、ただ目の前の敵を「排除」することだけを目的とする、非人間的な輝きだった。

変貌した美咲は、もはや人間ではなかった。

彼女の体が、ふっとその場から消えたかと思うと、次の瞬間には、鬼面の男たちの一人の背後に立っていた。男の胸には、美咲の白魚のような拳が、深々とめり込んでいた。

「ゴハッ!」

男が血反吐を吹き出し、その巨体は、まるで紙くずのように、道場の壁を突き破って外へと吹き飛んでいった。

それは、武術ではなかった。ただの、破壊だった。

彼女の拳は、音速を超えていた。一撃で分厚い鎧を紙のように砕き、その内側にある肉体を、骨ごと粉砕する。彼女の動きは、かつて俺たちが共に汗を流して学んだ「流水館」の、流れるように美しい型、そのものだった。しかし、その結果もたらされるのは、あまりにも残酷な死と破壊だけだった。その恐ろしいまでのギャップが、俺の正気を少しずつ削り取っていく。

敵が振り下ろした太刀を、彼女は籠手で受け止める。甲高い金属音と共に、鍛え上げられたはずの刀身が、まるで砂糖菓子のように、あっけなく砕け散った。

返り血が、雨のように降り注ぐ。その赤い飛沫が、彼女の美しい顔を汚し、白い稽古着をまだらに染め上げていく。だが、彼女は気にする素振りも見せない。その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。ただ、機械のように、目の前に立つ敵を一体、また一体と、効率的に破壊し続けていくだけだった。

「美咲……?」

俺は、か細い声で、彼女の名を呼ぼうとした。だが、声が出なかった。

目の前にいるのは、俺が愛した美咲ではない。

仲間を救うために立ち上がった、希望の光でもない。

それは、人の心を失い、ただ目の前の事象を破壊し続ける、この世のものとは思えぬほどに美しい、魔物だった。俺は、その光景を、圧倒的な恐怖と、どうしようもないほどの無力感と共に、ただ見つめることしかできなかった。

やがて、道場には静寂が訪れた。

あれほどいた鬼面の男たちは、もはや誰一人、立っている者はいなかった。道場は、破壊され、血の海に沈み、まるで地獄の縮図のようだった。

その中心に、彼女は、一人で佇んでいた。

血溜まりの中に、静かに立つ美咲。その白い稽古着は、返り血で赤黒く染まり、風に吹かれた彼女の黒髪からは、ぽたり、ぽたりと、まだ温かい血の雫が滴り落ちていた。

師範も、生き残った門下生たちも、そして俺も、誰もが声を出せずにいた。彼女のそのあまりに異様な姿に、圧倒されていたのだ。助けられたはずなのに、感謝の言葉一つ、出てこない。

俺は、震える足で、一歩、彼女に近づいた。

「美咲……?」

今度は、声が出た。ひどく掠れて、情けない声だった。

俺の声に、彼女はゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらを振り返った。

その顔に浮かんでいたのは、勝利の喜びではなかった。仲間を救った安堵の表情でもなかった。

それは、乾いていた。

まるで、心の井戸が、その一滴まで完全に枯れ果ててしまったかのような、空虚な笑みだった。全てを諦め、全てがどうでもよくなってしまったかのような、ただ唇の端だけを吊り上げた、壊れた笑顔だった。

その笑顔が、春の柔らかい陽光を浴びて、あまりにも美しく、そしてあまりにも悲しく、俺の心に、永遠に消えることのない傷として、深く、深く、突き刺さった。
しおりを挟む
感想 15

あなたにおすすめの小説

『専属メイド全員が重すぎる愛で迫ってくる!~大学生の僕、11人?の美女に24時間甘やかされ尽くす生活~』

まさき
青春
僕は、ちょっと普通じゃない日常を送ることになった――それは、専属メイドが全員僕のことを溺愛してくれる暮らしだ。 朝は髪を整えてくれるリナ、朝食で笑顔を見せてくれるミユ、どの瞬間も全力で僕を甘やかす。掃除、料理、悩み相談まで、僕のためだけに動くメイドたち。 「ご主人様の笑顔が見たいんです」 その一言で、僕の毎日はちょっとドキドキ、ちょっと幸せ。 全員が僕を独占したいと競い合う日常の中、僕はどうやってこの溺愛地獄(?)を生き抜けばいいのか――!? 甘々、至れり尽くせりの日常ラブコメ、開幕。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります

内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品] 冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた! 物作りを通して、新たな仲間を得た彼は、世界初の技術の開発へ着手していく。 職人ギルドから追放された美少女ソフィア。 逃亡中の魔法使いノエル。 騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。 彼女らもまた、一度は奪われ、失ったものを、物作りを通して取り戻していく。 カクヨムにて完結済み。 ( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )

イケボすぎる兄が、『義妹の中の人』をやったらバズった件について

のびすけ。
恋愛
春から一人暮らしを始めた大学一年生、天城コウは――ただの一般人だった。 だが、再会した義妹・ひよりのひと言で、そんな日常は吹き飛ぶ。 「お兄ちゃんにしか頼めないの、私の“中の人”になって!」 ひよりはフォロワー20万人超えの人気Vtuber《ひよこまる♪》。 だが突然の喉の不調で、配信ができなくなったらしい。 その代役に選ばれたのが、イケボだけが取り柄のコウ――つまり俺!? 仕方なく始めた“妹の中の人”としての活動だったが、 「え、ひよこまるの声、なんか色っぽくない!?」 「中の人、彼氏か?」 視聴者の反応は想定外。まさかのバズり現象が発生!? しかも、ひよりはそのまま「兄妹ユニット結成♡」を言い出して―― 同居、配信、秘密の関係……って、これほぼ恋人同棲じゃん!? 「お兄ちゃんの声、独り占めしたいのに……他の女と絡まないでよっ!」 代役から始まる、妹と秘密の“中の人”Vライフ×甘々ハーレムラブコメ、ここに開幕!

【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。

三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎ 長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!? しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。 ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。 といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。 とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない! フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!

至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件

こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

ダンジョン冒険者にラブコメはいらない(多分)~正体を隠して普通の生活を送る男子高生、実は最近注目の高ランク冒険者だった~

エース皇命
ファンタジー
 学校では正体を隠し、普通の男子高校生を演じている黒瀬才斗。実は仕事でダンジョンに潜っている、最近話題のAランク冒険者だった。  そんな黒瀬の通う高校に突如転校してきた白桃楓香。初対面なのにも関わらず、なぜかいきなり黒瀬に抱きつくという奇行に出る。 「才斗くん、これからよろしくお願いしますねっ」  なんと白桃は黒瀬の直属の部下として派遣された冒険者であり、以後、同じ家で生活を共にし、ダンジョンでの仕事も一緒にすることになるという。  これは、上級冒険者の黒瀬と、美少女転校生の純愛ラブコメディ――ではなく、ちゃんとしたダンジョン・ファンタジー(多分)。 ※小説家になろう、カクヨムでも連載しています。

処理中です...