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第五章:影と光、偽りの平穏
第42話:初めての嫉妬
しおりを挟む王都の喧騒を背にした一行は、西へ向かう街道をゆっくりと進んでいた。季節は、燃えるような夏が終わりを告げ、全てが穏やかな色合いに染まる秋の半ば。空は抜けるように高く澄み渡り、頬を撫でていく風は、日中の暖かさの中に、冬の気配をほんの少しだけ含んでいた。
街道の両脇には、見渡す限りのススキの原が広がっている。傾き始めた夕陽を浴びたその銀色の穂先が、まるで金色の海原のように、風の吹くままに波打っていた。ごとり、ごとり、と馬車の車輪が乾いた土を踏む音と、遠くで鳴く鹿の澄んだ声だけが、広大で静かな風景の中に響いている。世界は、こんなにも穏やかで、美しい。ほんの数日前まで、この身を焦がすような戦いの日々の中にいたことが、まるで嘘だったかのようだ。駿は、流れていく景色をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えていた。
やがて陽が落ち、一行は街道から少し外れた開けた場所で野営の準備を始めた。その中心にいるのは、もちろんアリア姫だ。旅慣れない彼女にとって、全てが驚きと発見の連続だった。
「まあ! 枝にも色々ありますのね! こちらの湿ったものと、こちらの乾いたもの、どちらが火を起こすのに適しているのかしら?」
「……姫様、それはもう、見たまんまだと思うんだが」
駿が呆れながらも一から火の起こし方を教えると、アリアは小さな両手を真っ黒にしながら、必死に火口(ほくち)に息を吹きかける。そして、ぱちり、と小さな火種が生まれた瞬間、彼女は顔を煤だらけにしながらも、心の底から嬉しそうな歓声を上げた。
「すごい! これが火ですのね、駿様! 温かいですわ!」
その無邪気な笑顔と、純粋な尊敬の眼差し。それは、かつてこの旅が始まったばかりの頃、右も左も分からなかった自分を、太陽のような笑顔で導いてくれた千夏の姿を、駿に否応なく思い出させた。胸の奥が、ちくりと痛む。だが、その感傷を振り払うように、駿はわざとぶっきらぼうに言った。
「火が温かいのは当たり前だろ。それより、夕食の準備を手伝え。薪、もっと拾ってこい」
「はいですわ!」
元気よく返事をしたアリアは、今度は夕食の準備に興味津々だ。源が川で獲ってきたばかりの魚を、おずおずと手に取る。
「このお魚、わたくしが捌いてみますわ! こうして、刃を……えいっ!」
気合と共に振り下ろされた小刀は、しかし、ぬるりとした魚の感触に弾かれ、見事にすっぽ抜けた。宙を舞った魚は、美しい放物線を描き、薪を運んでいた源の顔面にクリーンヒットした。びたん! という、小気味良い音が響き渡る。
「ひ、姫様……これは一体、何の訓練で……?」
「まあ! なんて元気なお魚でしょう! まだ生きていたようですわね!」
額に魚を乗せたまま固まる源と、悪びれもせずに目を輝かせるアリア。そのシュールな光景に、栞と小夜はくすくすと笑い声を漏らし、龍之介は腹を抱えて大爆笑している。いつの間にか、一行の中心には、いつもアリアの起こすドタバタと、それを囲む仲間たちの笑い声があった。
彩葉は、その輪から少しだけ離れた場所で、黙って愛刀の手入れをしていた。燃え盛る焚き火の暖かな光も、仲間たちの楽しげな笑い声も、まるで分厚く、透明な一枚の氷の壁に隔てられているかのように、彼女の心には届かない。
彼女の視線の先には、いつも駿がいた。アリア姫に呆れたような顔をしながらも、その口元は確かに笑っている。火の扱い方を教える手つきは、ぶっきらぼうだが優しい。アリアの失敗を笑う声には、棘がなく、温かい。それは、まるで年の離れた妹を見守る、兄のような眼差しだった。
ただ、それだけのことだ。それだけのことなのに。
(……痛い)
自分の胸の奥が、冷たい誰かの手で、ぎゅっと握り締められるように痛む。息が、少しだけ、苦しくなる。刀を持つ指先が、微かに冷えていくのを感じた。
(この痛みは、何ですの……?)
復讐だけを胸に、感情を殺して生きてきた。喜びも、悲しみも、恐怖さえも、ただの現象として客観的に捉え、乗りこなしてきたはずだった。それなのに、今、この胸に巣食う、名前のつけられない痛みは、どうしようもなく彼女自身のものであり、彼女の心を内側から静かに蝕んでいく。
自分の心が、自分の知らない場所で、勝手にざわめいている。自分の知らない感情が、許可もなく湧き上がってくる。その戸惑いが、彼女の表情から、いつもの穏やかな微笑みを消していた。彼女はただ、じっと自分の心に生まれた小さな棘の痛みと、向き合っていた。
「昔のお前なら、そんな顔はしなかったな」
不意に、隣から声がした。いつの間にか、龍之介が酒瓶を片手にどかりと腰を下ろしていた。彼は、彩葉が見つめる先を一瞥し、そして彩葉の硬い表情を見ると、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「復讐の鬼も、人の子になったってことだ。嬉しいような、つまんねえような、複雑な気分だぜ」
龍之介の言葉は、彩葉が必死に目を背けていた感情の正体を、無慈悲に、しかし正確に暴き出す。嫉妬。なんと醜く、人間らしい響きだろう。
「……わたくしは、ただ」
「分かってるさ。お前さんは、ただ、あいつに幸せになってほしいだけ。だが、その隣にいるのが自分じゃねえのが、ちょいとばかし気に食わねえ。違うか?」
図星だった。何も言い返せず、彩葉はただ俯いた。夕闇が、彼女の顔に落ちる影をさらに深くする。彼女の中で、神田駿という存在が、父の仇である戒への復讐という、人生を懸けた大義と同じくらい、あるいは、それ以上に大きなものになりつつある。その事実を、彼女はもう、認めざるを得なかった。
そんな彩葉の葛藤を知ってか知らずか、龍之介は空になった酒瓶を弄びながら、遠い目をして呟いた。
「『心合一刀流』の奥義…お前はまだ使えねえだろ。あれはな、守るべきもんができた時に、初めて開眼する技だ。憎しみじゃ、あの扉は開かねえのさ」
その言葉は、まるで予言のように、秋の夜の冷たい空気の中に、静かに溶けていった。彩葉は、自分の手の中にある、ただの小さな野花をそっと見つめた。それは、以前、駿が薬草と間違えて摘んで、照れくさそうに彼女にくれた、名も知らぬ花だった。いつの間にか、彼女の大切な本の栞になっていた。その乾いた花びらが、今の彼女の心のようだ、と、彩葉は思った。
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