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第五章:影と光、偽りの平穏
第41話:英雄の凱旋と、王女の家出
しおりを挟む戦いの喧騒が嘘のように、王都には静かな朝が訪れていた。夜の間に降った慈雨が、街を覆っていた瓦礫の埃や煤を優しく洗い流し、澄み切った秋の空気が肺の隅々まで満たしていく。空は高く、どこまでも青い。しかし、鼻腔をくすぐるのは、季節の到来を告げる金木犀の甘い香りだけではなかった。まだ微かに残る物が焼けた匂い、雨に濡れた土の匂い、そして鉄の匂い。それらが混じり合った複雑な香りが、数日前の悪夢を忘れさせまいと、記憶の縁を静かになぞっていた。
東の空から昇る朝日は、無慈悲に破壊された建物の残骸にも、瓦礫を片付け始めた人々の額に光る汗にも、分け隔てなく降り注いでいる。それは絶望の終わりと、困難な、しかし確かな希望に満ちた始まりを告げる光だった。
神田駿は、王城の一室からその光景を眺めていた。与えられた部屋は、彼のいた世界のどんな高級ホテルよりも広く、豪華な調度品が並んでいる。だが、彼の心にはまるで馴染まなかった。窓枠に肘をつきながら、この世界の複雑な美しさと、自分がここにいることの奇妙な現実感を、改めて噛み締めていた。俺は、本当にここの住人なんだろうか。それとも、ただの長い夢を見ているだけなのだろうか。答えの出ない問いが、秋の空に溶けていく。
***
王都を救った「寄せ集めの英雄」たちは、国王に謁見することになった。その栄誉ある場は、駿にとって、戦場の最前線よりも遥かに居心地の悪い場所だった。
磨き上げられ、鏡のように一行の姿を映す大理石の床。旅で汚れた駿のブーツや、源の履き古した草履、龍之介の素足に結ばれただけのわらじが、その完璧な平面の上で滑稽なほど浮き上がって見えた。天高くそびえる巨大な柱がいくつも立ち並ぶ謁見の間は、豪華絢爛という言葉では表現しきれないほど壮麗だったが、駿には巨大な鳥籠のようにしか感じられない。空気が重く、息が詰まる。
「面を上げよ、王都の英雄たちよ」
玉座に座す国王の言葉は、威厳に満ちていた。しかし、その感謝の言葉も、謁見の間に居並ぶ貴族たちの、値踏みするかのような視線と、扇子で口元を隠して交わされる侮蔑的な囁き声の前では、どこか空々しく響いた。
「まあ、あのお召し物。まるで野盗の一味ですわね」
「姫君を誑かしたという、あの者かしら。存外、冴えない顔をしておりますのね」
「下賤の者たちが、まぐれで手柄を立てただけのことを……」
聞こえよがしに、しかし決して直接的ではない、粘りつくような悪意。それらは、人の心を苛むための技術が、長い歴史の中で洗練され尽くした結果生まれる、一種の芸術品のようだった。源は、聞こえないふりをしながらも、首の骨をごきりと鳴らしている。龍之介に至っては、隠そうともせず巨大なあくびを噛み殺し、桔梗に脇腹を小突かれていた。栞と小夜は、その場の圧倒的な威圧感に完全に縮こまり、駿の背後に隠れるようにして俯いている。
(英雄、ね……)
駿はその言葉の響きに、まるでサイズの合わない服を無理やり着せられたような、強烈な違和感を覚えていた。「英雄」という肩書き。それは、この国の人々が、自分たちの理解できない現象に、とりあえず貼り付けたレッテルに過ぎない。昨日まではただの異世界からの迷子で、明日からはどうなるかもわからない。確固たる「英雄・神田駿」なんてものは、どこにも存在しない。状況や他人の評価によって、どうとでも変わってしまう、ただの仮初めの名札だ。そのことが、駿には妙に可笑しかった。
そんな考えに耽っていると、謁見の主役であるはずの王女アリアが、凛とした声で一歩前に出た。
「父上、そしてご列席の皆さま。わたくしの決意を、ここにご報告いたします」
場の空気が、ぴんと張り詰める。アリア姫は、居並ぶ貴族たちを睥睨し、そして玉座の父をまっすぐに見つめると、晴れやかに、しかし断固として宣言した。
「わたくし、皆さんと一緒に旅に出ますわ!」
時が、止まった。
いや、正確には、謁見の間にいた駿たち以外の全員の時間が、凍り付いたように見えた。扇子で口元を隠していた貴婦人は、扇子を落としそうになりながらあんぐりと口を開けている。尊大に腕を組んでいた将軍は、その腕がずるりと滑り落ちた。そして、国王陛下は「ひ、ひめ……?」と、威厳のかけらもない声で呟いたまま、金色の置物のように固まっている。
数秒の沈黙の後、謁見の間は蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
「ひ、姫! なりませぬ!」
「何を血迷われたことを! 外の世界は、魔物や盗賊が跋扈する危険に満ちておりますぞ!」
「王女たるもの、淑女として、城内で帝王学を修めるのが務めでございます!」
老練な大臣たちが、顔面蒼白になり、中には卒倒寸前の者までいる。彼らは必死の形相で、国の宝である姫君を説得しようと試みた。しかし、アリア姫の決意は、彼らが想像する以上に固かった。彼女は、その全ての言葉を、静かに、しかし有無を言わせぬ態度で受け止めると、再び口を開いた。その声は、もはやただの可憐な王女のものではなかった。
「書物で読む飢饉の恐ろしさと、目の前で飢える子供の涙。どちらが、この国の未来を知るために必要か、皆さまにはお分かりになりませんの?」
その一言に、騒がしかった場が水を打ったように静まり返る。
「わたくしは、この国の土を踏み、風を感じ、人々の声を聞きたいのです。城壁の中から地図を眺め、報告書を読むだけの女王に、どうして民の心が分かりましょう。わたくしが見てきた彼らは、決して野盗などではありません。この国を、民を、命を懸けて守り抜いた、真の勇士たちです。わたくしは、彼らと共に歩むことで、この国の真の姿を学びたい。それこそが、次代の女王となるわたくしに課せられた、最も重要な帝王学だと信じます!」
その瞳には、単なる好奇心や若さ故の冒険心ではない、次代の国を背負う者としての、確固たる覚悟が陽炎のように揺らめいていた。もはや、誰一人として、反論の言葉を口にすることはできなかった。
***
結局、国王が涙ながらに折れた。「姫の安全を確保するための、極めて重要な国内視察の旅」という、何重にも言い訳がましい名目がつけられ、一行へのアリア姫の同行は、半ば強引に認められることになった。
ただし、一つの条件が付け加えられた。姫の護衛、そして一行のお目付け役として、元武家の出身であり、剣の腕も立つ龍之介と、規律に厳しく、その素性を幕府が正式に保証した桔梗が、常に姫の傍にいること。龍之介は「やれやれ、酒を飲む時間が減るな」とぼやき、桔梗は「任務とあらば」と無表情に頷いた。
その夜、駿は一人、城下町の復興地区を歩いていた。王都での戦いで得た報奨金は、彼のいた世界で一生遊んで暮らせるほどの莫大な額だった。駿は、その金のほとんどが入った革袋を、人知れず新設された戦災孤児を支援するための基金の受付窓口に、名前も告げずに置いてきた。大金など、今の自分には何の価値もない。それよりも、瓦礫の中で逞しく遊ぶ子供たちの未来に、少しでも役に立つ方がいい。それは偽善でも自己満足でもなく、ただ、そうするのが当たり前だと、ごく自然に思ったからだった。
駿が身を翻してその場を去ろうとした、その時。物陰から、息を呑む気配がした。
「……見て、しまいましたわ」
そこに立っていたのは、アリア姫だった。彼女は、供も連れず、ただ一人でそこにいた。その瞳は、驚きと、困惑と、そして今まで駿に対して向けたことのない、熱っぽい何かが混じった色をしていた。
「なぜ……? あれほどの功績を立てた貴方が、なぜ、その当然の報いを、誰にも知られず……」
「別に。俺には必要ない金だから」
ぶっきらぼうに答える駿に、アリア姫は何かを言おうとして、やめた。彼女はただ、じっと駿の顔を見つめていた。王女としてではなく、一人の少女として。彼女の中で、「得体の知れないならず者」という評価が音を立てて崩れ、代わりに、損得勘定では決して動かない、「本物の気高さ」を持つ一人の男性の姿が、ゆっくりと形作られていく。その瞬間、彼女の胸が、とくん、と小さく鳴ったのを、駿は知る由もなかった。
数日後。王城の堅苦しいドレスを脱ぎ捨て、庶民の娘が着るような簡素だが動きやすい旅装束に身を包んだアリア姫は、生まれて初めて本格的に足を踏み入れる城下町の市場で、その瞳をこれ以上ないほど輝かせていた。
「すごい! すごいですわ、駿様! 見てください、あの真っ赤な果実は何ですの!? あちらの、煙を上げて焼かれているお魚は!?」
「リンゴと、イワナの塩焼きだ。そんなにはしゃぐなよ、目立つだろ」
「まあ! なんて香ばしい香り! 一ついただきますわ! ……むぐっ、この棒も食べられますの!?」
「串は食うな! それから金は払え!」
次々と現れる未知の食べ物や品物に、アリア姫の興奮は最高潮に達している。その姿は、威厳に満ちた王女ではなく、ただの好奇心旺盛な少女そのものだった。その隣で、これからさらに増えるであろう最大級の厄介事を抱え込み、駿は秋空よりも高く、そして深い深いため息をつくのだった。
こうして、王都を救った英雄ご一行様(プラス、好奇心という名の爆弾を抱えた家出王女)の、さらに混沌として、予測不能な旅が、再び幕を開けた。アリア姫が、その小さな荷物の中に、王家の宝物庫からこっそり持ち出した古びた羅針盤を忍ばせていることには、まだ誰も気づいていなかった。その羅針盤が、時折、北の海の方角を指して、微かに青い光を放っていることも。
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※小説家になろう、カクヨムでも連載しています。
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