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第五章:影と光、偽りの平穏
第44話:【回想】裏切りの紅
しおりを挟む数年の歳月が、少女を忍へと変えた。桔梗は、時雨が率いる精鋭部隊の一員として、数々の影の任務をこなしていた。その夜も、その一つに過ぎないはずだった。
月明かりだけを頼りに、彼らはある地方大名の城下町に広がる広大な屋敷の屋根を、音もなく渡っていた。任務は、大名が幕府への謀反を企てているという動かぬ証拠の密書を奪取すること。風が屋敷の庭に植えられた松の木を揺らし、その葉擦れの音(さわすれのね)が、まるでこれから起こる悲劇を予感しているかのように、ざわざわと不吉に響いていた。
桔梗は、すぐ前を行く時雨の背中を見つめていた。幾多の死線を越え、彼の隣に立つことを許された今、彼女の心には確かな自信と、そして密やかな決意が宿っていた。この任務が終われば、ずっと胸の奥にしまい込んできた、この焼け付くような想いを伝えよう。道具としてではなく、一人の女として、貴方の隣にいたいのだと。そのことだけを考え、冷たい夜気とは裏腹に、彼女の頬は微かに火照っていた。
だが、任務はあまりに順調に進みすぎていた。
屋敷の警備は手薄で、巡回する兵士たちの動きはどこか緩慢だ。目的の書庫への道筋も、まるで示し合わせたかのように開かれている。桔梗の心の片隅で、奈落で叩き込まれた生存本能が、甲高い警鐘を鳴らしていた。これは、罠だ。
彼女がその違和感を声に出そうとした、まさにその瞬間だった。
屋敷の全ての引き戸が、轟音と共に一斉に閉ざされた。退路はない。次の瞬間、庭の至る所から松明の火が灯され、闇の中から無数の敵兵が、亡霊のように姿を現した。その数は、桔梗の部隊の数十倍はいるだろう。完全に、包囲されていた。情報は、どこからか漏れていたのだ。
「敵襲! 囲まれたぞ!」
仲間の一人の絶叫を皮切りに、静寂は破られた。怒号と悲鳴、刃が骨を断つ生々しい音が、桔梗の耳にこびりつくように鳴り響く。つい先刻まで仲間と冗談を言い合っていた男が、胸から槍を生やして崩れ落ちる。血飛沫が、桔梗の頬を濡らした。
「落ち着け! 陣形を組め!」
時雨の冷静な声が飛ぶが、圧倒的な数の暴力は、いかなる陣形も無意味に変える。一人、また一人と、仲間たちが血の海に沈んでいく。桔梗も必死で刃を振るうが、敵は無限に湧いてくるようだった。その混乱の最中、桔梗は一瞬だけ、敵を指揮する仮面の男の姿を捉えた。その男の首筋に、血のように赤い刃の刺青が彫られているのが、松明の光に妖しく照らし出されていた。
「くそっ、キリがねえ……!」
もはや、これまでか。誰もが死を覚悟した、その時だった。
「桔梗」
絶体絶命の状況下で、時雨の声は不思議なほど静かだった。彼は冷静に戦況を判断し、懐から一つの巻物を桔梗に託した。 それこそが、今回の任務の目的である、謀反の証拠だった。
「桔梗、お前は生きろ。この証拠を、必ず幕府に届けるんだ」
「時雨様!?何を……! 嫌です、私も共に!」
「聞け」。時雨の声は、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は、桔梗と残った仲間たちが逃げるための時間を、たった一人で稼ぐことを決意したのだ。それは、死を意味していた。
「行け! これは、隊長命令だ!」
その言葉が、桔梗の足を縫い止めていた見えない楔を打ち砕いた。涙で視界が滲む。歯を食いしばり、血の味がする唇で、彼女はただ一言、「御意」とだけ答えた。
残った仲間たちと共に、死に物狂いで血路を開く。背後で、時雨の咆哮が聞こえた。敵兵が一斉に彼へと殺到していく。
振り返ってはいけない。分かっているのに、桔梗は振り返ってしまった。
その瞬間、世界から音が消えた。
時雨の足元で、敵が仕掛けたであろう無数の起爆札が、一斉に光を放った。凄まじい閃光と、遅れてやってくる腹の底を揺さぶるような轟音。全てを飲み込む巨大な炎の塊が、夜の闇を真昼のように照らし出した。
燃え盛る炎をその身に受けながら、時雨は最後に、確かに桔梗の方を向き、静かに微笑んだように見えた。
(私が、未熟だったから)
闇の中を、ただひたすらに走る。涙はとうに枯れていた。
(私が、もっと、もっと強ければ、時雨様は死なずに済んだ)
憧れの隊長を、仲間たちを、自分の手で死なせてしまった。その罪悪感が、焼け火箸のように彼女の心を深く、深く抉っていく。
時雨の最後の言葉、「生きろ」。
それは、彼女にとって未来への希望ではなかった。一生をかけて背負い続けなければならない、あまりにも重い、呪いの言葉となった。
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