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第五章:影と光、偽りの平穏
第46話:力の御し方
しおりを挟む月が、剃刀のように鋭く、冷たい光を地上に投げかけていた。一行は、深い森の中にいた。季節はすっかり秋めいて、夜の空気は肌を刺すほどに冷え込んでいる。霜が降り始めた枯れ葉を踏みしめる「カサカサ」という自分たちの足音と、時折、梢を黒々と揺らす風の音、遠くで響くフクロウの物悲しい鳴き声だけが、張り詰めた静寂を支配していた。
桔梗が残した僅かな痕跡を、駿たちは息を殺して追っていた。その痕跡は、一切の迷いなく、最短距離で森の奥へと続いている。それはまるで、彼女の孤独な決意そのものが、道となって現れているかのようだった。駿は、先を行くであろう彼女の、小さな背中を思った。彼女は今、どんな顔をしているのだろう。どんな思いで、たった一人、過去と対峙しようとしているのだろう。
「わたくしに任せなさい! 王家の者は、闇の中でも道を見失いませんわ!」
そんな駿の焦燥を切り裂くように、アリア姫の自信に満ちた声が響いた。彼女は、王家の秘伝とやらで鍛えた夜目を頼りに、ずんずんと先頭に立つ。しかし、その自信が継続したのは、わずか三分ほどのことだった。
「……おかしいですわね。この妙に捻くれた形の木、先ほども見ませんでしたこと?」
「見ましたね。ええ、三回ほど」
栞の冷静な指摘に、アリアは「むむむ」と頬を膨らませる。その間に、痺れを切らした二人の猛獣が、それぞれの野生の勘(という名の、ただの思い込み)を頼りに、一歩も譲らぬ言い争いを始めていた。
「ちっ、こっちの道だ。獣の匂いがする。間違いねぇ」
「馬鹿を言え、源。風向きを考えろ。こっちが風上だ。匂いがするなら、獲物はこっち側にいるはずだ」
「なんだと龍之介! 俺の鼻を疑うのか!」
「疑うさ。お前の鼻は、酒と団子の匂いしか嗅ぎ分けられんだろうが」
一触即発。今にも拳と木刀が火花を散らしそうなその混沌を、すっと差し込まれた一本の鞘が、静かに制した。彩葉だった。彼女は、鞘に収まったままの愛刀で、二人の間の地面にすっと一本の線を引くと、絶対零度の微笑みを浮かべて言った。
「お二人とも、その線から一歩でも動いたら、どうなるかお分かりですわよね?」
その微笑みには、「この場で解体して森の肥料にしますわ」という、声に出さない言葉がはっきりと書かれていた。源と龍之介は、互いに睨み合ったまま、青ざめてぴしりと固まった。
(……くそっ)
駿は、その一連のドタバタを、ただ唇を噛み締めて見ていることしかできなかった。焦りと、どうしようもない無力感が、胃のあたりを重くする。俺に何ができる? 桔梗のやつを追うための、特別な追跡技術があるわけじゃない。こいつらをまとめ上げる、リーダーシップがあるわけでもない。
王都での戦いで見せた、あの奇跡のような力。あれは、仲間を守りたいという一心だけで、偶然発動しただけの、制御不能なまぐれ当たりに過ぎなかった。今の自分には、あの力の片鱗すら引き出すことはできない。それどころか、夜、眠りにつくと、悪夢にうなされた。自分の力が暴走し、仲間たちを、この世界そのものを、ぐちゃぐちゃに歪ませてしまう夢だ。力が欲しい。仲間を守るための、確かな力が。しかし、その力は同時に、全てを破壊しかねない、恐ろしい刃でもあった。
一行が、まるで出口のない迷路を彷徨うように森を進んでいると、不意に視界が開けた。木々の切れ間から、古びた山寺の屋根が、月の光を受けて静かに浮かび上がっていた。桔梗の痕跡は、その寺へと続く石段の前で、ぷっつりと途切れていた。
情報収集のため、一行は恐る恐る山門をくぐる。掃き清められた境内は静まり返り、本堂の奥から、かすかにお香の匂いが漂ってくるだけだった。
「どなたかな」
本堂の暗がりから現れたのは、一人の老いた僧だった。皺だらけの顔、しかし、その眼光は剃刀のように鋭く、まるで一行の心の奥底まで見通しているかのようだ。岩のようにがっしりとした体躯は、ただの僧侶のものではない。彼こそ、源の師範の旧友であり、かつて彩葉の父と「天下一」の称号を争ったこともあるという、引退した元僧兵・鉄心その人だった。
鉄心は、一行を一人一人値踏みするように見渡し、やがてその視線を、駿にぴたりと固定した。
「……小僧、おぬしの力は面白い」
その声は、古寺の鐘のように、低く、重く響いた。
「世界の皮を一枚めくるような、危うい力じゃ。じゃが、今のままでは、世界を救う前に、おぬし自身がその力に食い尽くされるぞ」
図星だった。駿が、誰にも言えずに心の奥底で感じていた恐怖そのものを、この老僧は一目で見抜いたのだ。
プライドも、見栄も、何もかもが吹き飛んだ。駿は、その場に崩れるようにして膝をつき、固い石畳に額を擦り付けた。
「教えてください! 俺は、あいつを……桔梗さんを、仲間を守るために、この力が欲しいんです! このままじゃ、俺は……!」
その必死の、魂からの叫びに、鉄心はしばらく何も言わず、ただじっと駿を見下ろしていた。やがて、その厳しい表情がほんの少しだけ和らぎ、静かに、しかし力強く頷いた。
「よかろう。その覚悟、本物と見た」
鉄心は、次に源の方へと向き直った。その目は、先ほどとは違う、旧友の弟子に向ける慈しみの色を帯びていた。
「源よ、おぬしの師・流水は、優しく、そして強い、良き男だった。じゃが、その死には裏がある」
「……どういう、ことですかな」
「奴は、死ぬ数日前に、わしにこの手紙を託しに来た。『もしわしが道を踏み外した時、あるいは、わしの身に何かあった時は、これを源に渡してくれ』とな」
鉄心は、懐から取り出した一通の古い手紙を、源に手渡した。源は、震える手でそれを受け取る。それは、紛れもなく、師の筆跡だった。手紙には、彼の知らない師の苦悩と、そして、師がその命を懸けて結んだという、謎の「契約」について、断片的に記されていた。
駿は、修行のため、鉄心によって寺の奥にある書庫へと通された。埃っぽく、古びた経典の匂いが満ちるその部屋の壁に、一枚の巨大な曼荼羅が掛けられている。その複雑で美しい模様の中心に、駿は見覚えのある紋様を見つけた。鈴の一族が命を懸けて守っていた祠の奥に刻まれていたのと、全く同じ、不気味な渦巻き模様。それが、まるで生きているかのように、じっとりと、駿のことを見つめていた。
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