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第六章:北海の呼び声、目覚める古の災い
第56話:古の王の咆哮
しおりを挟む空の色が変わったのは、三日前のことだった。 海竜(わだつみ)号が北へと針路を取り、温暖な南の海流から、骨身に染みる寒流へと乗り入れてしばらく経った頃から、それまでコバルトブルーに輝いていた空は徐々にその彩度を失い、まるで巨大な鉛の板をどこまでも広げたかのような、重く、鈍い灰色に覆われるようになった。太陽は、その分厚い雲のフィルター越しに、弱々しく、存在を示すだけの頼りない光を投げかけるばかりで、昼間だというのに、船上は常に薄暮のような薄暗さに沈んでいた。
海の色もまた、劇的な変貌を遂げていた。南の海が見せた、生命を謳歌する陽気なターコイズブルーやエメラルドグリーンはもはやどこにもなく、代わりに広がっていたのは、全ての色を飲み込んだかのような、冷たく、深い藍色。それは時折、不気味なほどの黒さを覗かせ、まるで深淵そのものが口を開けているかのように見えた。見つめていると、吸い込まれそうな感覚に襲われ、駿は慌てて視線を水平線へと逃がした。
風も、もはや頬を撫でる優しい愛撫ではなかった。それは常に低く唸り声を上げ、マストに絡みついては船全体を揺さぶり、悪意に満ちた獣のように荒れ狂った。肌を突き刺すような冷気と、氷のように冷たい潮の飛沫(しぶき)が容赦なく甲板に叩きつけられ、防水のマントを着込んでいても、体温は容赦なく奪われていく。波は高く黒くうねり、まるで太古の巨大な獣が深い眠りの中で繰り返す、ゆっくりとした、しかし途方もなく力強い呼吸のように見えた。
「おいおい、こりゃあ、ちとヤベェ海に来ちまったんじゃねえか?」 いつもは冗談ばかり飛ばしている龍之介ですら、その異様な光景に顔を引きつらせ、乾いた笑いを漏らした。隣に立つ源は、その岩のような巨体で仁王立ちになり、眉間に深い皺を刻んで、ただ黙って荒れ狂う海を見据えている。彩葉は、寒さを感じさせないいつもの穏やかな微笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥には、これまでになく真剣な光が宿り、片時も鞘に収めた愛刀から手を離そうとはしなかった。
「お覚悟を。ここから先は、地図にも載らぬ魔の海域。生きて帰れる保証はありゃしませんよ」 最も変化が顕著だったのは、この船の船長である波(なみ)だった。あれほど陽気で、どんな時でも軽口を叩いていた彼女が、この海域に入ってからは、まるで別人のように寡黙になったのだ。日に焼けた快活な笑顔は消え、その瞳は羅針盤と、羊皮紙に描かれた古びた海図との間を、鋭く、何度も往復している。冗談を言うのをやめた彼女の横顔には、海の民として、この海に対する深い畏敬と、そして隠しようのない緊張の色が浮かんでいた。
アリア姫は、そんな船長を心配そうに見つめていたが、彼女自身もまた、己の持つ王家の羅針盤の異変に気づいていた。それは王都を出る際に彼女がこっそり持ち出した、王家に代々伝わるという古びた羅針盤だったが、この海域に入ってからというもの、その針は常に南北を指し示すことをやめ、まるで怯える小動物のように、小刻みに震え続けているのだ。
「海が、泣いているようですわ…」 アリア姫が、ぽつりと呟いた。その言葉は、風の唸りにかき消されそうなほどか弱かったが、妙に駿の耳に残った。
重く湿った空気が、船全体を、そして一行の心を支配していた。誰も口を開かず、ただ風と波の音だけが響く。それは、生ける者の侵入を、世界そのものが拒んでいるかのような、ただならぬ気配。神話の時代の海。波の言葉が、妙に現実味を帯びて駿の心に響いた。
その時だった。
「霧だ!」 マストの見張り台にいた船員の一人が、切迫した声で叫んだ。 前触れは、なかった。まるで世界から色が失われるように、乳白色の濃い霧が、音もなく海竜号を包み込んでいく。ほんの数秒前まで見えていたはずの波のうねりも、鉛色の空も、全てが均一な白に塗りつぶされていく。視界は、瞬く間に数メートル先までしか効かなくなり、すぐ隣にいる仲間の顔すらも、白いベール越しに見ているかのようにぼやけて見えた。
「おい、栞! 小夜! 大丈夫か!?」 駿が声を張り上げるが、自分の声すらも霧に吸い込まれてくぐもって聞こえる。まるで分厚い綿の中にいるようだ。 「だ、大丈夫ですわ! ちょっと目が回るだけで…!」 「…気持ち、悪い…」 栞と小夜のか細い声が、少し離れた場所から返ってきた。二人は船酔いに加えて、この異常な霧のせいで、すっかり気分が悪くなっているようだった。
「全員、ロープに掴まれ! 何が起きても、絶対に離すんじゃねえぞ!」 波の鋭い声が飛ぶ。彼女の声だけが、この濃霧の中でも不思議とよく通った。船乗りたちは、慣れた手つきでマストや手すりに体を固定していく。音もなく、ただ白い虚無の中を進む船内には、言い知れぬ緊張感がみなぎっていた。それは、目に見えない敵に対する警戒感であり、人知を超えた現象への根源的な恐怖だった。
その時、アリア姫が息を呑む声が聞こえた。 「羅針盤が…!」 彼女が差し出した王家の羅針盤の針は、もはや震えているだけではなかった。まるで狂ったように、目にも止まらぬ速さでぐるぐると回転を始めていたのだ。そして、羅針盤の中心に嵌め込まれた小さな青い宝石が、警告を発するかのように、激しく明滅を繰り返している。
「何かが、来る…?」 駿が呟いた、その瞬間。
霧の向こう、遥か前方に、巨大な「何か」の影が、ゆっくりと、しかし確実にその姿を現し始めた。それは最初は、ただの濃い影にしか見えなかった。水平線に浮かぶ、巨大な島影のようにも見えた。しかし、船が進むにつれて――いや、あるいは影の方がこちらに近づいてくるにつれて――その輪郭は徐々にはっきりとしていき、それがただの地形などではないことを、一行は悟らざるを得なかった。
山脈。いや、違う。それは、生きていた。
まるで、海の中から巨大な山脈が隆起してきたかのような、途方もないスケール。その影は、ゆっくりと、しかし着実にその高さを増していき、やがて鉛色の雲を突き抜け、天蓋に達するかのようにそびえ立った。それは、生命と呼ぶにはあまりに巨大すぎ、自然と呼ぶにはあまりに異様な存在感を放っていた。
「嘘だろ…」 誰かが、かすれた声で呟いた。船乗りたちは顔面蒼白になり、経験豊富なはずの波ですら、その光景を信じられないといった表情で目を見開いている。
やがて、まとわりつくように立ち込めていた霧が、まるで巨大な舞台の緞帳が上がるかのように、ゆっくりと晴れていく。そして、その全貌が、一行の目の前に、圧倒的な現実として現れた。
古代の海竜、『リヴァイアサン』。
その巨体は、一行が乗る全長数十メートルの海竜号が、まるで木の葉でできた小舟のように思えるほど、途方もなく巨大だった。濡れた岩のように黒光りする鱗は、一枚一枚が家ほどもある大きさで、全身を覆っている。天を衝くほどの長い首を持ち上げ、その頂点にある頭部は、それ自体が小高い丘のようだった。爛々と輝く二つの巨大な目は、まるで溶岩のように赤く燃え、この矮小な侵入者たちを冷たく見下ろしている。口からは、白い蒸気のようなものが絶えず漏れ出し、それが霧を散らした原因らしかった。
しかし、一行を何よりも戦慄させたのは、その巨大な頭部の額、二つの目のちょうど真ん中で、不気味に輝き、脈打っている、黒い渦巻き模様の紋章だった。 それは、まるで深淵を覗き込むかのような、禍々しい闇の色をしていた。
駿は、その紋章を見た瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。 見間違えるはずがない。あれは――王都の上空で、自分がこじ開けたワームホールと、全く同じ形をしていた。王都を救うため、千夏が作り出した好機に、自分が全ての力を込めて異界へと追放した、あの「災厄」のエネルギー。それが、こんな形で、目の前に現れるなんて。
『災厄の第一のしもべが、北の海で目覚めた!』
砦で消滅した、偽の時雨が最後に遺した言葉が、脳内で雷鳴のように響き渡った。あの言葉は、ただの戯言ではなかった。現実の、そして絶望的な脅威として、今、彼らの目の前に突きつけられたのだ。
「グルォォォォォォォォォォォォッッ!!」
リヴァイアサンの咆哮が、世界を震わせた。 それは、ただの音ではなかった。物理的な衝撃。空間そのものを歪ませる、純粋な力の奔流だった。目に見えない衝撃波が海面を走り、さざ波どころではない、巨大な水の壁となって海竜号へと迫る。
「衝撃に備えろォォォッ!!」 波の絶叫が響く。
次の瞬間、海竜号は根元から揺さぶられ、木の葉のように激しく傾いた。甲板にいた仲間たちは、なすすべもなく船体に体を打ち付けられ、あるいはロープにしがみつくのがやっとだった。 「ぐぅっ!」 源ですら、その巨体を踏ん張らせるのに苦労している。小夜と鈴は悲鳴を上げ、栞は眼鏡を飛ばされそうになりながら必死に柱に抱きついている。
衝撃波に続き、凄まじい風圧が船を襲う。風を孕んで大きく膨らんでいたはずの帆が、まるで薄い紙のように、けたたましい音を立てて引き裂かれていく。太く頑丈なマストが、「メキィッ!」「ミシミシッ!」と、悲鳴のような軋み音を上げた。今にもへし折れてしまいそうだ。
「言い伝えは…本当だったのか…」 波が、顔面蒼白になりながら、震える声で呟いた。その目は、目の前の怪物を捉えながらも、どこか遠い過去を見ているようだった。 「古(いにしえ)の王が…目覚めちまった…」
それは、人の力が到底及ばない、神話の時代の天災そのものだった。 駿は、リヴァイアサンの額で不気味に脈打つ、黒い渦巻き模様から目を離せずにいた。 (俺が…俺が、あいつを、目覚めさせたのか…?) 王都を救うためとはいえ、自分の力が、この伝説の怪物を呼び覚まし、仲間たちを、そしてこの海の平穏を脅かしている。その事実が、鉛のように重く、彼の心を沈ませていく。 圧倒的な絶望感の中、海竜は再び、その巨大な顎(あぎと)を開こうとしていた。
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