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第八章:言の葉の檻、折れた刃の誓い
第72話:攻略本は、この頭の中に
しおりを挟む【神田 駿の意識の中】
現実の五重塔、仲間たちの苦悶の声、そして得体の知れない「コトダマ」の囁きが、急速に遠ざかっていく。駿の意識は、今、別の場所へと飛んでいた。そこは物理的な空間ではない。彼の脳内に構築された、広大無辺な記憶の宮殿。彼の人生そのものと言っても過言ではない、知識の貯蔵庫だった。
床から天井まで、視界の限り続く壁という壁を埋め尽くしているのは、無数の書物。背表紙の色褪せた文庫本、豪華な装丁の単行本、分厚い設定資料集――彼が物心ついた頃から、文字通り寝る間も惜しんで読み漁ってきた、数万冊に及ぶライトノベルの山、山、山。古紙とインクの匂いが、現実よりもなお鮮明に感じられる。
(どこだ…どこにある…!)
駿は、その書架の間を目まぐるしい速度で駆け抜けていた。求める書物はただ一つ。全ての始まりであり、そしておそらく、全ての元凶でもある一冊。『終焉の勇者と七つの災厄』。その中でも、第七の災厄・コトダマとの決戦が描かれた、第8巻。
彼の脳内で、ページがパラパラと、現実ではありえない速度でめくれていく。美しい挿絵、胸を熱くしたセリフ、そして、絶望的な戦闘描写。仲間たちがコトダマの「定義」によって次々と無力化されていく、あの悪夢のようなシーン。ページをめくる指(もちろん、それもイメージに過ぎないが)が、焦りからか微かに震える。
(コトダマの能力は『定義』。言葉によって存在を縛る力だ。物理攻撃は意味がない。精神攻撃に近いが、単に弱点を突くだけじゃない。弱点を『真実』として押し付け、存在そのものを書き換えてしまう…!)
駿は、ラノベの戦闘描写を寸分違わず思い出しながら、敵の能力を冷静に分析する。頭は奇妙なほど冴え渡っていた。現実逃避にも似た集中力が、彼を記憶の深淵へと導いていく。
(主人公パーティーも、最初は手も足も出なかった。どうやって、あの絶望的な状況をひっくり返した…? 鍵は、コトダマが『どうやって世界を認識しているか』、その仕組みにあったはずだ…!)
さらにページがめくれる。主人公が、仲間たちが倒れていく中で、血反吐を吐きながらも思考を巡らせる場面。そして――あった。反撃の狼煙が上がる、あの見開きページが、脳裏に鮮烈に映し出された。
(これだ…! コトダマは『言葉によってしか』、物事を認識できない!)
それが、第七の災厄が持つ、唯一にして最大の弱点だった。言葉を操るが故に、言葉に縛られている。つまり、攻略法は二つ。
一つ目は、**『沈黙』**。
心を完全に「無」にする。一切の思考を止め、内なる声を含む、あらゆる「言葉」の発露を消し去る。そうすれば、コトダマは攻撃対象として認識することすらできなくなる。まるで、その場に存在しないかのように。
二つ目は、**『矛盾』**。
コトダマの存在そのものが、「言葉による定義」の上に成り立っている。故に、自己矛盾を引き起こす言葉、いわゆるパラドックスをぶつけることで、その存在基盤そのものを揺るがし、不安定にさせることができる。「絶対に開かない盾」と「全てを貫く矛」のような、論理的に両立し得ない概念を突きつけることで、定義によって成り立つコトダマ自身が混乱し、力を維持できなくなるのだ。
(これしかない…!)
現実への帰還。駿の意識が、五重塔の最上階へと引き戻される。耳をつんざくような仲間たちの苦悶の声と、コトダマの不快な囁きが、再び現実のものとなる。仲間たちは依然としてコトダマの精神攻撃に苦しめられ、まさに絶望の淵に立たされていた。時間は、ない。一刻の猶予もなかった。
「小夜!」
駿は叫んだ。それは、彼がこの世界に来てから発した中で、最も大きく、最も迷いのない声だった。もはや、この異常事態を嘆いている暇はない。ラノベの知識が通用するなら、それを使うまでだ。それが今、自分にできる唯一のことなのだから。彼の思考は、仲間たちを救いたいという一心――「正思惟」――によって、一点に研ぎ澄まされていた。
「聞こえるか!? 俺の周りに、結界を張ってくれ! 音も! 光も! 風も匂いも! 何も通さない、完全な『無』の空間を!」
小夜は、月白の傍らで意識朦朧としながらも、駿の強い意志に引かれるように、かろうじて顔を上げた。その瞳には、まだ恐怖の色が残っている。しかし、駿の、仲間たちの、そして月白を守りたいという想いが、彼女に最後の力を振り絞らせた。震える指で、複雑な印を結ぶ。駿の身体を中心に、半径1メートルほどの空間が、まるで黒いガラスで覆われたかのように、絶対的な静寂と暗闇に包まれた。外の光も音も、コトダマの囁きすらも、そこには届かない。
「栞!」
次に駿が名を呼んだのは、知識の泉であり、そして今は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている賢者だった。
「パラドックスだ! ありったけの矛盾した言葉を考えろ! 『絶対に開かない盾』と『全てを貫く矛』、『全知全能の神は、自分でも持ち上げられない岩を作れるか』みたいなやつ! でかい声で! できるだけ多く! 叫び続けろ!」
「は、はいぃぃぃっ!」栞は完全にパニック状態だったが、駿の切羽詰まった声に突き動かされ、反射的に立ち上がった。分厚い眼鏡の奥の目が、涙で潤みながらも必死に何かを探している。「む、矛盾…矛盾ですわね!? えっと、えっと…『壁に書かれた『この壁の記述を読むな』という命令は読むべきか読まざるべきか!?』とか! それから、『クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言いました! この言葉は真実か嘘か!?』とか!?」
学者としての知識を総動員し、汗と涙と鼻水を盛大に垂らしながら、必死で哲学的な難問や論理パズルを叫び始める栞。その姿は、お世辞にも格好良いとは言えなかったが、その必死さは、絶望的な状況の中で、僅かな、しかし確かな変化を生み出した。
コトダマの無数の口の動きが、ほんの一瞬、明らかに「?」と戸惑ったように見えたのだ。栞の叫ぶ言葉の意味を理解しようとしているのか、あるいはその矛盾した響きそのものに混乱しているのか。
「栞ちゃん、なんか…ちょっとズレてない?」「いや、でも…効いてる、のか?」源や龍之介が、苦しみながらも、その奇妙な光景に僅かな希望(と、若干の失笑)を見出す。絶望だけが支配していた空間に、ほんの少しだけ、予測不能な風穴が開いた瞬間だった。
一方、小夜が作り出した「無」の結界の中。駿は、完全に外界から遮断されていた。聞こえるのは、高鳴る自分の心臓の鼓動と、激しい呼吸音だけ。彼は、ラノベの主人公がやっていたように、その場に胡坐をかき、瞑想するように意識を集中させる。
(考えるな。言葉にするな。ただ、感じろ。風の流れを。空気の重さを。自分の存在を。言葉になる前の、ただの感覚だけを…)
思考を止める。心を空っぽにする。言うは易いが、それは想像を絶するほど困難な作業だった。仲間たちの苦しむ声が幻聴のように聞こえる。千夏の笑顔がちらつく。彩葉の悲しげな瞳が浮かぶ。様々な思考や感情が、次から次へと湧き上がっては、駿の心を乱そうとする。
(ダメだ、集中しろ…! 無だ。俺は、空っぽだ…)
彼は、ただひたすらに、呼吸に意識を向けた。吸って、吐いて。その繰り返されるリズムだけが、かろうじて彼を繋ぎとめている錨だった。
外では、コトダマが駿の姿を完全に認識できなくなったことに、さらなる混乱を深めていた。
『消えた…? いや、いる。気配はある。だが、認識できない…!』
『なんだ、この感覚は…? 定義できない存在…? 不快だ。異物め…!』
コトダマは、苛立ち紛れに周囲の空間に向けて、無差別な言霊攻撃を放ち始める。「絶望せよ!」「苦しめ!」「死ね!」。しかし、その言葉の刃は、小夜が張った「無」の結界にぶつかると、まるで硬い壁に跳ね返されるかのように霧散し、駿には一切届かなかった。
その間にも、栞は必死にパラドックスを叫び続けていた。
「『ここは天国だ』と全ての住人が主張する地獄は存在可能か!?」
「『明日やろう』と言い続けて永遠に実行されない宿題のパラドックス!」
「タイムトラベラーが過去に戻って自分の祖父を殺したらどうなるのか!?」
その言葉の礫(つぶて)が、雨垂れ石を穿つように、確実にコトダマの存在を不安定にさせていく。黒い霧のような体が、ノイズが激しく走ったように明滅し、無数の口から発せられる囁き声にも、明らかな乱れと不協和音が生じ始めていた。定義によって成り立つ存在が、定義できない矛盾に晒され、その基盤を揺るがされているのだ。
(今だ…!)
「無」の結界の中で、駿は好機を確信した。コトダマの防御が、僅かに、しかし確実に揺らいだ。後は、仲間たちが、自分自身の力で、コトダマが植え付けた「定義」という名の心の檻を打ち破ることだ。
駿は、結界の外にいるであろう小夜に向かって、心の中で強く念じた。(小夜、合図したら、結界を解いてくれ!)
反撃の時は、来た。
ラノベの知識という、この世界にとっては異質すぎる「攻略本」を手にした駿。彼は、絶望的な状況の中で、初めて明確な勝利への道筋を見出した。あとは、仲間たちが、自分自身の力で心の檻を破り、立ち上がることができるかどうか。
五重塔の頂上で、運命の戦いの第二幕が、今、始まろうとしていた。コトダマの不協和音が、嵐の前の静けさのように、不気味に響き渡っていた。
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