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第八章:言の葉の檻、折れた刃の誓い
第74話:【回想】天下一の父、最期の教え
しおりを挟む【彩葉の意識の中 ― コトダマが見せる悪夢】
桜が、燃えている。
見渡す限り、視界を埋め尽くすのは燃え盛る炎と、黒煙。かつて、春には淡い薄紅色に染まり、風が吹くたびに甘い香りを運んできた桜並木は、今や巨大な松明のように天を焦がし、断末魔のような音を立てて崩れ落ちていく。家々は容赦なく炎に飲み込まれ、美しい白壁も、丹念に手入れされた庭も、全てが等しく灰燼に帰していく。
熱風が、焼け焦げた肉の匂いと、生々しい鉄の匂いを運んでくる。空からは、純白であったはずの桜の花びらが、すすと血で汚れ、まるで忌まわしい雪のように降り注いでいた。美しい故郷、「桜花の里」は、地獄の釜が開いたかのような惨状を呈していた。
その地獄の中心、燃え盛る本殿の前で、二人の剣士が対峙していた。
一人は、彩葉の父。白銀の髪を振り乱し、その端正な顔には苦悩と覚悟が深く刻まれている。心合一刀流(しんごういっとうりゅう)の宗家にして、かつて「天下一」と謳われた、厳しくも誰よりも優しい剣士。その構えには、もはや迷いはなかった。
もう一人は、黒い鎧に身を包み、顔を能面のような仮面で覆った男。その腰には、血のように赤い刃を持つ長大な刀が佩(は)かれている。「紅い刃」の首領、戒(かい)。吹き抜ける熱風が、仮面の下で歪む彼の口元の笑みを、一瞬だけ覗かせた。それは、愉悦と、そして深い憎悪が入り混じった、酷薄な笑みだった。
(違う…見たくない…)
幼い彩葉の意識が、この悪夢から必死に逃れようと叫んでいた。しかし、コトダマの力は、彼女を容赦なく過去という名の牢獄へと引き戻し、最も見たくない記憶を、現実よりもなお鮮明に映し出す。
*
かつて、この里には、もっと穏やかな時間が流れていた。
木漏れ日が優しく降り注ぐ、緑豊かな山中の道場。そこには、汗を流しながら真剣に木刀を打ち合う、二人の若者の姿があった。一人は、後の彩葉の父となる青年。もう一人は、まだ仮面を纏う前の、精悍な顔つきの若き日の戒。
二人は、同じ師の下で剣の道を志した、兄弟弟子であり、無二の親友だった。互いの才能を認め合い、競い合い、その実力は若くして師範代をも凌ぎ、「天下一」の称号も夢ではないと噂されるほどだった。稽古が終われば、近くの滝壺で互いの傷を冷やしながら、夜が更けるまで語り合った。腐敗した世を正し、力なき人々が安心して暮らせる世界を作る。そんな青雲の志を、二人は共に抱いていた。その瞳には、一点の曇りもなく、未来への希望だけが輝いていた。
「なあ、いつか二人で、この国を変えようじゃないか」 「ああ。私たちの剣が、そのための力となるのなら」
固く握り合った二人の手。その友情は、永遠に続くと、疑いもしなかった。
しかし、彼らの師が二人だけに託したものは、剣術だけではなかった。それは、この世界の深淵に関わる、重い秘密。人知を超えた強大な力を持つ「災厄」と呼ばれる存在と、それをかろうじて封じ込めている、古(いにしえ)の「契約」の存在。そして、彼ら心合一刀流の一族が、その「契約」を守護する監視者としての役割を、神代の昔から受け継いできたという事実。それは、世界の均衡を守るための、あまりにも危険で重い盟約だった 。師は、二人の才覚と清廉な心を信じ、その重責を託そうとしたのだ。
だが、その信頼が、悲劇の始まりとなる。
世界の実情を知るため、諸国を巡る旅に出た戒は、理想とは程遠い現実を目の当たりにする。戦乱、貧困、疫病、そして人の心の醜さ。理想に燃えていた彼の心は、次第に絶望と怒りに染まっていく。
(この世界は、根本から間違っている。生半可な改革では何も変わらない。一度、全てを破壊し、力ある者が、正しい秩序の下に、新たな世界を創り直さねばならぬのだ)
戒の心に、歪んだ選民思想が芽生え始めた。彼は、師の教えに背き、「契約」によって得られる禁断の力――「災厄」の力の一部――を、世界の封印ではなく、自らの野望のために利用しようと考え始める。彼は、本来であれば監視すべき「災厄」の力を利用するため、「闇の住人」と呼ばれる存在と独自に接触し、さらなる力を求めて、その魂を売り渡したのだ 。かつて友と語り合った理想は、世界の破壊と創造という、狂気の野望へと変貌していた。
友の変貌を知った彩葉の父は、何度も、何度も彼を説得しようと試みた。文を送り、自ら旅に出て彼を探し、再会を果たしたこともあった。しかし、かつての友は、もはや聞く耳を持たなかった。その瞳には、かつての光はなく、冷たい野心と、人ならざるものから得た力の輝きだけが宿っていた。
父は、苦渋の決断を下す。友を、この手で斬らねばならない、と。「契約」を破棄し、戒を、そして彼が利用しようとしている「災厄」の力を、この世から完全に封じ込めることを。それが、心合一刀流の宗家として、そして世界の監視者として、彼に課せられた宿命だった。
それが、桜花の里が襲撃された、本当の理由 。父は、ただ里を守るためだけに戦ったのではない。友を斬らねばならないという、筆舌に尽くしがたい苦悩と、世界の未来を守るという重い責務を、たった一人で背負い、戦っていたのだ。
*
(現在 ― 彩葉の意識の中)
燃え盛る本殿の前。父と戒の剣戟は、人間の限界を超えていた。
父の剣は、流水の如く。心合一刀流の精髄。全ての動きに無駄がなく、自然の理(ことわり)と一体となったかのような、静謐(せいひつ)でありながら絶対的な強さ。それは、守るための剣だった。
対する戒の剣は、業火の如く。闇の住人から与えられた力と、血錆鉱によって強化された肉体。一振りごとに空気が焼け、空間が歪むかのような、圧倒的な破壊の力。それは、奪うための剣だった。
「なぜだ! なぜ我らに従わぬ! 共に理想の世界を創ると誓ったではないか!」 「貴様の言う理想は、ただの破壊だ、戒! 力に溺れ、人の心を忘れたか!」
かつての友の言葉は、もはや交わることはない。刃と刃がぶつかり合うたびに、火花と共に、二人の過去の絆が砕け散っていくようだった。
父は、心合一刀流の奥義を駆使して奮戦する。しかし、人ならざる力を得た戒の前には、次第に追い詰められていく。深手を負い、膝をつく父。その口から、赤い血が溢れる。
(父上…!)
物陰から息を殺して見守っていた幼い彩葉の心が、悲鳴を上げた。
父は、覚悟を決めた。里も、自らの命も、もはやこれまで。だが、世界の未来だけは、この男の手に渡してはならない。彼は、最後の力を振り絞り、本殿の奥、代々受け継がれてきた祠へと駆け込む。そして、そこに祀られていた一本の美しい御神刀――『天叢雲(あめのむらくも)』――を持ち出した。それは、「災厄の扉」を開くための、唯一無二の鍵 。
「戒よ! これがお前の望みか!」
父は、戒の目の前で、その神聖な刀身を、自らの膝に叩きつけた。甲高い金属音と共に、『天叢雲』は無残にも真っ二つに折れた。
「なっ…貴様ッ!」戒が初めて動揺を見せる。
父は、折れた刀の「鞘」の部分を、駆けつけた彩葉に、そして「刃」の部分を、深手を負いながらも父を助けようとした龍之介に、それぞれ投げ渡した。
「二つが揃わぬ限り、扉は開かれぬ! 彩葉! 龍之介! 生きよッ!!」
それが、父が最後に遺した、命令だった。
彼は、彩葉と龍之介が逃げる時間を稼ぐため、折れた刀の柄を、まるで最後の意地のように握りしめ、再び戒へと向かっていく。その背中は、傷つき、血に濡れながらも、天下一と謳われた男の誇りに満ちていた。
しかし、その誇りも、戒の無慈悲な刃の前には、あまりにも儚かった。赤い刀が、父の体を容易く貫いた。どっと、噴き出す鮮血。父の体が、ゆっくりと崩れ落ちていく。
「父上ーーーーーッ!!!」
彩葉の絶叫が、燃え盛る里に響き渡った。
息絶える間際、父は、血の涙を流しながら駆け寄ろうとする幼い娘に向かって、力の限りに、最期の力を振り絞って、微笑んで言った。それは、いつもの、厳しくも優しい父の笑顔だった。
「彩葉…忘れるな…。心合一刀流の極意は…憎しみではない…。愛(いと)しむ者を…守る…心、だ…」
それが、天下一と謳われた男の、最後の言葉だった。それは、復讐(エロス)ではなく、慈愛(アガペー)こそが真の強さであるという、彼の揺るぎない信念そのものであり、娘に託した、最後の希望だった。
しかし、その希望の言葉は、幼い彩葉の心には、まだ届かなかった。彼女の心を支配していたのは、父を目の前で殺された絶望と、燃え上がるような憎しみだけだった。
父の亡骸(なきがら)の前で、ただ泣き叫ぶことしかできない幼い少女に、戒は仮面の上から、氷のように冷たい言葉を投げかけた。その言葉は、コトダマが使うものと同じ、人の心を縛り、未来永劫苦しめる「呪い」だった。
「憎いか? その目で、しかと見たか? ならば、俺を追ってこい、桜花の娘よ。お前のその折れた刃が、いつか俺に届く日が来るかもしれん。だがな、覚えておけ。その時こそ、お前は真の絶望を知るだろう」
戒は、彩葉の心を見透かすように、言葉を続ける。
「お前が憎しみを抱き続ける限り、お前の父も、お前の仲間も、決して安らかには眠れぬのだからな。お前の憎しみこそが、奴らを永遠に苦しめるのだ」
その悪魔の囁きが、彩葉のその後の人生を決定づけた。父の最後の教えとは真逆に、憎しみこそが父や仲間たちの魂を慰める唯一の道であり、戒を殺すことだけが、自らに残された唯一の生きる意味だと、彼女は深く、深く思い込んでしまったのだ。
*
(現在 ― 五重塔 最上階)
コトダマが見せる悪夢の中で、彩葉は再び、あの日の絶望と憎しみに完全に囚われていた。父の最期の言葉『愛しむ者を守る心だ』が、戒の呪いの言葉『憎め。憎むのだ、彩葉』によって、何度も、何度も掻き消されていく。
彼女の瞳から、完全に光が消えた。理性の箍(たが)が外れ、憎悪だけを映す、虚ろな瞳。その口元には、かつての戒が浮かべていたような、乾いた、壊れた笑みが浮かび始めていた。再び、復讐の鬼へと戻りかけている。いや、戻ってしまったのかもしれない。
駿の声も、龍之介の声も、仲間たちの必死の呼びかけも、もはや彼女の閉ざされた世界には届かない。彼女は、コトダマの術中に完全に堕ちたのだ。
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