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第八章:言の葉の檻、折れた刃の誓い
第75話:復讐の呪い
しおりを挟む【彩葉の意識の中 ― コトダマが見せる悪夢】
炎。
全てを焼き尽くす紅蓮の炎が、視界を埋め尽くしていた。
桜花の里は、もはや灰燼に帰そうとしていた。黒煙が天を覆い、昼間のはずなのに夜のように暗い。熱風が吹き荒れ、家々が崩れ落ちる轟音と、まだ生きている誰かの断末魔の叫びが、悪夢の旋律のように響き渡る。
その地獄の中心で、幼い彩葉は父の亡骸を抱きしめていた。もう温もりはない。ただ、ずしりと重い肉の塊があるだけだった。あれほど大きく、厳しく、そして優しかった父は、もういない。目の前で、あの仮面の男――戒――によって、奪われた。
(父上…父上…!)
声にならない叫びが、喉の奥でつかえる。涙はとうに枯れ果て、代わりに胸を満たすのは、骨身を焼くような、どす黒い憎しみだけだった。
「立て、彩葉! 行くぞ!」
不意に、腕を強く引かれた。龍之介だった。彼は片目を血に染め、息も絶え絶えだったが、その瞳にはまだ諦めない光が宿っていた。「置いていけ! 父上を置いてなど!」彩葉は抵抗するが、龍之介は聞かない。「死ぬ気か! 里長の最後の命令を無駄にするな!」
龍之介は、半ば引きずるようにして彩葉を燃え盛る里から連れ出した。背後で、戒の高笑いが聞こえた気がした。里の外れ、断崖に続く小道まで辿り着いた時、追手の刃が迫った。龍之介は、彩葉を庇うように前に立ち、その刃を自らの体で受け止めた。「ぐあっ…!」鮮血が舞い、彼の体は糸が切れたように崖下の谷川へと転落していく。「龍之介ッ!!」彩葉の叫びは、激流の音にかき消された。
一人。
完全に、一人になった。
父も、龍之介も、仲間たちも、故郷も、全てを失った。守るべきものも、帰る場所も、もうどこにもない。手元に残ったのは、父が最後に託した、冷たい鉄の感触――折れた御神刀『天叢雲』の鞘――だけ。そして、この身を焦がし続ける、戒への憎しみ。
降りしきる雨の中、彩葉は泥濘(ぬかるみ)に膝をついた。天を仰ぎ、咆哮した。それは、もはや少女の悲鳴ではなかった。親を失い、群れからはぐれ、ただ牙を剥くことしかできなくなった、傷ついた獣の慟哭だった。
どれほどの時間、そうしていたのだろうか。雨が上がり、空が白み始めても、彼女は動かなかった。涙も、声も、全てが枯れ果てた時、彼女の心に残っていたのは、凍てつくような虚無と、その虚無を唯一満たすことのできる、燃え盛る憎悪だけだった。
(そうだ…憎しみだ…)
父の最期の言葉が、脳裏をよぎる。『愛しむ者を守る心だ』。
(違う…!)
彼女は、その言葉を振り払うように、強く頭を振った。
(愛など、無力だ。父上は、愛のために死んだ。里は、愛があったから滅んだ。愛など、弱者の戯言に過ぎない)
戒の言葉が、悪魔の囁きのように心に響く。『憎め。憎むのだ、彩葉』。
(そうだ。憎しみこそが力だ。この憎しみがある限り、私はまだ戦える。父上の、龍之介の、里のみんなの無念を晴らすために)
彼女は決意した。
悲しみも、恐怖も、後悔も。そして、父が最後に遺した「愛しむ者を守る心」という、呪いのような言葉さえも。復讐を成し遂げるためには邪魔になる全ての感情を、心の最も深い場所に封じ込めることを。
彼女は、泥の中からゆっくりと立ち上がった。その手には、折れた刀の鞘が、まるで自身の魂の一部であるかのように、固く握りしめられていた。
(父上、龍之介、里のみんな…見ていてください)
彼女は、空に向かって静かに誓った。
(この刃が奴の心臓を貫くまで、わたくしは決して涙を見せません。わたくしは…鬼になります)
その瞬間、桜花の里の、優しく、少しだけ気弱だった少女の心は、完全に死んだ。代わりに生まれたのは、ただ復讐のためだけに剣を振り、憎しみだけを糧として生きる、冷たい修羅だった。
*
里を出た後の日々は、過酷という言葉では生ぬるかった。生きるために、そして強くなるために、彩葉はあらゆる手段を使った。時には盗賊に身をやつし、食うために人を斬った。時には傭兵として名を変え、いくつもの戦場を渡り歩いた。泥水を啜り、獣のように眠り、ただひたすらに剣の腕を磨いた。
その過程で、彼女は意識的に一つの「仮面」を身につけることを覚えた。
常に微笑みを絶やさない。誰に対しても、おっとりとした物腰で接する。決して感情を露わにせず、本心を見せない。人々が「天下一」と呼び、畏怖する剣聖・彩葉という仮面を。
その完璧な笑顔は、彼女の心の奥底で燃え盛る憎悪の炎と、決して癒えることのない深い悲しみを隠すための、強固な鎧となった。弱い自分を守るための。そして、油断した敵の喉笛を、微笑みのまま掻き切るための。彼女が、血反吐を吐くような思いで、長い年月をかけて編み出した生存戦略だった。
人々は、彼女の圧倒的な強さと、その穏やかな物腰のギャップに魅了され、あるいは畏怖した。誰も、その美しい仮面の下に、あの日、燃える里で壊れて凍りついてしまった、一人の少女の素顔が隠されていることには気づかなかった。気づかせなかった。
それは、彩葉が自ら選んだ道だった。「憎しみ」という強烈な**執着(集諦)**にその身を委ね、父が最後に示した「愛」という道(それは苦しみからの解放、涅槃寂静へと繋がる道だったのかもしれない)から、自らの意志で目を背けた。笑顔の仮面は、その苦しみを他者から隠すだけでなく、他ならぬ自分自身からも隠し、憎しみという檻の中に安住するための、二重の牢獄となっていたのだ。
*
(現在 ― 五重塔 最上階)
「よくも…よくも父上をォォォッ!!!」
コトダマが生み出した戒の幻影に、彩葉はもはや正気を失っていた。「天下一」と謳われた、洗練された剣技は見る影もない。ただ、憎悪を剥き出しにして、がむしゃらに刀(それは鞘に収まったままだったが、彼女の意識の中では抜身の刃だった)を振り回す。その動きは荒々しく、隙だらけだったが、一撃一撃に込められた憎悪の念は凄まじく、幻影であるはずの戒の体が僅かに揺らぐほどだった。
「里を…! みんなを返せぇぇぇっ!!」
しかし、その刃はことごとく幻影をすり抜ける。それは物理的な存在ではない。彩葉自身の心の闇、彼女が長年、大切に育て上げ、執着してきた「憎しみ」そのものが形になったものだからだ。斬れば斬るほど、傷つくのは幻影ではなく、彩葉自身の心だった。
斬りつけ、すり抜けられる。その繰り返しが、彼女の心をさらに憎しみで満たしていく。父の最期の言葉が、完全に聞こえなくなる。『愛しむ者を守る心だ』。(違う! 違う! 憎しみこそが力だ! この力で、奴を殺す! それだけが、私の生きる意味だ!)
戒の呪いの言葉が、甘美な囁きとなって彼女の心を完全に侵食していく。『そうだ、彩葉。憎め。憎しみだけがお前を強くする』。
彼女の瞳から、完全に理性の光が消えた。肩で荒い息をつき、その口元には、かつて美咲が浮かべたような、乾いた、壊れた笑みが浮かんでいる。髪が、静電気を帯びたかのように逆立ち、その細い体からは、禍々しい紫黒色のオーラが陽炎のように立ち上り始めていた。それは、かつて源が見せた、血錆鉱による暴走状態と酷似していた。憎しみという強すぎる感情が、彼女自身の生命力を燃料にして、破滅的な力へと変貌しようとしている。
「彩葉さん!」「しっかりしろ! そいつは幻だ! お前が作り出したもんだ!」「目を覚ますんだ、彩葉! 頼むから!」。
駿が、龍之介が、仲間たちが必死に呼びかける。しかし、その声は、憎しみに我を忘れ、狂乱の淵にいる彩葉には、もはや届かない。彼女は、もはや現実と幻影の区別がついていない。ただ、目の前の憎い仇(と思い込んでいる幻影)を、この世から消し去ることしか、頭になかった。
彩葉は、ついに暴走の一線を越えようとしていた。そうなってしまえば、もはや誰にも止められないだろう。彼女自身が、憎しみの化身となってしまう。
コトダマの無数の口が、その光景を見て、静かに、そして満足げに嗤っていた。
『ククク…定義、完了。剣聖・彩葉。その本質は、憎悪なり』
最強の剣士が、自らの心の闇によって内側から崩壊していく様を、愉悦と共に観察していた。希望の象徴たる「天下一」を、絶望の化身へと変貌させること。それこそが、コトダマの真の狙いだったのかもしれない。
五重塔の頂上で、絶望的な状況が、さらに悪化の一途を辿っていく。駿は、為す術もなく、愛する人が闇に堕ちていくのを、ただ見ていることしかできないのか。
月が、完全に厚い雲に隠れ、世界は完全な闇に包まれた。風の音だけが、まるで誰かの嗚咽のように、塔の上を悲しく吹き抜けていった。
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