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第八章:言の葉の檻、折れた刃の誓い
第76話:笑顔の仮面
しおりを挟む雨が降っていた 。 冷たい秋の雨が、かつて桜花の里と呼ばれた場所の亡骸を、ただ静かに濡らしていた 。数日前まで、ここには穏やかな暮らしがあった。笑い声があり、鍛錬に励む若者たちの活気があり、そして何よりも、里の名を体現するかのように、春には息を呑むほど美しい桜が咲き誇っていたはずだった。
煙はとうに消え、あたり一面には、黒い炭と化した柱の残骸と、雨水を吸って重くなった灰だけが広がっている 。人の気配はない。鳥の声もしない。ただ、無慈悲な雨音だけが、世界の終わりを告げる葬送曲のように響いていた。どこまでも続くかと思われた桜並木も、今は見る影もなく焼け焦げ、無残な枝を折れた指のように空に向けて突き出している 。その痛々しい姿は、この地に刻まれた悲劇の深さを物語っていた。
その絶望的な風景の中に、泥と灰に塗れた小さな人影が一つ、ぽつんと佇んでいた 。幼い彩葉だった。身に纏った着物は破れ、顔も手足も煤と泥で汚れている。彼女は、父の亡骸も見つけられなかった。共に逃げるはずだった許嫁、龍之介の姿も見つけられなかった。谷川の濁流に消えた彼の最後の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない 。自分だけが生き残ってしまった。いや、生き残らされてしまったのだと、幼い心にも痛いほど分かっていた。
彼女は、ただ一人、世界の終わりに立ち尽くしていた 。雨粒が彼女の頬を伝う。それが雨なのか涙なのか、もはや彼女自身にも分からなかった 。ただ、骨身に染みる寒さと、腹の底からマグマのように湧き上がってくる、焼け付くような熱い感情だけが、彼女がまだ生きていることを証明していた 。憎しみ。全てを奪った者たちへの、決して消えることのない憎しみだった。
五重塔の最上階。現実の時間は、ほんの数秒しか経過していなかった。しかし、彩葉の意識は、コトダマが見せる過去という名の牢獄に、深く、深く囚われていた。
彼女は、目の前に立つ憎い仇――父を殺し、里を滅ぼした戒の幻影――に、憎悪を剥き出しにして斬りかかっていた 。折れた御神刀の片割れ、父の形見である鞘が、彼女の怒りに呼応するかのように、鈍い光を放つ。その剣技は、もはや神業の域に達しているはずだった。常人ならば、目で追うことすら叶わないであろう速度と精度。しかし、その刃はことごとく、目の前の幻影を虚しくすり抜ける 。斬っても斬っても、手応えがない。まるで、自分の心の闇そのものを、空しく斬りつけ続けているかのようだった。
『そうだ、彩葉。憎め。もっと憎むのだ』
戒の幻影の口を通して、コトダマが囁く 。その声は、甘美な毒のように彩葉の心に染み渡る。
『憎しみこそがお前の力だ。その力があれば、父の仇も討てる』『父も、仲間も、お前のその憎しみを望んでいる。彼らの無念を晴らせるは、お前だけなのだから』『愛などという甘っちょろい感傷は、弱者の戯言に過ぎぬ。思い出せ。愛する者を守ろうとした父の、哀れな最期を』
「違う…違う…」
彩葉は、か細い声で抵抗しようとする。脳裏に、父の最後の言葉が蘇る。『愛しむ者を守る心だ』。しかし、その言葉は、憎悪の濁流にかき消され、歪んでいく。
(そうだ…父上が甘かったから…愛などというものにこだわったから…だから死んだのだ…!) (守る? 何を守れたというのだ!? わたくしは全てを失った!) (憎しみこそが真実だ! この力で、戒を殺す! それだけが、わたくしが生きる意味だ!)
戒が里を去る間際に投げかけた呪いの言葉――『憎め。憎しみ続ける限り、父も仲間も安らかには眠れぬ』――それが、今、彼女の心の拠り所となっていた。憎しみ続けることこそが、死んでいった者たちへの唯一の弔いであり、自分に残された唯一の道なのだと、彼女は信じ込もうとしていた。それは、苦しみから逃れるための、悲しい自己選択だった。変わってしまった現実を受け入れられず、過去の悲劇に心を縛り付け、「憎しみ続ける自分」という役割に固執することでしか、彼女は自我を保てなかったのだ。移ろいゆく現実の中で、ただ一点、「憎しみ」だけを不動のものとして握りしめようとしていた。
斬れば斬るほど、彩葉の心は憎しみで黒く染まっていく 。仲間たちの声が、遠くなっていく。駿の声も、まるで分厚い壁の向こう側から聞こえるように、くぐもって響く。彼らとの旅の中で、凍てついた心に差し込み始めた温かい光。仲間への信頼。駿への、まだ名前もつけられない、淡い恋心。それらが、急速に冷え固まっていくのを感じた 。温かい記憶は、憎悪の炎の前ではあまりに無力だった。
「彩葉さん!」駿が叫ぶ。「しっかりしろ! そいつは幻だ!」
「目を覚ますんだ、彩葉! 戻ってこい!」龍之介が、悲痛な声で呼びかける 。
しかし、その声は届かない。彼女の世界は、もはや憎しみという名の檻の中に閉ざされていた。彼女は、現実と幻影の区別がついていない。ただ、目の前の憎い仇(と思い込んでいる幻影)を滅することしか、頭になかった 。
そして、ついに変化が訪れた。彼女の瞳から、理性の光が完全に消えた 。長く艶やかな黒髪が、まるで生命を得たかのように逆立ち、その体からは、禍々しい紫黒色のオーラが、陽炎のように立ち上り始めた 。それは、かつて源が見せた、血錆鉱による暴走状態によく似ていたが、より深く、より根源的な闇の色をしていた 。憎しみという強すぎる感情が、彼女自身の生命力そのものを燃料にして、破滅的な力へと変貌しようとしていたのだ。
彼女の剣筋は、もはや洗練された「技」ではなかった。ただ対象を破壊し尽くすことだけを目的とした、荒々しい「暴力」へと堕ちていた 。鞘の一振り一振りが、五重塔の床を砕き、壁を抉る。その度に、塔全体が悲鳴を上げるように軋んだ。
「まずいぞ、あれは…!」源が、自身の経験からその危険性を察知し、呻くように言った 。
「彩葉殿…」桔梗も、その尋常ならざる気の変化に、息を呑む 。
小夜は、月白の傍らで震えながら、ただ涙を流していた 。栞や鈴、アリア姫も、目の前の光景に言葉を失い、恐怖に顔を引き攣らせている 。
その様子を、無数の口を持つ不定形の災厄、コトダマは、静かに嗤(わら)って見ていた 。
『definiert (定義完了)。剣聖・彩葉。その本質は、憎悪なり』
最強の剣士が、自らの心の闇によって内側から崩壊していく様を、愉悦と共に観察していた。希望の象徴たる「天下一」を、絶望の化身へと変貌させること 。それこそが、コトダマの狙いだったのかもしれない。言葉で定義し、その定義通りに相手を縛り付ける。その最も効果的な対象が、彩葉だったのだ。
彩葉は、ついに暴走の一線を越えようとしていた。彼女が完全に闇に堕ちてしまえば、その力は計り知れない。もはや仲間たちでさえ、止められないかもしれない。五重塔の頂上で、絶望的な状況がさらに悪化していく。
駿は、為す術もなく立ち尽くしていた。愛する人が、目の前で闇に堕ちていくのを、ただ見ていることしかできないのか。この世界に来てから、ずっとそうだ。自分の力は、いつも肝心な時には役に立たない。仲間を守りたい。彩葉を守りたい。その想いだけが空回りして、何もできない自分への無力感が、鉛のように重くのしかかる。
月が、完全に厚い雲に隠れた。五重塔の頂上は、彩葉から放たれる禍々しい光を除いて、完全な闇に包まれた。風の音だけが、まるで誰かの嗚咽(おえつ)のように、塔の上をひときわ高く吹き抜けていった 。夜明けは、まだ絶望的に遠い。
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