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中部編
第13話『雪女の熱い涙』
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風が、死んだ世界の匂いを運んでくる。
青木ヶ原の樹海を後にしてから、僕たちの旅路は、まるで性急な季節のグラデーションを駆け下りるように進んでいった。ほんの数週間前まで、あれほどまでに生命の最後の輝きを誇っていた山梨の山々は、燃えるような赤や、目の覚めるような黄金色を惜しげもなく脱ぎ捨て、日に日にその骨張った冬の輪郭を、鉛色の空の下に厳粛に露わにしていく。空は高く、空気は澄み渡り、あらゆるものの輪郭が鋭さを増していく。それは、世界の終わりと始まりが同居するような、不思議な光景だった。
僕たちの足であり、家であり、そして秘密基地でもある愛車、いや、もはやその悍ましいまでの異形の姿から「走るフランケンシュタインの怪物」と呼ぶべき「新生バン」は、その見た目の世紀末感とは裏腹に、驚くほど快調にアスファルトを蹴っていた。スクラップヤードから拾い集めたパーツを、健吾が天才的な技術で無理やり繋ぎ合わせたこの車体は、錆とパテと、元の色を思い出せないほどの塗装がまだら模様を描き、道行く誰もが二度見する異様なオーラを放っている。しかし、その心臓部から響く音は、奇妙なほどに力強かった。
「健吾さん、このエンジン、耕運機とバイクのニコイチのせいか、やたら低速トルクだけありますね! この勾配、グイグイ登る!」
後部座席で、莉奈がノートパソコンの画面から顔を上げ、感心したように言った。彼女の指先は、走行中の振動など意にも介さず、凄まじい速度でキーボードの上を踊っている。車体の傾斜やエンジン回転数をリアルタイムでグラフ化しているのだろう。彼女にかかれば、このガラクタの寄せ集めも、分析対象のデータセットに過ぎない。
「当たりめえだ。俺が組んだんだ。心臓はT社の農業用汎発動機に、H社の単気筒バイクのトランスミッションを直結させてある。構造は単純だが、それ故に頑丈だ。だが、言っとくが高速じゃねえぞ。スピード出したら、たぶん溶接が剥がれて空中分解する」
健吾は、オイルと鉄の匂いが染みついた指で自慢げに鼻をこすりながら、ぶっきらぼうに答える。彼の言葉には、自らの手で生み出した機械への絶対的な信頼と、同時にその限界を知り尽くした職人の冷静さが滲んでいた。その横では、猛が、あの樹海の打ち捨てられたラジカセから健吾が器用に移植したスピーカーで、八十年代アイドルのベスト盤を腹の底から熱唱していた。ボリュームは常に最大だ。
「セーンチメンタル~、ジャーニー! いえーい! この切なさがたまんねえんだよな!」
猛の少し音程の外れた歌声が、狭い車内に反響する。彼は、まるで自分のライブステージであるかのように、身振り手振りを交えて陶酔しきっている。
「猛さん、その歌のせいで私のセンチメンタルが本当にどこかへジャーニーしそうです。お願いですから黙ってください。思考の妨げです」
莉奈が、色も温度も感じさせない平坦な声で、猛の熱唱をバッサリと切り捨てた。眉間に深い皺が刻まれている。
「おっ、藤原さん! この肉うどん、超うまいっすよ! パーキングエリアの最高傑作! 麺のコシと肉の甘みが絶妙!」
そんな莉奈の冷たい視線など全く気付かない様子で、今度は助手席の栞が、後部座席にいる僕に振り返って、プラスチックの容器を掲げて見せた。彼女の頬は、湯気でほんのり上気している。
「それは肉うどんじゃなくて、栞ちゃんがサービスエリアで買ってきた冷凍うどんを、カセットコンロで温めてくれたただのうどんだ。そしてそこはパーキングエリアじゃなくて、今走ってる国道だ。頼むから、現実と願望を混同しないでくれ、猛」
僕は、ファミコンのコントローラーを改造して作られた、およそ計器パネルとは呼べない代物をぼんやりと眺めながら、後部座席から冷静に訂正した。十字キーはワイパー、Aボタンはウォッシャー液、Bボタンはハザードランプに連動している。スタートボタンを押すと、どこかの配線がショートしているのか、猛が熱唱しているカーステレオの電源が一瞬落ちる。
やかましくて、どうしようもなくて、全く噛み合っていなくて、そして、いつかなくしてしまうのが少しだけ怖い、そんな日常。僕、藤原悠人は、この奇妙で愛おしい仲間たちと共に、あてのない旅を続けている。何百年という時を、死ぬこともできずに生きてきた僕にとって、この一瞬一瞬が、色褪せた記憶の中に刻まれる、鮮やかすぎるほどの光だった。
目的地は、長野の山深い温泉郷。十一月も下旬に差し掛かると、中央自動車道の両脇に連なる山々の頂は、まるでパティシエが気まぐれに振りかけたように、うっすらと白い粉砂糖をまとっていた。車の窓を少し開けると、シン、と鋭利な刃物のように冷たい風が頬を刺し、冬の到来を明確に告げている。空気の中に含まれる水分が、凍てつく匂いを纏い始めていた。
「うわあ、雪……」
助手席の栞が、吐く息を真っ白に染めながら、フロントガラスの向こうに広がる景色に、子供のように瞳を輝かせた。最初は、空の高い場所から躊躇いがちに舞い降りてくる、綿毛のような頼りない雪だった。光に透かすとキラキラと輝き、アスファルトに落ちた瞬間に、儚くその姿を消してしまう。
だが、高速道路を降り、温泉郷へと続く曲がりくねった山道に入るにつれて、その雪の性質は豹変した。吹雪と呼ぶにはまだ優しいが、しかし明確な意志を持って、フロントガラスにバチ、バチ、と硬質な音を立てて叩きつけるように変わっていった。ワイパーが懸命にそれを掻き分けるが、その動きの合間を縫って、白い筋が幾重にもガラスを覆っていく。
「おいおい、天気予報じゃ一日中、快晴だったじゃねえか」
運転席の健吾が、忌々しげに空を睨みつけ、低く悪態をついた。彼の太い眉が、ぐっと中央に寄せられる。
莉奈が、後部座席で猛の熱唱を強制的に停止させ、カタカタと猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。ディスプレイには、気象衛星の画像や、アメダスの観測データが目まぐるしく表示されては消えていく。
「おかしいですね……。観測データ上は、こんな雪雲、どこにも存在しません。完全に等圧線は安定しています。局地的な異常気象……いえ、これはまるで、この山自体が、僕たちを拒んでいるみたいです」
やがて彼女は、非科学的、という言葉を最も嫌うはずの口から、そんな感想を漏らした。その声には、データでは解析できない現象に対する、わずかな戸惑いと苛立ちが混じっていた。
そうこうしているうちに、道は完全に白い絨毯で覆われ始めた。タイヤが雪を踏みしめる「キュッ、キュッ」という音が、静かな車内にやけに大きく響く。健吾の運転するバンの後輪が、何度か空しく横滑りを起こした。
「チェーンを巻く。これ以上は危険だ」
健吾の短く、しかし有無を言わせぬ冷静な判断で、車はかろうじて路肩とわかるスペースに寄せられた。エンジンを止めると、猛威を振るう風の音だけが、ヒュー、ヒューと獣の呻きのように響き渡る。健吾は、一瞬の躊躇もなくドアを開け、吹雪の中にその身を躍らせた。彼は、手慣れた様子で荷台から取り出した金属製のチェーンを、素手でタイヤに装着していく。氷のように冷たい金属が、彼の指先の熱を容赦なく奪っていく。その指は見る間に真っ赤に変色し、吐く息は激しい白煙となって風に流されていくが、その動きに一切の淀みも焦りもない。ガチャリ、ガチャリと、金属と金属が噛み合う冷たい音だけが、吹雪の音に混じって聞こえてくる。
だが、自然の気まぐれは、人間のささやかな備えを、まるで嘲笑うかのように容易く凌駕する。チェーンを巻き終え、再びゆっくりと走り出したのも束の間、吹雪は本物の牙を剥き始めた。視界は、白。ただ、ひたすらに白。前後左右、どこを見ても、ただ荒れ狂う雪の壁が、世界との境界線を曖昧にしていく。もはや道がどこにあるのか、自分たちが登っているのか下っているのかさえ定かではない。世界から、色と音と、方向感覚が完全に奪われた。風の唸りと、虚しく回転するエンジンの音、そして僕たちの不安な呼吸音だけが、この小さな鉄の箱の中に閉じ込められていた。
ついに、新生バンは、深い雪溜まりにタイヤを完全に取られ、進むも退くもできなくなってしまった。アクセルを踏み込む健吾の足に応えて、エンジンだけが悲鳴のような高い唸りを上げるが、タイヤはただ虚しく雪を掻き、車体はわずかに揺れるだけだった。
「ちっ、ここまでか」
健吾が、諦めたようにハンドルを軽く叩いた。その乾いた音が、車内の絶望的な空気に吸い込まれていく。暖房が効力を失い始め、窓ガラスの内側から急速に冷気が忍び寄ってくるのが、肌で感じられた。このままでは、文字通り凍え死ぬ。何百年も死ねなかった不老不死の僕ですら、肉体が凍りつき、感覚が麻痺していく凍傷の痛みは感じるのだ。死ねないだけで、苦痛は平等に訪れる。
「……あ」
誰もが言葉を失い、ただ窓の外の白い暴力を見つめるしかない、そんな絶望的な沈黙の中、栞が、か細い声を上げた。彼女の震える指が指し示す、吹雪で霞む視界の向こう、谷の麓と思われる方向に、ぽつん、と、あまりにもか弱い光が一つ、点っているのが見えた。それは吹雪の中で、何度も消え入りそうになりながらも、懸命にその存在を主張しているように瞬いていた。
それは、この世の終わりのような白銀の世界で、唯一の、そしてあまりにも温かい、文明の灯りだった。
「あそこまで行くしか、道はねえな」
健吾の言葉が、僕たちの行動を決定づけた。僕たちは、まるで本当に遭難した登山者のように、互いの肩を寄せ合い、膝まで深く積もった雪をかき分けながら、そのささやかな光だけを目指した。猛が、その有り余る体力を活かして先頭に立ち、両腕で雪を掻き分けるラッセル役を担う。彼の背中が、僕たちにとっての頼もしい防雪壁となった。健吾が時折、吹雪の合間にコンパスを取り出し、わずかに見える山の稜線と光の方向から、進むべき方角を確かめる。一時間ほど歩いただろうか。体感では、永遠にも感じられる時間だった。手足の感覚はとうに麻痺し、ただ機械的に足を前に出すことだけを考えていた時、僕たちの目の前に、ようやくその灯りの正体が、ぼんやりとした輪郭を現した。
それは、まるで時代から取り残されたかのような、古い木造の建物だった。降り積もった雪が、屋根に分厚い綿帽子を被せ、軒先からは氷柱が牙のように何本も垂れ下がっている。その軒下に、「伊集院診療所」と墨で書かれた、古びて文字の掠れた木の看板が、風に吹かれて寂しげに揺れていた。どうやら、診療所を兼ねた、小さな温泉宿のようだった。磨りガラスの向こうからは、先ほど僕たちを導いてくれた、温かなオレンジ色の光が柔らかく漏れ出している。生きている世界の光だった。
「ごめんくださーい! 誰かいませんかー! 吹雪で遭難してしまいました!」
僕が、凍りついて指の感覚がない手で、重たい木製の引き戸を叩くと、中からパタパタ、パタパタと、忙しないスリッパの音が聞こえてきた。そして、ガチャリと鍵の開く音がして、一人の女性が姿を現した。
きっちりと糊の効いた白衣をまとった、凛とした佇まいの女性だった。年の頃は、僕と同じくらいに見える。艶やかな黒髪は、一筋の乱れもなく、きつく後ろで結い上げられ、その涼やかな目元と、意志の強そうな薄い唇が、彼女の知的な雰囲気を際立たせていた。その整いすぎた顔立ちは、美しいというより、どこか人間味を感じさせない、精巧なガラス細工のような冷たさを感じさせた。だが、その鋭い双眸の奥には、何日もまともに眠っていないかのような、深い疲労の色が、インクの染みのように浮かんでいた。
「……吹雪で立ち往生したのね。こんな夜によくここまで辿り着いたわ。入りなさい。ぐずぐずしていると風邪をひくわよ。そうなっても、あなたたちを寝かせる余分な布団はないわ」
ぶっきらぼうで、棘のある口調。だが、その言葉には、目の前の遭難者を見捨てることのできない、医者としての義務感が、不本意ながらも滲み出ているのが分かった。彼女こそが、この山奥の診療所の主、伊集院麗子だった。
僕たちは、彼女に招き入れられるようにして、ようやく温かい室内へと転がり込んだ。途端に、懐かしい石油ストーブの匂いと、ツンと鼻をつく薬品の匂いが混じり合った、独特の空気が僕たちを迎える。そこは待合室であろう、古い木造の温かみと、壁際に整然と並べられた最新鋭の医療機器の無機質さが、奇妙なバランスで同居している空間だった。使い込まれて飴色になった長椅子や柱が持つ長い時間の記憶と、モニターに表示されるデジタル数字や、ステンレスの冷たい輝きを放つ機器群。それはまるで、この村が重ねてきた長い歴史と、彼女一人が背負う現代の合理性が、一つの空間で静かにせめぎ合っているかのようだった。
「それで、あなたたち、一体どこから来たの? こんな時期に、こんな山奥に、物好きな観光客なんて珍しいわね」
麗子は、薬缶から湯気の立つお茶を人数分の湯呑みに注ぎながら、僕たち一人一人の顔を、まるで診察でもするかのように鋭く、探るように見つめながら、そう言った。彼女の目には、単なる好奇心ではない、外部の人間に対する強い警戒心が宿っていた。
「まあ、ちょっとした日本一周旅行みたいなもので。成り行きで、ここまで」
僕が曖昧に答えると、彼女は、ふん、と興味なさそうに鼻を鳴らした。
「物好きね。でも、やめておいた方がいいわ。悪いことは言わないから、雪が止んだらすぐに山を降りなさい。この村は今、少し騒がしいから」
麗子は、熱いお茶を僕たちの前に一つずつ置きながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼女の話によれば、この村では、ここ最近、にわかには信じがたい、奇妙な事件が相次いでいるという。
「吹雪の夜になると、決まって村の若い男が、忽然と姿を消すの」
その言葉に、僕たちの間に緊張が走った。
「失踪事件、ですか? 警察の捜査状況は?」
莉奈が、いつものハッカーの目で、鋭く問いかける。
「警察は、家出か何かだろうと、そう扱っているわ。でも、不可解なことだらけよ。鍵のかかった自分の部屋から、足跡一つ残さずに消える。まるで、煙か霞にでもなったみたいにね。もう、この一ヶ月で三人よ。全員、若くて健康な男ばかり」
麗子の言葉に、猛がゴクリと息を呑む音が、静かな待合室に響いた。
「村の年寄りたちは、山の神社に古くから祀られている『雪女』の仕業だって、本気で怖がっているわ。馬鹿げてる。そんな非科学的なこと、あるわけないでしょう」
彼女は、そう言って自分に強く言い聞かせるように、自分のお茶を一口すすった。だが、その湯呑みを持つ指先が、わずかに、しかし確かに震えているのを、僕の目は見逃さなかった。
「私は医者よ。オカルトや迷信は信じない。だから、私なりに調べているの。失踪した三人の共通点を。生活習慣、過去の病歴、人間関係……。考えうる全ての医学的、社会的なデータを洗い出したわ。でも、何も出てこない。何の接点もない。まるで、神様が気まぐれにサイコロでも振って、次のターゲットを決めているみたいに、あまりにも無作為なのよ」
彼女は、心の底から悔しそうだった。自らが信奉する科学や論理では、この不可解な現象に、全く太刀打ちできないことが。その無力感が、彼女の表情に深い影を落としていた。
その夜、僕たちは、麗子の厚意で、診療所の空いている病室に泊めてもらうことになった。簡素なベッドと、消毒液の匂いが染みついたシーツ。それでも、吹雪の屋外に比べれば天国だった。猛と健吾は、日中の恩返しとばかりに、率先して診療所の周りの雪かきを手伝っている。ザッ、ザッ、と雪をかくスコップの音と、二人の荒い息遣いが、窓の外から聞こえてくる。莉奈は、ノートパソコンを開き、早速この村のサーバーと警察のデータベースに不正アクセスを試み、失踪者たちの客観的データを集め始めていた。カタカタというタイピングの音だけが、彼女の存在を主張していた。
「どう思う、栞?」
僕は、窓ガラスに映る自分の顔の向こうで、しんしんと降り続く雪を眺めながら、隣に静かに立つ栞に尋ねた。
「この村……。なんだか、とても悲しい空気がします。それは、今起きている事件のせいで、人の噂や不安から来るものじゃないんです。もっと古くて、もっと深くて、そして、心の芯まで凍りつくように冷たい、純粋な『悲しみ』の気配です」
栞の言う通りだった。僕にも、その気配ははっきりと感じられる。それは、青木ヶ原の樹海で感じた、モノたちの怒りや恨みといった、攻撃的な念とは全く質の違うものだった。そこには悪意や怨念はない。ただ、ひたすらに、純粋で、救いのない悲しみが、この村全体を、まるで薄い氷の膜のように、静かに、そして完全に覆っている。
夜が更け、雪かきで疲れ果てた猛たちは、いびきをかいて深い眠りについた。莉奈と麗子は、待合室のストーブの前で、莉奈が抜き出した失踪者のデータと、麗子が保管していたカルテを突き合わせながら、小声で何やら専門的な議論を続けている。合理主義者の医者と、データ至上主義者のハッカーは、意外にもウマが合うようだった。
僕は、この安全な部屋でじっとしているのが、どうにも性に合わなかった。いや、違う。この静かで、冷たくて、死の匂いが濃厚に漂う夜が、僕を外へと誘っていたのだ。
「ちょっと、散歩してくる」
眠る仲間たちを起こさないように、誰に言うでもなくそう呟き、僕は、軋む床に注意しながら、音を立てずに診療所を抜け出した。
外は、音のないモノクロームの世界だった。降り積もったばかりの新雪が、あらゆる音を吸い込み、世界は絶対的な静寂に支配されている。僕の吐く息は瞬時に白く凍りつき、まるで魂が抜け出ていくかのように、闇の中へと溶けていく。死ぬには、ちょうどいい夜だ。そんな不謹慎な考えが、ふと頭をよぎる。何百年も死ねずにいる僕にとって、この絶対的な静寂と、世界の全てを等しく白く塗りつぶしていく雪は、ある種の安らぎと、終焉への甘い誘惑を与えてくれるのだ。
ふらふらと、当てもなく歩く。僕の足跡だけが、真っ白なキャンバスに、汚い点として点々と刻まれていく。僕が存在している、という醜い証拠だ。
その時だった。
道の先、月光と雪明かりを浴びて青白く浮かび上がる、古い一本杉の木の下に、誰かが立っているのに気づいた。
こんな猛吹雪の夜に? 村人か? いや、違う。その佇まいは、明らかにこの世の人間のものではなかった。
それは、雪のように白い無垢の着物を着た、一人の女だった。
濡れたような黒く長い髪、雪を溶かして固めたかのような透き通るように白い肌、そして、まるでこの世の他の色を全て忘れてしまったかのように、鮮烈に赤い唇。その美しさは、現実感を失わせるほどに完璧で、それ故に恐ろしかった。彼女がただそこに立っているだけで、周囲の空気が、キーン、とガラスが割れるような音を立てて凍りついていくのが分かった。
雪女。
村の年寄りたちが恐れる、噂の正体が、今、僕の目の前にいた。
彼女は、僕をじっと見つめていた。その漆黒の瞳には、何の感情も浮かんでいない。喜びも、怒りも、悲しみも。ただ、全てを吸い込むような、底なしの虚無だけが、そこにあった。
彼女が、ふう、と静かに息を吐く。その息は、目に見えるほどの白い霧となり、僕の足元の雪を、カチン、と音を立てて硬質の氷に変えた。
まずい、殺されるか。僕が咄嗟に身構えた瞬間、彼女は、すうっと音もなく、まるで氷の上を滑るように僕に近づいてきた。そして、何かを確かめるように、その氷のように冷たい手を、僕の分厚いコートの上から、心臓のある左胸に、そっと当てた。
ドクン、ドクン、ドクン――。
僕の心臓の鼓動が、彼女の冷たい掌に、はっきりと伝わる。だが、その瞬間、彼女の虚無の瞳に、初めて微かな色が浮かんだように見えた。それは、失望の色だった。僕の体には、僕のこの心臓には、彼女が探している「何か」が、決定的に欠けていたらしい。
次の瞬間、彼女は興味を失ったように、ふっと身をひるがえした。そして、まるで幻であったかのように、吹雪の中にその輪郭を溶け込ませ、その姿はかき消えてしまった。後には、彼女が立っていた場所の杉の木の幹や枝が、異様なまでに分厚い氷で白く覆われているだけだった。
呆然と立ち尽くす僕のポケットで、スマートフォンが短く震えた。莉奈からのメッセージだ。
『悠人さん、どこにいるんですか! 大変です! 麗子さんが、何かとんでもないことを見つけたみたいです! すぐに戻ってきてください!』
僕は、我に返り、慌てて診療所へと雪を蹴立てて引き返した。
診療所に戻ると、麗子と莉奈が、尋常ではない興奮と緊張が入り混じった様子で僕を待っていた。ストーブの赤い光が、二人の紅潮した顔を不気味に照らしている。
「悠人さん、見てください! 失踪した三人の、過去のカルテと、莉奈さんが手に入れてくれた戸籍情報を、何世代も、何世代も遡って全部洗い出してくれたんです!」
麗子は、一枚の巨大な紙――急ごしらえで作ったのであろう家系図のようなもの――を僕に突きつけた。そこには、無数の名前と線が、複雑に絡み合っていた。
「三人は、現在の戸籍上、遠い親戚関係にすらありません。生活圏も、職業もバラバラ。でも、何世代も、何世代も……江戸の時代まで遡って調べていくと、たった一つだけ、奇妙な共通点が見つかったんです」
彼女は、ごくり、と乾いた喉を鳴らし、信じられない、という顔で、しかし医者としての確信に満ちた声で言った。
「非科学的だと、あなたは笑うかもしれないわ。でも、一つの仮説が立った。あの雪女の正体は分からない。でも、彼女が狙う人間には、もしかしたら、医学的に説明できる『法則』があるのかもしれない」
彼女の震える指が、家系図のある部分――複数の家系から伸びた線が、一点に収束していく箇所――を、強く、強く指し示した。
「失踪者たちの先祖は全員、ある特定の遺伝的疾患……常染色体劣性遺伝の、極めて稀な疾患の保因者である可能性が、極めて高いのよ」
非科学の権化である雪女の、不可解で無作為に見えた行動。その裏に隠されていた、冷徹で残酷なまでの、科学の法則。
僕たちは、この凍てついた小さな村で、時を超えた悲恋と、現代の医学とが奇妙に交差する、深く、そしてあまりにも悲しい謎の入り口に、今、立たされたのだった。窓の外では、雪がなおも降り続き、全ての真実を白い闇の底に隠そうとしているかのようだった。
青木ヶ原の樹海を後にしてから、僕たちの旅路は、まるで性急な季節のグラデーションを駆け下りるように進んでいった。ほんの数週間前まで、あれほどまでに生命の最後の輝きを誇っていた山梨の山々は、燃えるような赤や、目の覚めるような黄金色を惜しげもなく脱ぎ捨て、日に日にその骨張った冬の輪郭を、鉛色の空の下に厳粛に露わにしていく。空は高く、空気は澄み渡り、あらゆるものの輪郭が鋭さを増していく。それは、世界の終わりと始まりが同居するような、不思議な光景だった。
僕たちの足であり、家であり、そして秘密基地でもある愛車、いや、もはやその悍ましいまでの異形の姿から「走るフランケンシュタインの怪物」と呼ぶべき「新生バン」は、その見た目の世紀末感とは裏腹に、驚くほど快調にアスファルトを蹴っていた。スクラップヤードから拾い集めたパーツを、健吾が天才的な技術で無理やり繋ぎ合わせたこの車体は、錆とパテと、元の色を思い出せないほどの塗装がまだら模様を描き、道行く誰もが二度見する異様なオーラを放っている。しかし、その心臓部から響く音は、奇妙なほどに力強かった。
「健吾さん、このエンジン、耕運機とバイクのニコイチのせいか、やたら低速トルクだけありますね! この勾配、グイグイ登る!」
後部座席で、莉奈がノートパソコンの画面から顔を上げ、感心したように言った。彼女の指先は、走行中の振動など意にも介さず、凄まじい速度でキーボードの上を踊っている。車体の傾斜やエンジン回転数をリアルタイムでグラフ化しているのだろう。彼女にかかれば、このガラクタの寄せ集めも、分析対象のデータセットに過ぎない。
「当たりめえだ。俺が組んだんだ。心臓はT社の農業用汎発動機に、H社の単気筒バイクのトランスミッションを直結させてある。構造は単純だが、それ故に頑丈だ。だが、言っとくが高速じゃねえぞ。スピード出したら、たぶん溶接が剥がれて空中分解する」
健吾は、オイルと鉄の匂いが染みついた指で自慢げに鼻をこすりながら、ぶっきらぼうに答える。彼の言葉には、自らの手で生み出した機械への絶対的な信頼と、同時にその限界を知り尽くした職人の冷静さが滲んでいた。その横では、猛が、あの樹海の打ち捨てられたラジカセから健吾が器用に移植したスピーカーで、八十年代アイドルのベスト盤を腹の底から熱唱していた。ボリュームは常に最大だ。
「セーンチメンタル~、ジャーニー! いえーい! この切なさがたまんねえんだよな!」
猛の少し音程の外れた歌声が、狭い車内に反響する。彼は、まるで自分のライブステージであるかのように、身振り手振りを交えて陶酔しきっている。
「猛さん、その歌のせいで私のセンチメンタルが本当にどこかへジャーニーしそうです。お願いですから黙ってください。思考の妨げです」
莉奈が、色も温度も感じさせない平坦な声で、猛の熱唱をバッサリと切り捨てた。眉間に深い皺が刻まれている。
「おっ、藤原さん! この肉うどん、超うまいっすよ! パーキングエリアの最高傑作! 麺のコシと肉の甘みが絶妙!」
そんな莉奈の冷たい視線など全く気付かない様子で、今度は助手席の栞が、後部座席にいる僕に振り返って、プラスチックの容器を掲げて見せた。彼女の頬は、湯気でほんのり上気している。
「それは肉うどんじゃなくて、栞ちゃんがサービスエリアで買ってきた冷凍うどんを、カセットコンロで温めてくれたただのうどんだ。そしてそこはパーキングエリアじゃなくて、今走ってる国道だ。頼むから、現実と願望を混同しないでくれ、猛」
僕は、ファミコンのコントローラーを改造して作られた、およそ計器パネルとは呼べない代物をぼんやりと眺めながら、後部座席から冷静に訂正した。十字キーはワイパー、Aボタンはウォッシャー液、Bボタンはハザードランプに連動している。スタートボタンを押すと、どこかの配線がショートしているのか、猛が熱唱しているカーステレオの電源が一瞬落ちる。
やかましくて、どうしようもなくて、全く噛み合っていなくて、そして、いつかなくしてしまうのが少しだけ怖い、そんな日常。僕、藤原悠人は、この奇妙で愛おしい仲間たちと共に、あてのない旅を続けている。何百年という時を、死ぬこともできずに生きてきた僕にとって、この一瞬一瞬が、色褪せた記憶の中に刻まれる、鮮やかすぎるほどの光だった。
目的地は、長野の山深い温泉郷。十一月も下旬に差し掛かると、中央自動車道の両脇に連なる山々の頂は、まるでパティシエが気まぐれに振りかけたように、うっすらと白い粉砂糖をまとっていた。車の窓を少し開けると、シン、と鋭利な刃物のように冷たい風が頬を刺し、冬の到来を明確に告げている。空気の中に含まれる水分が、凍てつく匂いを纏い始めていた。
「うわあ、雪……」
助手席の栞が、吐く息を真っ白に染めながら、フロントガラスの向こうに広がる景色に、子供のように瞳を輝かせた。最初は、空の高い場所から躊躇いがちに舞い降りてくる、綿毛のような頼りない雪だった。光に透かすとキラキラと輝き、アスファルトに落ちた瞬間に、儚くその姿を消してしまう。
だが、高速道路を降り、温泉郷へと続く曲がりくねった山道に入るにつれて、その雪の性質は豹変した。吹雪と呼ぶにはまだ優しいが、しかし明確な意志を持って、フロントガラスにバチ、バチ、と硬質な音を立てて叩きつけるように変わっていった。ワイパーが懸命にそれを掻き分けるが、その動きの合間を縫って、白い筋が幾重にもガラスを覆っていく。
「おいおい、天気予報じゃ一日中、快晴だったじゃねえか」
運転席の健吾が、忌々しげに空を睨みつけ、低く悪態をついた。彼の太い眉が、ぐっと中央に寄せられる。
莉奈が、後部座席で猛の熱唱を強制的に停止させ、カタカタと猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。ディスプレイには、気象衛星の画像や、アメダスの観測データが目まぐるしく表示されては消えていく。
「おかしいですね……。観測データ上は、こんな雪雲、どこにも存在しません。完全に等圧線は安定しています。局地的な異常気象……いえ、これはまるで、この山自体が、僕たちを拒んでいるみたいです」
やがて彼女は、非科学的、という言葉を最も嫌うはずの口から、そんな感想を漏らした。その声には、データでは解析できない現象に対する、わずかな戸惑いと苛立ちが混じっていた。
そうこうしているうちに、道は完全に白い絨毯で覆われ始めた。タイヤが雪を踏みしめる「キュッ、キュッ」という音が、静かな車内にやけに大きく響く。健吾の運転するバンの後輪が、何度か空しく横滑りを起こした。
「チェーンを巻く。これ以上は危険だ」
健吾の短く、しかし有無を言わせぬ冷静な判断で、車はかろうじて路肩とわかるスペースに寄せられた。エンジンを止めると、猛威を振るう風の音だけが、ヒュー、ヒューと獣の呻きのように響き渡る。健吾は、一瞬の躊躇もなくドアを開け、吹雪の中にその身を躍らせた。彼は、手慣れた様子で荷台から取り出した金属製のチェーンを、素手でタイヤに装着していく。氷のように冷たい金属が、彼の指先の熱を容赦なく奪っていく。その指は見る間に真っ赤に変色し、吐く息は激しい白煙となって風に流されていくが、その動きに一切の淀みも焦りもない。ガチャリ、ガチャリと、金属と金属が噛み合う冷たい音だけが、吹雪の音に混じって聞こえてくる。
だが、自然の気まぐれは、人間のささやかな備えを、まるで嘲笑うかのように容易く凌駕する。チェーンを巻き終え、再びゆっくりと走り出したのも束の間、吹雪は本物の牙を剥き始めた。視界は、白。ただ、ひたすらに白。前後左右、どこを見ても、ただ荒れ狂う雪の壁が、世界との境界線を曖昧にしていく。もはや道がどこにあるのか、自分たちが登っているのか下っているのかさえ定かではない。世界から、色と音と、方向感覚が完全に奪われた。風の唸りと、虚しく回転するエンジンの音、そして僕たちの不安な呼吸音だけが、この小さな鉄の箱の中に閉じ込められていた。
ついに、新生バンは、深い雪溜まりにタイヤを完全に取られ、進むも退くもできなくなってしまった。アクセルを踏み込む健吾の足に応えて、エンジンだけが悲鳴のような高い唸りを上げるが、タイヤはただ虚しく雪を掻き、車体はわずかに揺れるだけだった。
「ちっ、ここまでか」
健吾が、諦めたようにハンドルを軽く叩いた。その乾いた音が、車内の絶望的な空気に吸い込まれていく。暖房が効力を失い始め、窓ガラスの内側から急速に冷気が忍び寄ってくるのが、肌で感じられた。このままでは、文字通り凍え死ぬ。何百年も死ねなかった不老不死の僕ですら、肉体が凍りつき、感覚が麻痺していく凍傷の痛みは感じるのだ。死ねないだけで、苦痛は平等に訪れる。
「……あ」
誰もが言葉を失い、ただ窓の外の白い暴力を見つめるしかない、そんな絶望的な沈黙の中、栞が、か細い声を上げた。彼女の震える指が指し示す、吹雪で霞む視界の向こう、谷の麓と思われる方向に、ぽつん、と、あまりにもか弱い光が一つ、点っているのが見えた。それは吹雪の中で、何度も消え入りそうになりながらも、懸命にその存在を主張しているように瞬いていた。
それは、この世の終わりのような白銀の世界で、唯一の、そしてあまりにも温かい、文明の灯りだった。
「あそこまで行くしか、道はねえな」
健吾の言葉が、僕たちの行動を決定づけた。僕たちは、まるで本当に遭難した登山者のように、互いの肩を寄せ合い、膝まで深く積もった雪をかき分けながら、そのささやかな光だけを目指した。猛が、その有り余る体力を活かして先頭に立ち、両腕で雪を掻き分けるラッセル役を担う。彼の背中が、僕たちにとっての頼もしい防雪壁となった。健吾が時折、吹雪の合間にコンパスを取り出し、わずかに見える山の稜線と光の方向から、進むべき方角を確かめる。一時間ほど歩いただろうか。体感では、永遠にも感じられる時間だった。手足の感覚はとうに麻痺し、ただ機械的に足を前に出すことだけを考えていた時、僕たちの目の前に、ようやくその灯りの正体が、ぼんやりとした輪郭を現した。
それは、まるで時代から取り残されたかのような、古い木造の建物だった。降り積もった雪が、屋根に分厚い綿帽子を被せ、軒先からは氷柱が牙のように何本も垂れ下がっている。その軒下に、「伊集院診療所」と墨で書かれた、古びて文字の掠れた木の看板が、風に吹かれて寂しげに揺れていた。どうやら、診療所を兼ねた、小さな温泉宿のようだった。磨りガラスの向こうからは、先ほど僕たちを導いてくれた、温かなオレンジ色の光が柔らかく漏れ出している。生きている世界の光だった。
「ごめんくださーい! 誰かいませんかー! 吹雪で遭難してしまいました!」
僕が、凍りついて指の感覚がない手で、重たい木製の引き戸を叩くと、中からパタパタ、パタパタと、忙しないスリッパの音が聞こえてきた。そして、ガチャリと鍵の開く音がして、一人の女性が姿を現した。
きっちりと糊の効いた白衣をまとった、凛とした佇まいの女性だった。年の頃は、僕と同じくらいに見える。艶やかな黒髪は、一筋の乱れもなく、きつく後ろで結い上げられ、その涼やかな目元と、意志の強そうな薄い唇が、彼女の知的な雰囲気を際立たせていた。その整いすぎた顔立ちは、美しいというより、どこか人間味を感じさせない、精巧なガラス細工のような冷たさを感じさせた。だが、その鋭い双眸の奥には、何日もまともに眠っていないかのような、深い疲労の色が、インクの染みのように浮かんでいた。
「……吹雪で立ち往生したのね。こんな夜によくここまで辿り着いたわ。入りなさい。ぐずぐずしていると風邪をひくわよ。そうなっても、あなたたちを寝かせる余分な布団はないわ」
ぶっきらぼうで、棘のある口調。だが、その言葉には、目の前の遭難者を見捨てることのできない、医者としての義務感が、不本意ながらも滲み出ているのが分かった。彼女こそが、この山奥の診療所の主、伊集院麗子だった。
僕たちは、彼女に招き入れられるようにして、ようやく温かい室内へと転がり込んだ。途端に、懐かしい石油ストーブの匂いと、ツンと鼻をつく薬品の匂いが混じり合った、独特の空気が僕たちを迎える。そこは待合室であろう、古い木造の温かみと、壁際に整然と並べられた最新鋭の医療機器の無機質さが、奇妙なバランスで同居している空間だった。使い込まれて飴色になった長椅子や柱が持つ長い時間の記憶と、モニターに表示されるデジタル数字や、ステンレスの冷たい輝きを放つ機器群。それはまるで、この村が重ねてきた長い歴史と、彼女一人が背負う現代の合理性が、一つの空間で静かにせめぎ合っているかのようだった。
「それで、あなたたち、一体どこから来たの? こんな時期に、こんな山奥に、物好きな観光客なんて珍しいわね」
麗子は、薬缶から湯気の立つお茶を人数分の湯呑みに注ぎながら、僕たち一人一人の顔を、まるで診察でもするかのように鋭く、探るように見つめながら、そう言った。彼女の目には、単なる好奇心ではない、外部の人間に対する強い警戒心が宿っていた。
「まあ、ちょっとした日本一周旅行みたいなもので。成り行きで、ここまで」
僕が曖昧に答えると、彼女は、ふん、と興味なさそうに鼻を鳴らした。
「物好きね。でも、やめておいた方がいいわ。悪いことは言わないから、雪が止んだらすぐに山を降りなさい。この村は今、少し騒がしいから」
麗子は、熱いお茶を僕たちの前に一つずつ置きながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼女の話によれば、この村では、ここ最近、にわかには信じがたい、奇妙な事件が相次いでいるという。
「吹雪の夜になると、決まって村の若い男が、忽然と姿を消すの」
その言葉に、僕たちの間に緊張が走った。
「失踪事件、ですか? 警察の捜査状況は?」
莉奈が、いつものハッカーの目で、鋭く問いかける。
「警察は、家出か何かだろうと、そう扱っているわ。でも、不可解なことだらけよ。鍵のかかった自分の部屋から、足跡一つ残さずに消える。まるで、煙か霞にでもなったみたいにね。もう、この一ヶ月で三人よ。全員、若くて健康な男ばかり」
麗子の言葉に、猛がゴクリと息を呑む音が、静かな待合室に響いた。
「村の年寄りたちは、山の神社に古くから祀られている『雪女』の仕業だって、本気で怖がっているわ。馬鹿げてる。そんな非科学的なこと、あるわけないでしょう」
彼女は、そう言って自分に強く言い聞かせるように、自分のお茶を一口すすった。だが、その湯呑みを持つ指先が、わずかに、しかし確かに震えているのを、僕の目は見逃さなかった。
「私は医者よ。オカルトや迷信は信じない。だから、私なりに調べているの。失踪した三人の共通点を。生活習慣、過去の病歴、人間関係……。考えうる全ての医学的、社会的なデータを洗い出したわ。でも、何も出てこない。何の接点もない。まるで、神様が気まぐれにサイコロでも振って、次のターゲットを決めているみたいに、あまりにも無作為なのよ」
彼女は、心の底から悔しそうだった。自らが信奉する科学や論理では、この不可解な現象に、全く太刀打ちできないことが。その無力感が、彼女の表情に深い影を落としていた。
その夜、僕たちは、麗子の厚意で、診療所の空いている病室に泊めてもらうことになった。簡素なベッドと、消毒液の匂いが染みついたシーツ。それでも、吹雪の屋外に比べれば天国だった。猛と健吾は、日中の恩返しとばかりに、率先して診療所の周りの雪かきを手伝っている。ザッ、ザッ、と雪をかくスコップの音と、二人の荒い息遣いが、窓の外から聞こえてくる。莉奈は、ノートパソコンを開き、早速この村のサーバーと警察のデータベースに不正アクセスを試み、失踪者たちの客観的データを集め始めていた。カタカタというタイピングの音だけが、彼女の存在を主張していた。
「どう思う、栞?」
僕は、窓ガラスに映る自分の顔の向こうで、しんしんと降り続く雪を眺めながら、隣に静かに立つ栞に尋ねた。
「この村……。なんだか、とても悲しい空気がします。それは、今起きている事件のせいで、人の噂や不安から来るものじゃないんです。もっと古くて、もっと深くて、そして、心の芯まで凍りつくように冷たい、純粋な『悲しみ』の気配です」
栞の言う通りだった。僕にも、その気配ははっきりと感じられる。それは、青木ヶ原の樹海で感じた、モノたちの怒りや恨みといった、攻撃的な念とは全く質の違うものだった。そこには悪意や怨念はない。ただ、ひたすらに、純粋で、救いのない悲しみが、この村全体を、まるで薄い氷の膜のように、静かに、そして完全に覆っている。
夜が更け、雪かきで疲れ果てた猛たちは、いびきをかいて深い眠りについた。莉奈と麗子は、待合室のストーブの前で、莉奈が抜き出した失踪者のデータと、麗子が保管していたカルテを突き合わせながら、小声で何やら専門的な議論を続けている。合理主義者の医者と、データ至上主義者のハッカーは、意外にもウマが合うようだった。
僕は、この安全な部屋でじっとしているのが、どうにも性に合わなかった。いや、違う。この静かで、冷たくて、死の匂いが濃厚に漂う夜が、僕を外へと誘っていたのだ。
「ちょっと、散歩してくる」
眠る仲間たちを起こさないように、誰に言うでもなくそう呟き、僕は、軋む床に注意しながら、音を立てずに診療所を抜け出した。
外は、音のないモノクロームの世界だった。降り積もったばかりの新雪が、あらゆる音を吸い込み、世界は絶対的な静寂に支配されている。僕の吐く息は瞬時に白く凍りつき、まるで魂が抜け出ていくかのように、闇の中へと溶けていく。死ぬには、ちょうどいい夜だ。そんな不謹慎な考えが、ふと頭をよぎる。何百年も死ねずにいる僕にとって、この絶対的な静寂と、世界の全てを等しく白く塗りつぶしていく雪は、ある種の安らぎと、終焉への甘い誘惑を与えてくれるのだ。
ふらふらと、当てもなく歩く。僕の足跡だけが、真っ白なキャンバスに、汚い点として点々と刻まれていく。僕が存在している、という醜い証拠だ。
その時だった。
道の先、月光と雪明かりを浴びて青白く浮かび上がる、古い一本杉の木の下に、誰かが立っているのに気づいた。
こんな猛吹雪の夜に? 村人か? いや、違う。その佇まいは、明らかにこの世の人間のものではなかった。
それは、雪のように白い無垢の着物を着た、一人の女だった。
濡れたような黒く長い髪、雪を溶かして固めたかのような透き通るように白い肌、そして、まるでこの世の他の色を全て忘れてしまったかのように、鮮烈に赤い唇。その美しさは、現実感を失わせるほどに完璧で、それ故に恐ろしかった。彼女がただそこに立っているだけで、周囲の空気が、キーン、とガラスが割れるような音を立てて凍りついていくのが分かった。
雪女。
村の年寄りたちが恐れる、噂の正体が、今、僕の目の前にいた。
彼女は、僕をじっと見つめていた。その漆黒の瞳には、何の感情も浮かんでいない。喜びも、怒りも、悲しみも。ただ、全てを吸い込むような、底なしの虚無だけが、そこにあった。
彼女が、ふう、と静かに息を吐く。その息は、目に見えるほどの白い霧となり、僕の足元の雪を、カチン、と音を立てて硬質の氷に変えた。
まずい、殺されるか。僕が咄嗟に身構えた瞬間、彼女は、すうっと音もなく、まるで氷の上を滑るように僕に近づいてきた。そして、何かを確かめるように、その氷のように冷たい手を、僕の分厚いコートの上から、心臓のある左胸に、そっと当てた。
ドクン、ドクン、ドクン――。
僕の心臓の鼓動が、彼女の冷たい掌に、はっきりと伝わる。だが、その瞬間、彼女の虚無の瞳に、初めて微かな色が浮かんだように見えた。それは、失望の色だった。僕の体には、僕のこの心臓には、彼女が探している「何か」が、決定的に欠けていたらしい。
次の瞬間、彼女は興味を失ったように、ふっと身をひるがえした。そして、まるで幻であったかのように、吹雪の中にその輪郭を溶け込ませ、その姿はかき消えてしまった。後には、彼女が立っていた場所の杉の木の幹や枝が、異様なまでに分厚い氷で白く覆われているだけだった。
呆然と立ち尽くす僕のポケットで、スマートフォンが短く震えた。莉奈からのメッセージだ。
『悠人さん、どこにいるんですか! 大変です! 麗子さんが、何かとんでもないことを見つけたみたいです! すぐに戻ってきてください!』
僕は、我に返り、慌てて診療所へと雪を蹴立てて引き返した。
診療所に戻ると、麗子と莉奈が、尋常ではない興奮と緊張が入り混じった様子で僕を待っていた。ストーブの赤い光が、二人の紅潮した顔を不気味に照らしている。
「悠人さん、見てください! 失踪した三人の、過去のカルテと、莉奈さんが手に入れてくれた戸籍情報を、何世代も、何世代も遡って全部洗い出してくれたんです!」
麗子は、一枚の巨大な紙――急ごしらえで作ったのであろう家系図のようなもの――を僕に突きつけた。そこには、無数の名前と線が、複雑に絡み合っていた。
「三人は、現在の戸籍上、遠い親戚関係にすらありません。生活圏も、職業もバラバラ。でも、何世代も、何世代も……江戸の時代まで遡って調べていくと、たった一つだけ、奇妙な共通点が見つかったんです」
彼女は、ごくり、と乾いた喉を鳴らし、信じられない、という顔で、しかし医者としての確信に満ちた声で言った。
「非科学的だと、あなたは笑うかもしれないわ。でも、一つの仮説が立った。あの雪女の正体は分からない。でも、彼女が狙う人間には、もしかしたら、医学的に説明できる『法則』があるのかもしれない」
彼女の震える指が、家系図のある部分――複数の家系から伸びた線が、一点に収束していく箇所――を、強く、強く指し示した。
「失踪者たちの先祖は全員、ある特定の遺伝的疾患……常染色体劣性遺伝の、極めて稀な疾患の保因者である可能性が、極めて高いのよ」
非科学の権化である雪女の、不可解で無作為に見えた行動。その裏に隠されていた、冷徹で残酷なまでの、科学の法則。
僕たちは、この凍てついた小さな村で、時を超えた悲恋と、現代の医学とが奇妙に交差する、深く、そしてあまりにも悲しい謎の入り口に、今、立たされたのだった。窓の外では、雪がなおも降り続き、全ての真実を白い闇の底に隠そうとしているかのようだった。
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