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最終決戦準備編
第37話『傷だらけの拳、臆病な心』
しおりを挟む沖縄の海で、ニライカナイの神々の祝福を受けた一行は、再び本州へと戻った。目指すは、全ての始まりの場所であり、全ての終わりの場所となるであろう、悠人の故郷・青森。旅の目的は、もはや悠人個人の呪いを解くことではない。世界の歪んだ循環を、あるべき姿に戻す。そのための、最後の戦いへ。一行を乗せた瑠璃所有の超豪華キャンピングカー(もはや移動式ホテルと呼ぶべき代物だ)は、九州から本州へと、着実に北上を続けていた。
決戦を前に、車内の空気はかつてないほど引き締まっていた。いや、引き締まっているはずだった。
「うおお!見てみい、この霜降り!芸術や!焼くのがもったいないわ!」
「アキラさん、それはA5ランクの松阪牛です。焼きすぎると、三条院家のシェフに私が叱られますので、ミディアムレアでお願いします」
「猛、あんた肉ばっかり食べてないで野菜も食べなさいよ!筋肉が偏るわよ!」
「うるせえ!筋肉に偏りなんざねえ!全身が平等に肉を欲してんだよ!」
……引き締まっていたのは、走行性能とサスペンションだけのようだった。
車内のリビングスペースでは、鉄板を囲んでの焼肉パーティーが盛大に繰り広げられていた。瑠璃が「決戦の前には、腹ごしらえも肝心ですわ」の一声で取り寄せた、日本各地の最高級ブランド牛が、テーブルの上で乱舞している。その光景を、悠人は少し離れたソファから、呆れたような、それでいてどこか楽しげな目で見つめていた。
不意に、悠人が口を開いた。
「なあ、お前ら」
彼の静かな声に、肉の争奪戦を繰り広げていた獣たちが、ぴたりと動きを止める。
「青森に着く前に、それぞれ、やり残したことがある奴は、済ませておけ。どうせ死ぬなら、心残りはない方がいいだろ」
その言葉は、あまりに唐突で、あまりに穏やかだった。しかし、その裏にある覚悟の重さを、一同は瞬時に理解した。青森での戦いは、生きて帰れる保証などどこにもない。これは、悠人なりの、仲間たちへの最大限の気遣いだった。
最初に口火を切ったのは、猛だった。
「……俺、寄りたいとこ、あるんすけど。いいすか」
彼は、口いっぱいに頬張った肉をなんとか飲み込むと、少し照れくさそうに、しかし真っ直ぐな目で言った。
「俺の、故郷に」
かくして、一行の最後の巡礼が始まった。それは、それぞれの仲間が、その魂に刻まれた過去の傷と向き合い、決着をつけるための、寄り道だらけの旅の始まりだった。
*
【猛の物語:臆病なヒーロー】
一行が最初に訪れたのは、猛の故郷、東京の下町だった。夕暮れ時、荒川の土手に車を止めると、どこからか醤油の香ばしい匂いや、子供たちのはしゃぐ声が風に乗って運ばれてくる。川面が、夕日に染まってオレンジ色に輝いていた。
「へへ、どうすか。いいとこでしょう」
猛は、得意げに胸を張る。
「うーん、思ったより普通やな。もっとこう、道の真ん中でフンドシ一丁のおっさんが相撲とってるとか、そういうのを期待してたんやけど」
アキラの心ない一言に、猛が「とるか、そんなもん!」と即座にツッコむ。いつもの光景だ。
一行は、猛の案内で、活気のある商店街を歩いた。八百屋の威勢のいい声、豆腐屋のラッパの音、惣菜屋から漂う揚げ物の匂い。全てが、温かい人間の生活の匂いに満ちていた。
「猛じゃないか!でっかくなったなあ!」
「よお、タケ坊!また体鍛えてんのか!」
すれ違う人々が、親しげに猛に声をかける。彼は、この町で、皆に愛されて育ったのだ。その事実が、一行の心を温かくした。
「猛さんは、昔から、こんなに強かったんですか?」
美咲が純粋な瞳で尋ねると、猛は一瞬、気まずそうに視線を逸らした。そして、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……逆だよ。俺は、昔、すげえいじめられっ子だったんだ」
その告白は、あまりに彼の今の姿と結びつかなかった。
「ちっちぇ頃から、他の奴には見えねえモンが見えちまってよ。それを面白がられたり、気味悪がられたり……。毎日、泣いて家に帰ってた。情けねえだろ?」
猛は、自嘲するように笑う。
「だから、体を鍛え始めたんだ。誰にも馬鹿にされねえように。誰にも、俺の心に触れさせねえように。この筋肉はよ、俺の臆病さを隠すための、ただの鎧なんだよ」
その時だった。商店街のアーケードの出口、少し薄暗くなった路地裏で、数人の若者が一人の男を取り囲んでいるのが見えた。中心にいるのは、金髪で、安っぽいスーツを着崩したチンピラ風の男。取り囲まれているのは、気の弱そうな、冴えないサラリーマンだ。
「おい、聞いてんのかよ、タカシ。今月分、まだだろうが。俺のケツに火ぃつけさせんじゃねえぞ」
金髪の男が、サラリーマンの胸ぐらを掴む。
その光景を見た瞬間、そして、その金髪の男の顔を見た瞬間、猛の体が、びくりと硬直した。彼の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
「……あいつ……」
猛の唇が、小さく震える。
「どうした、猛?知り合いか?」
悠人が尋ねると、猛は、乾いた喉から、絞り出すように言った。
「……昔、俺をいじめてた、主犯格の男だ」
金髪の男は、かつて、猛の心を最も深く傷つけた男だった。そして、彼に脅されているサラリーマンのタカシは、数少ない、猛の幼馴染の一人だった。
「おい、どうすんだよ」
健吾が、低い声で言う。
「……」
猛は、動けなかった。頭では分かっている。助けに行かなければ。しかし、足が、まるで地面に縫い付けられたように動かない。金髪の男の顔を見た瞬間、あの頃の、何もできなかった無力な自分に、一瞬で引き戻されてしまったのだ。冷や汗が、背中を伝う。
「おいおい、どないしたんや、ヒーロー。足が震えとるで」
アキラの挑発的な言葉が、彼の耳には届かない。
その時、悠人が、猛の肩をぽんと叩いた。
「なあ、猛。お前がその鎧を着けたのは、何のためだ?」
「……え?」
「誰かを殴るためか? それとも、誰かを守るためか?」
悠人の静かな問いに、猛はハッとした。そうだ。俺は、強くなりたかった。もう誰も、自分も、自分の大切な人も、傷つけさせないと誓ったはずだ。彼の視線の先で、幼馴染のタカシが、恐怖に歪んだ顔で、助けを求めるように、一瞬だけこちらを見た。
――守る。
その一言が、猛の心の中で、雷のように鳴り響いた。
「……うおおおおおっ!!」
猛は、獣のような雄叫びを上げると、恐怖という名の鎖を、自らの意志の力で引きちぎった。彼は、もう、かつての泣き虫のタケ坊ではなかった。
「てめえら! 俺のダチに、何してやがんだ!!」
猛が、金髪の男たちの前に立ちはだかる。その体は、逆光を浴びて、やけに大きく見えた。
「あ? なんだてめえ……って、タケ坊か? うわ、懐かしいな!まだこんなとこにいたのかよ!」
金髪の男は、猛を認めると、馬鹿にしたように笑った。
「なんだ、こいつの仲間か? なら、てめえも一緒に……」
男が言い終わる前に、猛の拳が、空気を切り裂いた。
しかし、その拳は、男の顔面を捉える寸前で、ぴたりと止まっていた。
「……!」
金髪の男は、目の前で止まった、岩のような拳の圧力に、声も出せずに固まっている。
「悪いが、この拳は、もう人を殴るためには使わねえことにしてんだ」
猛は、静かに、しかし、かつてないほど力強い声で言った。
「だから、消えろ。二度と、俺たちの前に顔を見せるな」
その気迫に、チンピラたちは完全に呑まれていた。彼らは、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「た、猛……」
助けられた幼馴染が、呆然と猛を見上げる。
「ありがとうな。お前、すげえな……」
「へへ。まあな」
猛は、ぶっきらぼうに頭を掻く。その顔は、夕日よりも赤く染まっていた。
彼は、初めて、暴力のためではなく、臆病な自分を隠すためでもなく、ただ誰かを守るという、その一点のためだけに、その拳を、その勇気を、振るうことができたのだ。傷だらけだった彼の心の鎧は、今、本物の強さの証へと変わっていた。
*
【健吾の物語:父の背中】
次に一行が向かったのは、神奈川県の京浜工業地帯。夜になると、無数の工場の灯りが、まるで地上の星座のように輝く、眠らない街だ。健吾は、その一角にある、巨大な自動車工場の前で車を降りた。
「ここが、親父の工場だ」
ぽつりと呟かれたその言葉には、長年の確執と、断ち切れない愛情が入り混じった、複雑な響きがあった。
健吾の父は、日本有数の自動車メーカーの、巨大な下請け工場の経営者だった。効率と利益だけを追求し、古い機械や職人の技術を切り捨て、最新のオートメーションシステムを導入した、合理主義の塊のような男。健吾は、そんな父への反発から、古いものを慈しみ、その声を聞くという、正反対の道を選んだのだ。
「なんでまた、今更?」
莉奈が尋ねると、健吾は気まずそうに答えた。
「……最近、経営が上手くいってないらしい。最新のはずの工場のメインシステムが、原因不明の不具合を頻発させている、と母さんから聞いた」
工場に足を踏み入れると、そこは、健吾が子供の頃に見た光景とは全く違っていた。油の匂いも、職人たちの怒鳴り声も聞こえない。ただ、巨大なロボットアームが、無機質な音を立てて整然と動き回っているだけだった。
応接室に通されると、疲れた顔の父親が、苦虫を噛み潰したような顔で座っていた。
「……今更、何の用だ。お前にやれることなど、ここには何もない」
父子の再会は、棘のある言葉から始まった。
「システムの不具合の件、聞いた。俺に、見させてくれ」
「ふん。ドイツ製の最新システムだ。お前のような時代遅れのガラクタいじりに、何が分かると言う」
会話は、平行線を辿るだけだった。しかし、その時、工場全体を揺るがすような、けたたましいアラームが鳴り響いた。メインシステムが、完全に停止したのだ。
メーカーの技術者もお手上げ状態。父の顔に、絶望の色が浮かぶ。その時、健吾は、誰に言うでもなく、静かに立ち上がった。
「……聞こえる。あいつらが、泣いてる」
健吾は、工場の奥、今はもう使われていない、古いプレス機や旋盤が並ぶ一角へと向かった。そこは、父が切り捨てた、過去の遺物たちの墓場だった。
「お前たちの声、聞こえるぜ。新しい奴らに、自分たちの居場所を奪われて、悔しいんだろ? 悲しいんだろ?」
健吾は、ホコリを被ったプレス機に、そっと手を触れる。まるで、年老いた友人に語りかけるように。
「分かるよ。お前たちの気持ちは。でもな、この工場は、親父が、そしてお前たちが、一緒に守ってきた場所じゃねえのか。このまま、全部なくしちまっていいのか?」
彼は、機械たちの「悲鳴」を聞いていた。父が導入した最新のシステムは、あまりに完璧すぎた。古い機械たちが長年かけて工場全体に張り巡らせていた、目に見えないエネルギーの「流れ」や「呼吸」を、完全に無視していたのだ。その結果、古い機械たちの「想い」が、システム全体に予期せぬノイズとして干渉し、誤作動を引き起こしていた。まさに、複雑なシステムにおける、予測不能な創発エラーだった。
健吾は、たった一人で、修復作業を始めた。古い機械たちに語りかけ、一つ一つのネジを締め直し、油を差し、その心を鎮めていく。そして、最新のシステムと、古い機械たちの間に、新しい「対話の道」を作るように、配線を調整し、プログラムを書き換えていった。
その姿を、父親は、ただ黙って、遠くから見ていた。息子の背中は、かつて自分が教えた、どの技術者よりも、深く、そして優しく、機械と向き合っていた。息子がやっていることは、非科学的で、非効率かもしれない。しかし、そこには、自分がとうの昔に失ってしまった、「モノづくり」への、純粋な愛情があった。
数時間後。
健吾が、油まみれの手で最後のスイッチを入れると、沈黙していた工場に、再び命の灯りが灯った。システムは、完全に復旧していた。
「……帰るのか」
背後から、父の声がした。
「ああ」
「……そうか」
言葉は、それだけだった。しかし、二人の間には、もう長年のわだかまりはなかった。健吾は、父が不器用ながらも、工場と、そこにいる従業員たちの生活を守ろうと必死だったことを理解した。父もまた、息子が自分とは違うやり方で、しかし自分以上に、モノづくりの魂を受け継いでいることを、確かに認めたのだ。男同士の静かな和解は、鳴り響く機械の音の中に、静かに溶けていった。
*
【麗子の物語:救えなかった命】
巡礼の最後の地は、麗子の故郷、神戸だった。異国情緒あふれるモダンな街並み。彼女が働く大学病院は、港を見下ろす丘の上に建っていた。
「ここが、私の戦場よ」
白衣をまとった麗子は、いつものように、理知的で、完璧な医師の顔をしていた。しかし、一行は、彼女がこの場所で、何か重いものを背負っていることを感じていた。
彼女は、ぽつりぽつりと、自らの過去を語り始めた。
研修医時代、一人の少女を担当したこと。病名は、現代医学では解明できない、未知の奇病だったこと。あらゆる手を尽くしたが、少女は日に日に衰弱していったこと。
「私は、無力だった。科学の限界を、これでもかというほど突きつけられたわ。教科書に載っていない病の前では、私の知識など、何の役にも立たなかった」
その経験が、彼女を、より一層、科学的で、冷徹で、完璧であろうとする医師へと変えたのだ。感情に流されず、ただ、データと事実だけを信じる。それが、二度とあのような無力感を味わわないための、彼女なりの防衛策だった。
一行が、院内を歩いていると、偶然、一人の女性とすれ違った。その女性は、麗子の顔を見ると、ハッとしたように足を止め、駆け寄ってきた。
「伊集院先生……!ご無沙汰しております」
「……あなたは」
麗子の目が、わずかに見開かれる。
その女性は、あの時、救えなかった少女の、母親だった。
麗子の全身が、凍りついた。責められる。罵られる。そう覚悟した。
しかし、母親の口から出たのは、全く予期しない言葉だった。
「先生、ずっと、お礼が言いたかったんです」
母親は、涙を浮かべながら、深々と頭を下げた。
「あの子が、最後の日まで、希望を失わずに笑っていられたのは、先生が、毎日、毎日、あの子の手を握って、『絶対に諦めない』って、言ってくださったからです。あの子、言ってたんです。『先生の手、あったかいね』って……」
麗子は、何も言えなかった。
自分は、ただ、無力感から逃れたくて、少女に寄り添うフリをしていただけだと思っていた。科学的に正しい治療ができない自分に、苛立ちさえ覚えていた。
しかし、少女と、その家族は、そんな自分の、不器用な優しさだけを、ちゃんと見ていてくれた。
「先生のやってらっしゃることは、病気を治すことだけじゃない。私たち家族の、心まで、救ってくださったんです。本当に、ありがとうございました」
母親は、そう言うと、再び深く頭を下げ、去っていった。
後に残された麗子の頬を、一筋の涙が、静かに伝った。
医者の仕事は、病という「現象」を科学的に治療することだけではない。病と共に生きる、患者とその家族の「心」に、ただ寄り添うこと。その温かさこそが、時には、どんな最先端の医療よりも、人を救うことがある。
科学の限界を知り、そして、人の想いの温かさを知った時、彼女の心を長年縛り付けていた、冷たい氷の棘は、静かに、優しく溶けていった。
*
三者三様の、過去との決着。
それは、彼らが個人のトラウマという名の、自分自身で作り上げた牢獄から、解き放たれた瞬間だった。鎧を脱ぎ捨て、素直な心を取り戻した彼らは、以前よりも、ずっと強く、ずっと優しくなっていた。
車は、次なる仲間たちの故郷を目指し、再び北へと走り出す。深まった絆を乗せて。その絆こそが、最後の戦いに挑むための、何よりも強い武器になることを、まだ誰も知らなかった。
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