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デザイア・ログアウト(渇愛からの脱出)
第一話:地獄は「希望」の顔をしている
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五月の風だった。
若葉の産毛を撫でてきたような、少し青臭くて、それでいて湿度を含んだ生ぬるい風。それが頬を撫でた瞬間、ケイは意識を取り戻した。 目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、暴力的なまでに鮮やかな「青」だった。 空だ。 雲ひとつない、絵の具をぶちまけたような快晴。だが、どこか作り物めいた完璧すぎる青空。 ケイはゆっくりと上半身を起こした。アスファルトの熱が手のひらに伝わる。 そこは、巨大なマンションの屋上のようだった。周囲を高いフェンスが囲み、その向こうには、陽炎(かげろう)に揺れるビル群が蜃気楼のようにぼやけて見える。 足元を見れば、コンクリートの割れ目から、名も知らぬ黄色い野花が、ひょっこりと顔を出している。風が吹くたびに、その小さな花は頼りなげに揺れ、どこからともなく漂ってくる沈丁花(じんちょうげ)に似た甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「……どこだ、ここ」
ケイはあくびを噛み殺しながら呟いた。 恐怖よりも先に「面倒くさい」という感情が勝った。エンジニアという職業柄、徹夜明けで拉致されたのだとしたら、犯人に請求書を送りつけてやりたい気分だ。 ふと見渡すと、この広い屋上には、ケイ以外にも数人の男女が転がっていた。 まるで魚河岸のマグロの競りのように、無造作に寝かされた人間たち。 その中の一人、派手なピンク色のワンピースを着た若い女が、ビクッと身体を震わせて跳ね起きた。
「ちょっ、待って! ここどこ!? 圏外!? ありえないんだけど!」
彼女は起き上がるなり、スマホを頭上に掲げて電波を探してぐるぐると回り始めた。まるで雨乞いの儀式だ。 彼女が動くたびに、甘ったるい香水の匂いが漂い、風に乗ってきた草の匂いをかき消していく。 インフルエンサーのミナだ。ケイは彼女を動画サイトで見たことがあった。「代官山のパンケーキを三秒で食べる」という謎の企画でバズっていた女だ。
「おいおいおい! 俺の商談はどうなるんだ! 十億だぞ、十億!」
次に叫んだのは、脂ぎった額に汗を浮かべた、高級そうなスーツの男だ。名前はタケダといったところか。彼は腕時計を何度も叩き、誰にともなく怒鳴り散らしている。 「誘拐か? 金か? いくらだ! 今すぐ振り込むからここを開けろ!」 タケダの声に反応して、ジャージ姿のヤンキー風の青年や、買い物袋を提げたままのおばちゃんも次々と目を覚ました。
「あらやだ、私、夕飯の支度まだなのに。大根が煮えすぎちゃうわ」 「うっせえなババア! ここどこだよ! 俺、パチンコ確変中だったんだぞ!」
まさにカオスだった。 状況を把握しようとする理知的な人間は一人もおらず、誰もが「自分の都合」だけを喚き散らしている。 ケイはため息をつき、ポケットからミントタブレットを取り出して口に放り込んだ。カリッという音が、妙にクリアに響く。 風が強まった。 屋上のフェンスに絡みついた蔦(つた)の葉が、ザワザワと音を立てて擦れ合う。それはまるで、何千もの小さな手拍子のようにも聞こえた。 その時だ。
『――みなさま、本日は当物件の内覧会にお越しいただき、誠にありがとうございます』
どこからともなく、優雅な女性のアナウンスが響き渡った。デパートの閉店間際のような、あるいは高級ホテルのロビーで流れるような、丁寧すぎて逆に不気味な声色。
「内覧会? ふざけるな! 出せ! 俺は忙しいんだ!」
タケダが虚空に向かって吠える。 しかし、アナウンスは無視して続けた。
『ここは、あなたがたの願いがすべて叶う場所。出口をお探しですか? それとも、もっと素晴らしい何かをお探しですか?』
「出口に決まってんだろ!」 ヤンキーがフェンスを蹴り飛ばす。ガシャン、と重い金属音が響くが、フェンスはびくともしない。
『出口をご希望の方は、どうぞ、そちらの扉へ』
屋上の中央に、唐突に一枚のドアが現れた。 どこでもドアのようなファンタジーな出現ではない。最初からそこにあったのに、誰も気づかなかったかのように、自然とそこに「在った」。 重厚なマホガニー製のドア。金色のノブが、真昼の太陽を反射してギラリと輝いている。
「なんだ、あるんじゃねえか」 タケダがネクタイを緩めながら、大股でドアに近づいた。 「ったく、質の悪いドッキリだ。訴えてやるからな」 彼がノブに手をかけた、その時。
『ただし』
アナウンスの声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。気温が一度下がったような錯覚。 太陽が雲に隠れたわけでもないのに、肌にまとわりつく空気が冷やりと重くなる。
『この扉を開けるための鍵は、みなさまの「心」です。もっとも欲しいものを、強く、強く願ってください。そうすれば、扉は開かれます』
「はあ? なんだそのポエムみたいなルール」 ミナが呆れたように鼻で笑い、スマホのカメラをドアに向けた。「謎の扉なう。映え~」と言いながらシャッターを切るが、画面にはノイズしか映らない。
「願えばいいんだな? 願えば!」 タケダは焦っていた。十億の商談が頭から離れないのだろう。 彼はドアノブを握り締め、血管が浮き出るほどに力を込めた。 「金だ! 金があれば解決する! 俺は金が欲しい! 今すぐ、ここから出て豪遊できるだけの金がぁぁ!!」
彼の叫び声が、五月の青空に吸い込まれていく。 その直後。 カチャリ、と小気味よい音がして、ドアが開いた。
「開いた! 見ろ、開いたぞ!」
タケダが狂喜乱舞してドアを押し開ける。 その向こう側には――階段も、エレベーターもなかった。 ただ、山があった。 札束の、山だ。 一万円札の束が、雪崩のように積み上げられている。その量は異常だった。ドアの枠を超えて、屋上の方へとなだれ込んでくるほどの量。新札のインクの匂いが、草花の香りを暴力的に塗りつぶしていく。
「うおおおお! すげえ! 本物だ! 全部俺のだ!」
タケダは絶叫し、札束の海にダイブした。 おばちゃんが「あらまァ」と口を開け、ヤンキーが「マジかよ、すげえ」とゴクリと唾を飲む。ミナもスマホを落としそうになりながら、その光景に見入っていた。 誰もが、その異様な光景に目を奪われた。 ケイだけを除いて。
ケイは見ていた。 タケダが抱きしめた札束の、その中心部が、赤黒く変色し始めているのを。
「……あれ、燃えてないか?」
ケイがポツリと呟いた言葉は、タケダの歓喜の叫びにかき消された。 「最高だ! これでもう頭を下げる必要もねえ! これが欲しかったんだよ俺はぁぁ!」
ボッ。
小さな音がした。 タケダが胸に抱いた一千万円の束から、赤い炎が舌を出した。 「あ? なんだこれ、熱っ!」 タケダが慌てて札束を払いのけようとする。しかし、札束はまるで強力な接着剤がついているかのように、彼のスーツに、皮膚に、張り付いて離れない。
「おい、離れろ! なんだこれ! 熱い! 熱い熱い!」
炎は一瞬で燃え広がった。 それは普通の火ではなかった。燃料を燃やす火ではない。タケダの「もっと欲しい」「離したくない」という執着そのものを燃料にしているかのように、彼が強く握りしめれば握りしめるほど、炎は勢いを増して燃え盛った。
「ぎゃあああああ! 助けてくれ! 誰か! 水! 水ゥゥ!」
火だるまになったタケダが転げ回る。 札束の山全体が、彼に呼応するように紅蓮の炎に包まれた。 美しい五月の青空の下、黒煙がもくもくと立ち上る。沈丁花の香りは消え失せ、代わりに、肉と紙幣が焦げる鼻をつく異臭が充満した。
「キャアアアアア!」 ミナが悲鳴を上げて腰を抜かす。 おばちゃんは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝み始め、ヤンキーは「やべえ、マジやべえ」と後ずさりしてフェンスに背中を打ち付けた。
タケダの叫び声は、断末魔の掠れた音に変わり、やがて動かなくなった。 炎は、彼が動かなくなると同時に、嘘のようにスッと消えた。 あとには、黒焦げになったスーツの残骸と、大量の灰だけが残された。風が吹き抜け、灰を空高く舞い上がらせる。キラキラと舞う灰は、皮肉にもダイヤモンドダストのように美しく、初夏の光を受けて輝いていた。
『おめでとうございます。願いは、叶えられましたね』
あのアナウンスが、変わらぬ優雅な口調で告げた。 まるで、素晴らしいショーが終わったかのような拍手喝采を幻聴として含ませながら。
「ふざけんな! 死んだじゃねえかよ!」 ヤンキーが虚空に向かって怒鳴る。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。 「願いが叶うって言っただろ! 金が欲しいって言ったら、なんで燃えるんだよ!」
『あら? 彼は「金という熱」に焼かれることを、心の奥底で望んでおられたのではありませんか?』
アナウンスは楽しげに答える。 『「欲しい」と願うことは、「今のままでは足りない」という乾きを認めること。乾いた心に、欲望という油を注げば、燃え上がるのは自然の摂理です。ここは、みなさまの心が「そのまま」形になる場所なのですから』
シーンと静まり返った屋上に、風の音だけが響く。 全員が理解した。 ここは、ただの監禁場所ではない。 「願えば叶う」という言葉が、希望ではなく、呪いとして機能する場所だと。
その時、へたり込んでいたミナが、震える指でケイを指差した。 「ねえ……あんた、なんで平気なの?」
視線が集まる。 パニックになっている全員の中で、ケイだけがフェンスにもたれかかり、退屈そうに空を見上げていたからだ。 ケイは視線をゆっくりと下ろし、ミナを見た。その瞳は、燃え盛る炎を見た後だというのに、凍った湖のように凪いでいた。
「平気じゃないさ。喉も渇いたし、帰って寝たい」
ケイは淡々と言った。 「でも、あのオッサンみたいに『どうしても水が飲みたい!』とか『絶対に今すぐ帰らせろ!』とは思ってないだけだ」
「……は? 何言ってんの?」
「期待するから裏切られるんだよ」 ケイは足元の黄色い野花を指先で弾いた。花弁が一枚、風に乗って飛んでいく。 「人生なんて、思い通りにならないのがデフォルト設定だろ。スマホの充電は切れるし、電車は遅れるし、あんな風に欲張った奴は自滅する。ただのシステムエラーみたいなもんだ」
ケイの言葉は、あまりにも冷めていて、この異常な状況には不釣り合いだった。 だが、その「冷たさ」こそが、この熱狂的な地獄において、唯一の命綱であるように見えた。
「さて」 ケイは立ち上がり、黒焦げになったドアの残骸――その奥に続く、真っ暗な闇を見つめた。 「ここにいても日干しになるだけだ。行くぞ。ただし、『助かりたい』なんて思うなよ。必死になった奴から順に、あのアナウンスの餌食になるぞ」
そう言い捨てて、ケイは真っ暗な闇の中へと足を踏み入れた。 背後では、恐怖におののくミナたちが、縋るように彼の後を追いかけてくる気配がした。
風が止んだ。 生ぬるい空気だけが、彼らの背中に張り付いている。 終わりのない、そして「希望」を持ってはいけない、最悪の脱出ゲームが幕を開けた。
若葉の産毛を撫でてきたような、少し青臭くて、それでいて湿度を含んだ生ぬるい風。それが頬を撫でた瞬間、ケイは意識を取り戻した。 目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、暴力的なまでに鮮やかな「青」だった。 空だ。 雲ひとつない、絵の具をぶちまけたような快晴。だが、どこか作り物めいた完璧すぎる青空。 ケイはゆっくりと上半身を起こした。アスファルトの熱が手のひらに伝わる。 そこは、巨大なマンションの屋上のようだった。周囲を高いフェンスが囲み、その向こうには、陽炎(かげろう)に揺れるビル群が蜃気楼のようにぼやけて見える。 足元を見れば、コンクリートの割れ目から、名も知らぬ黄色い野花が、ひょっこりと顔を出している。風が吹くたびに、その小さな花は頼りなげに揺れ、どこからともなく漂ってくる沈丁花(じんちょうげ)に似た甘い香りが鼻孔をくすぐった。
「……どこだ、ここ」
ケイはあくびを噛み殺しながら呟いた。 恐怖よりも先に「面倒くさい」という感情が勝った。エンジニアという職業柄、徹夜明けで拉致されたのだとしたら、犯人に請求書を送りつけてやりたい気分だ。 ふと見渡すと、この広い屋上には、ケイ以外にも数人の男女が転がっていた。 まるで魚河岸のマグロの競りのように、無造作に寝かされた人間たち。 その中の一人、派手なピンク色のワンピースを着た若い女が、ビクッと身体を震わせて跳ね起きた。
「ちょっ、待って! ここどこ!? 圏外!? ありえないんだけど!」
彼女は起き上がるなり、スマホを頭上に掲げて電波を探してぐるぐると回り始めた。まるで雨乞いの儀式だ。 彼女が動くたびに、甘ったるい香水の匂いが漂い、風に乗ってきた草の匂いをかき消していく。 インフルエンサーのミナだ。ケイは彼女を動画サイトで見たことがあった。「代官山のパンケーキを三秒で食べる」という謎の企画でバズっていた女だ。
「おいおいおい! 俺の商談はどうなるんだ! 十億だぞ、十億!」
次に叫んだのは、脂ぎった額に汗を浮かべた、高級そうなスーツの男だ。名前はタケダといったところか。彼は腕時計を何度も叩き、誰にともなく怒鳴り散らしている。 「誘拐か? 金か? いくらだ! 今すぐ振り込むからここを開けろ!」 タケダの声に反応して、ジャージ姿のヤンキー風の青年や、買い物袋を提げたままのおばちゃんも次々と目を覚ました。
「あらやだ、私、夕飯の支度まだなのに。大根が煮えすぎちゃうわ」 「うっせえなババア! ここどこだよ! 俺、パチンコ確変中だったんだぞ!」
まさにカオスだった。 状況を把握しようとする理知的な人間は一人もおらず、誰もが「自分の都合」だけを喚き散らしている。 ケイはため息をつき、ポケットからミントタブレットを取り出して口に放り込んだ。カリッという音が、妙にクリアに響く。 風が強まった。 屋上のフェンスに絡みついた蔦(つた)の葉が、ザワザワと音を立てて擦れ合う。それはまるで、何千もの小さな手拍子のようにも聞こえた。 その時だ。
『――みなさま、本日は当物件の内覧会にお越しいただき、誠にありがとうございます』
どこからともなく、優雅な女性のアナウンスが響き渡った。デパートの閉店間際のような、あるいは高級ホテルのロビーで流れるような、丁寧すぎて逆に不気味な声色。
「内覧会? ふざけるな! 出せ! 俺は忙しいんだ!」
タケダが虚空に向かって吠える。 しかし、アナウンスは無視して続けた。
『ここは、あなたがたの願いがすべて叶う場所。出口をお探しですか? それとも、もっと素晴らしい何かをお探しですか?』
「出口に決まってんだろ!」 ヤンキーがフェンスを蹴り飛ばす。ガシャン、と重い金属音が響くが、フェンスはびくともしない。
『出口をご希望の方は、どうぞ、そちらの扉へ』
屋上の中央に、唐突に一枚のドアが現れた。 どこでもドアのようなファンタジーな出現ではない。最初からそこにあったのに、誰も気づかなかったかのように、自然とそこに「在った」。 重厚なマホガニー製のドア。金色のノブが、真昼の太陽を反射してギラリと輝いている。
「なんだ、あるんじゃねえか」 タケダがネクタイを緩めながら、大股でドアに近づいた。 「ったく、質の悪いドッキリだ。訴えてやるからな」 彼がノブに手をかけた、その時。
『ただし』
アナウンスの声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。気温が一度下がったような錯覚。 太陽が雲に隠れたわけでもないのに、肌にまとわりつく空気が冷やりと重くなる。
『この扉を開けるための鍵は、みなさまの「心」です。もっとも欲しいものを、強く、強く願ってください。そうすれば、扉は開かれます』
「はあ? なんだそのポエムみたいなルール」 ミナが呆れたように鼻で笑い、スマホのカメラをドアに向けた。「謎の扉なう。映え~」と言いながらシャッターを切るが、画面にはノイズしか映らない。
「願えばいいんだな? 願えば!」 タケダは焦っていた。十億の商談が頭から離れないのだろう。 彼はドアノブを握り締め、血管が浮き出るほどに力を込めた。 「金だ! 金があれば解決する! 俺は金が欲しい! 今すぐ、ここから出て豪遊できるだけの金がぁぁ!!」
彼の叫び声が、五月の青空に吸い込まれていく。 その直後。 カチャリ、と小気味よい音がして、ドアが開いた。
「開いた! 見ろ、開いたぞ!」
タケダが狂喜乱舞してドアを押し開ける。 その向こう側には――階段も、エレベーターもなかった。 ただ、山があった。 札束の、山だ。 一万円札の束が、雪崩のように積み上げられている。その量は異常だった。ドアの枠を超えて、屋上の方へとなだれ込んでくるほどの量。新札のインクの匂いが、草花の香りを暴力的に塗りつぶしていく。
「うおおおお! すげえ! 本物だ! 全部俺のだ!」
タケダは絶叫し、札束の海にダイブした。 おばちゃんが「あらまァ」と口を開け、ヤンキーが「マジかよ、すげえ」とゴクリと唾を飲む。ミナもスマホを落としそうになりながら、その光景に見入っていた。 誰もが、その異様な光景に目を奪われた。 ケイだけを除いて。
ケイは見ていた。 タケダが抱きしめた札束の、その中心部が、赤黒く変色し始めているのを。
「……あれ、燃えてないか?」
ケイがポツリと呟いた言葉は、タケダの歓喜の叫びにかき消された。 「最高だ! これでもう頭を下げる必要もねえ! これが欲しかったんだよ俺はぁぁ!」
ボッ。
小さな音がした。 タケダが胸に抱いた一千万円の束から、赤い炎が舌を出した。 「あ? なんだこれ、熱っ!」 タケダが慌てて札束を払いのけようとする。しかし、札束はまるで強力な接着剤がついているかのように、彼のスーツに、皮膚に、張り付いて離れない。
「おい、離れろ! なんだこれ! 熱い! 熱い熱い!」
炎は一瞬で燃え広がった。 それは普通の火ではなかった。燃料を燃やす火ではない。タケダの「もっと欲しい」「離したくない」という執着そのものを燃料にしているかのように、彼が強く握りしめれば握りしめるほど、炎は勢いを増して燃え盛った。
「ぎゃあああああ! 助けてくれ! 誰か! 水! 水ゥゥ!」
火だるまになったタケダが転げ回る。 札束の山全体が、彼に呼応するように紅蓮の炎に包まれた。 美しい五月の青空の下、黒煙がもくもくと立ち上る。沈丁花の香りは消え失せ、代わりに、肉と紙幣が焦げる鼻をつく異臭が充満した。
「キャアアアアア!」 ミナが悲鳴を上げて腰を抜かす。 おばちゃんは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝み始め、ヤンキーは「やべえ、マジやべえ」と後ずさりしてフェンスに背中を打ち付けた。
タケダの叫び声は、断末魔の掠れた音に変わり、やがて動かなくなった。 炎は、彼が動かなくなると同時に、嘘のようにスッと消えた。 あとには、黒焦げになったスーツの残骸と、大量の灰だけが残された。風が吹き抜け、灰を空高く舞い上がらせる。キラキラと舞う灰は、皮肉にもダイヤモンドダストのように美しく、初夏の光を受けて輝いていた。
『おめでとうございます。願いは、叶えられましたね』
あのアナウンスが、変わらぬ優雅な口調で告げた。 まるで、素晴らしいショーが終わったかのような拍手喝采を幻聴として含ませながら。
「ふざけんな! 死んだじゃねえかよ!」 ヤンキーが虚空に向かって怒鳴る。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。 「願いが叶うって言っただろ! 金が欲しいって言ったら、なんで燃えるんだよ!」
『あら? 彼は「金という熱」に焼かれることを、心の奥底で望んでおられたのではありませんか?』
アナウンスは楽しげに答える。 『「欲しい」と願うことは、「今のままでは足りない」という乾きを認めること。乾いた心に、欲望という油を注げば、燃え上がるのは自然の摂理です。ここは、みなさまの心が「そのまま」形になる場所なのですから』
シーンと静まり返った屋上に、風の音だけが響く。 全員が理解した。 ここは、ただの監禁場所ではない。 「願えば叶う」という言葉が、希望ではなく、呪いとして機能する場所だと。
その時、へたり込んでいたミナが、震える指でケイを指差した。 「ねえ……あんた、なんで平気なの?」
視線が集まる。 パニックになっている全員の中で、ケイだけがフェンスにもたれかかり、退屈そうに空を見上げていたからだ。 ケイは視線をゆっくりと下ろし、ミナを見た。その瞳は、燃え盛る炎を見た後だというのに、凍った湖のように凪いでいた。
「平気じゃないさ。喉も渇いたし、帰って寝たい」
ケイは淡々と言った。 「でも、あのオッサンみたいに『どうしても水が飲みたい!』とか『絶対に今すぐ帰らせろ!』とは思ってないだけだ」
「……は? 何言ってんの?」
「期待するから裏切られるんだよ」 ケイは足元の黄色い野花を指先で弾いた。花弁が一枚、風に乗って飛んでいく。 「人生なんて、思い通りにならないのがデフォルト設定だろ。スマホの充電は切れるし、電車は遅れるし、あんな風に欲張った奴は自滅する。ただのシステムエラーみたいなもんだ」
ケイの言葉は、あまりにも冷めていて、この異常な状況には不釣り合いだった。 だが、その「冷たさ」こそが、この熱狂的な地獄において、唯一の命綱であるように見えた。
「さて」 ケイは立ち上がり、黒焦げになったドアの残骸――その奥に続く、真っ暗な闇を見つめた。 「ここにいても日干しになるだけだ。行くぞ。ただし、『助かりたい』なんて思うなよ。必死になった奴から順に、あのアナウンスの餌食になるぞ」
そう言い捨てて、ケイは真っ暗な闇の中へと足を踏み入れた。 背後では、恐怖におののくミナたちが、縋るように彼の後を追いかけてくる気配がした。
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