短編集

Gaku

文字の大きさ
1 / 3
デザイア・ログアウト(渇愛からの脱出)

第一話:地獄は「希望」の顔をしている

しおりを挟む
五月の風だった。  
若葉の産毛を撫でてきたような、少し青臭くて、それでいて湿度を含んだ生ぬるい風。それが頬を撫でた瞬間、ケイは意識を取り戻した。  目を開けると、視界いっぱいに広がっていたのは、暴力的なまでに鮮やかな「青」だった。  空だ。  雲ひとつない、絵の具をぶちまけたような快晴。だが、どこか作り物めいた完璧すぎる青空。  ケイはゆっくりと上半身を起こした。アスファルトの熱が手のひらに伝わる。  そこは、巨大なマンションの屋上のようだった。周囲を高いフェンスが囲み、その向こうには、陽炎(かげろう)に揺れるビル群が蜃気楼のようにぼやけて見える。  足元を見れば、コンクリートの割れ目から、名も知らぬ黄色い野花が、ひょっこりと顔を出している。風が吹くたびに、その小さな花は頼りなげに揺れ、どこからともなく漂ってくる沈丁花(じんちょうげ)に似た甘い香りが鼻孔をくすぐった。

「……どこだ、ここ」

 ケイはあくびを噛み殺しながら呟いた。  恐怖よりも先に「面倒くさい」という感情が勝った。エンジニアという職業柄、徹夜明けで拉致されたのだとしたら、犯人に請求書を送りつけてやりたい気分だ。  ふと見渡すと、この広い屋上には、ケイ以外にも数人の男女が転がっていた。  まるで魚河岸のマグロの競りのように、無造作に寝かされた人間たち。  その中の一人、派手なピンク色のワンピースを着た若い女が、ビクッと身体を震わせて跳ね起きた。

「ちょっ、待って! ここどこ!? 圏外!? ありえないんだけど!」

 彼女は起き上がるなり、スマホを頭上に掲げて電波を探してぐるぐると回り始めた。まるで雨乞いの儀式だ。  彼女が動くたびに、甘ったるい香水の匂いが漂い、風に乗ってきた草の匂いをかき消していく。  インフルエンサーのミナだ。ケイは彼女を動画サイトで見たことがあった。「代官山のパンケーキを三秒で食べる」という謎の企画でバズっていた女だ。

「おいおいおい! 俺の商談はどうなるんだ! 十億だぞ、十億!」

 次に叫んだのは、脂ぎった額に汗を浮かべた、高級そうなスーツの男だ。名前はタケダといったところか。彼は腕時計を何度も叩き、誰にともなく怒鳴り散らしている。 「誘拐か? 金か? いくらだ! 今すぐ振り込むからここを開けろ!」  タケダの声に反応して、ジャージ姿のヤンキー風の青年や、買い物袋を提げたままのおばちゃんも次々と目を覚ました。

「あらやだ、私、夕飯の支度まだなのに。大根が煮えすぎちゃうわ」 「うっせえなババア! ここどこだよ! 俺、パチンコ確変中だったんだぞ!」

 まさにカオスだった。  状況を把握しようとする理知的な人間は一人もおらず、誰もが「自分の都合」だけを喚き散らしている。  ケイはため息をつき、ポケットからミントタブレットを取り出して口に放り込んだ。カリッという音が、妙にクリアに響く。  風が強まった。  屋上のフェンスに絡みついた蔦(つた)の葉が、ザワザワと音を立てて擦れ合う。それはまるで、何千もの小さな手拍子のようにも聞こえた。  その時だ。

『――みなさま、本日は当物件の内覧会にお越しいただき、誠にありがとうございます』

 どこからともなく、優雅な女性のアナウンスが響き渡った。デパートの閉店間際のような、あるいは高級ホテルのロビーで流れるような、丁寧すぎて逆に不気味な声色。

「内覧会? ふざけるな! 出せ! 俺は忙しいんだ!」

 タケダが虚空に向かって吠える。  しかし、アナウンスは無視して続けた。

『ここは、あなたがたの願いがすべて叶う場所。出口をお探しですか? それとも、もっと素晴らしい何かをお探しですか?』

「出口に決まってんだろ!」  ヤンキーがフェンスを蹴り飛ばす。ガシャン、と重い金属音が響くが、フェンスはびくともしない。

『出口をご希望の方は、どうぞ、そちらの扉へ』

 屋上の中央に、唐突に一枚のドアが現れた。  どこでもドアのようなファンタジーな出現ではない。最初からそこにあったのに、誰も気づかなかったかのように、自然とそこに「在った」。  重厚なマホガニー製のドア。金色のノブが、真昼の太陽を反射してギラリと輝いている。

「なんだ、あるんじゃねえか」  タケダがネクタイを緩めながら、大股でドアに近づいた。 「ったく、質の悪いドッキリだ。訴えてやるからな」  彼がノブに手をかけた、その時。

『ただし』

 アナウンスの声が、ほんの少しだけ低くなった気がした。気温が一度下がったような錯覚。  太陽が雲に隠れたわけでもないのに、肌にまとわりつく空気が冷やりと重くなる。

『この扉を開けるための鍵は、みなさまの「心」です。もっとも欲しいものを、強く、強く願ってください。そうすれば、扉は開かれます』

「はあ? なんだそのポエムみたいなルール」  ミナが呆れたように鼻で笑い、スマホのカメラをドアに向けた。「謎の扉なう。映え~」と言いながらシャッターを切るが、画面にはノイズしか映らない。

「願えばいいんだな? 願えば!」  タケダは焦っていた。十億の商談が頭から離れないのだろう。  彼はドアノブを握り締め、血管が浮き出るほどに力を込めた。 「金だ! 金があれば解決する! 俺は金が欲しい! 今すぐ、ここから出て豪遊できるだけの金がぁぁ!!」

 彼の叫び声が、五月の青空に吸い込まれていく。  その直後。  カチャリ、と小気味よい音がして、ドアが開いた。

「開いた! 見ろ、開いたぞ!」

 タケダが狂喜乱舞してドアを押し開ける。  その向こう側には――階段も、エレベーターもなかった。  ただ、山があった。  札束の、山だ。  一万円札の束が、雪崩のように積み上げられている。その量は異常だった。ドアの枠を超えて、屋上の方へとなだれ込んでくるほどの量。新札のインクの匂いが、草花の香りを暴力的に塗りつぶしていく。

「うおおおお! すげえ! 本物だ! 全部俺のだ!」

 タケダは絶叫し、札束の海にダイブした。  おばちゃんが「あらまァ」と口を開け、ヤンキーが「マジかよ、すげえ」とゴクリと唾を飲む。ミナもスマホを落としそうになりながら、その光景に見入っていた。  誰もが、その異様な光景に目を奪われた。  ケイだけを除いて。

 ケイは見ていた。  タケダが抱きしめた札束の、その中心部が、赤黒く変色し始めているのを。

「……あれ、燃えてないか?」

 ケイがポツリと呟いた言葉は、タケダの歓喜の叫びにかき消された。 「最高だ! これでもう頭を下げる必要もねえ! これが欲しかったんだよ俺はぁぁ!」

 ボッ。

 小さな音がした。  タケダが胸に抱いた一千万円の束から、赤い炎が舌を出した。 「あ? なんだこれ、熱っ!」  タケダが慌てて札束を払いのけようとする。しかし、札束はまるで強力な接着剤がついているかのように、彼のスーツに、皮膚に、張り付いて離れない。

「おい、離れろ! なんだこれ! 熱い! 熱い熱い!」

 炎は一瞬で燃え広がった。  それは普通の火ではなかった。燃料を燃やす火ではない。タケダの「もっと欲しい」「離したくない」という執着そのものを燃料にしているかのように、彼が強く握りしめれば握りしめるほど、炎は勢いを増して燃え盛った。

「ぎゃあああああ! 助けてくれ! 誰か! 水! 水ゥゥ!」

 火だるまになったタケダが転げ回る。  札束の山全体が、彼に呼応するように紅蓮の炎に包まれた。  美しい五月の青空の下、黒煙がもくもくと立ち上る。沈丁花の香りは消え失せ、代わりに、肉と紙幣が焦げる鼻をつく異臭が充満した。

「キャアアアアア!」  ミナが悲鳴を上げて腰を抜かす。  おばちゃんは「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝み始め、ヤンキーは「やべえ、マジやべえ」と後ずさりしてフェンスに背中を打ち付けた。

 タケダの叫び声は、断末魔の掠れた音に変わり、やがて動かなくなった。  炎は、彼が動かなくなると同時に、嘘のようにスッと消えた。  あとには、黒焦げになったスーツの残骸と、大量の灰だけが残された。風が吹き抜け、灰を空高く舞い上がらせる。キラキラと舞う灰は、皮肉にもダイヤモンドダストのように美しく、初夏の光を受けて輝いていた。

『おめでとうございます。願いは、叶えられましたね』

 あのアナウンスが、変わらぬ優雅な口調で告げた。  まるで、素晴らしいショーが終わったかのような拍手喝采を幻聴として含ませながら。

「ふざけんな! 死んだじゃねえかよ!」  ヤンキーが虚空に向かって怒鳴る。涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだ。 「願いが叶うって言っただろ! 金が欲しいって言ったら、なんで燃えるんだよ!」

『あら? 彼は「金という熱」に焼かれることを、心の奥底で望んでおられたのではありませんか?』

 アナウンスは楽しげに答える。 『「欲しい」と願うことは、「今のままでは足りない」という乾きを認めること。乾いた心に、欲望という油を注げば、燃え上がるのは自然の摂理です。ここは、みなさまの心が「そのまま」形になる場所なのですから』

 シーンと静まり返った屋上に、風の音だけが響く。  全員が理解した。  ここは、ただの監禁場所ではない。  「願えば叶う」という言葉が、希望ではなく、呪いとして機能する場所だと。

 その時、へたり込んでいたミナが、震える指でケイを指差した。 「ねえ……あんた、なんで平気なの?」

 視線が集まる。  パニックになっている全員の中で、ケイだけがフェンスにもたれかかり、退屈そうに空を見上げていたからだ。  ケイは視線をゆっくりと下ろし、ミナを見た。その瞳は、燃え盛る炎を見た後だというのに、凍った湖のように凪いでいた。

「平気じゃないさ。喉も渇いたし、帰って寝たい」

 ケイは淡々と言った。 「でも、あのオッサンみたいに『どうしても水が飲みたい!』とか『絶対に今すぐ帰らせろ!』とは思ってないだけだ」

「……は? 何言ってんの?」

「期待するから裏切られるんだよ」  ケイは足元の黄色い野花を指先で弾いた。花弁が一枚、風に乗って飛んでいく。 「人生なんて、思い通りにならないのがデフォルト設定だろ。スマホの充電は切れるし、電車は遅れるし、あんな風に欲張った奴は自滅する。ただのシステムエラーみたいなもんだ」

 ケイの言葉は、あまりにも冷めていて、この異常な状況には不釣り合いだった。  だが、その「冷たさ」こそが、この熱狂的な地獄において、唯一の命綱であるように見えた。

「さて」  ケイは立ち上がり、黒焦げになったドアの残骸――その奥に続く、真っ暗な闇を見つめた。 「ここにいても日干しになるだけだ。行くぞ。ただし、『助かりたい』なんて思うなよ。必死になった奴から順に、あのアナウンスの餌食になるぞ」

 そう言い捨てて、ケイは真っ暗な闇の中へと足を踏み入れた。  背後では、恐怖におののくミナたちが、縋るように彼の後を追いかけてくる気配がした。

 風が止んだ。  生ぬるい空気だけが、彼らの背中に張り付いている。  終わりのない、そして「希望」を持ってはいけない、最悪の脱出ゲームが幕を開けた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

初体験の話

東雲
恋愛
筋金入りの年上好きな私の 誰にも言えない17歳の初体験の話。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

麗しき未亡人

石田空
現代文学
地方都市の市議の秘書の仕事は慌ただしい。市議の秘書を務めている康隆は、市民の冠婚葬祭をチェックしてはいつも市議代行として出かけている。 そんな中、葬式に参加していて光恵と毎回出会うことに気付く……。 他サイトにも掲載しております。

処理中です...