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第3章:雨の夜の邂逅
第11話:灰色の少女と、光の街の噂 〜「優しさ」とは、「強者の持て余した暇つぶし」である〜
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冬の足音は、誰にも気づかれないように。 けれど確実に、世界の色を奪っていく。
北から流れてくる風には、濡れた鉄のような鋭い匂いが混じっていた。 その風が頬を撫でるたび、肌の水分が奪われ、心臓の奥にある小さな熱源までもが冷やされていくような錯覚を覚える。
メイは、継ぎはぎだらけの灰色のローブを深く被り直した。
視界の端で、枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てて石畳の上を転がっていく。 それはまるで、世界から見放された自分自身の姿のように見えた。
目の前には、巨大な城壁がそびえ立っている。 王都「グランドル」。
ここ最近、大陸中でその名を聞かない日はないほどに急成長を遂げた、繁栄の象徴。 高い城壁の向こうからは、まるで沸騰した鍋のような熱気と、暴力的なまでの活気が溢れ出していた。
「……眩しい」
メイは低く呟き、目を細めた。
城門を通過する馬車の車輪が、よく整備された石畳を叩くリズミカルな音。 商人たちの張り上げた声。 焼きたてのパンの甘い香りと、スパイスをたっぷり使った肉料理の煙が、冷たい空気に乗って漂ってくる。
それらはすべて「幸せ」を構成する要素だ。
だが、今のメイにとっては、その輝きがあまりにも強すぎて。 網膜を焼き尽くす毒のように感じられた。
「カーッ!」
頭上で間の抜けた声が響いた。 見上げると、一羽のカラスが空中で器用にバランスを崩し、メイの肩に着地しようとして失敗し、地面に頭から突っ込んだ。
「……何やってるの」
メイの唯一の道連れ。名前はない。ただのカラスだ。 どういうわけか、このカラスだけはメイのそばを離れようとしない。
メイがどんなに不幸を引き寄せようとも、どんなに暗い顔をしていても。 この鳥だけは「そんなの関係ねぇ」と言わんばかりに、能天気に着いてくる。
カラスは地面から頭を引き抜き、何事もなかったかのように毛繕いを始めた。 その瞳は真っ黒で、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているようにも見える。
「行くよ」
メイは短く告げると、人の流れに逆らわないよう、それでいて誰の視界にも入らないよう、慎重に足を運んだ。
門番は、きらびやかな鎧に身を包んでいた。 メイが通り過ぎようとすると、彼は一瞬だけ怪訝そうな顔をして鼻をひくつかせた。
メイのローブには、旅の途中で染みついた泥や、雨の匂い、そして拭いきれない澱(おり)のような湿った空気がまとわりついている。 光り輝くこの街には、異物でしかない。
「おい、そこの……」
門番が声をかけようとした瞬間、カラスが「アホウ!」と鳴いて、門番の兜の上にフンを落とした。
「うわっ! なんだこの鳥!」
門番が慌てて兜を脱いでいる隙に、メイは風のようにその場をすり抜けた。
心臓が早鐘を打つ。 見つかってはいけない。顔を見られてはいけない。
この左目に宿る「紫の色」が露見すれば、この平和の光景は一瞬で崩壊する。 人々の笑顔は鬼の形相に変わり、温かいパンの香りは、私を焼く松明の煙に変わるのだ。
それは、確信に近い予感だった。 なぜなら、世界とはそういう「仕組み」で動いているからだ。
期待すれば裏切られる。 しがみつけば指を弾かれる。
だから、何も望まなければいい。 私はただの石ころ。ただの影。 誰の記憶にも残らない、背景の一部になればいい。
そう自分に言い聞かせながら、メイは大通りを避けて、建物の影が濃く落ちる路地裏へと足を踏み入れた。
王都の裏路地は、表通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
湿った石壁には青黒い苔が張り付き、排水溝からは腐った野菜のような酸っぱい臭いが立ち上っている。 だが、メイにとっては、この薄暗さの方が安らげた。
太陽の光は、あまりにも平等のようでいて、残酷だ。 光が強ければ強いほど、影は濃くなる。 この街の繁栄がまばゆいほど、そこからはじき出された者たちの影もまた、深く黒く沈殿していく。
「ねえ、聞いた? また『英雄様』がやったらしいよ」
通りの向こう、日向の広場から、興奮した女性たちの声が風に乗って聞こえてきた。
「西の街道に出たドラゴンを一撃だって!」 「一撃? 指先一つで吹き飛ばしたって聞いたわよ」 「素敵……瞬様って、本当に神様の使いなんじゃないかしら」
瞬(シュン)。
ここに来るまでの旅路で、何度も耳にした名前だ。 ある時は、枯れた大地から水を湧き出させ。 ある時は、凶悪な盗賊団を笑顔で改心させ。 またある時は、魔神すらも退けたという。
まるで、おとぎ話の中から飛び出してきたような存在。
(……住む世界が、違う)
メイは胸の奥で冷ややかに呟いた。 彼はきっと、この世界の「主人公」なのだ。
何をやっても上手くいく。 誰もが彼を愛し、彼もまた世界を愛している。 彼の人生には、泥沼のような理不尽も、骨まで凍るような孤独も存在しないのだろう。
「世界は美しい」 もし彼がそう言ったとしたら、それは彼にとっての「事実」だ。
けれど、メイにとっての「事実」は、石を投げつけられる痛みであり、寒さであり、飢えだ。 同じ場所に立っていても、私と彼とでは、見ている景色が決定的に違う。
メイは壁に背中を預け、カラスに向かって小さく苦笑した。
「いいわよね、英雄様は。カラスにフンを落とされたりしないんでしょうね」
カラスは小首をかしげ、メイのポケットに強引にくちばしを突っ込んで、最後の一欠片の干し肉を奪い取った。
その時だった。 路地の奥から、聞き覚えのある不快な足音が近づいてきたのは。
ジャリ、ジャリ。
メイの背筋に、冷たいものが走った。 この、粘りつくような気配。 振り返りたくないのに、体が強張って動かない。
「おいおい、随分と汚ねぇネズミが迷い込んでるじゃねぇか」
立っていたのは、三人の男たちだった。
一人は、常に何かにイライラしているような、痩せこけた背の高い男。 一人は、焦点の定まらない虚ろな目をした大柄な男。 そして真ん中には、脂ぎった顔に卑しい笑みを張り付けた、小太りの男。
見間違えるはずもない。 王都へ来る道中、メイを襲い、フードを剥ぎ取り、石を投げつけたあの三人組だ。
彼らはメイの紫の瞳を見て逃げ出したはずだったが、どうやらこの街の暗がりに潜り込んでいたらしい。
「チッ、また仕事にあぶれちまった。全部あの英雄サマのせいだ」
痩せた男が壁を蹴りながら毒づく。 彼らの目には、相変わらず自分勝手な怒りと、弱者を探すハイエナのような光が宿っていた。
メイは反射的に身を縮め、ローブのフードをさらに深く引き下げた。 気づかれてはいけない。 また石を投げられる。また罵られる。
「……ごめんなさい。すぐに行きます」
震える声で言い、横を通り抜けようとする。 だが、痩せ男がドン、と壁に手をついて退路を塞いだ。
「待てよ。イライラしてんだ。憂さ晴らしに付き合えよ」
「お、お金はありません……」
「金がねぇなら、その体で払ってもらおうか。俺たちは今、機嫌が悪いんだ」
小太りの男が、下卑た笑い声を上げて一歩近づく。 メイの全身の血が引いていく。 彼らはフードを深く被ったメイが、あの時の「魔女」だとは気づいていないようだ。ただの手頃な獲物として見ている。
「それにしても、なんだそのボロ布は。顔が見えねぇよ」
虚ろな目の大男が、面白がって手を伸ばしてきた。
「顔を隠すのはやましい証拠だ。確認してやるのが正義ってもんだろ?」 「やめて……!」
メイは必死にフードの縁を掴んだ。 この手つき。この言葉。 あの時と同じだ。
見せてはいけない。 この布の下にある「紫の瞳」を見られたら、このただの「カツアゲ」は、あの時以上の「魔女狩り」に変わる。
「いいから見せろってんだよ!」
小太りの男が強引にメイの手首を掴む。その力は強く、抗うことなんてできない。 かつてメイの顔を晒し者にしたその汚い手が、再び伸びてくる。
「嫌だ、やめて、お願い……!」
メイの懇願は、彼らの加虐心を刺激するスパイスにしかならなかった。 小太りの男がニヤリと笑い、もう片方の手でフードに指をかけた。
世界がスローモーションになる。 布が持ち上げられる感覚。 冷たい空気が、隠していた頬に触れる。
ああ、終わる。 また、あの地獄が繰り返される。 私の居場所なんて、どこにもない。
絶望がメイの思考を黒く塗りつぶそうとした、その時。
――カラン。
乾いた音が、路地裏に響いた。 それは、缶蹴りの空き缶が転がるような、どこか間の抜けた音だった。
「おーい。そこで何してんの?」
あまりにも場違いな、明るく、能天気な声。 まるで「今夜の夕飯なに?」と聞くような気軽さで、その声は降ってきた。
男たちの動きが止まる。 メイもまた、涙に濡れた目のまま、声のした方を見た。
路地の入り口。 夕陽を背負って、一人の青年が立っていた。
逆光のせいで、顔はよく見えない。 けれど、彼の輪郭は、まるで光そのものが人の形をとったかのように輝いて見えた。 黄金色の髪が、風になびいてサラサラと揺れている。
「ああん? なんだテメェ」
痩せ男が、不機嫌そうに凄む。
「俺たちは今、忙しいんだよ。怪我したくなけりゃ失せな」
青年は、怯える様子もなく、ヘラヘラと笑いながら歩み寄ってきた。 その歩調は、散歩でもしているかのように軽い。
「いやぁ、それがさ。俺も忙しいんだよね。お腹減って死にそうなんだ。で、この辺に美味い店ないかなーと思って」
「知るかボケ! 俺たちの仕事を奪った英雄気取りか!?」
小太りの男が怒鳴り、腰に下げていたナイフを抜く。 銀色の刃が、夕陽を反射してギラリと光る。
メイは息を呑んだ。
「逃げて……!」
声にならない声で叫ぶ。 だが、青年はナイフを見ても、眉一つ動かさなかった。 それどころか、「お、いいナイフだね。研ぎが甘いけど」なんて言っている。
「死ね!」
小太りの男がナイフを突き出す。 殺される。 メイが目を瞑った瞬間。
「ほいっ」
気の抜けた掛け声とともに、風が爆ぜた。
ドンッ!!
何かが弾け飛ぶような音がして、目を開けると――。
かつてメイのフードを剥ぎ取り、石を投げたあの小太りの男が、まるで透明な巨人にデコピンされたかのように、路地の奥にあるゴミ捨て場まで吹き飛んでいた。 宙を舞う軌跡があまりにも綺麗すぎて、一種の芸術的ですらあった。
「は……?」
残された二人の男が、口をあんぐりと開けて固まる。 メイもまた、涙を拭うことすら忘れて呆然とした。
「よし、死んでないな、手加減オッケー」
「て、テメェ……! なにをした!」
痩せ男が震える声で叫ぶ。 青年は、ニカッと笑った。
その笑顔は、夏の青空のように一点の曇りもなく、そして無自覚なほどに暴力的だった。
「俺? 俺は瞬。通りすがりの、ただの腹ペコだよ」
瞬。 あの、噂の英雄。
彼は残った二人に向かって、人差し指をチッチッと振った。
「女の子をいじめるのは、カッコ悪いよ? 幼稚園で習わなかった?」
「ふ、ふざけんなぁぁ!」
逆上した男たちが、二人がかりで襲いかかる。 しかし、それは戦いにもならなかった。
瞬が、まるでダンスでも踊るようにくるりと回ると、男たちは自分たちの足をもつれさせ、勝手に壁に激突したり、お互いに頭をぶつけたりして、次々と沈んでいった。
まるで、見えない「幸運の女神」が瞬を全力で贔屓しているかのような、理不尽なまでの強さ。
数秒後。 路地裏には、伸びている三人の男たちと、何事もなかったかのように涼しい顔をしている瞬だけが立っていた。
「……ふぅ。運動したら余計に腹減った」
瞬は服の埃を払うと、地面に座り込んでいたメイに向き直った。
逆光が消え、彼の顔がはっきりと見える。 整った顔立ち。意思の強そうな瞳。 何より、その瞳には「疑い」や「計算」という色が一切なかった。
彼は、目の前の「汚れた少女」を見ても、眉をひそめることも、鼻をつまむこともなかった。 ただ、純粋な心配だけを乗せて、彼は手を差し伸べた。
「大丈夫? 怪我はない?」
その手は、大きくて、温かそうだった。 その指先は、泥ひとつついておらず、光り輝いていた。
メイは、自分の手を見た。 泥と埃にまみれ、薄汚れた指先。 震えている。
(……触れられない)
メイの本能が警鐘を鳴らした。 この光は、強すぎる。 影の中で生きてきた自分が、この光に触れれば、きっと灼かれて消えてしまう。
それに、もし彼がこのフードの下を見たら? 今の優しさは、一瞬で軽蔑に変わるだろう。
「期待」してはいけない。 その手を取って、安心したいと願ってはいけない。 それは、さらなる絶望への入り口なのだから。
北から流れてくる風には、濡れた鉄のような鋭い匂いが混じっていた。 その風が頬を撫でるたび、肌の水分が奪われ、心臓の奥にある小さな熱源までもが冷やされていくような錯覚を覚える。
メイは、継ぎはぎだらけの灰色のローブを深く被り直した。
視界の端で、枯れ葉がカサカサと乾いた音を立てて石畳の上を転がっていく。 それはまるで、世界から見放された自分自身の姿のように見えた。
目の前には、巨大な城壁がそびえ立っている。 王都「グランドル」。
ここ最近、大陸中でその名を聞かない日はないほどに急成長を遂げた、繁栄の象徴。 高い城壁の向こうからは、まるで沸騰した鍋のような熱気と、暴力的なまでの活気が溢れ出していた。
「……眩しい」
メイは低く呟き、目を細めた。
城門を通過する馬車の車輪が、よく整備された石畳を叩くリズミカルな音。 商人たちの張り上げた声。 焼きたてのパンの甘い香りと、スパイスをたっぷり使った肉料理の煙が、冷たい空気に乗って漂ってくる。
それらはすべて「幸せ」を構成する要素だ。
だが、今のメイにとっては、その輝きがあまりにも強すぎて。 網膜を焼き尽くす毒のように感じられた。
「カーッ!」
頭上で間の抜けた声が響いた。 見上げると、一羽のカラスが空中で器用にバランスを崩し、メイの肩に着地しようとして失敗し、地面に頭から突っ込んだ。
「……何やってるの」
メイの唯一の道連れ。名前はない。ただのカラスだ。 どういうわけか、このカラスだけはメイのそばを離れようとしない。
メイがどんなに不幸を引き寄せようとも、どんなに暗い顔をしていても。 この鳥だけは「そんなの関係ねぇ」と言わんばかりに、能天気に着いてくる。
カラスは地面から頭を引き抜き、何事もなかったかのように毛繕いを始めた。 その瞳は真っ黒で、何も映していないようでいて、すべてを見透かしているようにも見える。
「行くよ」
メイは短く告げると、人の流れに逆らわないよう、それでいて誰の視界にも入らないよう、慎重に足を運んだ。
門番は、きらびやかな鎧に身を包んでいた。 メイが通り過ぎようとすると、彼は一瞬だけ怪訝そうな顔をして鼻をひくつかせた。
メイのローブには、旅の途中で染みついた泥や、雨の匂い、そして拭いきれない澱(おり)のような湿った空気がまとわりついている。 光り輝くこの街には、異物でしかない。
「おい、そこの……」
門番が声をかけようとした瞬間、カラスが「アホウ!」と鳴いて、門番の兜の上にフンを落とした。
「うわっ! なんだこの鳥!」
門番が慌てて兜を脱いでいる隙に、メイは風のようにその場をすり抜けた。
心臓が早鐘を打つ。 見つかってはいけない。顔を見られてはいけない。
この左目に宿る「紫の色」が露見すれば、この平和の光景は一瞬で崩壊する。 人々の笑顔は鬼の形相に変わり、温かいパンの香りは、私を焼く松明の煙に変わるのだ。
それは、確信に近い予感だった。 なぜなら、世界とはそういう「仕組み」で動いているからだ。
期待すれば裏切られる。 しがみつけば指を弾かれる。
だから、何も望まなければいい。 私はただの石ころ。ただの影。 誰の記憶にも残らない、背景の一部になればいい。
そう自分に言い聞かせながら、メイは大通りを避けて、建物の影が濃く落ちる路地裏へと足を踏み入れた。
王都の裏路地は、表通りの喧騒が嘘のように静まり返っていた。
湿った石壁には青黒い苔が張り付き、排水溝からは腐った野菜のような酸っぱい臭いが立ち上っている。 だが、メイにとっては、この薄暗さの方が安らげた。
太陽の光は、あまりにも平等のようでいて、残酷だ。 光が強ければ強いほど、影は濃くなる。 この街の繁栄がまばゆいほど、そこからはじき出された者たちの影もまた、深く黒く沈殿していく。
「ねえ、聞いた? また『英雄様』がやったらしいよ」
通りの向こう、日向の広場から、興奮した女性たちの声が風に乗って聞こえてきた。
「西の街道に出たドラゴンを一撃だって!」 「一撃? 指先一つで吹き飛ばしたって聞いたわよ」 「素敵……瞬様って、本当に神様の使いなんじゃないかしら」
瞬(シュン)。
ここに来るまでの旅路で、何度も耳にした名前だ。 ある時は、枯れた大地から水を湧き出させ。 ある時は、凶悪な盗賊団を笑顔で改心させ。 またある時は、魔神すらも退けたという。
まるで、おとぎ話の中から飛び出してきたような存在。
(……住む世界が、違う)
メイは胸の奥で冷ややかに呟いた。 彼はきっと、この世界の「主人公」なのだ。
何をやっても上手くいく。 誰もが彼を愛し、彼もまた世界を愛している。 彼の人生には、泥沼のような理不尽も、骨まで凍るような孤独も存在しないのだろう。
「世界は美しい」 もし彼がそう言ったとしたら、それは彼にとっての「事実」だ。
けれど、メイにとっての「事実」は、石を投げつけられる痛みであり、寒さであり、飢えだ。 同じ場所に立っていても、私と彼とでは、見ている景色が決定的に違う。
メイは壁に背中を預け、カラスに向かって小さく苦笑した。
「いいわよね、英雄様は。カラスにフンを落とされたりしないんでしょうね」
カラスは小首をかしげ、メイのポケットに強引にくちばしを突っ込んで、最後の一欠片の干し肉を奪い取った。
その時だった。 路地の奥から、聞き覚えのある不快な足音が近づいてきたのは。
ジャリ、ジャリ。
メイの背筋に、冷たいものが走った。 この、粘りつくような気配。 振り返りたくないのに、体が強張って動かない。
「おいおい、随分と汚ねぇネズミが迷い込んでるじゃねぇか」
立っていたのは、三人の男たちだった。
一人は、常に何かにイライラしているような、痩せこけた背の高い男。 一人は、焦点の定まらない虚ろな目をした大柄な男。 そして真ん中には、脂ぎった顔に卑しい笑みを張り付けた、小太りの男。
見間違えるはずもない。 王都へ来る道中、メイを襲い、フードを剥ぎ取り、石を投げつけたあの三人組だ。
彼らはメイの紫の瞳を見て逃げ出したはずだったが、どうやらこの街の暗がりに潜り込んでいたらしい。
「チッ、また仕事にあぶれちまった。全部あの英雄サマのせいだ」
痩せた男が壁を蹴りながら毒づく。 彼らの目には、相変わらず自分勝手な怒りと、弱者を探すハイエナのような光が宿っていた。
メイは反射的に身を縮め、ローブのフードをさらに深く引き下げた。 気づかれてはいけない。 また石を投げられる。また罵られる。
「……ごめんなさい。すぐに行きます」
震える声で言い、横を通り抜けようとする。 だが、痩せ男がドン、と壁に手をついて退路を塞いだ。
「待てよ。イライラしてんだ。憂さ晴らしに付き合えよ」
「お、お金はありません……」
「金がねぇなら、その体で払ってもらおうか。俺たちは今、機嫌が悪いんだ」
小太りの男が、下卑た笑い声を上げて一歩近づく。 メイの全身の血が引いていく。 彼らはフードを深く被ったメイが、あの時の「魔女」だとは気づいていないようだ。ただの手頃な獲物として見ている。
「それにしても、なんだそのボロ布は。顔が見えねぇよ」
虚ろな目の大男が、面白がって手を伸ばしてきた。
「顔を隠すのはやましい証拠だ。確認してやるのが正義ってもんだろ?」 「やめて……!」
メイは必死にフードの縁を掴んだ。 この手つき。この言葉。 あの時と同じだ。
見せてはいけない。 この布の下にある「紫の瞳」を見られたら、このただの「カツアゲ」は、あの時以上の「魔女狩り」に変わる。
「いいから見せろってんだよ!」
小太りの男が強引にメイの手首を掴む。その力は強く、抗うことなんてできない。 かつてメイの顔を晒し者にしたその汚い手が、再び伸びてくる。
「嫌だ、やめて、お願い……!」
メイの懇願は、彼らの加虐心を刺激するスパイスにしかならなかった。 小太りの男がニヤリと笑い、もう片方の手でフードに指をかけた。
世界がスローモーションになる。 布が持ち上げられる感覚。 冷たい空気が、隠していた頬に触れる。
ああ、終わる。 また、あの地獄が繰り返される。 私の居場所なんて、どこにもない。
絶望がメイの思考を黒く塗りつぶそうとした、その時。
――カラン。
乾いた音が、路地裏に響いた。 それは、缶蹴りの空き缶が転がるような、どこか間の抜けた音だった。
「おーい。そこで何してんの?」
あまりにも場違いな、明るく、能天気な声。 まるで「今夜の夕飯なに?」と聞くような気軽さで、その声は降ってきた。
男たちの動きが止まる。 メイもまた、涙に濡れた目のまま、声のした方を見た。
路地の入り口。 夕陽を背負って、一人の青年が立っていた。
逆光のせいで、顔はよく見えない。 けれど、彼の輪郭は、まるで光そのものが人の形をとったかのように輝いて見えた。 黄金色の髪が、風になびいてサラサラと揺れている。
「ああん? なんだテメェ」
痩せ男が、不機嫌そうに凄む。
「俺たちは今、忙しいんだよ。怪我したくなけりゃ失せな」
青年は、怯える様子もなく、ヘラヘラと笑いながら歩み寄ってきた。 その歩調は、散歩でもしているかのように軽い。
「いやぁ、それがさ。俺も忙しいんだよね。お腹減って死にそうなんだ。で、この辺に美味い店ないかなーと思って」
「知るかボケ! 俺たちの仕事を奪った英雄気取りか!?」
小太りの男が怒鳴り、腰に下げていたナイフを抜く。 銀色の刃が、夕陽を反射してギラリと光る。
メイは息を呑んだ。
「逃げて……!」
声にならない声で叫ぶ。 だが、青年はナイフを見ても、眉一つ動かさなかった。 それどころか、「お、いいナイフだね。研ぎが甘いけど」なんて言っている。
「死ね!」
小太りの男がナイフを突き出す。 殺される。 メイが目を瞑った瞬間。
「ほいっ」
気の抜けた掛け声とともに、風が爆ぜた。
ドンッ!!
何かが弾け飛ぶような音がして、目を開けると――。
かつてメイのフードを剥ぎ取り、石を投げたあの小太りの男が、まるで透明な巨人にデコピンされたかのように、路地の奥にあるゴミ捨て場まで吹き飛んでいた。 宙を舞う軌跡があまりにも綺麗すぎて、一種の芸術的ですらあった。
「は……?」
残された二人の男が、口をあんぐりと開けて固まる。 メイもまた、涙を拭うことすら忘れて呆然とした。
「よし、死んでないな、手加減オッケー」
「て、テメェ……! なにをした!」
痩せ男が震える声で叫ぶ。 青年は、ニカッと笑った。
その笑顔は、夏の青空のように一点の曇りもなく、そして無自覚なほどに暴力的だった。
「俺? 俺は瞬。通りすがりの、ただの腹ペコだよ」
瞬。 あの、噂の英雄。
彼は残った二人に向かって、人差し指をチッチッと振った。
「女の子をいじめるのは、カッコ悪いよ? 幼稚園で習わなかった?」
「ふ、ふざけんなぁぁ!」
逆上した男たちが、二人がかりで襲いかかる。 しかし、それは戦いにもならなかった。
瞬が、まるでダンスでも踊るようにくるりと回ると、男たちは自分たちの足をもつれさせ、勝手に壁に激突したり、お互いに頭をぶつけたりして、次々と沈んでいった。
まるで、見えない「幸運の女神」が瞬を全力で贔屓しているかのような、理不尽なまでの強さ。
数秒後。 路地裏には、伸びている三人の男たちと、何事もなかったかのように涼しい顔をしている瞬だけが立っていた。
「……ふぅ。運動したら余計に腹減った」
瞬は服の埃を払うと、地面に座り込んでいたメイに向き直った。
逆光が消え、彼の顔がはっきりと見える。 整った顔立ち。意思の強そうな瞳。 何より、その瞳には「疑い」や「計算」という色が一切なかった。
彼は、目の前の「汚れた少女」を見ても、眉をひそめることも、鼻をつまむこともなかった。 ただ、純粋な心配だけを乗せて、彼は手を差し伸べた。
「大丈夫? 怪我はない?」
その手は、大きくて、温かそうだった。 その指先は、泥ひとつついておらず、光り輝いていた。
メイは、自分の手を見た。 泥と埃にまみれ、薄汚れた指先。 震えている。
(……触れられない)
メイの本能が警鐘を鳴らした。 この光は、強すぎる。 影の中で生きてきた自分が、この光に触れれば、きっと灼かれて消えてしまう。
それに、もし彼がこのフードの下を見たら? 今の優しさは、一瞬で軽蔑に変わるだろう。
「期待」してはいけない。 その手を取って、安心したいと願ってはいけない。 それは、さらなる絶望への入り口なのだから。
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勇者パーティーを追放されたので、張り切ってスローライフをしたら魔王に世界が滅ぼされてました
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かつて、世界を救う希望と称えられた“勇者パーティー”。
その中で地味に、黙々と補助・回復・結界を張り続けていたおっさん――バニッシュ=クラウゼン(38歳)は、ある日、突然追放を言い渡された。
理由は「お荷物」「地味すぎる」「若返くないから」。
……笑えない。
人付き合いに疲れ果てたバニッシュは、「もう人とは関わらん」と北西の“魔の森”に引きこもり、誰も入って来られない結界を張って一人スローライフを開始……したはずだった。
だがその結界、なぜか“迷える者”だけは入れてしまう仕様だった!?
気づけば――
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古代魔法を使うエルフの美少女
天然ドジな女神
理想を追いすぎて仲間を失った情熱ドワーフ
などなど、“迷える者たち”がどんどん集まってくる異種族スローライフ村が爆誕!
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転生貴族の領地経営〜現代日本の知識で異世界を豊かにする
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