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第4章:雪解けと、騎士の鎧
第20話:曲がらない剣は折れる、しなる枝は折れない 〜「汚点」とは、「生きた証を刻むペイント」である〜
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北の森を覆っていた分厚い雲が、夕暮れの風に追われて東へと流れていく。 西の空には、燃え残った炭火のような鈍い赤色が広がり、木々のシルエットを黒く浮き彫りにしていた。 森の空気は、昼間よりもさらに冷え込み、吐く息が白く尾を引く。湿った落ち葉の匂いと、どこか鉄錆びのような冷たい土の匂いが、夜の到来を告げていた。
帰路につく三人の足取りは、決して軽くはなかった。
「……遅い」
先頭を歩くゼイクが、神経質に懐中時計を確認し、苛立ちを露わにする。 彼の白銀の鎧は、昨日の泥汚れこそ拭い去られているものの、度重なる戦闘と野営の疲れで、どこか輝きが鈍っているように見えた。
「予定時刻をすでに四十八分超過している。貴様の歩幅が一定でないからだ、瞬」 「へーへー、悪かったな。でもさ、この木の実、食えるらしいぜ? 甘酸っぱくて美味いぞ」 「拾い食いをするな! 衛生観念はどうなっている!」
瞬(シュン)は、道端で拾った赤い木の実をかじりながら、ヘラヘラと笑っている。 その後ろを歩くメイは、呆れつつも、二人のやり取りに少しだけ安らぎを感じていた。 昨日のような険悪さは薄れている。噛み合ってはいないが、少なくとも「会話」にはなっているのだ。
(よかった。このまま無事に街まで帰れれば……)
メイがそう願い、ホッと息をついた、その時だった。
――ビチャッ。
生理的な嫌悪感を催す、湿った音が森に響いた。 風が止まる。 鳥たちのさえずりが、ぷっつりと途絶えた。
「……なんだ、今の音は」
ゼイクが足を止め、剣の柄に手をかける。 瞬も木の実を放り投げ、目を細めた。
彼らの進行方向、街道を塞ぐようにして、「それ」は鎮座していた。
巨大な、緑色の半透明なドーム。 ゼリーのようにも見えるが、そんな可愛らしいものではない。直径五メートルはあるその物体は、脈打つように収縮を繰り返し、内包された消化液が泡立つ音を立てていた。 アシッド・スライム。 物理的な実体を持たず、獲物を取り込んで消化することのみを目的とした、森の掃除屋。ただし、このサイズは異常種(イレギュラー)だ。
「……最悪だ」
ゼイクが呻くように言った。 彼の顔色が、兜の隙間からでも分かるほどに青ざめていく。
「スライム種か。……私の最も苦手とする相手だ」 「え? お前、剣の達人なんだろ? あんなのチョチョイのチョイだろ」
瞬が能天気に言うと、ゼイクはギリリと歯噛みした。
「貴様にはわからん! 剣技とは『切断』だ。断ち切ることで破壊する技術だ。だが、奴には『切るべき繊維』がない! 流動体に剣は通じないのだ!」
ゼイクの言葉を証明するかのように、スライムが動いた。 ボヨヨン、という間抜けな音と共に跳躍し、頭上から酸の雨を撒き散らす。
「くっ! 散開!」
ゼイクの指示が飛ぶ。 ジュッ、という音と共に、酸を浴びた地面の草が溶け、嫌な煙が立ち上る。
「うわ、汚ねぇ! 俺の服、一張羅なんだぞ!」 瞬はメイを抱えて木の上に退避していた。
「ゼイクさん! 逃げましょう! あれとは相性が悪すぎます!」 メイが叫ぶが、ゼイクは動かなかった。いや、動けなかった。 彼の背後には、街へと続く唯一の吊り橋があった。ここで退けば、怪物は橋を渡り、人里へと降りてしまうかもしれない。 騎士としての義務感が、彼をその場に釘付けにしていた。
「退くわけにはいかない……! 私は王立騎士だ! 民を守る盾だ!」
ゼイクは剣を抜き放った。 美しい構え。教科書通りの、一点の曇りもない正眼の構え。
「流動体とて、核(コア)はあるはず! そこを一点突破で貫く!」
ゼイクは地面を蹴った。 銀色の閃光が走る。 彼の突きは完璧だった。音速を超え、スライムの中心にある赤い核を正確に捉え――
――ヌルッ。
手応えがなかった。 スライムの体が瞬時に変形し、剣の軌道を逸らしたのだ。 切っ先は核を掠めることもなく、ゼリー状の肉を虚しく貫通しただけだった。
「なッ……!?」
ゼイクの体が泳ぐ。 重心が崩れたその隙を、怪物は見逃さなかった。 緑色の触手が鞭のようにしなり、ゼイクの手首を打ち据える。
ガキンッ! 剣が弾き飛ばされ、湿った地面に突き刺さる。
「しまっ……!」
武器を失ったゼイクに、スライムが覆いかぶさるように迫る。 消化液の混じった巨体が、彼を飲み込もうと波打つ。
「ゼイク! 剣なんてどうでもいい! 殴れ! その手で核を引きずり出せ!」
木の上から、瞬の怒号が飛んできた。
殴る? 素手で? あの汚らわしい、粘液まみれの肉体に、この手を突っ込めと言うのか?
「馬鹿を言うな!!」
ゼイクは絶叫した。迫りくる死の恐怖よりも、自分の美学が汚されることへの拒絶が勝った。
「騎士は剣を捨てない! 泥仕合など……薄汚い真似ができるか! 私は、高潔でなければならないんだ!」
彼は後ずさりし、地面に刺さった剣に手を伸ばそうとする。 だが、その指先が届くより早く、スライムの触手が彼の足を絡め取った。
「ぐあっ!?」
引き倒される。 地面の泥が、ピカピカに磨き上げた鎧にべっとりと張り付く。 視界が緑色に染まる。スライムが彼の上半身を覆い尽くそうとしていた。 息ができない。酸っぱい臭いが鼻をつく。鎧の継ぎ目から、ぬるりとした液体が侵入してくる感覚。
(ああ、終わる……)
ゼイクの視界が暗くなっていく。 汚い。気持ち悪い。 こんな死に方は嫌だ。もっと美しく、騎士らしく散りたかった。 教範通りに戦って、名誉ある死を迎えたかった。
――『鎧を守るために、中身が傷だらけになったら……それじゃ、本末転倒じゃないですか?』
不意に、昨夜のメイの言葉が脳裏をよぎった。
(中身……?)
今の自分は何を守ろうとしている? 騎士としてのプライドか? 汚れないことか? それとも、自分の命か?
ドンッ!!
頭上から衝撃が走った。 スライムの動きが一瞬止まる。 薄目を開けると、泥だらけのブーツが見えた。 瞬が、スライムの頭上から飛び降り、その巨体を押さえつけていたのだ。
「うおおおおお! くっせぇ! なんだこいつ、生ゴミの臭いがするぞ!」
瞬は顔をしかめながら、素手でスライムの表面を掴み、強引にこじ開けようとしていた。 彼の服はすでにドロドロだ。手も、顔も、粘液まみれになっている。 美しくない。品性のかけらもない。 けれど。
「ゼイク! 何してんだ! 手が空いてるだろ!」
瞬は、スライムの中に埋もれているゼイクに向かって叫んだ。 その瞳は、汚れなど微塵も気にしていない。ただ、仲間を生かすことだけを見据えている。
「俺がこいつの皮を引っ張る! お前が中から核を潰せ!」 「……だ、だが……汚れる……」 「命より大事な汚れなんてあんのかよ!!」
瞬の罵声が、ゼイクの鼓膜を突き破り、凍りついていた思考の殻を叩き割った。
――命より大事な汚れ。
そんなもの、あるわけがない。 分かっていたはずだ。本当は。 ただ、怖かっただけだ。 「形」を崩せば、自分が自分でなくなってしまう気がして。 泥にまみれたら、自分の価値が消えてしまう気がして。
「……くっ……!」
ゼイクは歯を食いしばった。 口の中に鉄の味が広がる。 彼は、地面に刺さった剣を見るのをやめた。 そして、目の前に迫る、吐き気を催すような緑色の粘液を見据えた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
ゼイクは咆哮した。 それは気品ある騎士の声ではなかった。追い詰められた獣のような、生の渇望に満ちた叫びだった。
彼は両手を突き出した。 白銀の小手(ガントレット)が、ズブズブとスライムの体内に沈んでいく。 気持ち悪い感触。ぬるぬるとした抵抗。 酸が甲冑の表面を焼き、ジュウジュウと音を立てる。 構うものか。 「掴んだ……ッ!」
指先に、硬い感触があった。 核だ。 スライムが激しく暴れる。触手がゼイクの兜を叩き、視界が歪む。 だが、ゼイクは離さなかった。 「これ以上……私の邪魔をするなぁぁぁ!!」
バギィッ!!
鈍い音が体内から響いた。 ゼイクは渾身の力で、核を握り潰したのだ。
ビチャ……ビチャビチャ……。
核を失ったスライムは、形を保てなくなり、ただの汚水となって崩れ落ちた。 あたりに強烈な異臭が立ち込める。
静寂が戻った。 風が、鼻をつく臭いを運び去っていく。
その場に残されたのは、見るも無惨な姿になったゼイクだった。 自慢の白銀の鎧は、緑色の粘液と黒い泥でコーティングされ、もはや元の色が判別できない。 兜は傾き、マントはボロ雑巾のように濡れそぼっている。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ゼイクは四つん這いになり、肩で息をしていた。 最悪だ。 騎士人生で、これほど汚れたことはない。 これほど無様な姿を晒したことはない。
「……っぷ」
頭上から、吹き出すような音が聞こえた。 見上げると、同じく粘液まみれになった瞬が、腹を抱えて笑っていた。
「あはははは! お前、すっげー顔! 沼の妖怪みたいだぞ!」 「……貴様こそ……肥溜めに落ちた農夫のようだぞ」
ゼイクが憎まれ口を返すと、瞬はさらに大きく笑った。 つられて、メイも駆け寄ってきて、二人の姿を見てクスリと笑った。
「ふふ、二人とも、お揃いですね」 「勘弁してくれ、メイちゃん。こいつとお揃いなんて」 「こっちの台詞だ。……最悪の気分だ」
ゼイクは、ドロドロになった手袋を見つめた。 汚い。不快だ。 だが、不思議なことに――「恐怖」は消えていた。 鎧が汚れても、世界は終わらなかった。 剣を捨てても、自分は死ななかった。 むしろ、胸の奥につかえていた重い鉛が取れたような、奇妙な爽快感があった。
ゼイクはゆっくりと立ち上がり、傾いた兜を脱ぎ捨てた。 汗と泥で濡れた金髪が露わになり、整った顔立ちが夕陽に照らされる。 彼は、空を見上げた。 雲の切れ間から、一番星が光っているのが見えた。
「……汚れるのも、悪くないかもしれん」
ボソリと呟くと、瞬がニヤリとして肩を組んできた。 ベチャッ、と新たな泥が鎧につくが、ゼイクはもう払いのけなかった。
「だろ? 直角に歩くより、泥んこになって転げ回るほうが、生きてるって感じがするだろ?」 「……一度だけだ。二度は御免だ」
ゼイクはフンと鼻を鳴らしたが、その口元には、初めて見る自然な笑みが浮かんでいた。 それは、教本にある「騎士の微笑み」ではなく、一人の人間としての、弱くて、脆くて、だからこそ温かい笑顔だった。
「さて、帰ろうぜ! ギルドで一番高い酒を奢れよ、石頭!」 「なぜ私が! 貴様が奢るべきだ、野蛮人!」 「あはは、喧嘩しないの。早く帰ってお風呂に入りましょう」
三人は並んで歩き出した。 泥だらけの騎士と、規格外の英雄と、笑顔を取り戻した魔女。 その背中には、もう孤独な影は落ちていなかった。
道端の草花が、夜風に揺れてサラサラと音を立てる。 それはまるで、硬い殻を脱ぎ捨てたゼイクを祝福する拍手のように聞こえた。 曲がらない剣は折れるが、しなる枝は嵐の中でも折れない。 柔軟さを知った騎士は、かつてよりもずっと強く、そして優しくなっていた。
王都の灯りが、遠くに見えてくる。 そこには、彼らを待つ日常と、新たな騒動が待っているはずだ。 けれど今の三人なら、どんな嵐が来ても、きっと笑い飛ばして歩いていけるだろう。
泥まみれの足跡が、家路へと続いていた。
帰路につく三人の足取りは、決して軽くはなかった。
「……遅い」
先頭を歩くゼイクが、神経質に懐中時計を確認し、苛立ちを露わにする。 彼の白銀の鎧は、昨日の泥汚れこそ拭い去られているものの、度重なる戦闘と野営の疲れで、どこか輝きが鈍っているように見えた。
「予定時刻をすでに四十八分超過している。貴様の歩幅が一定でないからだ、瞬」 「へーへー、悪かったな。でもさ、この木の実、食えるらしいぜ? 甘酸っぱくて美味いぞ」 「拾い食いをするな! 衛生観念はどうなっている!」
瞬(シュン)は、道端で拾った赤い木の実をかじりながら、ヘラヘラと笑っている。 その後ろを歩くメイは、呆れつつも、二人のやり取りに少しだけ安らぎを感じていた。 昨日のような険悪さは薄れている。噛み合ってはいないが、少なくとも「会話」にはなっているのだ。
(よかった。このまま無事に街まで帰れれば……)
メイがそう願い、ホッと息をついた、その時だった。
――ビチャッ。
生理的な嫌悪感を催す、湿った音が森に響いた。 風が止まる。 鳥たちのさえずりが、ぷっつりと途絶えた。
「……なんだ、今の音は」
ゼイクが足を止め、剣の柄に手をかける。 瞬も木の実を放り投げ、目を細めた。
彼らの進行方向、街道を塞ぐようにして、「それ」は鎮座していた。
巨大な、緑色の半透明なドーム。 ゼリーのようにも見えるが、そんな可愛らしいものではない。直径五メートルはあるその物体は、脈打つように収縮を繰り返し、内包された消化液が泡立つ音を立てていた。 アシッド・スライム。 物理的な実体を持たず、獲物を取り込んで消化することのみを目的とした、森の掃除屋。ただし、このサイズは異常種(イレギュラー)だ。
「……最悪だ」
ゼイクが呻くように言った。 彼の顔色が、兜の隙間からでも分かるほどに青ざめていく。
「スライム種か。……私の最も苦手とする相手だ」 「え? お前、剣の達人なんだろ? あんなのチョチョイのチョイだろ」
瞬が能天気に言うと、ゼイクはギリリと歯噛みした。
「貴様にはわからん! 剣技とは『切断』だ。断ち切ることで破壊する技術だ。だが、奴には『切るべき繊維』がない! 流動体に剣は通じないのだ!」
ゼイクの言葉を証明するかのように、スライムが動いた。 ボヨヨン、という間抜けな音と共に跳躍し、頭上から酸の雨を撒き散らす。
「くっ! 散開!」
ゼイクの指示が飛ぶ。 ジュッ、という音と共に、酸を浴びた地面の草が溶け、嫌な煙が立ち上る。
「うわ、汚ねぇ! 俺の服、一張羅なんだぞ!」 瞬はメイを抱えて木の上に退避していた。
「ゼイクさん! 逃げましょう! あれとは相性が悪すぎます!」 メイが叫ぶが、ゼイクは動かなかった。いや、動けなかった。 彼の背後には、街へと続く唯一の吊り橋があった。ここで退けば、怪物は橋を渡り、人里へと降りてしまうかもしれない。 騎士としての義務感が、彼をその場に釘付けにしていた。
「退くわけにはいかない……! 私は王立騎士だ! 民を守る盾だ!」
ゼイクは剣を抜き放った。 美しい構え。教科書通りの、一点の曇りもない正眼の構え。
「流動体とて、核(コア)はあるはず! そこを一点突破で貫く!」
ゼイクは地面を蹴った。 銀色の閃光が走る。 彼の突きは完璧だった。音速を超え、スライムの中心にある赤い核を正確に捉え――
――ヌルッ。
手応えがなかった。 スライムの体が瞬時に変形し、剣の軌道を逸らしたのだ。 切っ先は核を掠めることもなく、ゼリー状の肉を虚しく貫通しただけだった。
「なッ……!?」
ゼイクの体が泳ぐ。 重心が崩れたその隙を、怪物は見逃さなかった。 緑色の触手が鞭のようにしなり、ゼイクの手首を打ち据える。
ガキンッ! 剣が弾き飛ばされ、湿った地面に突き刺さる。
「しまっ……!」
武器を失ったゼイクに、スライムが覆いかぶさるように迫る。 消化液の混じった巨体が、彼を飲み込もうと波打つ。
「ゼイク! 剣なんてどうでもいい! 殴れ! その手で核を引きずり出せ!」
木の上から、瞬の怒号が飛んできた。
殴る? 素手で? あの汚らわしい、粘液まみれの肉体に、この手を突っ込めと言うのか?
「馬鹿を言うな!!」
ゼイクは絶叫した。迫りくる死の恐怖よりも、自分の美学が汚されることへの拒絶が勝った。
「騎士は剣を捨てない! 泥仕合など……薄汚い真似ができるか! 私は、高潔でなければならないんだ!」
彼は後ずさりし、地面に刺さった剣に手を伸ばそうとする。 だが、その指先が届くより早く、スライムの触手が彼の足を絡め取った。
「ぐあっ!?」
引き倒される。 地面の泥が、ピカピカに磨き上げた鎧にべっとりと張り付く。 視界が緑色に染まる。スライムが彼の上半身を覆い尽くそうとしていた。 息ができない。酸っぱい臭いが鼻をつく。鎧の継ぎ目から、ぬるりとした液体が侵入してくる感覚。
(ああ、終わる……)
ゼイクの視界が暗くなっていく。 汚い。気持ち悪い。 こんな死に方は嫌だ。もっと美しく、騎士らしく散りたかった。 教範通りに戦って、名誉ある死を迎えたかった。
――『鎧を守るために、中身が傷だらけになったら……それじゃ、本末転倒じゃないですか?』
不意に、昨夜のメイの言葉が脳裏をよぎった。
(中身……?)
今の自分は何を守ろうとしている? 騎士としてのプライドか? 汚れないことか? それとも、自分の命か?
ドンッ!!
頭上から衝撃が走った。 スライムの動きが一瞬止まる。 薄目を開けると、泥だらけのブーツが見えた。 瞬が、スライムの頭上から飛び降り、その巨体を押さえつけていたのだ。
「うおおおおお! くっせぇ! なんだこいつ、生ゴミの臭いがするぞ!」
瞬は顔をしかめながら、素手でスライムの表面を掴み、強引にこじ開けようとしていた。 彼の服はすでにドロドロだ。手も、顔も、粘液まみれになっている。 美しくない。品性のかけらもない。 けれど。
「ゼイク! 何してんだ! 手が空いてるだろ!」
瞬は、スライムの中に埋もれているゼイクに向かって叫んだ。 その瞳は、汚れなど微塵も気にしていない。ただ、仲間を生かすことだけを見据えている。
「俺がこいつの皮を引っ張る! お前が中から核を潰せ!」 「……だ、だが……汚れる……」 「命より大事な汚れなんてあんのかよ!!」
瞬の罵声が、ゼイクの鼓膜を突き破り、凍りついていた思考の殻を叩き割った。
――命より大事な汚れ。
そんなもの、あるわけがない。 分かっていたはずだ。本当は。 ただ、怖かっただけだ。 「形」を崩せば、自分が自分でなくなってしまう気がして。 泥にまみれたら、自分の価値が消えてしまう気がして。
「……くっ……!」
ゼイクは歯を食いしばった。 口の中に鉄の味が広がる。 彼は、地面に刺さった剣を見るのをやめた。 そして、目の前に迫る、吐き気を催すような緑色の粘液を見据えた。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
ゼイクは咆哮した。 それは気品ある騎士の声ではなかった。追い詰められた獣のような、生の渇望に満ちた叫びだった。
彼は両手を突き出した。 白銀の小手(ガントレット)が、ズブズブとスライムの体内に沈んでいく。 気持ち悪い感触。ぬるぬるとした抵抗。 酸が甲冑の表面を焼き、ジュウジュウと音を立てる。 構うものか。 「掴んだ……ッ!」
指先に、硬い感触があった。 核だ。 スライムが激しく暴れる。触手がゼイクの兜を叩き、視界が歪む。 だが、ゼイクは離さなかった。 「これ以上……私の邪魔をするなぁぁぁ!!」
バギィッ!!
鈍い音が体内から響いた。 ゼイクは渾身の力で、核を握り潰したのだ。
ビチャ……ビチャビチャ……。
核を失ったスライムは、形を保てなくなり、ただの汚水となって崩れ落ちた。 あたりに強烈な異臭が立ち込める。
静寂が戻った。 風が、鼻をつく臭いを運び去っていく。
その場に残されたのは、見るも無惨な姿になったゼイクだった。 自慢の白銀の鎧は、緑色の粘液と黒い泥でコーティングされ、もはや元の色が判別できない。 兜は傾き、マントはボロ雑巾のように濡れそぼっている。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
ゼイクは四つん這いになり、肩で息をしていた。 最悪だ。 騎士人生で、これほど汚れたことはない。 これほど無様な姿を晒したことはない。
「……っぷ」
頭上から、吹き出すような音が聞こえた。 見上げると、同じく粘液まみれになった瞬が、腹を抱えて笑っていた。
「あはははは! お前、すっげー顔! 沼の妖怪みたいだぞ!」 「……貴様こそ……肥溜めに落ちた農夫のようだぞ」
ゼイクが憎まれ口を返すと、瞬はさらに大きく笑った。 つられて、メイも駆け寄ってきて、二人の姿を見てクスリと笑った。
「ふふ、二人とも、お揃いですね」 「勘弁してくれ、メイちゃん。こいつとお揃いなんて」 「こっちの台詞だ。……最悪の気分だ」
ゼイクは、ドロドロになった手袋を見つめた。 汚い。不快だ。 だが、不思議なことに――「恐怖」は消えていた。 鎧が汚れても、世界は終わらなかった。 剣を捨てても、自分は死ななかった。 むしろ、胸の奥につかえていた重い鉛が取れたような、奇妙な爽快感があった。
ゼイクはゆっくりと立ち上がり、傾いた兜を脱ぎ捨てた。 汗と泥で濡れた金髪が露わになり、整った顔立ちが夕陽に照らされる。 彼は、空を見上げた。 雲の切れ間から、一番星が光っているのが見えた。
「……汚れるのも、悪くないかもしれん」
ボソリと呟くと、瞬がニヤリとして肩を組んできた。 ベチャッ、と新たな泥が鎧につくが、ゼイクはもう払いのけなかった。
「だろ? 直角に歩くより、泥んこになって転げ回るほうが、生きてるって感じがするだろ?」 「……一度だけだ。二度は御免だ」
ゼイクはフンと鼻を鳴らしたが、その口元には、初めて見る自然な笑みが浮かんでいた。 それは、教本にある「騎士の微笑み」ではなく、一人の人間としての、弱くて、脆くて、だからこそ温かい笑顔だった。
「さて、帰ろうぜ! ギルドで一番高い酒を奢れよ、石頭!」 「なぜ私が! 貴様が奢るべきだ、野蛮人!」 「あはは、喧嘩しないの。早く帰ってお風呂に入りましょう」
三人は並んで歩き出した。 泥だらけの騎士と、規格外の英雄と、笑顔を取り戻した魔女。 その背中には、もう孤独な影は落ちていなかった。
道端の草花が、夜風に揺れてサラサラと音を立てる。 それはまるで、硬い殻を脱ぎ捨てたゼイクを祝福する拍手のように聞こえた。 曲がらない剣は折れるが、しなる枝は嵐の中でも折れない。 柔軟さを知った騎士は、かつてよりもずっと強く、そして優しくなっていた。
王都の灯りが、遠くに見えてくる。 そこには、彼らを待つ日常と、新たな騒動が待っているはずだ。 けれど今の三人なら、どんな嵐が来ても、きっと笑い飛ばして歩いていけるだろう。
泥まみれの足跡が、家路へと続いていた。
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ファンタジー
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農業革命で食料問題を解決し、衛生革命で疫病を撲滅。石鹸、ガラス、醤油もどきで次々と生活レベルを向上させると、寂れた領地はみるみる豊かになっていった。
逃げてきた伯爵令嬢や森のエルフ、ワケありの元騎士など、頼れる仲間も集まり、順風満帆かと思いきや……その成功が、強欲な隣領や王都の貴族たちの目に留まってしまう。
これは、ただ快適に暮らしたかっただけの男が、やがて“近代化の父”と呼ばれるようになるまでの物語。
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