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第6章:象牙の塔の魔女
第29話:過去という亡霊、現在という光 〜過去とは、今のあなたが再生しているビデオである〜
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世界は、腐りかけた果実のような、甘く重苦しい腐臭に満ちていた。
「幻霧の谷」の最深部。
そこにある霧は、もはや気体と呼べるものではなかった。粘り気を帯びた白いゲル状の何かが、空間そのものを埋め尽くしている。肌に触れると、冷たく湿った舌で舐められているような不快感があり、吸い込むたびに肺の奥に鉛が溜まっていくような錯覚を覚える。
風の音が、ヒュウ、ヒュウと、人の嘲笑い声のように鼓膜を揺らしていた。
地面からは、血管のように脈打つ無数の蔦(つた)や根が這い出し、動けなくなった者たちの足首を静かに、しかし確実に絡め取り始めていた。
それは、獲物を消化液で溶かす前の、静かな捕食の準備だった。
騎士ゼイクは、泥の中に膝をつき、虚空に向かって謝罪を続けていた。
彼の瞳には、濁流に飲まれていく少女の姿が焼き付いているのだろう。普段の冷静沈着な指揮官の姿はどこにもない。ただ、過去の罪に押し潰された一人の男がそこにいた。
「すまない……俺が間違えたから……リリア……」
メイは、頭を抱えて小さく丸まっていた。
彼女の耳には、石が風を切る音と、「出て行け」という罵声が無限に反響している。白いアイガードの下から、涙が止めどなく溢れ出し、地面を濡らしていた。
「ごめんなさい……もうしません……隠れますから……」
そして、魔女エリーゼは、震える手で自身を抱きしめていた。
彼女の目の前では、かつての仲間たちが炎の中で背中を向け、彼女を置き去りにしていく光景が繰り返されている。
「嫌……一人にしないで……」
彼らは全員、「過去」という名の檻の中に閉じ込められていた。
変えることのできない記憶。癒えることのない古傷。
霧はその傷口に入り込み、後悔と絶望を養分にして、さらに濃く、重く、彼らの呼吸を奪っていく。
「今、ここ」にある肉体を置き去りにして、精神だけが地獄を彷徨っている状態だ。
――ただ一人を除いて。
「……悪趣味だな」
低く、冷静な声が、重苦しい空気を震わせた。
瞬(シュン)である。
彼は霧の中に立っていたが、なぜか彼の周りだけ、霧が避けるように薄くなっていた。
彼は眉をひそめ、不快そうに周囲を見渡している。
彼にも、霧が見せようとする幻覚の兆候はあった。
例えば、元の世界での退屈な四畳半の部屋。誰にも期待されず、灰色の毎日を送っていた記憶。
だが、瞬はそれを鼻で笑って一蹴した。
(だから何だ? それはもう終わったことだろ)
彼が幻影にかからない理由。それは彼が馬鹿だからでも、能天気だからでもない。
彼が極めて**「合理的(リアリスト)」**だからだ。
終わった過去を悔やんでも、事実は一ミリも変わらない。まだ来ない未来を恐れても、腹が減るだけだ。
人間が干渉できるのは「今、目の前にある現実」だけである。
その当たり前の事実(常識)を、彼は骨の髄まで理解していた。だからこそ、実体のない亡霊に心を揺さぶられることがない。
「おーい! みんな! しっかりしろ!」
瞬は、口の端に手を当てて叫んだ。
返事はない。
状況は深刻だ。この霧には催眠効果がある。早く叩き起こさないと、精神が壊れてしまうかもしれない。
「……手荒な真似はしたくないんだが、緊急避難だ」
瞬は覚悟を決めると、まずは一番近くで膝をついている銀色の塊――ゼイクに近づいた。
ゼイクは泥水に濡れるのも構わず、一点を見つめてブツブツと呟いている。
「……俺のせいだ……俺の計算が……」
瞬は、ゼイクの肩を掴んだ。
かなり強い力で揺さぶる。
「おい、騎士団長! 部下の前で醜態を晒すな! 起きろ!」
反応が薄い。瞳孔が開いている。
瞬は舌打ちをした。言葉が届かないなら、物理的な刺激で神経をリセットするしかない。
彼は大きく右手を振りかぶり――。
**バシィィィィィン!!**
強烈な音が谷に響いた。
瞬の手のひらが、ゼイクの鎧の背中(先日マントを台無しにしたあたり)を、慈悲深い力加減で叩いた音だ。
「がはっ!?」
ゼイクが肺の中の空気を強制的に吐き出し、前のめりになった。
強烈な衝撃が背骨を走り、脳髄を揺らす。物理的な痛みが、彼の意識を強制的に現実に引き戻した。
「な、何をする……!?」
ゼイクが焦点の定まらない目で振り返る。
そこには、リリアの亡霊ではなく、真剣な眼差しをした瞬の顔があった。
「やっと起きたか。おはよう、石頭」
「……私は……リリアに詫びを……」
「夢を見てたんだよ。悪い夢をな」
瞬はしゃがみ込み、ゼイクの目線を真っ直ぐに見据えた。
「お前の過去に何があったかは知らない。でもな、ゼイク。死んだ人間に謝り続けることが、生き残った人間の仕事なのか?」
ゼイクの目が大きく見開かれた。
「お前がここで膝をついて死んだら、その『リリア』って子は喜ぶのか? ……俺なら、自分が命をかけて守った相棒には、泥水すすってでも生きててほしいと思うけどな」
それは、英雄としての言葉ではなく、ごく普通の青年としての、常識的な倫理観からの言葉だった。
死者を冒涜するのは、いつだって生者の過剰な後悔だ。
「立てよ、ゼイク。お前は今、この国で一番強い騎士なんだろ? だったら、その強さを証明して見せろ」
瞬が手を差し出す。
泥だらけだが、力強い手。
ゼイクは震える手で、その手を握り返した。冷え切っていた指先に、血が通い始める。
「……貴様は、本当に……痛いところを突く男だ」
「事実を言っただけだ」
次に、瞬はうずくまるメイの元へ歩み寄った。
彼女の状態は深刻だった。体を極限まで小さくし、過呼吸を起こしかけている。
「痛い……やめて……」
瞬は、先ほどゼイクにしたような手荒な真似はしなかった。
彼は膝をつき、メイの視線の高さに合わせて、そっと彼女の肩に手を置いた。
そして、できるだけ穏やかな、日常の声色で呼びかけた。
「メイ。俺だ、瞬だ」
メイがビクリと震え、恐る恐る顔を上げる。
彼女の瞳には、まだ幻覚の村人たちが映っているようだった。
「石なんか飛んできてないぞ」
瞬は、自分の体で霧を遮るようにして言った。
「周りを見てみろ。ここには俺と、泥だらけの騎士がいるだけだ。誰も君を責めてないし、誰も君を追い出そうとなんてしてない」
瞬は、彼女の震える手を包み込んだ。
「怖い夢を見てただけだ。……大丈夫、俺がついてる。俺は君の味方だ。それは夢じゃなくて、現実だろ?」
メイは瞬の黒い瞳を見つめた。
そこには、揺るぎない事実があった。
彼の手の温もり。彼の服の匂い。彼の実在感。
それは、霧が見せる亡霊たちよりも遥かに「重く」、確かなものだった。
「……しゅん……さん……」
「そう、瞬さんだ。腹ペコの英雄だ。……帰ったら何か美味いもん食おうぜ」
日常の約束。未来への提案。
それが、メイを過去の呪縛から引き剥がす命綱となった。
メイの目から、恐怖の涙が止まり、安堵の息が漏れる。
「……はい……!」
二人が正気を取り戻したことで、場の空気が変わった。
だが、問題の根源はまだ解決していない。
「いやぁぁぁぁぁ!! 来ないでぇぇぇ!!」
後方から、エリーゼの悲鳴が上がった。
彼女は地面にへたり込み、錯乱していた。
その視線の先。
霧が集まり、巨大な「花」の姿を形成し始めていた。
**ズズズズズ……。**
地面が隆起し、直系十メートルはあろうかという巨大な植物が現れた。
それはラフレシアの花に似ていたが、花弁の一枚一枚が肉厚で、ドクドクと脈打っている。中央にある蕊(しべ)の部分には、苦悶の表情を浮かべた人間の顔がいくつも浮き出ては沈んでいた。
精神寄生型魔獣「ミラージュ・ラフレシア」。
怪物は、エリーゼのトラウマを最も残酷な形で実体化させていた。
花弁の中から、泥人形のような人間たちが這い出してくる。
剣を持った戦士。杖を持った魔法使い。
かつてのエリーゼの仲間たちの姿をした泥人形だ。
『エリーゼ……』
『お前さえいなければ……』
『役立たず……死ね……』
泥人形たちは、口々に呪詛を吐きながら、エリーゼににじり寄る。
エリーゼは杖を構えるが、手先が震えて魔法が撃てない。
「やめて……私が悪かったの……だから許して……!」
彼女は戦えない。
たとえ裏切られた相手でも、かつて信じた仲間たちを、自分の手で傷つけることなど、彼女の倫理観が許さないのだ。
その「優しさ」と「弱さ」につけ込み、魔獣は彼女の心を貪り食おうとしていた。
瞬の表情から、いつもの笑みが消えた。
彼の目には、静かな、しかし強烈な怒りの色が宿っていた。
「……最低だな」
瞬が、エリーゼと魔獣の間に割って入った。
彼は魔獣を見上げ、心底軽蔑するように言い放った。
「人の記憶を勝手にいじくり回して、大事な思い出を盾にするなんて。……やっていいことと悪いことの区別もつかねぇのか、この雑草」
「シュンさん……逃げて……!」
エリーゼが叫ぶ。
「あれは……私の仲間なの……攻撃できない……っ!」
「仲間?」
瞬は、振り返らずに言った。
「エリーゼさん、よく見ろ。あれはあんたの仲間じゃない。あんたの記憶にある『罪悪感』を利用して作った、ただの操り人形だ」
瞬は一歩、前に出た。
「本物の人間はな、あんな単調なセリフしか言わないような、薄っぺらい存在じゃないんだよ」
泥人形たちが一斉に瞬の方を向き、虚ろな目で叫んだ。
『邪魔をするな……』
『我々は被害者だ……』
『お前も過去に飲まれろ……』
泥人形たちが、瞬に向かって黒い霧を吐きかける。
触れたものを腐らせる、呪いの霧。
だが、瞬は避けなかった。
避ける必要がなかった。
彼の周りで、青白い魔力がバチバチとスパークした。
それは、ゼイクやメイが持っているような技術的な魔力ではない。
「ふざけるな」という純粋な怒りと、「この茶番を終わらせる」という強固な意志が形になった、圧倒的なエネルギーの障壁だ。
霧が、瞬の体に触れる前に蒸発していく。
「過去、過去ってうるせぇな」
瞬は右手を掲げた。
その指先に、莫大な魔力が収束していく。
「終わったことを変えることはできない。それは世界のルールだ。だがな……」
彼の一歩が、地面を揺らす。
「これからどうするかは、今生きている人間が決めることだ! 死んだ人間に操られて、今を生きるのをやめるなんて、そんな馬鹿な話があるか!」
魔獣が怯んだ。
感情を食い物にするこの化け物にとって、瞬のような「現在肯定型」の人間は天敵だった。
迷いがない。後悔がない。
彼の放つ「生」のエネルギーは、湿っぽい霧を焼き払う太陽のように熱かった。
「エリーゼさん。目を開けてよく見ておけ」
瞬は、指を鳴らす構えをとった。
「あんたを縛り付けてるその鎖、俺が断ち切ってやる。……全部終わったら、一番高い紅茶を淹れてくれよ。それでチャラにしてやるから」
彼は、ニヤリと笑った。
それは能天気な笑顔ではなく、頼れる男の不敵な笑みだった。
次回、瞬の指先一つで、悪夢の幕が下ろされる。
そして、霧の向こうに隠されていた「本当の過去」――彼女の仲間たちが最期に何を想っていたのかが、明らかになる。
「幻霧の谷」の最深部。
そこにある霧は、もはや気体と呼べるものではなかった。粘り気を帯びた白いゲル状の何かが、空間そのものを埋め尽くしている。肌に触れると、冷たく湿った舌で舐められているような不快感があり、吸い込むたびに肺の奥に鉛が溜まっていくような錯覚を覚える。
風の音が、ヒュウ、ヒュウと、人の嘲笑い声のように鼓膜を揺らしていた。
地面からは、血管のように脈打つ無数の蔦(つた)や根が這い出し、動けなくなった者たちの足首を静かに、しかし確実に絡め取り始めていた。
それは、獲物を消化液で溶かす前の、静かな捕食の準備だった。
騎士ゼイクは、泥の中に膝をつき、虚空に向かって謝罪を続けていた。
彼の瞳には、濁流に飲まれていく少女の姿が焼き付いているのだろう。普段の冷静沈着な指揮官の姿はどこにもない。ただ、過去の罪に押し潰された一人の男がそこにいた。
「すまない……俺が間違えたから……リリア……」
メイは、頭を抱えて小さく丸まっていた。
彼女の耳には、石が風を切る音と、「出て行け」という罵声が無限に反響している。白いアイガードの下から、涙が止めどなく溢れ出し、地面を濡らしていた。
「ごめんなさい……もうしません……隠れますから……」
そして、魔女エリーゼは、震える手で自身を抱きしめていた。
彼女の目の前では、かつての仲間たちが炎の中で背中を向け、彼女を置き去りにしていく光景が繰り返されている。
「嫌……一人にしないで……」
彼らは全員、「過去」という名の檻の中に閉じ込められていた。
変えることのできない記憶。癒えることのない古傷。
霧はその傷口に入り込み、後悔と絶望を養分にして、さらに濃く、重く、彼らの呼吸を奪っていく。
「今、ここ」にある肉体を置き去りにして、精神だけが地獄を彷徨っている状態だ。
――ただ一人を除いて。
「……悪趣味だな」
低く、冷静な声が、重苦しい空気を震わせた。
瞬(シュン)である。
彼は霧の中に立っていたが、なぜか彼の周りだけ、霧が避けるように薄くなっていた。
彼は眉をひそめ、不快そうに周囲を見渡している。
彼にも、霧が見せようとする幻覚の兆候はあった。
例えば、元の世界での退屈な四畳半の部屋。誰にも期待されず、灰色の毎日を送っていた記憶。
だが、瞬はそれを鼻で笑って一蹴した。
(だから何だ? それはもう終わったことだろ)
彼が幻影にかからない理由。それは彼が馬鹿だからでも、能天気だからでもない。
彼が極めて**「合理的(リアリスト)」**だからだ。
終わった過去を悔やんでも、事実は一ミリも変わらない。まだ来ない未来を恐れても、腹が減るだけだ。
人間が干渉できるのは「今、目の前にある現実」だけである。
その当たり前の事実(常識)を、彼は骨の髄まで理解していた。だからこそ、実体のない亡霊に心を揺さぶられることがない。
「おーい! みんな! しっかりしろ!」
瞬は、口の端に手を当てて叫んだ。
返事はない。
状況は深刻だ。この霧には催眠効果がある。早く叩き起こさないと、精神が壊れてしまうかもしれない。
「……手荒な真似はしたくないんだが、緊急避難だ」
瞬は覚悟を決めると、まずは一番近くで膝をついている銀色の塊――ゼイクに近づいた。
ゼイクは泥水に濡れるのも構わず、一点を見つめてブツブツと呟いている。
「……俺のせいだ……俺の計算が……」
瞬は、ゼイクの肩を掴んだ。
かなり強い力で揺さぶる。
「おい、騎士団長! 部下の前で醜態を晒すな! 起きろ!」
反応が薄い。瞳孔が開いている。
瞬は舌打ちをした。言葉が届かないなら、物理的な刺激で神経をリセットするしかない。
彼は大きく右手を振りかぶり――。
**バシィィィィィン!!**
強烈な音が谷に響いた。
瞬の手のひらが、ゼイクの鎧の背中(先日マントを台無しにしたあたり)を、慈悲深い力加減で叩いた音だ。
「がはっ!?」
ゼイクが肺の中の空気を強制的に吐き出し、前のめりになった。
強烈な衝撃が背骨を走り、脳髄を揺らす。物理的な痛みが、彼の意識を強制的に現実に引き戻した。
「な、何をする……!?」
ゼイクが焦点の定まらない目で振り返る。
そこには、リリアの亡霊ではなく、真剣な眼差しをした瞬の顔があった。
「やっと起きたか。おはよう、石頭」
「……私は……リリアに詫びを……」
「夢を見てたんだよ。悪い夢をな」
瞬はしゃがみ込み、ゼイクの目線を真っ直ぐに見据えた。
「お前の過去に何があったかは知らない。でもな、ゼイク。死んだ人間に謝り続けることが、生き残った人間の仕事なのか?」
ゼイクの目が大きく見開かれた。
「お前がここで膝をついて死んだら、その『リリア』って子は喜ぶのか? ……俺なら、自分が命をかけて守った相棒には、泥水すすってでも生きててほしいと思うけどな」
それは、英雄としての言葉ではなく、ごく普通の青年としての、常識的な倫理観からの言葉だった。
死者を冒涜するのは、いつだって生者の過剰な後悔だ。
「立てよ、ゼイク。お前は今、この国で一番強い騎士なんだろ? だったら、その強さを証明して見せろ」
瞬が手を差し出す。
泥だらけだが、力強い手。
ゼイクは震える手で、その手を握り返した。冷え切っていた指先に、血が通い始める。
「……貴様は、本当に……痛いところを突く男だ」
「事実を言っただけだ」
次に、瞬はうずくまるメイの元へ歩み寄った。
彼女の状態は深刻だった。体を極限まで小さくし、過呼吸を起こしかけている。
「痛い……やめて……」
瞬は、先ほどゼイクにしたような手荒な真似はしなかった。
彼は膝をつき、メイの視線の高さに合わせて、そっと彼女の肩に手を置いた。
そして、できるだけ穏やかな、日常の声色で呼びかけた。
「メイ。俺だ、瞬だ」
メイがビクリと震え、恐る恐る顔を上げる。
彼女の瞳には、まだ幻覚の村人たちが映っているようだった。
「石なんか飛んできてないぞ」
瞬は、自分の体で霧を遮るようにして言った。
「周りを見てみろ。ここには俺と、泥だらけの騎士がいるだけだ。誰も君を責めてないし、誰も君を追い出そうとなんてしてない」
瞬は、彼女の震える手を包み込んだ。
「怖い夢を見てただけだ。……大丈夫、俺がついてる。俺は君の味方だ。それは夢じゃなくて、現実だろ?」
メイは瞬の黒い瞳を見つめた。
そこには、揺るぎない事実があった。
彼の手の温もり。彼の服の匂い。彼の実在感。
それは、霧が見せる亡霊たちよりも遥かに「重く」、確かなものだった。
「……しゅん……さん……」
「そう、瞬さんだ。腹ペコの英雄だ。……帰ったら何か美味いもん食おうぜ」
日常の約束。未来への提案。
それが、メイを過去の呪縛から引き剥がす命綱となった。
メイの目から、恐怖の涙が止まり、安堵の息が漏れる。
「……はい……!」
二人が正気を取り戻したことで、場の空気が変わった。
だが、問題の根源はまだ解決していない。
「いやぁぁぁぁぁ!! 来ないでぇぇぇ!!」
後方から、エリーゼの悲鳴が上がった。
彼女は地面にへたり込み、錯乱していた。
その視線の先。
霧が集まり、巨大な「花」の姿を形成し始めていた。
**ズズズズズ……。**
地面が隆起し、直系十メートルはあろうかという巨大な植物が現れた。
それはラフレシアの花に似ていたが、花弁の一枚一枚が肉厚で、ドクドクと脈打っている。中央にある蕊(しべ)の部分には、苦悶の表情を浮かべた人間の顔がいくつも浮き出ては沈んでいた。
精神寄生型魔獣「ミラージュ・ラフレシア」。
怪物は、エリーゼのトラウマを最も残酷な形で実体化させていた。
花弁の中から、泥人形のような人間たちが這い出してくる。
剣を持った戦士。杖を持った魔法使い。
かつてのエリーゼの仲間たちの姿をした泥人形だ。
『エリーゼ……』
『お前さえいなければ……』
『役立たず……死ね……』
泥人形たちは、口々に呪詛を吐きながら、エリーゼににじり寄る。
エリーゼは杖を構えるが、手先が震えて魔法が撃てない。
「やめて……私が悪かったの……だから許して……!」
彼女は戦えない。
たとえ裏切られた相手でも、かつて信じた仲間たちを、自分の手で傷つけることなど、彼女の倫理観が許さないのだ。
その「優しさ」と「弱さ」につけ込み、魔獣は彼女の心を貪り食おうとしていた。
瞬の表情から、いつもの笑みが消えた。
彼の目には、静かな、しかし強烈な怒りの色が宿っていた。
「……最低だな」
瞬が、エリーゼと魔獣の間に割って入った。
彼は魔獣を見上げ、心底軽蔑するように言い放った。
「人の記憶を勝手にいじくり回して、大事な思い出を盾にするなんて。……やっていいことと悪いことの区別もつかねぇのか、この雑草」
「シュンさん……逃げて……!」
エリーゼが叫ぶ。
「あれは……私の仲間なの……攻撃できない……っ!」
「仲間?」
瞬は、振り返らずに言った。
「エリーゼさん、よく見ろ。あれはあんたの仲間じゃない。あんたの記憶にある『罪悪感』を利用して作った、ただの操り人形だ」
瞬は一歩、前に出た。
「本物の人間はな、あんな単調なセリフしか言わないような、薄っぺらい存在じゃないんだよ」
泥人形たちが一斉に瞬の方を向き、虚ろな目で叫んだ。
『邪魔をするな……』
『我々は被害者だ……』
『お前も過去に飲まれろ……』
泥人形たちが、瞬に向かって黒い霧を吐きかける。
触れたものを腐らせる、呪いの霧。
だが、瞬は避けなかった。
避ける必要がなかった。
彼の周りで、青白い魔力がバチバチとスパークした。
それは、ゼイクやメイが持っているような技術的な魔力ではない。
「ふざけるな」という純粋な怒りと、「この茶番を終わらせる」という強固な意志が形になった、圧倒的なエネルギーの障壁だ。
霧が、瞬の体に触れる前に蒸発していく。
「過去、過去ってうるせぇな」
瞬は右手を掲げた。
その指先に、莫大な魔力が収束していく。
「終わったことを変えることはできない。それは世界のルールだ。だがな……」
彼の一歩が、地面を揺らす。
「これからどうするかは、今生きている人間が決めることだ! 死んだ人間に操られて、今を生きるのをやめるなんて、そんな馬鹿な話があるか!」
魔獣が怯んだ。
感情を食い物にするこの化け物にとって、瞬のような「現在肯定型」の人間は天敵だった。
迷いがない。後悔がない。
彼の放つ「生」のエネルギーは、湿っぽい霧を焼き払う太陽のように熱かった。
「エリーゼさん。目を開けてよく見ておけ」
瞬は、指を鳴らす構えをとった。
「あんたを縛り付けてるその鎖、俺が断ち切ってやる。……全部終わったら、一番高い紅茶を淹れてくれよ。それでチャラにしてやるから」
彼は、ニヤリと笑った。
それは能天気な笑顔ではなく、頼れる男の不敵な笑みだった。
次回、瞬の指先一つで、悪夢の幕が下ろされる。
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カクヨムにて完結済み。
( https://kakuyomu.jp/works/16817330656544103806 )
「雑草係」と追放された俺、スキル『草むしり』でドラゴンも魔王も引っこ抜く~極めた園芸スキルは、世界樹すら苗木扱いする神の力でした~
eringi
ファンタジー
「たかが雑草を抜くだけのスキルなんて、勇者パーティには不要だ!」
王立アカデミーを首席で卒業したものの、発現したスキルが『草むしり』だった少年・ノエル。
彼は幼馴染の勇者に見下され、パーティから追放されてしまう。
失意のノエルは、人里離れた「魔の森」で静かに暮らすことを決意する。
しかし彼は知らなかった。彼のスキル『草むしり』は、対象を「不要な雑草」と認識すれば、たとえドラゴンであろうと古代兵器であろうと、根こそぎ引っこ抜いて消滅させる即死チートだったのだ。
「あれ? この森の雑草、ずいぶん頑丈だな(ドラゴンを引っこ抜きながら)」
ノエルが庭の手入れをするだけで、Sランク魔物が次々と「除草」され、やがて森は伝説の聖域へと生まれ変わっていく。
その実力に惹かれ、森の精霊(美女)や、亡国の女騎士、魔王の娘までもが彼の「庭」に集まり、いつしかハーレム状態に。
一方、ノエルを追放した勇者たちは、ダンジョンの茨や毒草の処理ができずに進行不能となり、さらにはノエルが密かに「除草」していた強力な魔物たちに囲まれ、絶望の淵に立たされていた。
「ノエル! 戻ってきてくれ!」
「いや、いま家庭菜園が忙しいんで」
これは、ただ庭いじりをしているだけの少年が、無自覚に世界最強に至る物語。
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