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第6章:象牙の塔の魔女
第28話:霧の谷と、暴かれる古傷 〜「地獄」とは、心が編集した過去の再放送である〜
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王都から馬車に揺られること半日。
石畳の整備された街道が途切れ、車輪が土を噛む音が砂利混じりの不快な振動へと変わる頃、世界の色調が変わった。
そこは、地図上の空白地帯。「幻霧の谷(ミスト・ホロウ)」。
太陽はまだ高い位置にあるはずなのに、谷の入り口に立った瞬間、まるで分厚いカーテンを引いたかのように光量が落ちた。
目の前に広がるのは、巨大な乳白色の海だ。
谷底から絶え間なく湧き上がる濃密な霧が、木々を、岩を、そして空間そのものを白く塗り潰している。
風はない。空気がピタリと止まっている。
漂ってくるのは、濡れた苔の生臭い匂いと、腐った木材の湿った臭気。そして、それらを隠すように漂う、どこか甘ったるい、腐りかけた果実のような花の香り。
肺に吸い込む空気が、水を含んだ綿のように重い。
一歩足を踏み入れるたびに、自分の足音が霧に吸い込まれ、方向感覚が狂わされていくような閉塞感があった。
「……うへぇ。湿気すごすぎ。俺の髪がワカメになっちゃうよ」
瞬(シュン)が、まとわりつく霧を手で払いながらボヤいた。
彼の能天気な声だけが、この陰鬱な場所で唯一の色彩のように響く。
「文句を言うな。ここは地形的にも魔力が溜まりやすい窪地だ。警戒レベルを上げろ」
ゼイクが剣の柄に手をかけ、油断なく周囲を睨め回す。
彼の新しい鎧は、まだ傷一つなく輝いているが、この霧の中ではその輝きも鈍く濁って見える。
メイは、白いアイガードの下で不安そうに瞬の袖を掴んでいた。
本能が告げている。この場所は、生き物を拒絶していると。
「あら、これくらいの湿気、お肌に良くてよ?」
最後尾から、場違いなほど優雅な声が響いた。
今回の「ゲスト」、魔女エリーゼだ。
彼女は冒険者用の泥臭い装備など身に着けていない。レースのあしらわれた純白のドレスに、泥除けのための魔法をかけたヒールの高いブーツ。手には日傘(この霧の中で何の意味があるのか不明だが)を差している。
まるで、王宮の庭園を散歩しに来た貴婦人のような佇まいだ。
「みなさん、私の指示通りに動いてくださいね。この霧はただの水蒸気じゃありませんから」
エリーゼは日傘をくるりと回し、霧の先を指差した。
「ゼイクさん、右へ三歩。そこには底なし沼がありますわ。メイさん、左の岩陰へ。風の通り道が変わります」
彼女の指示は、予言のように的確だった。
ゼイクが言われた通りに動くと、ついさっきまで彼が踏み出そうとしていた地面が、音もなく崩れ落ち、泥沼が口を開けていた。
メイが岩陰に入った直後、鋭い鎌鼬(かまいたち)のような突風が通り過ぎ、彼女が元いた場所の枝を切り落とした。
「……ほう。見事な指揮だ」
ゼイクが感心したように唸る。
彼は規律と秩序を愛する男だ。エリーゼのような、論理的で無駄のない後方支援(バックアップ)は、彼にとって最も好ましい戦い方だった。
「伊達に引きこもってないな。千里眼でも持ってるのか?」
瞬が茶化すと、エリーゼはふふっと笑った。
「情報は武器よ。風の音、土の匂い、魔力の流れ……それらを組み合わせれば、未来図を描くことは難しくないわ」
彼女は微笑んでいたが、その足は決して前衛ラインを超えようとしなかった。
常に瞬たちの背後、安全な距離を保っている。
それは「指揮官としてのポジショニング」というよりは、「関わりたくない」「傷つきたくない」という、無意識の防衛本能による距離に見えた。
「私はここで見ているわ。……もう、失いたくないから」
誰にも聞こえないような小声で、彼女はそう呟いた。
その瞳の奥に、古びたアルバムを閉じる時のような、暗い諦めがよぎったことを、前を歩く三人は気づかなかった。
***
谷の深部に進むにつれ、霧の質が変わった。
最初は白かった視界が、次第に薄墨を流したような灰色に濁り、やがて紫がかった不気味な色へと変色していく。
甘ったるい花の香りが強くなる。
頭がぼんやりとする。思考の輪郭が溶け出し、現実と夢の境目が曖昧になっていく感覚。
人間の脳というのは、都合のいい臓器だ。
見えないものを見ようとする時、脳は勝手に記憶の断片を繋ぎ合わせ、空白を埋めようとする。
この霧は、その性質を悪用していた。
吸い込んだ者の心にある「最も見たくない記憶(トラウマ)」を引きずり出し、それを現実の風景に重ね合わせて映写するスクリーンとなるのだ。
「……おい、なんだあれは」
最初に足を止めたのは、ゼイクだった。
彼の呼吸が、荒くなる。
彼の目の前――霧の向こうに、見覚えのある「川」が現れたからだ。
あの夏の日の、増水した茶色の濁流。
「リリア……?」
濁流の中に、少女が立っていた。
赤茶色の髪。勝気な瞳。
だが、彼女の体は半分泥に埋まり、顔は青白く変色していた。
彼女は、あの日のように「逃げて」とは言わなかった。
泥だらけの指で、ゼイクを指差した。
『……あなたのせいよ』
ゼイクの耳元で、冷たい声が響いた。幻聴だとは分かっていても、心臓が凍りつく。
『あなたが計算を間違えたから。あなたが「なんとかなる」なんて甘えたから。……だから私は死んだの』
「ち、違う……俺は……!」
ゼイクは膝をついた。
完璧な騎士の仮面が剥がれ落ちる。
泥の臭いが鼻をつく。あの日の絶望が、後悔が、どす黒いヘドロとなって彼の足を絡め取る。
「前に進めない」。物理的な拘束ではなく、過去という名の鎖が彼をその場に縫い止めていた。
一方、メイもまた、立ち尽くしていた。
彼女の視界から、森の木々が消えていた。
代わりに現れたのは、黄金色の麦畑。
そして、彼女を取り囲む村人たちの姿。
「メイ……ちゃん?」
メイは震える声で呼んだ。
大好きだった、スープをくれたお婆さんがそこにいた。
だが、お婆さんの顔は鬼のように歪んでいた。
手には、温かいスープではなく、尖った石が握られている。
『化け物!』
『お前がいると不幸になる!』
『出て行け!』
石が飛んでくる。
実際には霧の塊が当たっているだけなのだが、メイの肌は痛みを記憶していた。
額が割れる痛み。心が裂ける痛み。
白いアイガードをしていても、彼らの視線は布を透過して、紫の瞳を刺してくるようだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
メイは頭を抱えてうずくまった。
瞬に救われたはずなのに。
「大丈夫」と言ってもらえたはずなのに。
心の奥底に刻まれた「自分は愛されない」という呪いは、そう簡単には消えてくれない。
そして、後方にいたエリーゼにも、悪夢は忍び寄っていた。
「……嫌」
エリーゼの日傘が、手から滑り落ちた。
カラン、という乾いた音が、やけに大きく響く。
彼女の目の前には、燃え盛る炎が見えていた。
かつて彼女が所属していた、冒険者パーティの仲間たち。
勇猛な戦士。陽気な盗賊。優しい僧侶。
彼らが、背中を向けて走っていく。
エリーゼは手を伸ばした。
「待って」と言おうとした。
その時、戦士が振り返った。
その顔には、侮蔑と焦燥が浮かんでいた。
『悪いな、エリーゼ』
彼らは口々に叫んだ。
『お前は足手まといなんだよ!』
『魔力のコントロールが上手いだけの、箱入り娘が!』
『ここで囮になって死んでくれ! そうすれば俺たちは助かる!』
炎が揺らめく。
彼らの背中が遠ざかっていく。
「……うそ」
エリーゼの顔から血の気が引いていく。
ガタガタと震えが止まらない。
聡明な魔女の仮面は、粉々に砕け散った。そこにいるのは、ただの傷ついた少女だった。
「置いていかないで……私は、役に立つから……」
彼女は虚空に向かって懇願した。
「捨てないで」。その一言が言えなくて、喉がひきつる。
彼女が心を閉ざした理由。
それは、「信じていた仲間に、命の危険がある場面で囮として捨てられた」という記憶だった。
才能を利用されるだけ利用され、最後にはゴミのように捨てられた。
だから、もう誰も信じない。
誰とも関わらなければ、捨てられることもない。
この古びた洋館だけが、私を守ってくれる棺桶なのだ。
霧は、彼らの心の傷口から流れ出る「負の感情」を吸い込み、さらに濃く、重くなっていく。
粘り気を帯びた霧が、触手のように彼らの足首に絡みつく。
そこから逃れようとすればするほど、幻影はよりリアルに、より残酷に彼らを責め立てる。
世界とは、客観的な事実(データ)だけでできているのではない。
それを見る人間の心(フィルター)が、色をつけ、形を与えている。
彼らが見ている地獄は、他の誰でもない、彼ら自身が作り出した「心の影」だった。
ただ一人を除いて。
「んー? なんか甘ったるい匂いがするな。綿菓子か?」
瞬だけが、キョトンとしていた。
彼は霧の中に立っていたが、彼の周りだけ、空気が正常だった。
幻影が見えないわけではない。彼にも、霧が何かを見せようとしている気配は感じていた。
だが、彼の心には、幻影が根を張るための「土壌」がなかった。
過去を悔やむ心?
「終わったことは仕方ないっしょ!」という脳内消去機能が強すぎて、後悔が育たない。
未来への不安?
「明日のことは明日の俺がなんとかする!」という根拠のない自信が、不安を弾き飛ばしてしまう。
彼は常に「今、ここ」の快楽と、目の前の欲望にしか興味がない。
執着がないわけではない。むしろ欲まみれだ。
だが、彼の欲はあまりに直線的で、純粋すぎて、霧が見せる「ネチネチとした陰湿な幻影」とは波長が合わなかったのだ。
「おーい、みんなー! 寝てんのかー!?」
瞬の大声が、湿った空気を振動させた。
「そろそろ晩飯の時間だぞー! 俺、腹減って力が出ないんだけどー!」
その間の抜けた声は、シリアスなホラー映画のクライマックスで、突然バラエティ番組の陽気なSEが鳴ったような違和感があった。
しかし。
その違和感こそが、この閉ざされた悪夢を破る、唯一の鍵となるのだった。
霧の奥で、巨大な影が蠢いた。
幻霧の谷の主、精神寄生型魔獣「ミラージュ・ラフレシア」。
獲物が絶望に沈み、動けなくなるのを待って、その魂ごと消化しようとする狡猾な捕食者。
だが、怪物はまだ知らない。
今回捕らえようとしている獲物の中に、消化不良どころか、胃袋を内側から食い破って出てくるような「規格外の異物」が混ざっていることを。
石畳の整備された街道が途切れ、車輪が土を噛む音が砂利混じりの不快な振動へと変わる頃、世界の色調が変わった。
そこは、地図上の空白地帯。「幻霧の谷(ミスト・ホロウ)」。
太陽はまだ高い位置にあるはずなのに、谷の入り口に立った瞬間、まるで分厚いカーテンを引いたかのように光量が落ちた。
目の前に広がるのは、巨大な乳白色の海だ。
谷底から絶え間なく湧き上がる濃密な霧が、木々を、岩を、そして空間そのものを白く塗り潰している。
風はない。空気がピタリと止まっている。
漂ってくるのは、濡れた苔の生臭い匂いと、腐った木材の湿った臭気。そして、それらを隠すように漂う、どこか甘ったるい、腐りかけた果実のような花の香り。
肺に吸い込む空気が、水を含んだ綿のように重い。
一歩足を踏み入れるたびに、自分の足音が霧に吸い込まれ、方向感覚が狂わされていくような閉塞感があった。
「……うへぇ。湿気すごすぎ。俺の髪がワカメになっちゃうよ」
瞬(シュン)が、まとわりつく霧を手で払いながらボヤいた。
彼の能天気な声だけが、この陰鬱な場所で唯一の色彩のように響く。
「文句を言うな。ここは地形的にも魔力が溜まりやすい窪地だ。警戒レベルを上げろ」
ゼイクが剣の柄に手をかけ、油断なく周囲を睨め回す。
彼の新しい鎧は、まだ傷一つなく輝いているが、この霧の中ではその輝きも鈍く濁って見える。
メイは、白いアイガードの下で不安そうに瞬の袖を掴んでいた。
本能が告げている。この場所は、生き物を拒絶していると。
「あら、これくらいの湿気、お肌に良くてよ?」
最後尾から、場違いなほど優雅な声が響いた。
今回の「ゲスト」、魔女エリーゼだ。
彼女は冒険者用の泥臭い装備など身に着けていない。レースのあしらわれた純白のドレスに、泥除けのための魔法をかけたヒールの高いブーツ。手には日傘(この霧の中で何の意味があるのか不明だが)を差している。
まるで、王宮の庭園を散歩しに来た貴婦人のような佇まいだ。
「みなさん、私の指示通りに動いてくださいね。この霧はただの水蒸気じゃありませんから」
エリーゼは日傘をくるりと回し、霧の先を指差した。
「ゼイクさん、右へ三歩。そこには底なし沼がありますわ。メイさん、左の岩陰へ。風の通り道が変わります」
彼女の指示は、予言のように的確だった。
ゼイクが言われた通りに動くと、ついさっきまで彼が踏み出そうとしていた地面が、音もなく崩れ落ち、泥沼が口を開けていた。
メイが岩陰に入った直後、鋭い鎌鼬(かまいたち)のような突風が通り過ぎ、彼女が元いた場所の枝を切り落とした。
「……ほう。見事な指揮だ」
ゼイクが感心したように唸る。
彼は規律と秩序を愛する男だ。エリーゼのような、論理的で無駄のない後方支援(バックアップ)は、彼にとって最も好ましい戦い方だった。
「伊達に引きこもってないな。千里眼でも持ってるのか?」
瞬が茶化すと、エリーゼはふふっと笑った。
「情報は武器よ。風の音、土の匂い、魔力の流れ……それらを組み合わせれば、未来図を描くことは難しくないわ」
彼女は微笑んでいたが、その足は決して前衛ラインを超えようとしなかった。
常に瞬たちの背後、安全な距離を保っている。
それは「指揮官としてのポジショニング」というよりは、「関わりたくない」「傷つきたくない」という、無意識の防衛本能による距離に見えた。
「私はここで見ているわ。……もう、失いたくないから」
誰にも聞こえないような小声で、彼女はそう呟いた。
その瞳の奥に、古びたアルバムを閉じる時のような、暗い諦めがよぎったことを、前を歩く三人は気づかなかった。
***
谷の深部に進むにつれ、霧の質が変わった。
最初は白かった視界が、次第に薄墨を流したような灰色に濁り、やがて紫がかった不気味な色へと変色していく。
甘ったるい花の香りが強くなる。
頭がぼんやりとする。思考の輪郭が溶け出し、現実と夢の境目が曖昧になっていく感覚。
人間の脳というのは、都合のいい臓器だ。
見えないものを見ようとする時、脳は勝手に記憶の断片を繋ぎ合わせ、空白を埋めようとする。
この霧は、その性質を悪用していた。
吸い込んだ者の心にある「最も見たくない記憶(トラウマ)」を引きずり出し、それを現実の風景に重ね合わせて映写するスクリーンとなるのだ。
「……おい、なんだあれは」
最初に足を止めたのは、ゼイクだった。
彼の呼吸が、荒くなる。
彼の目の前――霧の向こうに、見覚えのある「川」が現れたからだ。
あの夏の日の、増水した茶色の濁流。
「リリア……?」
濁流の中に、少女が立っていた。
赤茶色の髪。勝気な瞳。
だが、彼女の体は半分泥に埋まり、顔は青白く変色していた。
彼女は、あの日のように「逃げて」とは言わなかった。
泥だらけの指で、ゼイクを指差した。
『……あなたのせいよ』
ゼイクの耳元で、冷たい声が響いた。幻聴だとは分かっていても、心臓が凍りつく。
『あなたが計算を間違えたから。あなたが「なんとかなる」なんて甘えたから。……だから私は死んだの』
「ち、違う……俺は……!」
ゼイクは膝をついた。
完璧な騎士の仮面が剥がれ落ちる。
泥の臭いが鼻をつく。あの日の絶望が、後悔が、どす黒いヘドロとなって彼の足を絡め取る。
「前に進めない」。物理的な拘束ではなく、過去という名の鎖が彼をその場に縫い止めていた。
一方、メイもまた、立ち尽くしていた。
彼女の視界から、森の木々が消えていた。
代わりに現れたのは、黄金色の麦畑。
そして、彼女を取り囲む村人たちの姿。
「メイ……ちゃん?」
メイは震える声で呼んだ。
大好きだった、スープをくれたお婆さんがそこにいた。
だが、お婆さんの顔は鬼のように歪んでいた。
手には、温かいスープではなく、尖った石が握られている。
『化け物!』
『お前がいると不幸になる!』
『出て行け!』
石が飛んでくる。
実際には霧の塊が当たっているだけなのだが、メイの肌は痛みを記憶していた。
額が割れる痛み。心が裂ける痛み。
白いアイガードをしていても、彼らの視線は布を透過して、紫の瞳を刺してくるようだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
メイは頭を抱えてうずくまった。
瞬に救われたはずなのに。
「大丈夫」と言ってもらえたはずなのに。
心の奥底に刻まれた「自分は愛されない」という呪いは、そう簡単には消えてくれない。
そして、後方にいたエリーゼにも、悪夢は忍び寄っていた。
「……嫌」
エリーゼの日傘が、手から滑り落ちた。
カラン、という乾いた音が、やけに大きく響く。
彼女の目の前には、燃え盛る炎が見えていた。
かつて彼女が所属していた、冒険者パーティの仲間たち。
勇猛な戦士。陽気な盗賊。優しい僧侶。
彼らが、背中を向けて走っていく。
エリーゼは手を伸ばした。
「待って」と言おうとした。
その時、戦士が振り返った。
その顔には、侮蔑と焦燥が浮かんでいた。
『悪いな、エリーゼ』
彼らは口々に叫んだ。
『お前は足手まといなんだよ!』
『魔力のコントロールが上手いだけの、箱入り娘が!』
『ここで囮になって死んでくれ! そうすれば俺たちは助かる!』
炎が揺らめく。
彼らの背中が遠ざかっていく。
「……うそ」
エリーゼの顔から血の気が引いていく。
ガタガタと震えが止まらない。
聡明な魔女の仮面は、粉々に砕け散った。そこにいるのは、ただの傷ついた少女だった。
「置いていかないで……私は、役に立つから……」
彼女は虚空に向かって懇願した。
「捨てないで」。その一言が言えなくて、喉がひきつる。
彼女が心を閉ざした理由。
それは、「信じていた仲間に、命の危険がある場面で囮として捨てられた」という記憶だった。
才能を利用されるだけ利用され、最後にはゴミのように捨てられた。
だから、もう誰も信じない。
誰とも関わらなければ、捨てられることもない。
この古びた洋館だけが、私を守ってくれる棺桶なのだ。
霧は、彼らの心の傷口から流れ出る「負の感情」を吸い込み、さらに濃く、重くなっていく。
粘り気を帯びた霧が、触手のように彼らの足首に絡みつく。
そこから逃れようとすればするほど、幻影はよりリアルに、より残酷に彼らを責め立てる。
世界とは、客観的な事実(データ)だけでできているのではない。
それを見る人間の心(フィルター)が、色をつけ、形を与えている。
彼らが見ている地獄は、他の誰でもない、彼ら自身が作り出した「心の影」だった。
ただ一人を除いて。
「んー? なんか甘ったるい匂いがするな。綿菓子か?」
瞬だけが、キョトンとしていた。
彼は霧の中に立っていたが、彼の周りだけ、空気が正常だった。
幻影が見えないわけではない。彼にも、霧が何かを見せようとしている気配は感じていた。
だが、彼の心には、幻影が根を張るための「土壌」がなかった。
過去を悔やむ心?
「終わったことは仕方ないっしょ!」という脳内消去機能が強すぎて、後悔が育たない。
未来への不安?
「明日のことは明日の俺がなんとかする!」という根拠のない自信が、不安を弾き飛ばしてしまう。
彼は常に「今、ここ」の快楽と、目の前の欲望にしか興味がない。
執着がないわけではない。むしろ欲まみれだ。
だが、彼の欲はあまりに直線的で、純粋すぎて、霧が見せる「ネチネチとした陰湿な幻影」とは波長が合わなかったのだ。
「おーい、みんなー! 寝てんのかー!?」
瞬の大声が、湿った空気を振動させた。
「そろそろ晩飯の時間だぞー! 俺、腹減って力が出ないんだけどー!」
その間の抜けた声は、シリアスなホラー映画のクライマックスで、突然バラエティ番組の陽気なSEが鳴ったような違和感があった。
しかし。
その違和感こそが、この閉ざされた悪夢を破る、唯一の鍵となるのだった。
霧の奥で、巨大な影が蠢いた。
幻霧の谷の主、精神寄生型魔獣「ミラージュ・ラフレシア」。
獲物が絶望に沈み、動けなくなるのを待って、その魂ごと消化しようとする狡猾な捕食者。
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