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第6章:象牙の塔の魔女
第27話:転がるリンゴと、優雅な引きこもり 〜偶然とは、まだ名前のない必然である〜
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季節の機嫌というものは、恋心のように移ろいやすい。
王都グランドルの上空には、朝から分厚い雲が居座り、気まぐれな雨を降らせては止み、また降らせては止むというじれったい態度を繰り返していた。
初夏の雨だ。
春の優しい小雨とは違い、そこには微かな熱気が孕んでいる。
ざあっと通り過ぎた雨雲の切れ間から、強烈な日差しが差し込むと、濡れた石畳からは白い湯気が立ち上った。
路地裏に充満するのは、洗われたばかりのレンガの匂いと、湿った土の匂い。そして、どこかの庭先で雨に打たれたクチナシの花が放つ、濃厚で甘ったるい香りだ。
世界全体が天然のサウナになったような、肌にまとわりつく湿気。
普通なら不快指数が高まるこの空気を、瞬(シュン)は鼻歌交じりに楽しんでいた。
「ふんふーん、雨上がりの虹を探しに行こう~♪」
彼は一人で、王都の西区画――通称「猫のしっぽ通り」と呼ばれる、入り組んだ路地裏を歩いていた。
メイとゼイクには「ちょっと散歩してくる」と言い残して宿を出た。二人を巻き込むと、またゼイクの小言(「足元が悪い。転倒リスクが三割増しだ」など)が始まるし、メイが心配そうな顔をするからだ。
それに、今回の「獲物」は、極度の人嫌いらしい。大勢で押しかけては、警戒されて逃げられてしまう。
狩りは、孤独に行うのが流儀だ。
瞬は水たまりを軽やかに飛び越えた。
バシャリ、と跳ねる泥水さえも、彼にとっては楽しいアトラクションの一部だ。
彼は知っていた。
目的を持って歩けば、道は必ず開けるということを。
この世界には「偶然」なんてものは存在しない。すべての出来事は、無数の糸が絡み合って織りなす「必然」の模様なのだから。
――そう、例えば。
角を曲がった瞬間に、向こうから歩いてくる誰かと出くわすことだって、宇宙が始まって以来の決定事項なのかもしれない。
「……っと!」
路地の向こうから、一人の女性が歩いてきた。
彼女は、自分の体ほどもありそうな大きな茶色の紙袋を両腕で抱えていた。
足元がおぼつかない。
濡れた石畳は滑りやすく、しかもここは緩やかな下り坂だ。彼女が履いている華奢なヒールの靴は、この悪路にはあまりにも不向きだった。
あ、転ぶ。
瞬がそう直感したのと同時だった。
カツッ。
女性のヒールが石畳の隙間に挟まり、彼女の体がふわりと宙に浮いた。
スローモーションのように時が引き延ばされる。
彼女の手から紙袋が離れる。
ビリッ、という乾いた音と共に袋が破れ、中身が外の世界へと解き放たれた。
鮮烈な、赤。
それは、大量のリンゴだった。
熟れた果実たちが、灰色の石畳の上にばら撒かれ、重力に従ってコロコロと坂道を転がり落ちていく。
一つ、二つ、十、二十……。
赤い奔流が、瞬の方へと向かってくる。
そして、女性自身もまた、バランスを失って地面へと倒れ込もうとしていた。
普通の人間なら、悲鳴を上げて立ち尽くすか、慌てて駆け寄ろうとして自分も滑って転ぶ場面だ。
だが、瞬は違った。
「おっと、豊作だね」
彼は風のように動いた。
ドタバタと走るのではない。
水面を滑るアメンボのように、あるいは風に舞う木の葉のように、音もなく、抵抗もなく、その場を支配した。
ヒュンッ。
彼の手が残像を描く。
空中に放り出されたままのリンゴを、右手で二つ、左手で三つ、軽やかにキャッチする。
そのままくるりと回転し、地面を転がってきたリンゴを、サッカーボールをトラップするように足の甲で柔らかく止め、ヒールキックで空中に跳ね上げて手で掴む。
まるで手品だ。
あるいは、即興のダンスだ。
二十個近いリンゴが、瞬の周囲で赤い軌道を描き、次々と彼の腕の中、ポケットの中、フードの中に収まっていく。
一つも地面に落とさない。一つも傷つけない。
そして最後に。
地面に顔を打ち付けそうになっていた女性の元へ滑り込み、その背中にそっと手を回した。
「セーフ」
瞬は、リンゴまみれになった状態で、優雅に女性を支え止めた。
彼の腕の中で、女性が驚いたように目を見開いている。
その顔を見て、瞬は一瞬、呼吸を忘れた。
美しい、という言葉では足りなかった。
「魔女の隠れ家」の店主という情報から、彼は勝手に「腰の曲がった偏屈な老婆」か「怪しい薬を煮込む毒々しい女」を想像していた。
だが、目の前にいるのは、深窓の令嬢と見紛うばかりの、儚げな女性だった。
色素の薄い、蜂蜜を溶かしたような金色の髪。
透き通るような白い肌は、日差しを知らない雪のようだ。
そして何より印象的なのは、その瞳の色。
雨上がりの空を切り取ったような、どこまでも澄んだサファイアブルー。
そこには、世俗の汚れなど一切知らないような純粋さと、触れれば壊れてしまいそうな脆さが同居していた。
エリーゼ。
間違いなく、彼女がその人だった。
「……あ」
女性の唇から、小さな吐息が漏れる。
彼女は自分が助けられたことよりも、瞬が繰り広げた「リンゴ回収ショー」に目を奪われていたようだった。
彼女は瞬の腕の中で体勢を立て直すと、丁寧すぎるほど丁寧な所作で一礼した。
「ありがとうございます。……ふふ、まるで手品を見ているようでしたわ」
その声は、上質な絹の布が擦れる音のように柔らかく、耳に心地よかった。
瞬は抱えていたリンゴを、一つずつ彼女の無事だったもう一つの袋に移しながら、ニカっと笑った。
「いやぁ、いいリンゴだね。赤くて艶があって。これが坂の下まで転がってジュースになっちゃうのは、世界の損失だろ?」
「ええ。おかげで助かりました。……『英雄さん』」
瞬の手が止まった。
彼はまだ名乗っていない。
それに、今日は変装のつもりで、いつもの派手なマントではなく地味な外套を羽織っていたはずだ。
「俺を知ってるの?」
「知っていますよ。世界は、あなたが思っている以上に狭いものですから」
エリーゼは、悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔には、引きこもりの陰湿さは微塵もない。むしろ、全てを見透かしているような聡明な光が宿っていた。
「あなたがこの路地に入ってきた時から、風が騒いでいましたもの。『台風みたいな人が来たわよ』って」
彼女は最後のリンゴを受け取ると、それを胸に抱いた。
赤い果実と、白い肌のコントラストが、絵画のように美しい。
「お礼をさせてくださいな。……ちょうど、美味しい紅茶の茶葉が手に入ったところなんです」
それは、瞬が喉から手が出るほど欲しかった「招待状」だった。
強力な認識阻害の結界。誰もたどり着けない幻の店。
それを突破する鍵は、剣でも魔法でもなく、ただの「転がったリンゴ」だったのだ。
袖振り合うも他生の縁、と言う。
この出会いもまた、瞬の「会いたい」という渇望と、エリーゼの「誰か助けて」という無意識の願いが、リンゴという媒体を通して結びついた結果なのだろう。
「喜んで。俺、喉がカラカラなんだ」
瞬は迷わず頷いた。
雨上がりの路地裏に、二人の足音が響く。
先ほどまでの重苦しい湿気が、不思議と晴れやかに感じられた。
***
案内されたのは、路地の一番奥、蔦(つた)に覆われた古びた洋館だった。
門扉は錆びつき、庭木は伸び放題になっているが、それがかえって「眠れる森の美女の城」のような神秘的な雰囲気を醸し出している。
エリーゼが指先で空気をなぞると、空間が揺らぎ、見えなかった扉が出現した。
中に入ると、そこは時間の止まった博物館のようだった。
床から天井まで積み上げられた古書。実験器具のガラス瓶。得体の知れない鉱石や、乾燥した薬草の束。
足の踏み場もないほど雑然としているが、不思議と不潔感はない。埃の一つ一つさえもが、計算されて配置されたインテリアの一部のように見えた。
「散らかっていてごめんなさいね。私、片付けは苦手なの」
エリーゼは恥ずかしそうに笑いながら、テーブルの上の本をどけてスペースを作った。
瞬はソファーに腰を下ろす。スプリングが少しへたっているが、包み込まれるように柔らかい。
やがて運ばれてきた紅茶は、琥珀色に透き通り、湯気と共に信じられないほど芳醇な香りを放っていた。
一口飲むと、渋みなど一切なく、果実のような甘みが口いっぱいに広がる。
「うまっ! なにこれ、魔法?」
「いいえ、ただのダージリンよ。でも、温度と蒸らし時間、そして『美味しくなあれ』という気持ちがあれば、魔法を使わなくても美味しくなるわ」
エリーゼも向かいの席に座り、カップに口をつけた。
その所作の一つ一つが洗練されていて、無駄がない。
瞬は確信した。
この人は、ただ者ではない。
この優雅な身のこなしは、膨大な魔力制御の訓練と、高い教養の裏返しだ。
瞬はカップを置き、単刀直入に切り出した。
「エリーゼさん。俺の仲間になってほしい」
駆け引きなしの直球。
エリーゼの手が、ピクリと止まった。
カップの中の液面が、わずかに波紋を描く。
彼女はカップをソーサーに戻し、静かに瞬を見つめ返した。
さっきまでの柔和な笑顔が消え、瞳の奥に深い影が落ちる。それは、日陰に咲く花のような、哀しい色だった。
「……光栄なお誘いですわ、英雄さん。でも、ごめんなさい」
彼女は首を横に振った。
「私はもう、誰かと群れるのはやめたの」
「どうして? 腕は確かなんだろ? 俺たちと組めば、もっと広い世界が見られるぜ?」
「世界……」
彼女は自嘲気味に笑った。
「世界なんて、この部屋の中だけで十分よ。本を読んで、実験をして、たまにこうして迷い込んだお客様とお茶を飲む。それで満足なの」
嘘だ、と瞬は思った。
彼女の言葉には、諦めと、そして隠しきれない「恐怖」が滲んでいた。
誰かと関わることへの恐怖。
外の世界へ出ることへの恐怖。
その傷跡は、深く、まだ血を流しているように見えた。
「それに、私なんて……ただの足手まといよ」
エリーゼは自分の膝の上で手を組んだ。白く細い指が、震えている。
「いざという時、私は戦えない。走れない。……また、誰かの重荷になるだけだわ」
「また」。
その言葉が引っかかった。
過去に何かがあったのだ。彼女がこれほどまでに自分を卑下し、心を閉ざす原因となった出来事が。
だが、今の瞬にそれを暴く権利はない。土足で心に踏み込むのは、彼の流儀ではない(と本人は思っているが、実際はかなり踏み込むタイプである)。
瞬は、作戦を変更した。
情に訴えるのが駄目なら、利に訴える。商人のガルドから学んだ交渉術だ。
「わかった。無理強いはしない。でもさ、取引ならできるだろ?」
「取引?」
「ああ。あんた、研究者だろ? 新しい魔法や薬を作るのが好きなんだろ?」
瞬は右手を掲げた。
指先に、魔力を集中させる。
バチバチ、という音と共に、青白い光が溢れ出し、部屋中の空気がビリビリと震え始めた。
規格外の魔力。
魔神すら消滅させた、底なしのエネルギー。
エリーゼの目が釘付けになった。
研究者としての本能が、その輝きに魅入られてしまったのだ。
「すごい……。なんて純度の高い、濃密な魔力……。これがあれば、理論上だけで不可能だった『あの術式』も、完成できるかもしれない……」
彼女がゴクリと喉を鳴らすのを、瞬は見逃さなかった。
「どうだ? 俺のこの魔力、実験に使わせてやるよ。俺が実験台になってもいい」
「えっ……い、いいの? 危険な実験かもしれないわよ?」
エリーゼの瞳に、マッドサイエンティスト特有の危ない光が灯る。
「構わねぇよ。俺は頑丈だからな。その代わり……」
瞬はニヤリと笑った。
「たまにでいい。俺たちのクエストを手伝ってくれ。後ろから魔法でサポートしてくれるだけでいいんだ」
エリーゼは迷った。
誰かと関わるのは怖い。また傷つくのは嫌だ。
けれど、目の前のこの圧倒的な魔力という「素材」は、あまりにも魅力的すぎた。
知的好奇心という名の欲求が、恐怖を少しだけ上回った。
「……わかったわ」
彼女は小さく頷いた。
「あくまで、ビジネスパートナーとして。実験の対価として、力を貸すわ」
「交渉成立だ!」
瞬は身を乗り出して、エリーゼの手を握った。
彼女の手は氷のように冷たかったが、瞬の熱が伝わると、ほんのりと赤く染まった。
「よろしくな、エリーゼ。俺は瞬だ」
「ええ、よろしく。……変な人ね、あなたは」
エリーゼは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
窓の外では、いつの間にか雨雲が完全に去り、夕焼けが空を焦がしていた。
部屋の中に差し込む赤い光が、積み上げられた本の山を黄金色に染め上げている。
転がったリンゴが繋いだ、奇妙な縁。
引きこもりの魔女と、規格外の英雄。
この出会いが、彼女の止まっていた時間を動かす歯車になることを、この時の二人はまだ知らない。
瞬は、空っぽになったティーカップを置いた。
飲み干した紅茶の底に、茶柱が一本、まっすぐに立っていた。
王都グランドルの上空には、朝から分厚い雲が居座り、気まぐれな雨を降らせては止み、また降らせては止むというじれったい態度を繰り返していた。
初夏の雨だ。
春の優しい小雨とは違い、そこには微かな熱気が孕んでいる。
ざあっと通り過ぎた雨雲の切れ間から、強烈な日差しが差し込むと、濡れた石畳からは白い湯気が立ち上った。
路地裏に充満するのは、洗われたばかりのレンガの匂いと、湿った土の匂い。そして、どこかの庭先で雨に打たれたクチナシの花が放つ、濃厚で甘ったるい香りだ。
世界全体が天然のサウナになったような、肌にまとわりつく湿気。
普通なら不快指数が高まるこの空気を、瞬(シュン)は鼻歌交じりに楽しんでいた。
「ふんふーん、雨上がりの虹を探しに行こう~♪」
彼は一人で、王都の西区画――通称「猫のしっぽ通り」と呼ばれる、入り組んだ路地裏を歩いていた。
メイとゼイクには「ちょっと散歩してくる」と言い残して宿を出た。二人を巻き込むと、またゼイクの小言(「足元が悪い。転倒リスクが三割増しだ」など)が始まるし、メイが心配そうな顔をするからだ。
それに、今回の「獲物」は、極度の人嫌いらしい。大勢で押しかけては、警戒されて逃げられてしまう。
狩りは、孤独に行うのが流儀だ。
瞬は水たまりを軽やかに飛び越えた。
バシャリ、と跳ねる泥水さえも、彼にとっては楽しいアトラクションの一部だ。
彼は知っていた。
目的を持って歩けば、道は必ず開けるということを。
この世界には「偶然」なんてものは存在しない。すべての出来事は、無数の糸が絡み合って織りなす「必然」の模様なのだから。
――そう、例えば。
角を曲がった瞬間に、向こうから歩いてくる誰かと出くわすことだって、宇宙が始まって以来の決定事項なのかもしれない。
「……っと!」
路地の向こうから、一人の女性が歩いてきた。
彼女は、自分の体ほどもありそうな大きな茶色の紙袋を両腕で抱えていた。
足元がおぼつかない。
濡れた石畳は滑りやすく、しかもここは緩やかな下り坂だ。彼女が履いている華奢なヒールの靴は、この悪路にはあまりにも不向きだった。
あ、転ぶ。
瞬がそう直感したのと同時だった。
カツッ。
女性のヒールが石畳の隙間に挟まり、彼女の体がふわりと宙に浮いた。
スローモーションのように時が引き延ばされる。
彼女の手から紙袋が離れる。
ビリッ、という乾いた音と共に袋が破れ、中身が外の世界へと解き放たれた。
鮮烈な、赤。
それは、大量のリンゴだった。
熟れた果実たちが、灰色の石畳の上にばら撒かれ、重力に従ってコロコロと坂道を転がり落ちていく。
一つ、二つ、十、二十……。
赤い奔流が、瞬の方へと向かってくる。
そして、女性自身もまた、バランスを失って地面へと倒れ込もうとしていた。
普通の人間なら、悲鳴を上げて立ち尽くすか、慌てて駆け寄ろうとして自分も滑って転ぶ場面だ。
だが、瞬は違った。
「おっと、豊作だね」
彼は風のように動いた。
ドタバタと走るのではない。
水面を滑るアメンボのように、あるいは風に舞う木の葉のように、音もなく、抵抗もなく、その場を支配した。
ヒュンッ。
彼の手が残像を描く。
空中に放り出されたままのリンゴを、右手で二つ、左手で三つ、軽やかにキャッチする。
そのままくるりと回転し、地面を転がってきたリンゴを、サッカーボールをトラップするように足の甲で柔らかく止め、ヒールキックで空中に跳ね上げて手で掴む。
まるで手品だ。
あるいは、即興のダンスだ。
二十個近いリンゴが、瞬の周囲で赤い軌道を描き、次々と彼の腕の中、ポケットの中、フードの中に収まっていく。
一つも地面に落とさない。一つも傷つけない。
そして最後に。
地面に顔を打ち付けそうになっていた女性の元へ滑り込み、その背中にそっと手を回した。
「セーフ」
瞬は、リンゴまみれになった状態で、優雅に女性を支え止めた。
彼の腕の中で、女性が驚いたように目を見開いている。
その顔を見て、瞬は一瞬、呼吸を忘れた。
美しい、という言葉では足りなかった。
「魔女の隠れ家」の店主という情報から、彼は勝手に「腰の曲がった偏屈な老婆」か「怪しい薬を煮込む毒々しい女」を想像していた。
だが、目の前にいるのは、深窓の令嬢と見紛うばかりの、儚げな女性だった。
色素の薄い、蜂蜜を溶かしたような金色の髪。
透き通るような白い肌は、日差しを知らない雪のようだ。
そして何より印象的なのは、その瞳の色。
雨上がりの空を切り取ったような、どこまでも澄んだサファイアブルー。
そこには、世俗の汚れなど一切知らないような純粋さと、触れれば壊れてしまいそうな脆さが同居していた。
エリーゼ。
間違いなく、彼女がその人だった。
「……あ」
女性の唇から、小さな吐息が漏れる。
彼女は自分が助けられたことよりも、瞬が繰り広げた「リンゴ回収ショー」に目を奪われていたようだった。
彼女は瞬の腕の中で体勢を立て直すと、丁寧すぎるほど丁寧な所作で一礼した。
「ありがとうございます。……ふふ、まるで手品を見ているようでしたわ」
その声は、上質な絹の布が擦れる音のように柔らかく、耳に心地よかった。
瞬は抱えていたリンゴを、一つずつ彼女の無事だったもう一つの袋に移しながら、ニカっと笑った。
「いやぁ、いいリンゴだね。赤くて艶があって。これが坂の下まで転がってジュースになっちゃうのは、世界の損失だろ?」
「ええ。おかげで助かりました。……『英雄さん』」
瞬の手が止まった。
彼はまだ名乗っていない。
それに、今日は変装のつもりで、いつもの派手なマントではなく地味な外套を羽織っていたはずだ。
「俺を知ってるの?」
「知っていますよ。世界は、あなたが思っている以上に狭いものですから」
エリーゼは、悪戯っぽく微笑んだ。
その笑顔には、引きこもりの陰湿さは微塵もない。むしろ、全てを見透かしているような聡明な光が宿っていた。
「あなたがこの路地に入ってきた時から、風が騒いでいましたもの。『台風みたいな人が来たわよ』って」
彼女は最後のリンゴを受け取ると、それを胸に抱いた。
赤い果実と、白い肌のコントラストが、絵画のように美しい。
「お礼をさせてくださいな。……ちょうど、美味しい紅茶の茶葉が手に入ったところなんです」
それは、瞬が喉から手が出るほど欲しかった「招待状」だった。
強力な認識阻害の結界。誰もたどり着けない幻の店。
それを突破する鍵は、剣でも魔法でもなく、ただの「転がったリンゴ」だったのだ。
袖振り合うも他生の縁、と言う。
この出会いもまた、瞬の「会いたい」という渇望と、エリーゼの「誰か助けて」という無意識の願いが、リンゴという媒体を通して結びついた結果なのだろう。
「喜んで。俺、喉がカラカラなんだ」
瞬は迷わず頷いた。
雨上がりの路地裏に、二人の足音が響く。
先ほどまでの重苦しい湿気が、不思議と晴れやかに感じられた。
***
案内されたのは、路地の一番奥、蔦(つた)に覆われた古びた洋館だった。
門扉は錆びつき、庭木は伸び放題になっているが、それがかえって「眠れる森の美女の城」のような神秘的な雰囲気を醸し出している。
エリーゼが指先で空気をなぞると、空間が揺らぎ、見えなかった扉が出現した。
中に入ると、そこは時間の止まった博物館のようだった。
床から天井まで積み上げられた古書。実験器具のガラス瓶。得体の知れない鉱石や、乾燥した薬草の束。
足の踏み場もないほど雑然としているが、不思議と不潔感はない。埃の一つ一つさえもが、計算されて配置されたインテリアの一部のように見えた。
「散らかっていてごめんなさいね。私、片付けは苦手なの」
エリーゼは恥ずかしそうに笑いながら、テーブルの上の本をどけてスペースを作った。
瞬はソファーに腰を下ろす。スプリングが少しへたっているが、包み込まれるように柔らかい。
やがて運ばれてきた紅茶は、琥珀色に透き通り、湯気と共に信じられないほど芳醇な香りを放っていた。
一口飲むと、渋みなど一切なく、果実のような甘みが口いっぱいに広がる。
「うまっ! なにこれ、魔法?」
「いいえ、ただのダージリンよ。でも、温度と蒸らし時間、そして『美味しくなあれ』という気持ちがあれば、魔法を使わなくても美味しくなるわ」
エリーゼも向かいの席に座り、カップに口をつけた。
その所作の一つ一つが洗練されていて、無駄がない。
瞬は確信した。
この人は、ただ者ではない。
この優雅な身のこなしは、膨大な魔力制御の訓練と、高い教養の裏返しだ。
瞬はカップを置き、単刀直入に切り出した。
「エリーゼさん。俺の仲間になってほしい」
駆け引きなしの直球。
エリーゼの手が、ピクリと止まった。
カップの中の液面が、わずかに波紋を描く。
彼女はカップをソーサーに戻し、静かに瞬を見つめ返した。
さっきまでの柔和な笑顔が消え、瞳の奥に深い影が落ちる。それは、日陰に咲く花のような、哀しい色だった。
「……光栄なお誘いですわ、英雄さん。でも、ごめんなさい」
彼女は首を横に振った。
「私はもう、誰かと群れるのはやめたの」
「どうして? 腕は確かなんだろ? 俺たちと組めば、もっと広い世界が見られるぜ?」
「世界……」
彼女は自嘲気味に笑った。
「世界なんて、この部屋の中だけで十分よ。本を読んで、実験をして、たまにこうして迷い込んだお客様とお茶を飲む。それで満足なの」
嘘だ、と瞬は思った。
彼女の言葉には、諦めと、そして隠しきれない「恐怖」が滲んでいた。
誰かと関わることへの恐怖。
外の世界へ出ることへの恐怖。
その傷跡は、深く、まだ血を流しているように見えた。
「それに、私なんて……ただの足手まといよ」
エリーゼは自分の膝の上で手を組んだ。白く細い指が、震えている。
「いざという時、私は戦えない。走れない。……また、誰かの重荷になるだけだわ」
「また」。
その言葉が引っかかった。
過去に何かがあったのだ。彼女がこれほどまでに自分を卑下し、心を閉ざす原因となった出来事が。
だが、今の瞬にそれを暴く権利はない。土足で心に踏み込むのは、彼の流儀ではない(と本人は思っているが、実際はかなり踏み込むタイプである)。
瞬は、作戦を変更した。
情に訴えるのが駄目なら、利に訴える。商人のガルドから学んだ交渉術だ。
「わかった。無理強いはしない。でもさ、取引ならできるだろ?」
「取引?」
「ああ。あんた、研究者だろ? 新しい魔法や薬を作るのが好きなんだろ?」
瞬は右手を掲げた。
指先に、魔力を集中させる。
バチバチ、という音と共に、青白い光が溢れ出し、部屋中の空気がビリビリと震え始めた。
規格外の魔力。
魔神すら消滅させた、底なしのエネルギー。
エリーゼの目が釘付けになった。
研究者としての本能が、その輝きに魅入られてしまったのだ。
「すごい……。なんて純度の高い、濃密な魔力……。これがあれば、理論上だけで不可能だった『あの術式』も、完成できるかもしれない……」
彼女がゴクリと喉を鳴らすのを、瞬は見逃さなかった。
「どうだ? 俺のこの魔力、実験に使わせてやるよ。俺が実験台になってもいい」
「えっ……い、いいの? 危険な実験かもしれないわよ?」
エリーゼの瞳に、マッドサイエンティスト特有の危ない光が灯る。
「構わねぇよ。俺は頑丈だからな。その代わり……」
瞬はニヤリと笑った。
「たまにでいい。俺たちのクエストを手伝ってくれ。後ろから魔法でサポートしてくれるだけでいいんだ」
エリーゼは迷った。
誰かと関わるのは怖い。また傷つくのは嫌だ。
けれど、目の前のこの圧倒的な魔力という「素材」は、あまりにも魅力的すぎた。
知的好奇心という名の欲求が、恐怖を少しだけ上回った。
「……わかったわ」
彼女は小さく頷いた。
「あくまで、ビジネスパートナーとして。実験の対価として、力を貸すわ」
「交渉成立だ!」
瞬は身を乗り出して、エリーゼの手を握った。
彼女の手は氷のように冷たかったが、瞬の熱が伝わると、ほんのりと赤く染まった。
「よろしくな、エリーゼ。俺は瞬だ」
「ええ、よろしく。……変な人ね、あなたは」
エリーゼは困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。
窓の外では、いつの間にか雨雲が完全に去り、夕焼けが空を焦がしていた。
部屋の中に差し込む赤い光が、積み上げられた本の山を黄金色に染め上げている。
転がったリンゴが繋いだ、奇妙な縁。
引きこもりの魔女と、規格外の英雄。
この出会いが、彼女の止まっていた時間を動かす歯車になることを、この時の二人はまだ知らない。
瞬は、空っぽになったティーカップを置いた。
飲み干した紅茶の底に、茶柱が一本、まっすぐに立っていた。
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これは、掃除屋の少年が無自覚に最強の座に君臨し、幸せなスローライフを送る物語。
散々利用されてから勇者パーティーを追い出された…が、元勇者パーティーは僕の本当の能力を知らない。
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僕こと…ディスト・ランゼウスは、経験値を倍増させてパーティーの成長を急成長させるスキルを持っていた。
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するとディランは、勇者の称号を得てからというもの…態度が横柄になり、更にはパーティーメンバー達も調子付いて行った。
それからと言うもの、調子付いた勇者ディランとパーティーメンバー達は、レベルの上がらないサポート役の僕を邪険にし始めていき…
遂には、役立たずは不要と言って僕を追い出したのだった。
……とまぁ、ここまでは良くある話。
僕が抜けた勇者ディランとパーティーメンバー達は、その後も活躍し続けていき…
遂には、大魔王ドゥルガディスが収める魔大陸を攻略すると言う話になっていた。
「おやおや…もう魔大陸に上陸すると言う話になったのか、ならば…そろそろ僕の本来のスキルを発動するとしますか!」
それから数日後に、ディランとパーティーメンバー達が魔大陸に侵攻し始めたという話を聞いた。
なので、それと同時に…僕の本来のスキルを発動すると…?
2月11日にHOTランキング男性向けで1位になりました。
皆様お陰です、有り難う御座います。
無自覚に世界最強だった俺、追放後にチートがバレて全員ざまぁされる件
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冒険者団から「役立たず」と追放された青年リオ。
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【コミカライズ決定】勇者学園の西園寺オスカー~実力を隠して勇者学園を満喫する俺、美人生徒会長に目をつけられたので最強ムーブをかましたい~
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ゼルトル勇者学園に通う少年、西園寺オスカーはかなり変わっている。
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