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第7章:過去の嘘と、真実の絆
第31話:象牙の塔の退屈な天才 〜静寂は、騒音によって初めて認識される〜
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春の嵐というものは、得てして予報もなしに、土足でドアを蹴破ってやってくるものだ。
***
古い図書館の奥底に沈殿する埃と、インクの乾いた匂い。
エリーゼにとって、それは羊水のように心地よい、世界との境界線だった。
王立魔導学院、特別研究棟の最上階。
「象牙の塔」と揶揄されるその場所は、春だというのに冬の夜のように静まり返っていた。
窓の外では、暴力的なまでの生命力が溢れかえっている。薄紅色の花びらが雪崩のように舞い散り、甘ったるい蜜の香りが、風に乗って窓ガラスを叩いている。陽光は柔らかく、校庭の芝生は若草色に萌え、青春を謳歌する学生たちの笑い声が、遠い波音のように響いていた。
けれど、分厚い樫の木の扉一枚隔てたこの部屋には、そんな浮ついた空気は微塵も入り込めない。
ここにあるのは、整然と並べられた魔道書と、冷徹な論理、そして絶対的な静寂だけだ。
エリーゼ・フォン・ヴァイデマンは、革張りの椅子に深く身を沈め、退屈を弄ぶように羽根ペンを回していた。
蜂蜜を溶かしたような金色の髪が、窓から差し込む一筋の光を受けて、冷ややかに輝いている。透き通るような白い肌は、まるで精巧に作られたビスクドールのようで、そこには生身の人間特有の「熱」が感じられなかった。
「……退屈ね」
彼女は独りごちて、書きかけの羊皮紙を指先で弾いた。
そこには、大の大人が数人がかりで数日かけて解読するような、古代魔術の複雑な構成式が記されていた。しかし彼女にとっては、子供の積み木崩しよりも簡単で、あくびが出るような代物だった。
才能とは、神様からの贈り物などではない。あれは、一種の呪いだ。
エリーゼは幼い頃から、それを持て余していた。
彼女が指を鳴らせば、雨雲は消え去り、枯れた花は蘇った。周囲の大人たちは、最初は手を叩いて喜んだ。けれど、彼女が彼らの理解を超える速度で真理に到達し始めると、その拍手は止み、笑顔は引きつり、やがて「恐怖」という名の沈黙に変わった。
『神童』
『天才』
『化け物』
称賛の言葉は、いつだって嫉妬と畏怖でコーティングされていた。
「すごいね、エリーゼちゃん」と頭を撫でてくる手のひらが、微かに震えているのを、彼女は見逃さなかった。彼らは、自分たちの理解の範疇(ものさし)に収まらない彼女を、心の底では排除したがっていたのだ。
だから、エリーゼは扉を閉ざした。
他人という不確定要素(ノイズ)を排除し、予測可能な数式と魔力の世界に引きこもった。
数式は裏切らない。
魔力は嘘をつかない。
ここには、期待も、失望も、傷つくこともない。
ただ、死ぬほど退屈な「安らぎ」があるだけだ。
(私は一人でいい。一人こそが、完全な状態なのだから)
彼女はそう自分に言い聞かせ、再びペンを走らせようとした。
その時だった。
**ドォォォォォォォォォォォン!!!**
ノック?
いいや、それは爆発音だった。
研究室の分厚い樫の扉が、蝶番(ちょうつがい)ごと悲鳴を上げ、部屋の内側へとすっ飛んできたのだ。
「……は?」
エリーゼの思考が停止する。
物理法則を無視した光景。重厚な扉が木の葉のように舞い、本棚に激突して、数冊の貴重な魔道書を巻き添えに粉砕した。
舞い上がる土煙。
静寂の聖域は、一瞬にして工事現場のような騒音に包まれた。
「おっしゃあ! 開いたぞォォ!!」
土煙の向こうから、鼓膜を破らんばかりの大声が響いてきた。
現れたのは、学院の制服を着崩した、長身の男だった。
燃えるような赤髪。夏の日差しを吸い込んだような日焼けした肌。そして、獰猛な肉食獣を思わせる、ギラギラとした瞳。
男は土足で――文字通り、泥だらけのブーツで――エリーゼの聖域を踏み荒らしながら、ニカっと白い歯を見せた。
「よう天才! 部屋の鍵、かかってたぞ!」
「……鍵がかかっていたら、開けないのが常識でしょう?」
エリーゼの声は、絶対零度のように冷え切っていた。
だが、男は全く意に介さない。
「細かいことは気にするな! 俺はレオン! 勇者になる男だ!」
「勇者になる前に、不法侵入で退学になりなさい」
レオンの後ろから、さらに二人の人影が現れた。
一人は、目つきの鋭い小柄な少年。短剣を弄びながら、呆れたように肩をすくめている。
「おいレオン、ドア壊すなって言っただろ。修理代、また俺たちの報酬から天引きだぞ」
もう一人は、おっとりとした雰囲気の少女。僧侶の法衣を纏っているが、その手にはなぜか大量の焼き芋が抱えられていた。
「あらあら、派手にやっちゃいましたねぇ。でも、風通しが良くなって素敵ですぅ」
泥棒。破壊魔。天然。
エリーゼが最も忌み嫌う、「無秩序(カオス)」の具現化のような三人組だった。
エリーゼは、優雅な動作で立ち上がった。
その指先に、青白い魔力が集束していく。
詠唱はいらない。彼女の頭の中で数式が組み上がり、大気中の水分が瞬時に冷却され、鋭利な氷の礫(つぶて)となって形成される。
「出て行きなさい。さもなくば、全身を凍らせて、中庭のオブジェにしてあげますわ」
殺気を含んだ警告。
普通の生徒なら、腰を抜かして逃げ出すレベルの威圧感だ。
だが、レオンは「お?」と目を輝かせただけだった。
ヒュンッ!
エリーゼが放った氷弾。
音速に近い速度でレオンの顔面へと迫る。
しかし。
パシィッ!!
乾いた音が響いた。
レオンは、剣を抜くことすらしなかった。
素手だ。
ただの素手で、飛来する氷の弾丸を、まるで飛んできたボール遊びの球のようにキャッチしたのだ。
「……なっ!?」
エリーゼの目が、驚愕で見開かれる。
ありえない。物理的な速度も、凍結の魔力も、全て無視されている。
レオンの手の中で、氷弾がピキピキと音を立てて砕け散った。彼の手のひらは真っ赤になっていたが、彼は「痛ってぇな!」と笑っているだけだった。
「すげぇ! お前、挨拶代わりに雪合戦か!? 気が利くじゃねぇか!」
「あ、挨拶……?」
エリーゼは言葉を失った。殺す気で撃った魔法を、雪合戦呼ばわりされたのだ。
レオンはズカズカと部屋の奥まで歩み寄ると、エリーゼの目の前に「ぬっ」と何かを突き出した。
湯気を立てる、茶色い塊。
焦げた皮の匂いと、濃厚な甘い香り。
焼き芋だった。
「ほら、食えよ! 魔法使うと腹減るんだろ? さっき中庭で焼いてきたんだ。あっつあつだぞ!」
「……は?」
「手が冷てぇな。これ持ってれば温まるぜ」
レオンは、エリーゼの返事も待たずに、彼女の白く冷たい手に、強引に焼き芋を押し付けた。
熱い。
火傷しそうなほどの熱が、薄い皮膚を通して伝わってくる。
それは単なる熱エネルギーではない。泥臭くて、粗野で、けれど圧倒的な「生」の熱量だった。
エリーゼは、両手で焼き芋を持たされたまま、呆然と立ち尽くした。
こんな展開、彼女の脳内のどんな高度な演算式にも存在しなかった。
予測不能。計算不能。
彼女が築き上げてきた完璧な静寂の塔に、亀裂が入る音がした。
「な、何なのですか、あなたたちは……!」
震える声で問うと、後ろにいた少年――盗賊のボルグが、リンゴをかじりながら言った。
「勧誘だよ、勧誘。俺たちのパーティ『銀の翼』に入れって話だ」
「パーティ?」
「そう。俺たちはこれから『嘆きの迷宮』の最深部に挑む。あそこは仕掛けがエグいからな。お前みたいな頭のいい魔導師が必要なんだよ」
必要。
その言葉に、エリーゼの心がピクリと反応した。
けれど、すぐに冷たい膜で覆い隠す。
どうせ、私の「力」が必要なだけだ。便利な道具として、使い潰すつもりなんでしょう?
私は知っている。大人はみんなそうだ。利用価値があるうちはチヤホヤして、理解できなくなれば捨てる。
他人なんて、自分を満たすために誰かを搾取するだけの存在だ。
「お断りします」
エリーゼは冷たく言い放ち、焼き芋を机の上に置いた。
「私は、誰かと群れる趣味はありません。それに、あなたたちのような低俗な方々と一緒に行動すれば、私の美的感覚が腐ってしまいますわ」
辛辣な拒絶。
ボルグが「うわ、きっつー」と顔をしかめる。
僧侶のセラが「まあまあ、そう言わずに」とオロオロする。
これで終わりだ。彼らは怒って帰るだろう。そして二度と近づかない。いつも通りだ。
そう思った、その時。
「だっはっはっは!!」
レオンが、腹を抱えて爆笑した。
エリーゼは眉をひそめた。「何がおかしいのです?」
「いや、お前、面白いな! 『美的感覚が腐る』なんてセリフ、演劇の悪役でしか聞いたことねぇよ!」
レオンは涙を拭いながら、真っ直ぐにエリーゼを見た。
その瞳には、計算も、打算も、恐れもなかった。
ただ、面白いおもちゃを見つけた子供のような、純粋な好奇心だけが輝いていた。
「気に入った! ますます俺たちの仲間に入れたくなったぜ!」
「……話を聞いていましたか? 私は嫌だと言ったのです」
「なんで? 一緒に行ったほうが楽しいぞ?」
楽しい。
エリーゼにとって、最も縁遠い言葉。
彼女はため息をつき、論理で説き伏せようとした。
「いいですか。私は一人で研究をしていたいのです。他人と歩調を合わせるのは非効率ですし、リスク管理の観点からも……」
「難しいことはわかんねぇ!」
レオンが一刀両断した。
「俺が言ってるのは、損得の話じゃねぇよ。お前と行ったら、なんか面白そうだから誘ってんだ!」
「……面白そう?」
「おう! さっきの氷の魔法、すげぇ綺麗だったしな! あんな魔法を使う奴が、こんなカビ臭い部屋で腐ってるのはもったいねぇだろ!」
レオンは、ニッと笑って親指を立てた。
「外の世界はすげぇぞ。見たこともない魔物がいて、食ったこともない美味いもんがあって、毎日が祭みたいだ。お前のその賢い頭で、俺たちを驚かせてくれよ!」
エリーゼは言葉を失った。
「役に立つから」ではない。「強いから」でもない。
「面白そうだから」。
そんな、論理的根拠のかけらもない、馬鹿げた理由。
けれど、その馬鹿げた熱量が、エリーゼの心の奥底にある「何か」を揺さぶった。
それは、彼女自身が幼い頃に封印した、「未知なるものへのワクワク感」だったのかもしれない。
「……バカな人たち」
エリーゼは、ふいっと顔を背けた。
けれど、その頬がわずかに紅潮しているのを、夕陽が隠してくれた。
「今日は帰ってください。ドアの修理代は、あなたたちに請求しておきますから」
「おう! わかった! 今日は引くぜ!」
レオンはあっさりと引き下がった。
だが、去り際に、彼は振り返って言った。
「でも、諦めねぇからな! 明日も来る! 明後日も来る! お前が『うん』って言うまで、毎日焼き芋持ってきてやるから覚悟しとけよ!」
「迷惑です!」
「じゃあな、天才! 芋、冷めないうちに食えよ!」
三人は、春の嵐のように騒がしく去っていった。
残されたのは、破壊された扉と、泥だらけの足跡。
そして、机の上に置かれた、無骨な焼き芋。
静寂が戻った研究室。
けれど、それは以前のような「死んだ静寂」ではなかった。
風穴の開いた入り口から、春の風が吹き込んでくる。
花の香りと、土の匂い。
そして、焼き芋の甘く香ばしい匂いが、部屋の空気を塗り替えていく。
エリーゼは、机の上の焼き芋を見つめた。
ごつごつとして、土がついたままの、不格好な芋。
恐る恐る、指先で触れてみる。
まだ、温かい。
その熱が、冷え切っていた指先から、血管を通って心臓へと流れていくような気がした。
「……熱いじゃない」
彼女は小さく呟いた。
一人で食べる焼き芋は、喉が詰まるほど甘く、そして少しだけ、しょっぱい味がしたかもしれない。
象牙の塔の窓から見える空は、夕焼けで赤く燃えていた。
明日もまた、あの嵐がやってくる。
その予感は、彼女にとって「恐怖」であるはずなのに、なぜか胸の高鳴りを止めることができなかった。
それは、「諸行無常」――全てのものは移ろいゆくという、世界の理(ことわり)が、彼女の止まっていた時間を動かし始めた合図だった。
孤独という名の氷の城が、春の日差しに晒されて、最初の一滴を落とした瞬間だった。
***
翌日。
予告通り、レオンたちはやってきた。今度は窓から。
その次は、煙突から(サンタクロースか、とエリーゼは本気で呆れた)。
彼らは毎日、新しい「非常識」と「お土産」を持ってきた。
市場で買った怪しい果物。拾った綺麗な石。変な形の虫。
エリーゼの研究室は、日に日にガラクタで溢れ、賑やかになっていった。
彼女はまだ知らない。
この騒がしい日々が、やがて彼女にとってのかけがえのない宝物となり、そして一生消えない傷跡を残すことになる未来を。
春の風は、優しく、そして残酷に、運命のページをめくっていく。
***
古い図書館の奥底に沈殿する埃と、インクの乾いた匂い。
エリーゼにとって、それは羊水のように心地よい、世界との境界線だった。
王立魔導学院、特別研究棟の最上階。
「象牙の塔」と揶揄されるその場所は、春だというのに冬の夜のように静まり返っていた。
窓の外では、暴力的なまでの生命力が溢れかえっている。薄紅色の花びらが雪崩のように舞い散り、甘ったるい蜜の香りが、風に乗って窓ガラスを叩いている。陽光は柔らかく、校庭の芝生は若草色に萌え、青春を謳歌する学生たちの笑い声が、遠い波音のように響いていた。
けれど、分厚い樫の木の扉一枚隔てたこの部屋には、そんな浮ついた空気は微塵も入り込めない。
ここにあるのは、整然と並べられた魔道書と、冷徹な論理、そして絶対的な静寂だけだ。
エリーゼ・フォン・ヴァイデマンは、革張りの椅子に深く身を沈め、退屈を弄ぶように羽根ペンを回していた。
蜂蜜を溶かしたような金色の髪が、窓から差し込む一筋の光を受けて、冷ややかに輝いている。透き通るような白い肌は、まるで精巧に作られたビスクドールのようで、そこには生身の人間特有の「熱」が感じられなかった。
「……退屈ね」
彼女は独りごちて、書きかけの羊皮紙を指先で弾いた。
そこには、大の大人が数人がかりで数日かけて解読するような、古代魔術の複雑な構成式が記されていた。しかし彼女にとっては、子供の積み木崩しよりも簡単で、あくびが出るような代物だった。
才能とは、神様からの贈り物などではない。あれは、一種の呪いだ。
エリーゼは幼い頃から、それを持て余していた。
彼女が指を鳴らせば、雨雲は消え去り、枯れた花は蘇った。周囲の大人たちは、最初は手を叩いて喜んだ。けれど、彼女が彼らの理解を超える速度で真理に到達し始めると、その拍手は止み、笑顔は引きつり、やがて「恐怖」という名の沈黙に変わった。
『神童』
『天才』
『化け物』
称賛の言葉は、いつだって嫉妬と畏怖でコーティングされていた。
「すごいね、エリーゼちゃん」と頭を撫でてくる手のひらが、微かに震えているのを、彼女は見逃さなかった。彼らは、自分たちの理解の範疇(ものさし)に収まらない彼女を、心の底では排除したがっていたのだ。
だから、エリーゼは扉を閉ざした。
他人という不確定要素(ノイズ)を排除し、予測可能な数式と魔力の世界に引きこもった。
数式は裏切らない。
魔力は嘘をつかない。
ここには、期待も、失望も、傷つくこともない。
ただ、死ぬほど退屈な「安らぎ」があるだけだ。
(私は一人でいい。一人こそが、完全な状態なのだから)
彼女はそう自分に言い聞かせ、再びペンを走らせようとした。
その時だった。
**ドォォォォォォォォォォォン!!!**
ノック?
いいや、それは爆発音だった。
研究室の分厚い樫の扉が、蝶番(ちょうつがい)ごと悲鳴を上げ、部屋の内側へとすっ飛んできたのだ。
「……は?」
エリーゼの思考が停止する。
物理法則を無視した光景。重厚な扉が木の葉のように舞い、本棚に激突して、数冊の貴重な魔道書を巻き添えに粉砕した。
舞い上がる土煙。
静寂の聖域は、一瞬にして工事現場のような騒音に包まれた。
「おっしゃあ! 開いたぞォォ!!」
土煙の向こうから、鼓膜を破らんばかりの大声が響いてきた。
現れたのは、学院の制服を着崩した、長身の男だった。
燃えるような赤髪。夏の日差しを吸い込んだような日焼けした肌。そして、獰猛な肉食獣を思わせる、ギラギラとした瞳。
男は土足で――文字通り、泥だらけのブーツで――エリーゼの聖域を踏み荒らしながら、ニカっと白い歯を見せた。
「よう天才! 部屋の鍵、かかってたぞ!」
「……鍵がかかっていたら、開けないのが常識でしょう?」
エリーゼの声は、絶対零度のように冷え切っていた。
だが、男は全く意に介さない。
「細かいことは気にするな! 俺はレオン! 勇者になる男だ!」
「勇者になる前に、不法侵入で退学になりなさい」
レオンの後ろから、さらに二人の人影が現れた。
一人は、目つきの鋭い小柄な少年。短剣を弄びながら、呆れたように肩をすくめている。
「おいレオン、ドア壊すなって言っただろ。修理代、また俺たちの報酬から天引きだぞ」
もう一人は、おっとりとした雰囲気の少女。僧侶の法衣を纏っているが、その手にはなぜか大量の焼き芋が抱えられていた。
「あらあら、派手にやっちゃいましたねぇ。でも、風通しが良くなって素敵ですぅ」
泥棒。破壊魔。天然。
エリーゼが最も忌み嫌う、「無秩序(カオス)」の具現化のような三人組だった。
エリーゼは、優雅な動作で立ち上がった。
その指先に、青白い魔力が集束していく。
詠唱はいらない。彼女の頭の中で数式が組み上がり、大気中の水分が瞬時に冷却され、鋭利な氷の礫(つぶて)となって形成される。
「出て行きなさい。さもなくば、全身を凍らせて、中庭のオブジェにしてあげますわ」
殺気を含んだ警告。
普通の生徒なら、腰を抜かして逃げ出すレベルの威圧感だ。
だが、レオンは「お?」と目を輝かせただけだった。
ヒュンッ!
エリーゼが放った氷弾。
音速に近い速度でレオンの顔面へと迫る。
しかし。
パシィッ!!
乾いた音が響いた。
レオンは、剣を抜くことすらしなかった。
素手だ。
ただの素手で、飛来する氷の弾丸を、まるで飛んできたボール遊びの球のようにキャッチしたのだ。
「……なっ!?」
エリーゼの目が、驚愕で見開かれる。
ありえない。物理的な速度も、凍結の魔力も、全て無視されている。
レオンの手の中で、氷弾がピキピキと音を立てて砕け散った。彼の手のひらは真っ赤になっていたが、彼は「痛ってぇな!」と笑っているだけだった。
「すげぇ! お前、挨拶代わりに雪合戦か!? 気が利くじゃねぇか!」
「あ、挨拶……?」
エリーゼは言葉を失った。殺す気で撃った魔法を、雪合戦呼ばわりされたのだ。
レオンはズカズカと部屋の奥まで歩み寄ると、エリーゼの目の前に「ぬっ」と何かを突き出した。
湯気を立てる、茶色い塊。
焦げた皮の匂いと、濃厚な甘い香り。
焼き芋だった。
「ほら、食えよ! 魔法使うと腹減るんだろ? さっき中庭で焼いてきたんだ。あっつあつだぞ!」
「……は?」
「手が冷てぇな。これ持ってれば温まるぜ」
レオンは、エリーゼの返事も待たずに、彼女の白く冷たい手に、強引に焼き芋を押し付けた。
熱い。
火傷しそうなほどの熱が、薄い皮膚を通して伝わってくる。
それは単なる熱エネルギーではない。泥臭くて、粗野で、けれど圧倒的な「生」の熱量だった。
エリーゼは、両手で焼き芋を持たされたまま、呆然と立ち尽くした。
こんな展開、彼女の脳内のどんな高度な演算式にも存在しなかった。
予測不能。計算不能。
彼女が築き上げてきた完璧な静寂の塔に、亀裂が入る音がした。
「な、何なのですか、あなたたちは……!」
震える声で問うと、後ろにいた少年――盗賊のボルグが、リンゴをかじりながら言った。
「勧誘だよ、勧誘。俺たちのパーティ『銀の翼』に入れって話だ」
「パーティ?」
「そう。俺たちはこれから『嘆きの迷宮』の最深部に挑む。あそこは仕掛けがエグいからな。お前みたいな頭のいい魔導師が必要なんだよ」
必要。
その言葉に、エリーゼの心がピクリと反応した。
けれど、すぐに冷たい膜で覆い隠す。
どうせ、私の「力」が必要なだけだ。便利な道具として、使い潰すつもりなんでしょう?
私は知っている。大人はみんなそうだ。利用価値があるうちはチヤホヤして、理解できなくなれば捨てる。
他人なんて、自分を満たすために誰かを搾取するだけの存在だ。
「お断りします」
エリーゼは冷たく言い放ち、焼き芋を机の上に置いた。
「私は、誰かと群れる趣味はありません。それに、あなたたちのような低俗な方々と一緒に行動すれば、私の美的感覚が腐ってしまいますわ」
辛辣な拒絶。
ボルグが「うわ、きっつー」と顔をしかめる。
僧侶のセラが「まあまあ、そう言わずに」とオロオロする。
これで終わりだ。彼らは怒って帰るだろう。そして二度と近づかない。いつも通りだ。
そう思った、その時。
「だっはっはっは!!」
レオンが、腹を抱えて爆笑した。
エリーゼは眉をひそめた。「何がおかしいのです?」
「いや、お前、面白いな! 『美的感覚が腐る』なんてセリフ、演劇の悪役でしか聞いたことねぇよ!」
レオンは涙を拭いながら、真っ直ぐにエリーゼを見た。
その瞳には、計算も、打算も、恐れもなかった。
ただ、面白いおもちゃを見つけた子供のような、純粋な好奇心だけが輝いていた。
「気に入った! ますます俺たちの仲間に入れたくなったぜ!」
「……話を聞いていましたか? 私は嫌だと言ったのです」
「なんで? 一緒に行ったほうが楽しいぞ?」
楽しい。
エリーゼにとって、最も縁遠い言葉。
彼女はため息をつき、論理で説き伏せようとした。
「いいですか。私は一人で研究をしていたいのです。他人と歩調を合わせるのは非効率ですし、リスク管理の観点からも……」
「難しいことはわかんねぇ!」
レオンが一刀両断した。
「俺が言ってるのは、損得の話じゃねぇよ。お前と行ったら、なんか面白そうだから誘ってんだ!」
「……面白そう?」
「おう! さっきの氷の魔法、すげぇ綺麗だったしな! あんな魔法を使う奴が、こんなカビ臭い部屋で腐ってるのはもったいねぇだろ!」
レオンは、ニッと笑って親指を立てた。
「外の世界はすげぇぞ。見たこともない魔物がいて、食ったこともない美味いもんがあって、毎日が祭みたいだ。お前のその賢い頭で、俺たちを驚かせてくれよ!」
エリーゼは言葉を失った。
「役に立つから」ではない。「強いから」でもない。
「面白そうだから」。
そんな、論理的根拠のかけらもない、馬鹿げた理由。
けれど、その馬鹿げた熱量が、エリーゼの心の奥底にある「何か」を揺さぶった。
それは、彼女自身が幼い頃に封印した、「未知なるものへのワクワク感」だったのかもしれない。
「……バカな人たち」
エリーゼは、ふいっと顔を背けた。
けれど、その頬がわずかに紅潮しているのを、夕陽が隠してくれた。
「今日は帰ってください。ドアの修理代は、あなたたちに請求しておきますから」
「おう! わかった! 今日は引くぜ!」
レオンはあっさりと引き下がった。
だが、去り際に、彼は振り返って言った。
「でも、諦めねぇからな! 明日も来る! 明後日も来る! お前が『うん』って言うまで、毎日焼き芋持ってきてやるから覚悟しとけよ!」
「迷惑です!」
「じゃあな、天才! 芋、冷めないうちに食えよ!」
三人は、春の嵐のように騒がしく去っていった。
残されたのは、破壊された扉と、泥だらけの足跡。
そして、机の上に置かれた、無骨な焼き芋。
静寂が戻った研究室。
けれど、それは以前のような「死んだ静寂」ではなかった。
風穴の開いた入り口から、春の風が吹き込んでくる。
花の香りと、土の匂い。
そして、焼き芋の甘く香ばしい匂いが、部屋の空気を塗り替えていく。
エリーゼは、机の上の焼き芋を見つめた。
ごつごつとして、土がついたままの、不格好な芋。
恐る恐る、指先で触れてみる。
まだ、温かい。
その熱が、冷え切っていた指先から、血管を通って心臓へと流れていくような気がした。
「……熱いじゃない」
彼女は小さく呟いた。
一人で食べる焼き芋は、喉が詰まるほど甘く、そして少しだけ、しょっぱい味がしたかもしれない。
象牙の塔の窓から見える空は、夕焼けで赤く燃えていた。
明日もまた、あの嵐がやってくる。
その予感は、彼女にとって「恐怖」であるはずなのに、なぜか胸の高鳴りを止めることができなかった。
それは、「諸行無常」――全てのものは移ろいゆくという、世界の理(ことわり)が、彼女の止まっていた時間を動かし始めた合図だった。
孤独という名の氷の城が、春の日差しに晒されて、最初の一滴を落とした瞬間だった。
***
翌日。
予告通り、レオンたちはやってきた。今度は窓から。
その次は、煙突から(サンタクロースか、とエリーゼは本気で呆れた)。
彼らは毎日、新しい「非常識」と「お土産」を持ってきた。
市場で買った怪しい果物。拾った綺麗な石。変な形の虫。
エリーゼの研究室は、日に日にガラクタで溢れ、賑やかになっていった。
彼女はまだ知らない。
この騒がしい日々が、やがて彼女にとってのかけがえのない宝物となり、そして一生消えない傷跡を残すことになる未来を。
春の風は、優しく、そして残酷に、運命のページをめくっていく。
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今後は、短編や別タイトルで続けていくと思いますが、今回はここまで。
その際は、ぜひ読んでいただけると幸いです。
無自覚に世界最強だった俺、追放後にチートがバレて全員ざまぁされる件
fuwamofu
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冒険者団から「役立たず」と追放された青年リオ。
実は彼のスキル《創造》は、世界の理を作り替える最強の能力だった。
追放後、孤独な旅に出るリオは、自身の無自覚な力で人々を救い、国を救い、やがて世界の中心に立つ。
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これは、無自覚に世界を変えてしまう青年の、ざまぁと覇道の物語。
追放された村人、神々の遺産で最強に。気づけば勇者も王女も俺の味方でした
にゃ-さん
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村外れで“役立たず”と追放された青年・リクス。拾った古代の指輪が、神々の力の欠片だとは知らなかった。
魔力を知らぬ村人から一転、最強クラスのスキルを得た彼は、何気ない行動で世界を揺るがしていく。
一方で、彼を捨てた勇者一行は次々と破滅へ。
無自覚に救い、無自覚に翻弄し、無自覚に惚れられる。
──気づけば世界最強、気づけばハーレム。そんなリクスの英雄譚。
ゲームの悪役貴族に転生した俺、断罪されて処刑される未来を回避するため死ぬ気で努力したら、いつの間にか“救国の聖人”と呼ばれてたんだが
夏見ナイ
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過労死した俺が転生したのは、大好きな乙女ゲームの悪役貴族アレン。待つのはヒロインたちからの断罪と処刑エンド!?冗談じゃない!
絶対に生き延びて平穏な老後を送るため、俺はゲーム知識を総動員して破滅フラグ回避に奔走する。領地を改革し、民を救い、来るべき災厄に備えて血の滲むような努力を重ねた。
ただ死にたくない一心だったのに、その行動はなぜか周囲に「深謀遠慮の聖人」と勘違いされ、評価はうなぎ登り。
おまけに、俺を断罪するはずの聖女や王女、天才魔導師といったヒロインたちが「運命の人だわ!」「結婚してください!」と次々に迫ってきて……!?
これは、破滅を回避したいだけの悪役貴族が、いつの間にか国を救う英雄に祭り上げられ、ヒロインたちに溺愛される勘違い救国ファンタジー!
転生貴族の領地経営〜現代日本の知識で異世界を豊かにする
初
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ローラシア王国の北のエルラント辺境伯家には天才的な少年、リーゼンしかしその少年は現代日本から転生してきた転生者だった。
リーゼンが洗礼をしたさい、圧倒的な量の加護やスキルが与えられた。その力を見込んだ父の辺境伯は12歳のリーゼンを辺境伯家の領地の北を治める代官とした。
これはそんなリーゼンが異世界の領地を経営し、豊かにしていく物語である。
最強すぎて無職になりましたが、隣国の姫が勝手に嫁入りしてきました
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平凡なサラリーマン・佐藤亮は、満員電車で謎の光に包まれ異世界へ転移する。神様から「世界最強の力」を授かったはずが、本人はただの無職ニートとしか思っていない。冒険者ギルドで雑用を請け負う日々。そんな亮の周囲に、冷徹な騎士姫、天才魔導士、元盗賊の少女、竜人族の戦士など個性豊かな美少女たちが自然と集まってくる。一方、彼を「ただの運のいい凡人」と侮る貴族や悪徳商人たちは次々と痛快なざまぁ展開に。亮は「俺なんて大したことないのに」と呟きながら、気づけば国を揺るがす陰謀を解決し、世界を救うことに――。無自覚最強主人公による、爽快ハーレムファンタジー開幕!
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