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第9章:システムという名の檻
第41話:バグだらけの幸せな日々~あるいは、ある社畜が「愛」という名の致命的なエラーを知るまで~
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人生というものは、たいていの場合、クソゲーである。 理不尽な難易度設定、課金プレイヤー(親ガチャ成功者)の優遇、そして何より、セーブポイントが存在しない。 前世の私は、そんなクソゲーの「モブキャラA」として、日本の灰色の空の下、コンクリートの箱の中で死んだ。死因は過労死。享年二十七歳。最後の記憶は、三日風呂に入っていない自分の頭皮の脂っこい臭いと、明滅するモニターの青白い光、そして「あ、レポートの保存してない」という情けない後悔だけだった。
だから、目が覚めた時、私は天国に来たのだと思った。
視界いっぱいに広がるのは、見たこともないほど豪華なシャンデリア。 鼻をくすぐるのは、安っぽいインスタントコーヒーの匂いではなく、高貴なバラの香りと、日干しされたばかりのフカフカの布団の匂い。 そして何より、私の目の前には、この世のものとは思えない美男美女がいた。
「おお……アリス。パパの天使。なんて可愛いんだ」 「ええ、あなた。私たちの宝物よ」
金髪碧眼のイケメンと、聖女のような微笑みを浮かべる美女が、代わる代わる私のほっぺにスリスリしてくる。 私は、言葉を発しようとした。 「あの、ここどこですか? 私、死にましたよね?」と。 しかし、口から出たのは「あうー、ばぶー」という、IQが著しく低下した音声のみ。そして自分の手を見ると、そこには紅葉(もみじ)のような小さな手があった。
転生。 サブカルチャーで使い古されたその現象が、まさか自分の身に起きるとは。 私は、ローゼンバーグ侯爵家の一人娘、アリスとして、新しいゲーム(人生)をスタートさせたのだった。
***
それから十年。 季節は、世界が最も輝く初夏を迎えていた。
ローゼンバーグ家の屋敷は、王都から少し離れた丘の上に建っていた。 広大な庭園には、色とりどりのバラが咲き乱れている。深紅、純白、淡いピンク。それらが朝露を纏(まと)って輝くさまは、まるで大地が宝石箱をひっくり返したようだ。 風が吹くと、何千枚もの花びらが一斉に舞い上がり、甘く濃厚な香りが屋敷全体を包み込む。その風には、遠くの森の若葉の匂いと、庭師が刈り込んだばかりの芝生の青臭さが混じり合い、吸い込むだけで胸がいっぱいになるような「幸福の予感」が満ちていた。
テラス席で、私は父様と母様と共にお茶をしていた。 十歳になった私は、前世の記憶と知識を持ったまま、この恵まれた環境を謳歌していた。
「アリス、これを見てごらん」
父様――ローゼンバーグ侯爵が、少年のように目を輝かせて一枚の羊皮紙を広げた。 そこには、領地の収支報告書が書かれている。
「お前が提案してくれた『複式簿記』という計算方法と、農作物の『輪作システム』のおかげで、今年の領地の収益は過去最高だ! 借金も完済できたぞ!」
父様は私を抱き上げ、高い高いをしてくれた。 私は「きゃあ!」と年相応の声を上げつつ、内心では(よし、経営再建完了。これで老後まで安泰だわ)とガッツポーズを決めていた。
この世界の両親は、優しくて、お人好しで、少し抜けていた。 貴族としてのプライドよりも、領民の笑顔を優先するような人たち。そのせいで家計は火の車だったのだが、元・社畜の私の経営手腕にかかれば、立て直すのは赤子の手をひねるより簡単だった。
「アリスは本当に天才ね。私たちの自慢の娘よ」
母様が、とろけるような笑顔で紅茶を注いでくれた。 母様は紅茶を飲む時、カップの取っ手を持つ右手の小指を、少しだけ立てる癖があった。それはとても優雅で、どこか可愛らしくて、私はその仕草が大好きだった。
「ママ、私も飲む!」 「ええ、どうぞ。熱いから気をつけてね」
私は母様の真似をして、小指を立ててカップを持った。 琥珀色の液体が揺れる。最高級の茶葉の香りが鼻腔を抜ける。 口に含むと、砂糖を入れなくても十分に甘く、そして温かかった。
(幸せだなぁ……)
私は心からそう思った。 前世の私は、誰からも必要とされず、ただ消費されるだけの歯車だった。 でも、ここでは違う。 私が頑張れば、父様が笑う。母様が喜ぶ。領民たちが豊かになる。 私の行動が、ダイレクトに「世界を良くする」という結果(フィードバック)になって返ってくる。
世界は、こんなにも鮮やかで、優しかったのか。 灰色のビル群しか知らなかった私の目に、この世界の色彩はあまりにも眩しかった。 太陽の光が木漏れ日となってテーブルクロスにレース模様を描き、小鳥たちがさえずり、愛する両親が私の名前を呼んでくれる。
「この幸せが、ずっと続けばいいのに」
そう願うことこそが、仏教でいう「執着(渇愛)」であり、あらゆる苦しみの根源なのだと知るのは、まだ少し先の話だ。 当時の私は、ただ無邪気に、この永遠に続くと思われた楽園で笑っていた。
***
私には、前世の知識以外にもう一つ、特別な才能があった。 それは「魔力制御」と「魔道具開発」の才能だ。 この世界の魔法は、感覚的で曖昧なものが多い。しかし、理系出身(経理だけど)の私にとって、魔法とは「エネルギー変換の法則」であり、数式で記述できる物理現象だった。
私はその才能を使って、あるものを作った。 それは、私の十歳の誕生日に、両親へ逆プレゼントするための魔道具だ。
アトリエにこもり、私は最後の仕上げを行っていた。 机の上に置かれているのは、二つのブローチ。 銀の台座に、私の瞳と同じ青い宝石(サファイア)が埋め込まれている。
「……よし、回路接続よし。魔力充填率、百二十パーセント」
私は額の汗を拭った。 これは、ただのアクセサリーではない。 『絶対防御結界発生装置・イージス君一号』である。 所有者に物理的な衝撃や、悪意ある魔力が迫った時、自動的に展開して使用者を守る。 その強度は、ドラゴンのブレスすら弾き返す(理論上)。
なぜこんなものを作ったのか。 それは、怖かったからだ。 この幸せが、あまりにも完璧すぎて。 前世で「幸せな時ほど、その後の落とし穴が深い」という法則を嫌というほど味わってきた私は、本能的に怯えていた。 両親は人が良すぎる。誰かに騙されるかもしれない。事故に遭うかもしれない。 そんな「万が一」を、私の力でゼロにしたかった。
「これで完璧。バグチェックも千回やった。動作不良の確率は〇・〇〇〇一パーセント以下」
私はブローチを握りしめた。 冷たい金属の感触が、熱を持った私の手に馴染む。 これを渡せば、パパとママはずっと安全だ。 私たちが離れ離れになることなんてない。 この幸せなシステム(日常)は、私が管理者(アドミニストレーター)として守り抜くんだ。
それは、人間の傲慢さだったのかもしれない。 「変わらないものなどない(諸行無常)」というこの世界の絶対的なルール(OS)に対し、たかだか一人の人間が、コードを書き換えて対抗しようとしたのだから。
***
そして、運命の誕生日がやってきた。
その日は、秋の入り口だった。 空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほどの群青色をしていた。 屋敷のある丘から見下ろす街道沿いの並木道は、鮮やかな黄金色に染まっていた。イチョウやカエデが、最後の一瞬を燃やすように色づき、風が吹くたびに金色の紙吹雪となって舞い散っている。
私たちは、一台の馬車に乗っていた。 王都へ行って、私の誕生日を祝うためだ。 馬車の中は、少し狭かったけれど、その分お互いの体温を感じられて心地よかった。 父様は上機嫌で鼻歌を歌い、母様は私の髪を櫛で梳かしてくれていた。
「アリス、今日のドレスもとっても似合ってるわよ」 「ありがとうママ。パパもかっこいいよ」 「はっはっは! そうだろう、今日は特別な日だからな!」
馬車の窓から、流れる景色を眺める。 黄金色のトンネルを抜けていくような感覚。 車輪が小石を跳ねる音、馬の蹄鉄が鳴らす軽快なリズム。すべてが音楽のように聞こえた。
「そうだ、パパ、ママ。プレゼントがあるの」
私は鞄から、綺麗な箱を取り出した。 中には、あのブローチが入っている。
「これを着けていてほしいの。私だと思って」
二人は驚き、そして涙ぐみながら喜んでくれた。 父様は胸ポケットに、母様はショールの留め具として、それを着けてくれた。 青い宝石が、二人の胸元でキラリと光る。
「ありがとう、アリス。一生大事にするよ」 「私たちを守ってくれるお守りね。嬉しいわ」
私は満たされていた。 完璧だ。 これで、不安要素はなくなった。私の世界は、強固なセキュリティで守られた。 あとは、美味しいケーキを食べて、プレゼントを買ってもらって、三人で手を繋いで帰るだけだ。 そんな未来が、約束されていると信じていた。
馬車が、峠のカーブに差し掛かった時だった。
ガタンッ!!
異様な衝撃が走った。 世界が大きく傾く。 御者の悲鳴。馬のいななき。 窓の外の景色が、高速で回転した。黄金色の並木道が、青い空が、茶色い地面が、ミキサーにかけられたように混ざり合う。
「きゃあッ!?」 「アリスッ!!」
父様が私を抱きしめる。母様が私に覆いかぶさる。 無重力感。 馬車の車輪が外れ、ガードレールを突き破り、崖下へと転落していく感覚。
怖い。 でも、大丈夫。 私の頭の中では、冷静な計算が走っていた。 (衝撃感知。ブローチが起動する。結界が展開される。物理ダメージは遮断される。私たちは無傷で助かる)
私は目を見開き、二人の胸元を見た。 青い宝石が、カッと光る。 作動した。 計算通りだ。 私の作ったプログラムに、ミスはない。
――はずだった。
ブツン。
嫌な音がした。 光りかけた宝石の輝きが、まるでショートした電球のように、唐突に、あっけなく消えたのだ。
え? なんで? 魔力回路は正常だったはず。エネルギーも十分だったはず。 エラー? バグ? そんな、まさか。何千回もテストしたのに。
思考する時間は、コンマ数秒しかなかった。 結界は展開されなかった。 私たちは、生身の体のまま、岩肌の露出した崖下へと叩きつけられた。
ドォォォォォォォォン!!!
世界が壊れる音がした。 木材が砕け、鉄がひしゃげ、肉が潰れる音。 激しい痛みと共に、意識がブラックアウトした。
***
目が覚めた時、世界は赤と黒に染まっていた。
私の体は、奇跡的に馬車の外へ投げ出され、茂みの上に落ちたようだった。 全身が痛い。ドレスはボロボロで、あちこちから血が出ている。 でも、動ける。
「パパ……? ママ……?」
私は這いつくばりながら、ひしゃげた馬車の方へ向かった。 馬車は、大破していた。 原型を留めていない木の箱。そこから、赤い液体が滴り落ちている。
そして、見てしまった。 瓦礫の下から覗く、父様の手を。 母様の、大好きだった金色の髪を。
「嘘……だよね?」
私は瓦礫を退けようとした。 重い。動かない。 私の小さな手では、びくともしない。
「起きてよ! ねえ! 魔道具、着けてたでしょ!? 守ってくれるはずでしょ!?」
父様の胸元には、砕けたブローチがあった。 母様のショールにも、光を失った石が転がっていた。
発動しなかった。 なぜ? 原因不明の不具合。 たまたま、その瞬間に魔力の波長がズレたのか。あるいは、部品の内部に目に見えないヒビが入っていたのか。 理由はわからない。 ただ、「運が悪かった」としか言いようのない、確率論の彼方にあるバグ。
そのたった一つの、小さな、些細なエラーが。 私の世界のすべてを奪った。
「あ……あぁ……」
母様の手が、だらりと垂れ下がっている。 その小指は、いつものように優雅に立ってはいなかった。 土にまみれ、血に汚れ、冷たくなっていた。
私はその手に触れた。 まだ、ほんのりと温かい。 さっきまで、私を撫でてくれていた手。 私が作ったブローチを着けて、「嬉しいわ」と笑ってくれた母様。
私が殺した。 私が、あんな中途半端なものを作らなければ。 もっと別の方法で守っていれば。 あるいは、ただ神に祈っていれば。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
私の絶叫が、秋の空に響いた。 黄金色の落ち葉が、ハラハラと舞い落ちてくる。 それはまるで、終わってしまった幸福な時間の残骸のように、私の体の上に降り積もっていった。
なぜ、私なの? 前世であんなに苦しんで、やっと手に入れた幸せだったのに。 神様は、私に「幸せの味見」だけをさせて、皿ごと取り上げてしまった。 こんなの、あんまりだ。 こんなシナリオ、クソゲーにも程がある。
その瞬間、私の中で何かが壊れた。 「アリス」という無邪気な少女の人格が、深い悲しみの底へ沈んでいく。 代わりに浮上してきたのは、前世の記憶を持った、冷徹で、臆病な「プレイヤー」としての人格だった。
(ああ、わかったよ)
私は涙を流しながら、空を見上げた。 どこまでも高く、澄み渡った美しい空。 なんて綺麗なんだろう。なんて残酷なんだろう。
(この世界は、バグだらけの欠陥プログラムだ)
期待しちゃいけない。愛しちゃいけない。 本気になればなるほど、バグ(理不尽)に巻き込まれた時のダメージは大きくなる。 なら、私は心を閉ざそう。 これは現実じゃない。ただのゲームだ。 目の前の死体も、私の悲しみも、すべては設定されたイベントに過ぎない。 そう思わなければ、心が引き裂かれて死んでしまいそうだったから。
私は、母様の冷たくなった小指を、自分の小指と絡めた。 指切りげんまん。 誰もいない森の中で、私は最後の約束をした。
「もう二度と、誰も愛さない」 「もう二度と、何も期待しない」 「私は、一人で生きていく」
風が吹き抜ける。 黄金色の世界は、一瞬にして色褪せたセピア色の風景へと変わっていた。
こうして、幸せな少女アリスは死んだ。 そして、世界を「クソゲー」と見下すことでしか自分を保てない、孤独な悪役令嬢が生まれたのだった。
ポケットの中には、まだ渡せていない父様への手紙が入っていた。 『パパ、ママ、大好き。ずっと一緒だよ』 その言葉は、永遠に届くことのないまま、くしゃくしゃに握り潰された。
だから、目が覚めた時、私は天国に来たのだと思った。
視界いっぱいに広がるのは、見たこともないほど豪華なシャンデリア。 鼻をくすぐるのは、安っぽいインスタントコーヒーの匂いではなく、高貴なバラの香りと、日干しされたばかりのフカフカの布団の匂い。 そして何より、私の目の前には、この世のものとは思えない美男美女がいた。
「おお……アリス。パパの天使。なんて可愛いんだ」 「ええ、あなた。私たちの宝物よ」
金髪碧眼のイケメンと、聖女のような微笑みを浮かべる美女が、代わる代わる私のほっぺにスリスリしてくる。 私は、言葉を発しようとした。 「あの、ここどこですか? 私、死にましたよね?」と。 しかし、口から出たのは「あうー、ばぶー」という、IQが著しく低下した音声のみ。そして自分の手を見ると、そこには紅葉(もみじ)のような小さな手があった。
転生。 サブカルチャーで使い古されたその現象が、まさか自分の身に起きるとは。 私は、ローゼンバーグ侯爵家の一人娘、アリスとして、新しいゲーム(人生)をスタートさせたのだった。
***
それから十年。 季節は、世界が最も輝く初夏を迎えていた。
ローゼンバーグ家の屋敷は、王都から少し離れた丘の上に建っていた。 広大な庭園には、色とりどりのバラが咲き乱れている。深紅、純白、淡いピンク。それらが朝露を纏(まと)って輝くさまは、まるで大地が宝石箱をひっくり返したようだ。 風が吹くと、何千枚もの花びらが一斉に舞い上がり、甘く濃厚な香りが屋敷全体を包み込む。その風には、遠くの森の若葉の匂いと、庭師が刈り込んだばかりの芝生の青臭さが混じり合い、吸い込むだけで胸がいっぱいになるような「幸福の予感」が満ちていた。
テラス席で、私は父様と母様と共にお茶をしていた。 十歳になった私は、前世の記憶と知識を持ったまま、この恵まれた環境を謳歌していた。
「アリス、これを見てごらん」
父様――ローゼンバーグ侯爵が、少年のように目を輝かせて一枚の羊皮紙を広げた。 そこには、領地の収支報告書が書かれている。
「お前が提案してくれた『複式簿記』という計算方法と、農作物の『輪作システム』のおかげで、今年の領地の収益は過去最高だ! 借金も完済できたぞ!」
父様は私を抱き上げ、高い高いをしてくれた。 私は「きゃあ!」と年相応の声を上げつつ、内心では(よし、経営再建完了。これで老後まで安泰だわ)とガッツポーズを決めていた。
この世界の両親は、優しくて、お人好しで、少し抜けていた。 貴族としてのプライドよりも、領民の笑顔を優先するような人たち。そのせいで家計は火の車だったのだが、元・社畜の私の経営手腕にかかれば、立て直すのは赤子の手をひねるより簡単だった。
「アリスは本当に天才ね。私たちの自慢の娘よ」
母様が、とろけるような笑顔で紅茶を注いでくれた。 母様は紅茶を飲む時、カップの取っ手を持つ右手の小指を、少しだけ立てる癖があった。それはとても優雅で、どこか可愛らしくて、私はその仕草が大好きだった。
「ママ、私も飲む!」 「ええ、どうぞ。熱いから気をつけてね」
私は母様の真似をして、小指を立ててカップを持った。 琥珀色の液体が揺れる。最高級の茶葉の香りが鼻腔を抜ける。 口に含むと、砂糖を入れなくても十分に甘く、そして温かかった。
(幸せだなぁ……)
私は心からそう思った。 前世の私は、誰からも必要とされず、ただ消費されるだけの歯車だった。 でも、ここでは違う。 私が頑張れば、父様が笑う。母様が喜ぶ。領民たちが豊かになる。 私の行動が、ダイレクトに「世界を良くする」という結果(フィードバック)になって返ってくる。
世界は、こんなにも鮮やかで、優しかったのか。 灰色のビル群しか知らなかった私の目に、この世界の色彩はあまりにも眩しかった。 太陽の光が木漏れ日となってテーブルクロスにレース模様を描き、小鳥たちがさえずり、愛する両親が私の名前を呼んでくれる。
「この幸せが、ずっと続けばいいのに」
そう願うことこそが、仏教でいう「執着(渇愛)」であり、あらゆる苦しみの根源なのだと知るのは、まだ少し先の話だ。 当時の私は、ただ無邪気に、この永遠に続くと思われた楽園で笑っていた。
***
私には、前世の知識以外にもう一つ、特別な才能があった。 それは「魔力制御」と「魔道具開発」の才能だ。 この世界の魔法は、感覚的で曖昧なものが多い。しかし、理系出身(経理だけど)の私にとって、魔法とは「エネルギー変換の法則」であり、数式で記述できる物理現象だった。
私はその才能を使って、あるものを作った。 それは、私の十歳の誕生日に、両親へ逆プレゼントするための魔道具だ。
アトリエにこもり、私は最後の仕上げを行っていた。 机の上に置かれているのは、二つのブローチ。 銀の台座に、私の瞳と同じ青い宝石(サファイア)が埋め込まれている。
「……よし、回路接続よし。魔力充填率、百二十パーセント」
私は額の汗を拭った。 これは、ただのアクセサリーではない。 『絶対防御結界発生装置・イージス君一号』である。 所有者に物理的な衝撃や、悪意ある魔力が迫った時、自動的に展開して使用者を守る。 その強度は、ドラゴンのブレスすら弾き返す(理論上)。
なぜこんなものを作ったのか。 それは、怖かったからだ。 この幸せが、あまりにも完璧すぎて。 前世で「幸せな時ほど、その後の落とし穴が深い」という法則を嫌というほど味わってきた私は、本能的に怯えていた。 両親は人が良すぎる。誰かに騙されるかもしれない。事故に遭うかもしれない。 そんな「万が一」を、私の力でゼロにしたかった。
「これで完璧。バグチェックも千回やった。動作不良の確率は〇・〇〇〇一パーセント以下」
私はブローチを握りしめた。 冷たい金属の感触が、熱を持った私の手に馴染む。 これを渡せば、パパとママはずっと安全だ。 私たちが離れ離れになることなんてない。 この幸せなシステム(日常)は、私が管理者(アドミニストレーター)として守り抜くんだ。
それは、人間の傲慢さだったのかもしれない。 「変わらないものなどない(諸行無常)」というこの世界の絶対的なルール(OS)に対し、たかだか一人の人間が、コードを書き換えて対抗しようとしたのだから。
***
そして、運命の誕生日がやってきた。
その日は、秋の入り口だった。 空はどこまでも高く、吸い込まれそうなほどの群青色をしていた。 屋敷のある丘から見下ろす街道沿いの並木道は、鮮やかな黄金色に染まっていた。イチョウやカエデが、最後の一瞬を燃やすように色づき、風が吹くたびに金色の紙吹雪となって舞い散っている。
私たちは、一台の馬車に乗っていた。 王都へ行って、私の誕生日を祝うためだ。 馬車の中は、少し狭かったけれど、その分お互いの体温を感じられて心地よかった。 父様は上機嫌で鼻歌を歌い、母様は私の髪を櫛で梳かしてくれていた。
「アリス、今日のドレスもとっても似合ってるわよ」 「ありがとうママ。パパもかっこいいよ」 「はっはっは! そうだろう、今日は特別な日だからな!」
馬車の窓から、流れる景色を眺める。 黄金色のトンネルを抜けていくような感覚。 車輪が小石を跳ねる音、馬の蹄鉄が鳴らす軽快なリズム。すべてが音楽のように聞こえた。
「そうだ、パパ、ママ。プレゼントがあるの」
私は鞄から、綺麗な箱を取り出した。 中には、あのブローチが入っている。
「これを着けていてほしいの。私だと思って」
二人は驚き、そして涙ぐみながら喜んでくれた。 父様は胸ポケットに、母様はショールの留め具として、それを着けてくれた。 青い宝石が、二人の胸元でキラリと光る。
「ありがとう、アリス。一生大事にするよ」 「私たちを守ってくれるお守りね。嬉しいわ」
私は満たされていた。 完璧だ。 これで、不安要素はなくなった。私の世界は、強固なセキュリティで守られた。 あとは、美味しいケーキを食べて、プレゼントを買ってもらって、三人で手を繋いで帰るだけだ。 そんな未来が、約束されていると信じていた。
馬車が、峠のカーブに差し掛かった時だった。
ガタンッ!!
異様な衝撃が走った。 世界が大きく傾く。 御者の悲鳴。馬のいななき。 窓の外の景色が、高速で回転した。黄金色の並木道が、青い空が、茶色い地面が、ミキサーにかけられたように混ざり合う。
「きゃあッ!?」 「アリスッ!!」
父様が私を抱きしめる。母様が私に覆いかぶさる。 無重力感。 馬車の車輪が外れ、ガードレールを突き破り、崖下へと転落していく感覚。
怖い。 でも、大丈夫。 私の頭の中では、冷静な計算が走っていた。 (衝撃感知。ブローチが起動する。結界が展開される。物理ダメージは遮断される。私たちは無傷で助かる)
私は目を見開き、二人の胸元を見た。 青い宝石が、カッと光る。 作動した。 計算通りだ。 私の作ったプログラムに、ミスはない。
――はずだった。
ブツン。
嫌な音がした。 光りかけた宝石の輝きが、まるでショートした電球のように、唐突に、あっけなく消えたのだ。
え? なんで? 魔力回路は正常だったはず。エネルギーも十分だったはず。 エラー? バグ? そんな、まさか。何千回もテストしたのに。
思考する時間は、コンマ数秒しかなかった。 結界は展開されなかった。 私たちは、生身の体のまま、岩肌の露出した崖下へと叩きつけられた。
ドォォォォォォォォン!!!
世界が壊れる音がした。 木材が砕け、鉄がひしゃげ、肉が潰れる音。 激しい痛みと共に、意識がブラックアウトした。
***
目が覚めた時、世界は赤と黒に染まっていた。
私の体は、奇跡的に馬車の外へ投げ出され、茂みの上に落ちたようだった。 全身が痛い。ドレスはボロボロで、あちこちから血が出ている。 でも、動ける。
「パパ……? ママ……?」
私は這いつくばりながら、ひしゃげた馬車の方へ向かった。 馬車は、大破していた。 原型を留めていない木の箱。そこから、赤い液体が滴り落ちている。
そして、見てしまった。 瓦礫の下から覗く、父様の手を。 母様の、大好きだった金色の髪を。
「嘘……だよね?」
私は瓦礫を退けようとした。 重い。動かない。 私の小さな手では、びくともしない。
「起きてよ! ねえ! 魔道具、着けてたでしょ!? 守ってくれるはずでしょ!?」
父様の胸元には、砕けたブローチがあった。 母様のショールにも、光を失った石が転がっていた。
発動しなかった。 なぜ? 原因不明の不具合。 たまたま、その瞬間に魔力の波長がズレたのか。あるいは、部品の内部に目に見えないヒビが入っていたのか。 理由はわからない。 ただ、「運が悪かった」としか言いようのない、確率論の彼方にあるバグ。
そのたった一つの、小さな、些細なエラーが。 私の世界のすべてを奪った。
「あ……あぁ……」
母様の手が、だらりと垂れ下がっている。 その小指は、いつものように優雅に立ってはいなかった。 土にまみれ、血に汚れ、冷たくなっていた。
私はその手に触れた。 まだ、ほんのりと温かい。 さっきまで、私を撫でてくれていた手。 私が作ったブローチを着けて、「嬉しいわ」と笑ってくれた母様。
私が殺した。 私が、あんな中途半端なものを作らなければ。 もっと別の方法で守っていれば。 あるいは、ただ神に祈っていれば。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!!」
私の絶叫が、秋の空に響いた。 黄金色の落ち葉が、ハラハラと舞い落ちてくる。 それはまるで、終わってしまった幸福な時間の残骸のように、私の体の上に降り積もっていった。
なぜ、私なの? 前世であんなに苦しんで、やっと手に入れた幸せだったのに。 神様は、私に「幸せの味見」だけをさせて、皿ごと取り上げてしまった。 こんなの、あんまりだ。 こんなシナリオ、クソゲーにも程がある。
その瞬間、私の中で何かが壊れた。 「アリス」という無邪気な少女の人格が、深い悲しみの底へ沈んでいく。 代わりに浮上してきたのは、前世の記憶を持った、冷徹で、臆病な「プレイヤー」としての人格だった。
(ああ、わかったよ)
私は涙を流しながら、空を見上げた。 どこまでも高く、澄み渡った美しい空。 なんて綺麗なんだろう。なんて残酷なんだろう。
(この世界は、バグだらけの欠陥プログラムだ)
期待しちゃいけない。愛しちゃいけない。 本気になればなるほど、バグ(理不尽)に巻き込まれた時のダメージは大きくなる。 なら、私は心を閉ざそう。 これは現実じゃない。ただのゲームだ。 目の前の死体も、私の悲しみも、すべては設定されたイベントに過ぎない。 そう思わなければ、心が引き裂かれて死んでしまいそうだったから。
私は、母様の冷たくなった小指を、自分の小指と絡めた。 指切りげんまん。 誰もいない森の中で、私は最後の約束をした。
「もう二度と、誰も愛さない」 「もう二度と、何も期待しない」 「私は、一人で生きていく」
風が吹き抜ける。 黄金色の世界は、一瞬にして色褪せたセピア色の風景へと変わっていた。
こうして、幸せな少女アリスは死んだ。 そして、世界を「クソゲー」と見下すことでしか自分を保てない、孤独な悪役令嬢が生まれたのだった。
ポケットの中には、まだ渡せていない父様への手紙が入っていた。 『パパ、ママ、大好き。ずっと一緒だよ』 その言葉は、永遠に届くことのないまま、くしゃくしゃに握り潰された。
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絶対に生き延びて平穏な老後を送るため、俺はゲーム知識を総動員して破滅フラグ回避に奔走する。領地を改革し、民を救い、来るべき災厄に備えて血の滲むような努力を重ねた。
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これは、破滅を回避したいだけの悪役貴族が、いつの間にか国を救う英雄に祭り上げられ、ヒロインたちに溺愛される勘違い救国ファンタジー!
最強すぎて無職になりましたが、隣国の姫が勝手に嫁入りしてきました
eringi
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平凡なサラリーマン・佐藤亮は、満員電車で謎の光に包まれ異世界へ転移する。神様から「世界最強の力」を授かったはずが、本人はただの無職ニートとしか思っていない。冒険者ギルドで雑用を請け負う日々。そんな亮の周囲に、冷徹な騎士姫、天才魔導士、元盗賊の少女、竜人族の戦士など個性豊かな美少女たちが自然と集まってくる。一方、彼を「ただの運のいい凡人」と侮る貴族や悪徳商人たちは次々と痛快なざまぁ展開に。亮は「俺なんて大したことないのに」と呟きながら、気づけば国を揺るがす陰謀を解決し、世界を救うことに――。無自覚最強主人公による、爽快ハーレムファンタジー開幕!
【完結】実はチートの転生者、無能と言われるのに飽きて実力を解放する
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【HOTランキング1位獲得作品!!】
最強スキル『適応』を与えられた転生者ジャック・ストロングは16歳。
戦士になり、王国に潜む悪を倒すためのユピテル英才学園に入学して3ヶ月がたっていた。
目立たないために実力を隠していたジャックだが、学園長から次のテストで成績がよくないと退学だと脅され、ついに実力を解放していく。
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※小説家になろう、カクヨム、エブリスタでも投稿中
S級クラフトスキルを盗られた上にパーティから追放されたけど、実はスキルがなくても生産力最強なので追放仲間の美少女たちと工房やります
内田ヨシキ
ファンタジー
[第5回ドラゴンノベルス小説コンテスト 最終選考作品]
冒険者シオンは、なんでも作れる【クラフト】スキルを奪われた上に、S級パーティから追放された。しかしシオンには【クラフト】のために培った知識や技術がまだ残されていた!
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職人ギルドから追放された美少女ソフィア。
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騎士職を剥奪された没落貴族のアリシア。
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「雑草係」と追放された俺、スキル『草むしり』でドラゴンも魔王も引っこ抜く~極めた園芸スキルは、世界樹すら苗木扱いする神の力でした~
eringi
ファンタジー
「たかが雑草を抜くだけのスキルなんて、勇者パーティには不要だ!」
王立アカデミーを首席で卒業したものの、発現したスキルが『草むしり』だった少年・ノエル。
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これは、ただ庭いじりをしているだけの少年が、無自覚に世界最強に至る物語。
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