無詠唱? キャンピングカーで大冒険。虐げられた少女を拾った俺は、規格外の力と文明の利器で彼女を全力で救う件

Gaku

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第9章:システムという名の檻

第45話:孤独な部屋の日本語メモ ~その震える指先は、希望を掴むためか、絶望を隠すためか~

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運命の朝は、残酷なほどに晴れ渡っていた。

 ローゼンバーグ侯爵邸の最上階にあるアリスの私室。  窓から差し込む朝日は、部屋中に散らばったドレスの残骸を、まるで戦場の跡地のように照らし出していた。

「……違う。これじゃない」

 アリスは鏡の前で、深紅のベルベットのドレスを体に当てて、すぐにベッドの上に放り投げた。  そこにはすでに、紺碧のシルク、淡いピンクのレース、刺繍入りのモスグリーンのドレスが山を作っている。

「派手すぎる? でも地味すぎたら舐められるわ。威厳が必要なのよ、威厳が。でも、もし彼が本当に同郷人なら、あまり貴族然としすぎても引かれるかもしれないし……ああもう、何なのよこれ!」

 彼女は頭を抱え、鏡の中の自分を睨みつけた。  目の下には、昨夜一睡もできなかったせいで薄っすらとクマができている。  髪は乱れ、顔色は蒼白だ。  まるで、初めてのデートに浮き足立つ恋する乙女のようであり、同時に、処刑台に向かう囚人のように追い詰められた顔だった。

「……バカみたい」

 アリスは力なくドレッサーの椅子に座り込んだ。  ただのクエストの発注だ。  相手は、噂の冒険者。  それなのに、なぜこんなに心臓が痛いのか。

 (だって、もし……)

 アリスの胸に、冷たい不安がよぎる。

 もし、彼がただの「物理演算のおかしい現地人」だったら?  もし、日本語が通じなかったら?  あるいは、期待通りの転生者だったとしても、話が合わない嫌な奴だったら?

 そうしたら私は、またこの広い世界で、たった一人の「異星人」に戻ってしまう。  今まで通り、言葉の通じないNPCたちに囲まれて、死ぬまで「完璧な令嬢」を演じ続けるだけの人生に戻ってしまう。

 「希望」というのは、劇薬だ。  なければ諦めもつく。けれど、一度その光を見てしまったら、それが消えた時の闇は、以前より遥かに深く、濃く感じられる。

 アリスは震える手で、化粧水を顔に叩き込んだ。  冷たい。  その冷たさで、少しだけ理性が戻ってくる。

「落ち着け、アリス。私はプレイヤーよ。これはただのイベント。フラグを立てるための作業」

 彼女は自分に言い聞かせる。  今日、この屋敷には盗賊団が侵入する。  私は彼らを「餌」にして、瞬をおびき寄せた。  罪のない彼らを危険に晒し、自分の孤独を埋めるために利用した。  私は最低の人間だ。悪役令嬢そのものだ。  だからこそ、失敗は許されない。  この残酷なシナリオを完遂し、絶対に瞬を仲間に引き入れなければならない。

 アリスは深呼吸をして、最後に選んだ深紅のドレスに袖を通した。  背中の紐をきつく締める。  肺が圧迫され、息苦しくなる。  でも、この苦しさが今の彼女には必要だった。コルセットで体を締め上げなければ、不安で崩れ落ちてしまいそうだったからだ。

 ***

 身支度を整えたアリスは、執務机に向かった。  一枚の小さな羊皮紙を取り出す。  そして、震える指先で羽ペンを握った。

 これから書くのは、ただの文字ではない。  宇宙に向けて発信する、たった一度きりの救難信号(SOS)だ。

 インクをつける。  ペン先が紙に触れる。

 『あ』

 懐かしい文字。  この世界に来てから数年間、一度も書くことのなかった、母国の文字。  書き順を忘れていないか不安だった。でも、指は覚えていた。

 『あなたは、日本から来ましたか?』

 たったそれだけの文章を書くのに、何分もかかった気がした。

 そして、彼女は震える手で、その文字の周囲に線を引いた。屋敷の概略図、矢印、そして一見すると意味不明な幾何学的な記号。  一見すると、ただの複雑な「警備配置図」に見えるように。日本語という異界の文字が、建物の構造図の一部として巧妙にカモフラージュされるように。  これなら、他の誰に見られても怪しまれることはない。

 書き終えた文字は、少し歪んでいた。  最後の方には、インクの滲みがあった。  それは、彼女の手汗か、あるいは堪えきれずに溢れた涙の跡か。

 アリスは、そのメモを小さく折りたたんだ。  大切な宝物のように、胸の谷間に忍ばせる。  これが、私の切り札。  彼が「こっち側」の人間かどうかを確かめる、唯一の鍵。

「……神様」

 アリスは、誰もいない部屋で小さく呟いた。  神様なんて信じていない。  私をこんなバグだらけの世界に放り込み、両親を奪った理不尽な運営(管理者)なんて、呪ってやりたいとすら思っている。

 でも、今だけは。

「お願い。私に『仲間』をください」

 富も、名声も、美貌もいらない。  ただ、「おはよう」と言ったら、「おはよう」と同じ言葉(意味)で返してくれる誰かが欲しい。  「この世界、生きづらいね」と、苦笑いし合える誰かが欲しい。

 それだけでいいの。  それだけで、私はまた生きていけるから。

 ***

 コン、コン。

 控えめなノックの音が、部屋の空気を変えた。  アリスはビクリと肩を震わせ、すぐに背筋を伸ばした。

「……はい」

「お嬢様。冒険者ギルドの方々が到着されました」

 執事の落ち着いた声。  来た。  ついに、審判の時が来た。

 アリスは鏡を見た。  そこに映っているのは、泣きそうな顔をした元社畜のOLではない。  王都随一の大富豪、ローゼンバーグ侯爵令嬢アリス。  冷徹で、完璧で、隙のない美貌を持った「悪役令嬢」だ。

「……よし」

 彼女は扇子を手に取り、パチリと開いた。  口元を隠す。  震える唇を見られないように。  恐怖で引きつりそうになる表情を隠すために。

 心臓が早鐘を打っている。  吐き気がするほどの緊張。  期待するな。  傷つきたくないなら、最初から諦めていればいい。  相手はただのデータかもしれない。期待外れかもしれない。  そうやって予防線を張り巡らせ、心を鉄の箱に閉じ込める。

 (私はプレイヤー。この世界はゲーム。感情なんていらない)

 呪文を唱えながら、アリスは扉へと歩み寄った。  ハイヒールが床を叩くコツ、コツという音が、カウントダウンのように響く。

「通して」

 声を出す。  震えていない。完璧な、鈴を転がすような令嬢の声だ。

 重厚な扉が、ゆっくりと開かれる。  廊下の向こうから、眩しい光が差し込んでくる。

 その光の中に、四つの人影があった。  泥臭い騎士。  小柄な少女。  金髪の女性。  そして――中央に立つ、黒髪の青年。

 アリスの時が止まる。  黒い髪。黒い瞳。  この世界の人々とは違う、懐かしい色彩。  彼が、瞬(シュン)。

 アリスは、ドレスの裾をギュッと掴んだ。  泣き叫びたいほどの衝動を、喉の奥で押し殺す。  「やっと会えた」と言って抱きつきたい。  でも、まだだ。まだ早い。  彼が敵か味方か、本物か偽物か、見極めなければならない。

 彼女は、完璧な角度で膝を曲げた。  幼い頃、鏡の前で血の滲むような思いをして練習した、母様譲りの完璧なカーテシー。

「ようこそお越しくださいました、英雄の皆様」

 顔を上げる。  扇子の向こうで、サファイアの瞳を細める。  それは、余裕綽々の貴族の笑み。  けれど、その仮面の下で、彼女の魂は悲鳴を上げていた。

 (気づいて)  (お願い、私のこの「演技」に気づいて)  (この完璧な鎧の下で、私が震えていることに気づいて)

 「わたくし、アリスと申します」

 これが、彼女の精一杯の第一声だった。    ――そして物語は、あの「雨の夜の決別」と、「朝焼けの和解」へと繋がっていく。  この震えるメモが、やがて彼女を孤独な塔から連れ出し、泥だらけの世界で笑い合う未来へと導くチケットになることを、今のアリスはまだ、信じきれずにいた。
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