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第10章:スラムの黒猫たち
第50話:英雄という名の理不尽、そして救済 〜終わりは始まりである〜
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豪雨が、全てを叩き潰そうとしていた。
ローゼンバーグ侯爵邸の庭園。 そこは、キースたちにとって「希望の地」ではなく、冷たく閉ざされた「処刑場」だった。
計画は、開始から数分で破綻していた。 屋根から侵入し、宝物庫へ直行する。衛兵は殺さず、気絶させる。宝を奪って逃げる。 何百回も頭の中でシミュレーションした手順。 だが、現実は彼らのささやかな願いを、巨大な靴底で踏みにじるように粉砕した。
「……はぁ、はぁ、なんだよ、こいつ……!」
キースは、泥水の中に膝をつき、目の前の男を見上げていた。 黒髪の青年、瞬(シュン)。 彼が立っている場所だけ、雨が避けているようにさえ見える。 圧倒的だった。 キースが振るう双剣は、スラムで生き抜くために磨き上げた必殺の刃だ。なのに、この男はあくびを噛み殺しながら、指先一つでそれを弾いた。 速いとか、強いとか、そんな次元ではない。 アリが象に挑んでいるような、生物としての「格」の違い。
「お前らさ、やる気あんの?」
男の声が、雨音に混じって聞こえた。 呆れたような、退屈そうな声。 それが、キースの神経を逆撫でする。
ふざけるな。 こっちは命がけなんだ。 この一瞬に、妹の命がかかってるんだ。 それをお前は、遊び半分で……!
横を見ると、怪力自慢のボルグが、銀色の鎧を着た騎士(ゼイク)に圧倒され、地面に転がされていた。 素早さが自慢のティックは、金髪の美女(エリーゼ)の魔法で氷漬けにされかけている。 そして、アンナは。 彼女だけは、宝物庫の扉に取り付き、泣きながら鍵をこじ開けようとしていた。
「開いて……お願い、開いてよぉ……!」
その悲痛な叫びが、キースの胸をえぐる。 守れなかった。 妹を救うどころか、家族全員を、この冷たい雨の中で死なせてしまうのか。
その時。 頭上から、嘲笑が降ってきた。
「あはははは! 雑魚キャラのイベント戦だ! 瞬くん、サクッと殲滅しちゃって!」
見上げると、バルコニーに煌びやかなドレスを着た少女が立っていた。 アリス・ローゼンバーグ。 この屋敷の主であり、俺たちがすがりつこうとした「希望(聖女の涙)」の持ち主。
彼女はワイングラスを片手に、俺たちを見下ろして笑っていた。 その目は、人間を見ている目ではなかった。 路傍の石や、汚れたゴミを見るような、無関心で冷酷な瞳。
「雑魚……キャラ……?」
キースの唇が震えた。 俺たちの人生は、お前にとっては「雑魚」の一言で片付けられるものなのか? ゴミ溜めの中で凍えながら赤ん坊を拾い、泥水をすすって育て、血を吐く思いでここまで生きてきた俺たちの二十年は、お前の退屈しのぎの「イベント」なのか?
悔しかった。 死ぬことよりも、自分たちの「生きた証」を、これほどまでに軽く扱われることが、何よりも悔しかった。
「……殺しはしねぇ。それが俺たちの流儀だ」
キースは、瞬に向かって言った。 それはプライドだった。 どんなに蔑まれても、どんなに泥にまみれても、俺たちは「獣」にはならない。 ミーシャに誇れる兄でありたい。その最後の一線だけは、死んでも譲れない。
だが、現実は残酷だ。 アリスが告げた言葉が、彼らの心を完全にへし折った。
『その「聖女の涙」なんてアイテム、この家にはないわよ』 『あるのは、ただの観賞用の光る草』 『妹が助かるルートなんて、最初から用意されてないの』
時間が止まった。 アンナが扉から崩れ落ちる。 ボルグが武器を取り落とす。
嘘だろ。 ない? 俺たちが命を懸けて、全てを投げ打って掴み取ろうとした希望は、最初から存在しなかった? ただの……金持ちの気まぐれな嘘だったのか?
キースの中で、何かがプツンと切れた。 戦意ではない。 生きる意志そのものが、断ち切られた音だった。
ミーシャは助からない。 俺たちの旅は、最初から行き止まりだったんだ。
キースは、泥水の中に額を擦り付けた。 土下座。 プライドも、敵意も、全て捨てた。
「頼む……! 命はいらねぇ! 俺の首でいい!」
喉が裂けるほど叫んだ。
「だから……あの薬草だけは! 偽物でもいい、何か……何かないのか!? 妹が死ぬんだよ!」
惨めだった。 英雄に見下され、令嬢に嘲笑われ、泥水を飲んで命乞いをする。 これが、俺たちの結末か。 神様、あんたはどこまで俺たちを痛めつければ気が済むんだ。
アリスの冷たい声が響く。 「瞬くん、トドメ刺して。それがクリア条件だよ」
死刑宣告。 キースは目を閉じた。 ごめん、ミーシャ。 兄ちゃんたちは、無力だった。お前一人を救うことさえできなかった。 せめて地獄で、お前が来るのを待っているよ。
剣が振り下ろされる気配がした。 冷たい雨が、首筋を打つ。
――だが。 痛みは来なかった。
「……アリス」
聞こえてきたのは、剣戟の音でも、怒号でもなかった。 雨音よりも静かで、深く、透き通った声だった。
キースが恐る恐る目を開けると、信じられない光景があった。 英雄・瞬が、剣を収めていた。 彼はキースたちに背を向け、雇い主であるアリスの方へと歩き出していたのだ。
その足取りは、怒りに任せたものではなかった。 一歩、また一歩。 水たまりを踏む音が、不思議なほど穏やかに響く。 彼は怒鳴らなかった。威圧もしなかった。 ただ、泣いている子供をあやすような、あるいは迷子に道を教えるような、静かな佇まいでアリスに近づいていく。
アリスが、怯えたように後ずさるのが見えた。 瞬が、アリスに差し掛けられていた傘を、そっと手で押し退ける。 令嬢が雨に濡れる。 彼女が何かを叫んでいるようだったが、雨音にかき消されてよく聞こえない。
だが、瞬の声だけは、なぜか鮮明にキースの耳に届いた。
『お前も今、俺たちと同じ場所で、同じ雨に打たれて、同じ空気を吸ってる』
瞬は、アリスの手を取った。 泥だらけの手で、穢れなき令嬢の手を。
『世界っていうのは、自分と、それ以外で出来てるんじゃない。お前も、俺も、こいつらも、全部繋がってるんだよ』
キースは呆然と、その背中を見上げていた。 繋がっている、と言った。 俺たちと、あの高貴な令嬢が。 ゴミのような俺たちと、光り輝く英雄が。 同じ雨に打たれ、同じ痛みを感じる、対等な存在なのだと。
ずっと、誰かに言って欲しかった言葉。 「汚い」「邪魔だ」「ゴミだ」としか言われなかった俺たちを、「同じ人間」として認めてくれた。 それが、敵であるはずの男だなんて。
アリスが、泣き崩れるのが見えた。 瞬が、彼女の手を引いて立たせる。 そして、二人でこちらへ向かってくる。
涙が溢れた。 絶望の涙ではない。 凍りついていた心が、静かな熱によって溶かされていくような、温かい涙。
***
その後の展開は、まるで夢を見ているようだった。
瞬に手を引かれたアリスが、泣き腫らした目で降りてきた。 そして、金髪の美女エリーゼが、魔法のように薬を調合し始めた。 屋敷の温室から運ばれてきた、見たこともない高価な素材。 それらが、光り輝く黄金色の液体へと変わっていく。
「……できたわ」
エリーゼが差し出した小瓶。 受け取ったキースの手は、震えていた。 温かい。 作りたての薬の熱が、冷え切った掌に伝わってくる。
これは、本物だ。 アリスが流した嘘の噂ではない。 瞬という男が、その静かな、けれど絶対的な信念で「運命」をねじ曲げ、アリスという少女の凍った心を溶かして作らせた、本物の「奇跡」だ。
「……ありがとう……ございます……!」
キースは、地面に額をつけて泣いた。 アンナも、ボルグも、ティックも、全員が泣いていた。 感謝の言葉なんて、いくら言っても足りない。 命を救われただけじゃない。 「世界は捨てたもんじゃない」と、教えてもらったのだ。
そして、アリスが言った。
「薬代の借金、体で払ってもらうわよ」
彼女は、顔を背けて、少し照れくさそうに言った。 その顔は、さっきまでの冷酷な仮面が嘘のように、不器用で、寂しがり屋な少女の素顔だった。
「私の『影』になりなさい。……妹さんの治療費も、生活費も、私が全部面倒見てあげる。……もう、泥水をすすらなくていいようにしてあげる」
その言葉は、キースたちにとって、第二の人生の始まりを告げる鐘の音だった。 盗賊として逃げ回る日々は終わった。 これからは、この不器用で、本当は優しい少女を守るために生きる。 それは「隷属」ではない。 彼らが自ら選び取った、新しい「家族」の形だった。
***
雨が上がり、朝日が差し込む頃。 彼らは解放された。
屋敷の門を出て、振り返る。 そこには、泥だらけのドレスを着たアリスと、能天気に手を振る瞬たちの姿があった。
キースは、懐の小瓶をギュッと握りしめた。 まだ温かい。 この温もりが冷めないうちに、帰ろう。 ミーシャが待っている。
彼らは走った。 泥だらけの道を、転がるように。 体はボロボロで、足は重い。 けれど、心は羽が生えたように軽かった。
アジトに着く。 ドアを開けると、澱んだ空気の中に、ミーシャの荒い呼吸音が響いていた。 まだ、間に合う。
「ミーシャ……!」
キースはベッドに駆け寄り、彼女の上半身を抱き起こした。 高熱で意識がない。 彼は震える手で小瓶の蓋を開け、黄金色の液体を彼女の唇に流し込んだ。
ゴクリ。 喉が動く。
一秒、二秒。 長い沈黙。
やがて。 ミーシャの体に浮かんでいた赤い斑点が、スーッと薄れていくのが見えた。 苦しげだった呼吸が、深く、穏やかなものへと変わっていく。
「……ん……」
ミーシャが、ゆっくりと目を開けた。 熱の引いた、澄んだ瞳。 彼女は、目の前にいる泥だらけの兄たちを見て、ふわりと微笑んだ。
「……おかえりなさい、おにいちゃん」
その一言で。 キースたちの長い長い夜は、明けた。
「ああ……ただいま」
キースはミーシャを抱きしめて、声を上げて泣いた。 ボルグも、ティックも、アンナも、全員で抱き合った。
窓の外から、朝日が差し込んでくる。 部屋の中のゴミや埃が、光を受けてキラキラと輝いていた。 それは、かつてテントの中で見た、あの「小さな太陽」の輝きと同じだった。
世界は理不尽だ。 思い通りにならないことばかりだ。 「四諦」の教えの通り、人生は苦しみに満ちているかもしれない。
けれど。 泥の中でも、花は咲く。 絶望の果てにも、手をつないでくれる誰かがいる。
キースたちは知った。 幸せとは、何も失わないことではない。 傷つき、泥にまみれながらも、大切な誰かと共に「今」を生きることなのだと。
彼らの新しい朝が、始まった。 その顔には、もう「盗賊」の暗い影はなく、「生きる者」としての強い光が宿っていた。
ローゼンバーグ侯爵邸の庭園。 そこは、キースたちにとって「希望の地」ではなく、冷たく閉ざされた「処刑場」だった。
計画は、開始から数分で破綻していた。 屋根から侵入し、宝物庫へ直行する。衛兵は殺さず、気絶させる。宝を奪って逃げる。 何百回も頭の中でシミュレーションした手順。 だが、現実は彼らのささやかな願いを、巨大な靴底で踏みにじるように粉砕した。
「……はぁ、はぁ、なんだよ、こいつ……!」
キースは、泥水の中に膝をつき、目の前の男を見上げていた。 黒髪の青年、瞬(シュン)。 彼が立っている場所だけ、雨が避けているようにさえ見える。 圧倒的だった。 キースが振るう双剣は、スラムで生き抜くために磨き上げた必殺の刃だ。なのに、この男はあくびを噛み殺しながら、指先一つでそれを弾いた。 速いとか、強いとか、そんな次元ではない。 アリが象に挑んでいるような、生物としての「格」の違い。
「お前らさ、やる気あんの?」
男の声が、雨音に混じって聞こえた。 呆れたような、退屈そうな声。 それが、キースの神経を逆撫でする。
ふざけるな。 こっちは命がけなんだ。 この一瞬に、妹の命がかかってるんだ。 それをお前は、遊び半分で……!
横を見ると、怪力自慢のボルグが、銀色の鎧を着た騎士(ゼイク)に圧倒され、地面に転がされていた。 素早さが自慢のティックは、金髪の美女(エリーゼ)の魔法で氷漬けにされかけている。 そして、アンナは。 彼女だけは、宝物庫の扉に取り付き、泣きながら鍵をこじ開けようとしていた。
「開いて……お願い、開いてよぉ……!」
その悲痛な叫びが、キースの胸をえぐる。 守れなかった。 妹を救うどころか、家族全員を、この冷たい雨の中で死なせてしまうのか。
その時。 頭上から、嘲笑が降ってきた。
「あはははは! 雑魚キャラのイベント戦だ! 瞬くん、サクッと殲滅しちゃって!」
見上げると、バルコニーに煌びやかなドレスを着た少女が立っていた。 アリス・ローゼンバーグ。 この屋敷の主であり、俺たちがすがりつこうとした「希望(聖女の涙)」の持ち主。
彼女はワイングラスを片手に、俺たちを見下ろして笑っていた。 その目は、人間を見ている目ではなかった。 路傍の石や、汚れたゴミを見るような、無関心で冷酷な瞳。
「雑魚……キャラ……?」
キースの唇が震えた。 俺たちの人生は、お前にとっては「雑魚」の一言で片付けられるものなのか? ゴミ溜めの中で凍えながら赤ん坊を拾い、泥水をすすって育て、血を吐く思いでここまで生きてきた俺たちの二十年は、お前の退屈しのぎの「イベント」なのか?
悔しかった。 死ぬことよりも、自分たちの「生きた証」を、これほどまでに軽く扱われることが、何よりも悔しかった。
「……殺しはしねぇ。それが俺たちの流儀だ」
キースは、瞬に向かって言った。 それはプライドだった。 どんなに蔑まれても、どんなに泥にまみれても、俺たちは「獣」にはならない。 ミーシャに誇れる兄でありたい。その最後の一線だけは、死んでも譲れない。
だが、現実は残酷だ。 アリスが告げた言葉が、彼らの心を完全にへし折った。
『その「聖女の涙」なんてアイテム、この家にはないわよ』 『あるのは、ただの観賞用の光る草』 『妹が助かるルートなんて、最初から用意されてないの』
時間が止まった。 アンナが扉から崩れ落ちる。 ボルグが武器を取り落とす。
嘘だろ。 ない? 俺たちが命を懸けて、全てを投げ打って掴み取ろうとした希望は、最初から存在しなかった? ただの……金持ちの気まぐれな嘘だったのか?
キースの中で、何かがプツンと切れた。 戦意ではない。 生きる意志そのものが、断ち切られた音だった。
ミーシャは助からない。 俺たちの旅は、最初から行き止まりだったんだ。
キースは、泥水の中に額を擦り付けた。 土下座。 プライドも、敵意も、全て捨てた。
「頼む……! 命はいらねぇ! 俺の首でいい!」
喉が裂けるほど叫んだ。
「だから……あの薬草だけは! 偽物でもいい、何か……何かないのか!? 妹が死ぬんだよ!」
惨めだった。 英雄に見下され、令嬢に嘲笑われ、泥水を飲んで命乞いをする。 これが、俺たちの結末か。 神様、あんたはどこまで俺たちを痛めつければ気が済むんだ。
アリスの冷たい声が響く。 「瞬くん、トドメ刺して。それがクリア条件だよ」
死刑宣告。 キースは目を閉じた。 ごめん、ミーシャ。 兄ちゃんたちは、無力だった。お前一人を救うことさえできなかった。 せめて地獄で、お前が来るのを待っているよ。
剣が振り下ろされる気配がした。 冷たい雨が、首筋を打つ。
――だが。 痛みは来なかった。
「……アリス」
聞こえてきたのは、剣戟の音でも、怒号でもなかった。 雨音よりも静かで、深く、透き通った声だった。
キースが恐る恐る目を開けると、信じられない光景があった。 英雄・瞬が、剣を収めていた。 彼はキースたちに背を向け、雇い主であるアリスの方へと歩き出していたのだ。
その足取りは、怒りに任せたものではなかった。 一歩、また一歩。 水たまりを踏む音が、不思議なほど穏やかに響く。 彼は怒鳴らなかった。威圧もしなかった。 ただ、泣いている子供をあやすような、あるいは迷子に道を教えるような、静かな佇まいでアリスに近づいていく。
アリスが、怯えたように後ずさるのが見えた。 瞬が、アリスに差し掛けられていた傘を、そっと手で押し退ける。 令嬢が雨に濡れる。 彼女が何かを叫んでいるようだったが、雨音にかき消されてよく聞こえない。
だが、瞬の声だけは、なぜか鮮明にキースの耳に届いた。
『お前も今、俺たちと同じ場所で、同じ雨に打たれて、同じ空気を吸ってる』
瞬は、アリスの手を取った。 泥だらけの手で、穢れなき令嬢の手を。
『世界っていうのは、自分と、それ以外で出来てるんじゃない。お前も、俺も、こいつらも、全部繋がってるんだよ』
キースは呆然と、その背中を見上げていた。 繋がっている、と言った。 俺たちと、あの高貴な令嬢が。 ゴミのような俺たちと、光り輝く英雄が。 同じ雨に打たれ、同じ痛みを感じる、対等な存在なのだと。
ずっと、誰かに言って欲しかった言葉。 「汚い」「邪魔だ」「ゴミだ」としか言われなかった俺たちを、「同じ人間」として認めてくれた。 それが、敵であるはずの男だなんて。
アリスが、泣き崩れるのが見えた。 瞬が、彼女の手を引いて立たせる。 そして、二人でこちらへ向かってくる。
涙が溢れた。 絶望の涙ではない。 凍りついていた心が、静かな熱によって溶かされていくような、温かい涙。
***
その後の展開は、まるで夢を見ているようだった。
瞬に手を引かれたアリスが、泣き腫らした目で降りてきた。 そして、金髪の美女エリーゼが、魔法のように薬を調合し始めた。 屋敷の温室から運ばれてきた、見たこともない高価な素材。 それらが、光り輝く黄金色の液体へと変わっていく。
「……できたわ」
エリーゼが差し出した小瓶。 受け取ったキースの手は、震えていた。 温かい。 作りたての薬の熱が、冷え切った掌に伝わってくる。
これは、本物だ。 アリスが流した嘘の噂ではない。 瞬という男が、その静かな、けれど絶対的な信念で「運命」をねじ曲げ、アリスという少女の凍った心を溶かして作らせた、本物の「奇跡」だ。
「……ありがとう……ございます……!」
キースは、地面に額をつけて泣いた。 アンナも、ボルグも、ティックも、全員が泣いていた。 感謝の言葉なんて、いくら言っても足りない。 命を救われただけじゃない。 「世界は捨てたもんじゃない」と、教えてもらったのだ。
そして、アリスが言った。
「薬代の借金、体で払ってもらうわよ」
彼女は、顔を背けて、少し照れくさそうに言った。 その顔は、さっきまでの冷酷な仮面が嘘のように、不器用で、寂しがり屋な少女の素顔だった。
「私の『影』になりなさい。……妹さんの治療費も、生活費も、私が全部面倒見てあげる。……もう、泥水をすすらなくていいようにしてあげる」
その言葉は、キースたちにとって、第二の人生の始まりを告げる鐘の音だった。 盗賊として逃げ回る日々は終わった。 これからは、この不器用で、本当は優しい少女を守るために生きる。 それは「隷属」ではない。 彼らが自ら選び取った、新しい「家族」の形だった。
***
雨が上がり、朝日が差し込む頃。 彼らは解放された。
屋敷の門を出て、振り返る。 そこには、泥だらけのドレスを着たアリスと、能天気に手を振る瞬たちの姿があった。
キースは、懐の小瓶をギュッと握りしめた。 まだ温かい。 この温もりが冷めないうちに、帰ろう。 ミーシャが待っている。
彼らは走った。 泥だらけの道を、転がるように。 体はボロボロで、足は重い。 けれど、心は羽が生えたように軽かった。
アジトに着く。 ドアを開けると、澱んだ空気の中に、ミーシャの荒い呼吸音が響いていた。 まだ、間に合う。
「ミーシャ……!」
キースはベッドに駆け寄り、彼女の上半身を抱き起こした。 高熱で意識がない。 彼は震える手で小瓶の蓋を開け、黄金色の液体を彼女の唇に流し込んだ。
ゴクリ。 喉が動く。
一秒、二秒。 長い沈黙。
やがて。 ミーシャの体に浮かんでいた赤い斑点が、スーッと薄れていくのが見えた。 苦しげだった呼吸が、深く、穏やかなものへと変わっていく。
「……ん……」
ミーシャが、ゆっくりと目を開けた。 熱の引いた、澄んだ瞳。 彼女は、目の前にいる泥だらけの兄たちを見て、ふわりと微笑んだ。
「……おかえりなさい、おにいちゃん」
その一言で。 キースたちの長い長い夜は、明けた。
「ああ……ただいま」
キースはミーシャを抱きしめて、声を上げて泣いた。 ボルグも、ティックも、アンナも、全員で抱き合った。
窓の外から、朝日が差し込んでくる。 部屋の中のゴミや埃が、光を受けてキラキラと輝いていた。 それは、かつてテントの中で見た、あの「小さな太陽」の輝きと同じだった。
世界は理不尽だ。 思い通りにならないことばかりだ。 「四諦」の教えの通り、人生は苦しみに満ちているかもしれない。
けれど。 泥の中でも、花は咲く。 絶望の果てにも、手をつないでくれる誰かがいる。
キースたちは知った。 幸せとは、何も失わないことではない。 傷つき、泥にまみれながらも、大切な誰かと共に「今」を生きることなのだと。
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