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第一部:昏き淵に光を灯し、祝福の風を纏って
第1話『白き四壁の果てる処、光の海にて生を享く』
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ピコーン…………ピコーン…………。
無機質な電子音が、まるで深い水底から響いてくるように鼓膜の奥でくぐもっていた。
空調が吐き出す乾いた風の音。鼻腔の奥にこびりついて離れない、消毒用エタノールの鋭い匂いと、微かに混じる鉄錆のような血の気配。
それが、ジンという一人の青年が二十年弱の生涯をかけて知った、世界のすべてだった。
「バイタル低下! 先生、血圧が――」
「除細動器! 早くチャージして!」
リノリウムの床を擦る、看護師たちのゴム底の甲高い足音。金属製の医療トレイがぶつかり合う冷たい響き。怒声にも似た医者の声が飛び交うが、ジンの意識の中では、それらはどこか遠い他国の出来事のように思えた。
仰向けに固定された視界の先では、天井の蛍光灯が、暴力的なまでの白さで彼を見下ろしている。チカチカと不快な瞬きを繰り返すその光の束が、白内障のように霞み始めたジンの網膜をじりじりと焼いた。
(ああ……もう、いい。とりあえず、どうでもいいや)
今年で二十歳になるはずの肉体は、とうに限界を超えていた。
鉛を流し込まれたように重い四肢。息を吸い込むたびに、肺の中でひび割れたガラスが擦れ合うような激痛が走る。
この世のすべては、ただの苦しみだった。物心ついた時から、この四角く切り取られた白い天井の下だけが、ジンの宇宙であった。自らの足で風を切って走ることも、腹の底から声を上げて笑うこともない。良いことなど、何一つとしてなかった。
だから、最後くらいは楽になりたかった。
泥のように重い肉体が、真っ白なシーツの奥深く、底なし沼へと沈んでいく感覚。
網膜に焼き付いていた蛍光灯の白い残像が、ゆっくりと血の色を帯びたオレンジ色に溶け、やがて視界の端から完全な闇が侵食してくる。
心臓を無理やり動かそうとする電気ショックの衝撃すらも遠のき――ふっと、すべての音が消えた。
* * *
――ざわわっ、ざわわわわっ。
不意に、草の葉が幾重にも擦れ合う、カサカサという乾いた音がジンの鼓膜を叩いた。
次いで鼻腔を力強く打ち据えたのは、むせ返るような青々とした草の匂い。そして、太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ、湿った黒土のふくよかな香りだった。
閉じたまぶたの裏に、眩しいほどのオレンジ色の光が透けている。
(……なんだ、ここは?)
二度と開くはずのなかった重いまぶたが、拍子抜けするほどあっさりと持ち上がった。
網膜を突き刺したのは、目が痛くなるほどの鮮烈な「青」と「緑」の境界線だった。
雲一つない、抜けるような蒼天。そこから降り注ぐ強烈な太陽の光が、見渡す限りの草原を黄金色に煌めかせている。
頬を撫でる風が心地いい。風が通り抜けるたび、足元の草丈が大きな波のようにうねり、葉の表面が光を反射してキラキラと白く瞬いた。
「…………え?」
ゆっくりと上体を起こす。
きしむはずの関節が、痛まない。肺いっぱいに空気を吸い込んでも、あのガラス片が刺さるような激痛がどこにもない。
見下ろした自らの手を見て、ジンは息を呑んだ。
点滴の針痕でどす黒く変色し、骨と皮だけになっていた枯れ枝のような腕ではない。うっすらと日焼けし、しなやかな筋肉を宿した、十七歳ほどの若々しい腕がそこにあった。
そっと胸に手を当てる。トクトク、と、力強く規則正しい鼓動が手のひらを叩く。
「体が……軽い」
あんなに泥のように重かった体が、今は嘘のように軽い。背中に羽でも生えて、このまま空高く飛んでいけそうなほどの万能感。
気がつけば、ジンは立ち上がっていた。
足の裏で、柔らかい土の感触をしっかりと踏みしめる。
試しに、軽く膝を曲げ、地面を蹴ってみた。
――ダンッ!
鈍い踏み込みの音と共に、足元の土が爆ぜた。
次の瞬間、視界が一気に跳ね上がる。
「うわあっ!?」
空中で風を切り裂く音が耳元で鳴った。数メートルは跳躍しただろうか。眼下に広がる緑の絨毯を俯瞰し、ふわりとした長い滞空時間を経て、両足でトンッ、と軽やかに着地する。
膝への衝撃は、驚くほど吸収されていた。痛くない。どこも、全く痛くないのだ。
「はっ……あははははっ!」
笑い声が、澄んだ空気を震わせた。自らの声帯から出たとは思えないほど、淀みのない響きだった。
足にぐっと力を込め、前傾姿勢をとる。そのまま、弾かれたように前方へと駆け出した。
速い。信じられないほど速い。
景色が、緑と青の絵の具を混ぜた濁流のように、後方へと凄まじい勢いで置き去りにされていく。強烈な風圧が顔を叩き、空気中を舞う細かい埃や花粉が、太陽の光の筋の中で黄金色の粒子となってキラキラと流れていくのが見えた。
なんだこれ。なんだこの体は。
楽しすぎる。
ここはどこなのか。死んだはずの自分が、なぜこのような世界で息をしているのか。
そんな理屈は、風と共に頭の彼方へと吹き飛んでいた。
ただ、動く。ただ、風を切る。ただ、息をする。
己の意思通りに躍動する、この健康な肉体が嬉しくて、楽しくて仕方なかった。
ひとしきり駆け回り、息を少し弾ませて立ち止まる。
大きく新鮮な空気を吸い込み、空を見上げた、その時だった。
――きゅるるるるるぅぅぅ。
腹の底から、情けないほど盛大な音が鳴り響いた。
「……腹が、減った」
呆然と呟き、自分のお腹をさする。
以前のジンには、強烈な「空腹感」などというものは存在しなかった。毎日ベッドの上で点滴から栄養を流し込まれるだけの体に、飢えを感じる機能など残されていなかったからだ。
しかし今は、胃袋が空っぽだと猛烈に主張している。
腹が減る。ただそれだけの生理現象が、たまらなく愛おしい。
目を凝らすと、風下のはるか遠くに、石造りの建物が密集している街並みが見えた。
陽炎の向こうに揺れるその街角からは、微かに、人の生活の匂い――焼けた肉や香辛料の匂いが、風に乗って漂ってくる気がした。
「よし……行ってみるか」
ジンは弾むような足取りで、未だ見ぬ街へと向かって歩き出した。
無機質な電子音が、まるで深い水底から響いてくるように鼓膜の奥でくぐもっていた。
空調が吐き出す乾いた風の音。鼻腔の奥にこびりついて離れない、消毒用エタノールの鋭い匂いと、微かに混じる鉄錆のような血の気配。
それが、ジンという一人の青年が二十年弱の生涯をかけて知った、世界のすべてだった。
「バイタル低下! 先生、血圧が――」
「除細動器! 早くチャージして!」
リノリウムの床を擦る、看護師たちのゴム底の甲高い足音。金属製の医療トレイがぶつかり合う冷たい響き。怒声にも似た医者の声が飛び交うが、ジンの意識の中では、それらはどこか遠い他国の出来事のように思えた。
仰向けに固定された視界の先では、天井の蛍光灯が、暴力的なまでの白さで彼を見下ろしている。チカチカと不快な瞬きを繰り返すその光の束が、白内障のように霞み始めたジンの網膜をじりじりと焼いた。
(ああ……もう、いい。とりあえず、どうでもいいや)
今年で二十歳になるはずの肉体は、とうに限界を超えていた。
鉛を流し込まれたように重い四肢。息を吸い込むたびに、肺の中でひび割れたガラスが擦れ合うような激痛が走る。
この世のすべては、ただの苦しみだった。物心ついた時から、この四角く切り取られた白い天井の下だけが、ジンの宇宙であった。自らの足で風を切って走ることも、腹の底から声を上げて笑うこともない。良いことなど、何一つとしてなかった。
だから、最後くらいは楽になりたかった。
泥のように重い肉体が、真っ白なシーツの奥深く、底なし沼へと沈んでいく感覚。
網膜に焼き付いていた蛍光灯の白い残像が、ゆっくりと血の色を帯びたオレンジ色に溶け、やがて視界の端から完全な闇が侵食してくる。
心臓を無理やり動かそうとする電気ショックの衝撃すらも遠のき――ふっと、すべての音が消えた。
* * *
――ざわわっ、ざわわわわっ。
不意に、草の葉が幾重にも擦れ合う、カサカサという乾いた音がジンの鼓膜を叩いた。
次いで鼻腔を力強く打ち据えたのは、むせ返るような青々とした草の匂い。そして、太陽の熱をたっぷりと吸い込んだ、湿った黒土のふくよかな香りだった。
閉じたまぶたの裏に、眩しいほどのオレンジ色の光が透けている。
(……なんだ、ここは?)
二度と開くはずのなかった重いまぶたが、拍子抜けするほどあっさりと持ち上がった。
網膜を突き刺したのは、目が痛くなるほどの鮮烈な「青」と「緑」の境界線だった。
雲一つない、抜けるような蒼天。そこから降り注ぐ強烈な太陽の光が、見渡す限りの草原を黄金色に煌めかせている。
頬を撫でる風が心地いい。風が通り抜けるたび、足元の草丈が大きな波のようにうねり、葉の表面が光を反射してキラキラと白く瞬いた。
「…………え?」
ゆっくりと上体を起こす。
きしむはずの関節が、痛まない。肺いっぱいに空気を吸い込んでも、あのガラス片が刺さるような激痛がどこにもない。
見下ろした自らの手を見て、ジンは息を呑んだ。
点滴の針痕でどす黒く変色し、骨と皮だけになっていた枯れ枝のような腕ではない。うっすらと日焼けし、しなやかな筋肉を宿した、十七歳ほどの若々しい腕がそこにあった。
そっと胸に手を当てる。トクトク、と、力強く規則正しい鼓動が手のひらを叩く。
「体が……軽い」
あんなに泥のように重かった体が、今は嘘のように軽い。背中に羽でも生えて、このまま空高く飛んでいけそうなほどの万能感。
気がつけば、ジンは立ち上がっていた。
足の裏で、柔らかい土の感触をしっかりと踏みしめる。
試しに、軽く膝を曲げ、地面を蹴ってみた。
――ダンッ!
鈍い踏み込みの音と共に、足元の土が爆ぜた。
次の瞬間、視界が一気に跳ね上がる。
「うわあっ!?」
空中で風を切り裂く音が耳元で鳴った。数メートルは跳躍しただろうか。眼下に広がる緑の絨毯を俯瞰し、ふわりとした長い滞空時間を経て、両足でトンッ、と軽やかに着地する。
膝への衝撃は、驚くほど吸収されていた。痛くない。どこも、全く痛くないのだ。
「はっ……あははははっ!」
笑い声が、澄んだ空気を震わせた。自らの声帯から出たとは思えないほど、淀みのない響きだった。
足にぐっと力を込め、前傾姿勢をとる。そのまま、弾かれたように前方へと駆け出した。
速い。信じられないほど速い。
景色が、緑と青の絵の具を混ぜた濁流のように、後方へと凄まじい勢いで置き去りにされていく。強烈な風圧が顔を叩き、空気中を舞う細かい埃や花粉が、太陽の光の筋の中で黄金色の粒子となってキラキラと流れていくのが見えた。
なんだこれ。なんだこの体は。
楽しすぎる。
ここはどこなのか。死んだはずの自分が、なぜこのような世界で息をしているのか。
そんな理屈は、風と共に頭の彼方へと吹き飛んでいた。
ただ、動く。ただ、風を切る。ただ、息をする。
己の意思通りに躍動する、この健康な肉体が嬉しくて、楽しくて仕方なかった。
ひとしきり駆け回り、息を少し弾ませて立ち止まる。
大きく新鮮な空気を吸い込み、空を見上げた、その時だった。
――きゅるるるるるぅぅぅ。
腹の底から、情けないほど盛大な音が鳴り響いた。
「……腹が、減った」
呆然と呟き、自分のお腹をさする。
以前のジンには、強烈な「空腹感」などというものは存在しなかった。毎日ベッドの上で点滴から栄養を流し込まれるだけの体に、飢えを感じる機能など残されていなかったからだ。
しかし今は、胃袋が空っぽだと猛烈に主張している。
腹が減る。ただそれだけの生理現象が、たまらなく愛おしい。
目を凝らすと、風下のはるか遠くに、石造りの建物が密集している街並みが見えた。
陽炎の向こうに揺れるその街角からは、微かに、人の生活の匂い――焼けた肉や香辛料の匂いが、風に乗って漂ってくる気がした。
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ジンは弾むような足取りで、未だ見ぬ街へと向かって歩き出した。
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