無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第1部:養成所編

第17話:洞窟の一夜

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昨日の、突き抜けるような青空と肌を焼く陽光が、まるで遠い世界の出来事だったかのように、あるいは巧みに描かれた絵画の一枚であったかのように、空は唐突に、そして劇的にその表情を変えた。つい先ほどまで空の頂で燦々と輝いていた太陽は、西の稜線から湧き上がってきた分厚い雲の軍勢に、あっという間にその姿を飲み込まれてしまう。空はまず乳白色に濁り、次いで灰色に、そして今は、まるで巨大な鉄の塊が頭上を覆い尽くすかのような、不吉な鉛色へと沈み込んでいた。

亜熱帯特有の、粘りつくように肌にまとわりついていた生暖かい風が、ぴたりと、まるで呼吸を止めたかのように止んだ。それまでさわさわと葉を揺らし、生命の息吹を伝えていた木々のざわめきが消える。虫たちの羽音も、鳥たちのさえずりも、遠くで聞こえていたはずの獣の気配さえも、まるで分厚い幕が下ろされたかのように、世界から綺麗さっぱり音が消え去った。森の生き物たちが、本能でこれから訪れる天変地異を察知し、息を潜めているのだ。その絶対的な静寂は、死の前触れにも似て、不気味なほどに張り詰め、四人の肌を粟立たせるには十分すぎるほどの威圧感を放っていた。

次の瞬間、天の底が抜けた、という陳腐な比喩では到底表現しきれないほどの豪雨が、彼らに襲いかかった。

ザアアアアアアアアッッ!!

という、耳をつんざく轟音とともに、空から降り注いできたのは、もはや雨粒と呼べるような代物ではなかった。それはさながら、天の神が怒りのままに地上へ叩きつける、無数の水の槍、あるいは石つぶてのようだった。

「スコールだ! 急げ!」

譲の鋭い叫び声は、しかし、凄まじい勢いで地面を、木々を、そして彼ら自身を叩きつける雨音の壁に阻まれ、ほとんど意味をなさなかった。一粒一粒が、鈍い痛みを伴って肌に突き刺さる。視界は一瞬にして白く煙り、まるで濃密な霧の中にいるかのように、数メートル先の仲間の背中ですら、ぼんやりとした輪郭しか判別できない。頭上では、人の身の丈ほどもある巨大なシダの葉や、天蓋を形成する広葉樹の葉が、懸命に雨を防ごうとしている。しかし、その自然の傘も、無限に降り注ぐ水の暴力の前ではあまりに無力だった。葉に当たった雨粒は、さらに大きな水滴となって、滝のように、容赦なく彼らの首筋から背中へと流れ込み、急速に体温を奪っていく。

地面は見る見るうちにぬかるみへと姿を変え、一歩足を踏み出すごとに、ぐちゅり、と嫌な音を立てて足が沈む。粘土質の土がブーツに絡みつき、鉛のように重い足枷となって、ただでさえ疲労の蓄積した身体から、さらに気力と体力を削り取っていく。

「くそっ、前が見えねえ! 足元もぐちゃぐちゃじゃねえか!」

剛が、苛立ちを隠しもせずに悪態をついた。鍛え上げられた彼の自慢の筋肉も、天候という抗いようのない圧倒的な暴力の前では、その力を発揮する術を持たない。その巨大な体躯が、今はかえって雨を受ける面積を増やし、ぬかるみに足を取られる要因になっているかのようだった。

彼の隣で、玲奈は眉間に深く皺を寄せ、意識を集中させていた。彼女の周囲の空間が微かに歪み、降り注ぐ雨粒が、まるで見えない壁に弾かれるかのように軌道を変える。念動力によって、極薄の水の膜を傘のように展開しているのだ。しかし、途方もない質量を持って落下してくる雨の奔流を完全に防ぎきることは不可能だった。膜を突き破ってくる無数の水滴が彼女の豪奢なドレスを濡らし、普段は完璧に整えられている銀糸のような髪を肌に貼り付かせる。なにより、この規模の自然現象に抗い続けることは、彼女の精神力を激しく消耗させていた。その白い顔には、疲労の色が隠せない。

最後尾を歩く小林は、すでに半泣きだった。恐怖と寒さで唇は紫色になり、小刻みに震えている。思考はとうに停止し、ただ前の人間、譲の背中という一点だけを見つめ、それを見失うまいと、ほとんど無意識に、もつれる足を必死に動かしているだけだった。

このままでは危険だ。譲の頭の中で、警報がけたたましく鳴り響いていた。この凄まじい雨による低体温症。そして、ぬかるんだ道での無駄な体力消耗による判断力の低下。その二つが組み合わさった時、行き着く先は死だ。焦燥感が胸を焼く。仲間たちの様子が、それを如実に物語っていた。パニックに陥りかけたその時、しかし、譲の脳だけが、極限の状況下で異常なほどの冷静さを保っていた。頭の中に叩き込んだこの地域の三次元地図、腕のコンパスが示す正確な方角、そして出発前に衛星データから予測した詳細な地形データ。それら膨大な情報が、彼の脳内で瞬時に統合され、高速で演算処理されていく。そして、無数の可能性の中から、ただ一つの活路を弾き出した。

「こっちだ! この崖を登れば、風雨を凌げる場所があるはずだ!」

譲は、ほとんど勘に近い、しかしデータに裏打ちされた確信を持って、ぬかるんだ急斜面を指さした。そこは道ですらなく、ただ雨に洗われた赤土と、剥き出しになった岩が点在する、危険な崖だった。普段の彼らであれば、誰かが必ず反対の声を上げたはずだ。しかし、彼の言葉には、もはや誰も異を唱えない。いや、そんなことを考える余裕すら、誰にも残されていなかった。彼らは、譲という唯一の羅針盤が示す方向に、ただ無心で進むしかなかった。

「俺が先に行く!」

剛が吼えるように叫ぶと、先頭に立ってその崖に取り付いた。彼は巨大な両手で脆い岩を掴み、ブーツの爪先をぬかるんだ土にねじ込み、強引に足場を作り出していく。その背後で、玲奈が消耗した精神力を振り絞り、念動力で後続の足元を瞬間的に固める。不安定な土が、彼女の力が及ぶ一瞬だけ、硬い岩のように変化し、安全な足がかりを提供した。小林の細い腕を、譲が背後から力強く掴んで引き上げる。

「歯を食いしばれ!」

言葉はそれだけだった。しかし、そこには「生き残る」というただ一つの目的のために、それぞれの能力を最大限に発揮し、自己組織化された、原始的で、しかし完璧なチームの姿があった。雨音と風の唸り、そして荒い呼吸だけが彼らの間に響く。誰もが、自分の役割を、そして仲間の存在を、言葉以上に強く意識していた。

どれくらいの時間、その無謀な崖登りを続けたのだろうか。体感では数時間にも感じられたが、実際には十数分だったのかもしれない。雨で視界を遮るずぶ濡れの前髪を、譲がかき分けたその時、彼の目に、崖の中腹にぽっかりと空いた、黒い口のようなものが飛び込んできた。それは闇そのものが、岩肌に染みを作ったかのような、深い、深い黒だった。

「あった……洞窟だ!」

譲の歓声とも悲鳴ともつかない声が、嵐の轟音を突き抜けた。それを合図に、四人は最後の力を振り絞り、もつれるようにしてその暗闇の中へと転がり込んだ。

途端に、世界を支配していた凄まじい轟音が、まるで厚い壁の向こう側へと追いやられたかのように、嘘のように遠のいた。代わりに、自分たちの「ハッ、ハッ、ハッ」という荒い息遣いと、肋骨の内側で狂ったように打ち鳴らされる心臓の鼓動だけが、やけに大きく、そして生々しく洞窟の中に響き渡った。

洞窟の外では、相変わらず世界が終わるかのような嵐が吹き荒れている。白い飛沫を上げた雨が風に乗り、洞窟の入り口付近を叩きつけている。しかし、この狭く、湿った岩の窪みの中だけは、まるで別の次元に迷い込んだかのように、絶対的な静寂と、揺るぎない安全があった。

しばらくの間、四人は言葉もなく、泥と雨水でぐしょ濡れになった身体を岩肌に預け、ただただ喘ぐように呼吸を繰り返していた。譲は、仰向けに倒れ込んだまま、ゆっくりと瞼を閉じた。冷たい岩の感触が、火照った背中に心地よかった。剛は、壁に背をもたせ、巨大な体躯を小さくして、うなだれている。玲奈は、入り口近くの壁に片手をつき、俯いたまま肩で息をしていた。小林は、譲の足元で蹲り、嗚咽を漏らしているのか、ただ震えているのか、判別がつかなかった。

洞窟の奥深くから、ぽつん、……ぽちゃん、と、天井の岩の隙間から染み出した水が滴り落ちる音だけが、不規則なリズムを刻んでいる。その単調な音が、極度の緊張から解放された彼らの神経を、少しずつ、しかし確実に弛緩させていく。

やがて、誰よりも早く強靭な体力が回復した剛が、おもむろに立ち上がった。その動きに、他の三人がびくりと身を震わせる。

「火がねえと、体が冷えちまう。このままじゃ病気になるだけだ」

彼はそう低く呟くと、洞窟の入り口まで引きずり込まれていた、嵐で折れたのであろう、ずぶ濡れの倒木に目をつけた。それを軽々と肩に担ぎ上げ、洞窟の少し奥まった平らな場所まで運ぶと、無造作に地面に置いた。そして、次の瞬間、彼はその巨大な拳を、まるでハンマーのように、倒木の中央へと振り下ろした。

ゴッ!

鈍い、骨が砕けるような音が響く。濡れて脆くなった樹皮と表層が砕け散り、わずかに乾いた内部が露わになる。彼はそれを何度も、何度も繰り返した。暴力的なまでの力が、湿った木を薪へと変えていく。それは、火を起こすというよりは、何かを破壊する行為に近いように見えた。

その隣で、玲奈が静かに膝をつき、両手をかざした。彼女の繊細な指先に、青白い燐光のようなオーラが集中していく。見えない力が空気中の分子を激しく振動させ、その摩擦熱が、彼女の指先と、剛が拳で削り出した乾いた木屑との間に、小さな、本当に小さな火花を生み出した。

チッ、と頼りない音がして、一瞬だけオレンジ色の光が灯る。しかし、湿気を含んだ空気の中ですぐに消えてしまいそうになる。玲奈は諦めず、眉間に更なる力を込めた。再び、チチッ、と火花が散る。そのうちの一つが、運良く最も乾いていた木屑の繊維に燃え移り、か細い煙を上げながら、小さな炎が生まれた。

パチ、パチパチ……。

最初は今にも消え入りそうだったか弱い炎は、玲奈が念動力で微量の空気を送り込み、剛が手際よく乾いた木片をくべることで、やがて力強い音を立てて燃え上がり始めた。オレンジ色の暖かな光が、湿った洞窟の壁を照らし出し、そこに揺らめく四つの巨大な影を映し出した。パチパチと薪がはぜる心地よい音。じんわりと肌に伝わる熱。その暖かな光と熱は、冷え切った身体だけでなく、恐怖と疲労で氷のように張り詰めていた心の緊張まで、ゆっくりと、しかし確実に溶かしていくようだった。

誰も、何も話さない。普段の、お互いに向けられる刺々しい言葉は、今は鳴りを潜めている。そこにはただ、圧倒的な自然の猛威から逃れ、偶然見つけた安息の地で、一つの火を囲む四人の人間がいるだけだった。剛も、玲奈も、譲も、小林も、まるで憑き物が落ちたかのように、それぞれの社会的地位や能力という名の鎧を脱ぎ捨て、素顔のまま、ゆらゆらと形を変える炎の揺らめきを、ぼんやりと見つめている。

気まずいようで、それでいて不思議と心地よい沈黙が、洞窟の中を満たしていた。

その均衡を破ったのは、四つの影の中で、一番小さな影だった。小林が、おずおずと、震える手で自分の背負っていたリュックを開けた。中身はほとんど水浸しだったが、防水ポーチに入れていた乾パンの袋だけは、かろうじて無事だった。彼は、少し湿気てしまったそれを、ひと言も発さずに、みんなの前にそっと差し出した。その瞳は潤み、何か言いたげに揺れていたが、言葉にはならなかった。

それは、なんでもない、本当に些細な行動だった。だが、この極限状況において、自分のけして多くはない貴重な食料を、いつも自分を馬鹿にする相手にも、自分を蔑む相手にも、無言で差し出すという行為は、千の言葉を尽くすよりも雄弁に、彼の心を伝えていた。

最初に手を伸ばしたのは、剛だった。彼は無言で、その大きな手で乾パンを一枚鷲掴みにすると、バリボリと音を立てて口に放り込んだ。玲奈も、ほんの少しだけ逡巡したのち、汚れるのも構わずに、その白魚のような小さな手で一枚をつまんだ。譲も、「ありがとう、小林」と掠れた声で呟いて、一枚受け取った。

味気ない、小麦粉を固めただけの乾パン。しかし、口の中で唾液を含んでゆっくりと崩れていくその食感と、ほのかな甘みは、今この瞬間、どんなご馳走よりも確かな「生」の味を彼らの舌に伝えていた。それは、生きている味だった。

「なあ」

不意に、譲が口を開いた。視線は、燃え盛る炎の中心、最も明るく輝く一点に注がれたままだ。

「剛は……どうして、そんなに強さにこだわるんだ?」

それは、このチームが結成されてからずっと疑問に思っていた、素朴な問いだった。普段の状況でこんなことを聞けば、「うるせえ、てめえには関係ねえだろ」と、拳が飛んでくるかもしれない。だが、今は違う。この焚き火が作り出す不思議な一体感、嵐によって外の世界から隔絶されたこの閉鎖空間なら、答えが聞けるかもしれない。そんな予感が、譲の中にあった。

案の定、剛は眉間に深い、渓谷のような皺を寄せ、「……うるせえ」と吐き捨てた。しかし、その声にはいつものような暴力的な棘がない。むしろ、どこか弱々しくさえ聞こえた。彼はしばらくの間、まるで炎の中に憎い敵でもいるかのように、その一点を睨みつけていたが、やがて、諦めたように、重い口を開いた。ぽつり、ぽつりと、岩から滴り落ちる水滴のように、言葉が紡がれ始めた。

「……ガキの頃によ、俺が住んでた街が、怪物に襲われたんだ」

その声は、驚くほど静かで、低く、洞窟の湿った空気に重く響いた。

「そこら中が火の海で、建物の崩れる音と、人の悲鳴が響いてた。親父とお袋は、俺を庇って……目の前で、崩れてきた家の瓦礫の下敷きになった。俺は、何もできなかった。ただ、瓦礫のほんの小さな隙間から、二人がだんだん動かなくなっていくのを、見てるだけだった。血の匂いと、土埃の匂いが混じって……今でも、鼻の奥にこびりついてる。泣き叫ぶことしか、できなかったんだ」

洞窟の中が、しんと静まり返る。パチパチと薪がはぜる音だけが、彼の言葉の合間を埋めるように、やけに大きく聞こえた。

「今でも、夢に見るんだ。助けを呼ぶお袋の、掠れた声と、何もできねえでガタガタ震えてる、クソみてえなガキの俺をよ。……力がなけりゃ、何も守れねえ。家族も、仲間も、大事なもんが目の前で壊されていくのを、ただ見てるしかねえんだ。俺はもう二度と……もう二度と、あんな思いはしたくねえ。それだけだ」

彼の暴力性の根源にあったもの。それは、守れなかった者への、あまりにも深く、そして癒えることのない後悔と、愛情の歪んだ裏返しだった。誰よりも強くあろうとするのは、誰よりも無力だった自分を知っているから。その不器用で、痛々しいほどの悲しみが、初めて彼の分厚い筋肉の鎧の下から、生々しい傷口のように露わになった。

その重い、血の滲むような告白に、まるで引き寄せられるように、玲奈が続いた。

「私は、あなたとは逆ね。与えられすぎて、何も感じなくなった」

彼女の声は、洞窟の冷たい岩肌に静かに染み込むように、凛として、しかしどこか虚ろに響いた。

「神楽院の家に生まれて、物心ついた時から、私の周りには全てがあったわ。欲しいものは何でも手に入ったし、行く先々で誰もが私に笑顔を向けた。でも、その笑顔は『神楽院玲奈』という個人に向けられたものじゃなくて、『神楽院家の令嬢』という価値に向けられたものだった。愛も、友情も、賞賛も、全てが値札のついた商品に見えたの。誰も、本当の私なんて見てくれなかった。見ようともしなかった」

彼女の完璧すぎるほどの美貌が、炎の光に照らされて、まるで魂の宿らない精巧なビスクドールのように、儚く、そして冷ややかに見えた。

「いつからかしら。どんなに高級な料理を食べても、砂を噛んでいるようで味がしない。どんなに美しい景色を見ても、ただの色と形の情報としてしか認識できない。私の心は、分厚いガラスケースの中に閉じ込められて、外の世界に触れることができなくなってしまったみたいだった。……でも、戦場で、死ぬかもしれないって思う、ほんの短い瞬間だけ。心臓がうるさくて、血が熱くて、自分がただの人間だって、思い出せるの。この、どうしようもない心の渇きを、ほんの少しだけ、忘れられるのよ」

彼女の渇きの正体。それは、あまりにも深く、そして広大な孤独だった。全てを持つがゆえに、本当に価値のあるものを何も持てない。その底なしの虚しさが、彼女を死と隣り合わせの戦場へと駆り立てていたのだ。

二人の、あまりにも対照的で、しかし同じくらいに痛々しい魂の告白。それを受けて、譲もまた、ずっと被り続けてきた「冷静な分析者」という仮面を、自らの手で脱ぐ覚悟を決めた。

「僕は……ずっと、嫉妬してた」

絞り出すような、自分でも驚くほどか細い声だった。

「僕には、颯太っていう幼馴染がいるんだ。彼は、僕が欲しいもの全てを持ってる。圧倒的な強さも、太陽みたいな明るさも、誰もが彼を好きになる不思議な人気も。僕は、ずっと彼に憧れてた。彼みたいになりたいって、ずっと思ってたんだ。でも……どれだけ努力しても、どれだけ知識を詰め込んでも、僕は彼にはなれない。戦闘能力でも、カリスマ性でも、絶対に敵わない。その揺るぎない事実を突きつけられるたびに、憧れは、じりじりと心を焼く、醜い嫉妬に変わっていった。彼の何気ない優しささえ、僕の無力さを際立たせるようで、辛かったんだ」

自分の心の弱さ、矮小さを、初めて他人の前で認める。それは、ひどく恥ずかしく、情けないことのはずなのに、不思議と、胸の奥につかえていた重い澱が、すっと溶けていくのを感じた。

「僕もです……!」

最後に、ずっと黙って二人の話を聞いていた小林が、しゃくりあげながら言った。

「僕、いつも大事な時に気絶して、みんなの足手まといになって……そんな自分が、大っ嫌いでした。怖くて、痛いのも嫌で、いつもすぐに逃げ出したくなって……でも、そんな臆病な自分を、変えたくて……変わりたくて……だから、ここに来たんです……! うぅっ……」

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、それでも必死に言葉を紡ぐ彼の姿は、滑稽で、しかし、ひどく真摯で、胸を打った。

四つの異なる苦しみ。
親を失った無力感という苦しみ。
全てを持ちながら心が渇いているという苦しみ。
届かぬ相手に嫉妬するという苦しみ。
己の弱さに苛まれるという苦しみ。

「思い通りにならない」という、この世に生きる全ての者が背負う絶対的な法則。それらが、洞窟という閉じた空間で、揺らめく焚き火の光に照らされて、ゆっくりと、しかし確かに一つに溶け合っていく。彼らは初めて、互いを「脳筋」や「お嬢様」、「モヤシ」や「チビ」といった記号や役割ではなく、同じように傷つき、悩み、不完全に足掻く、一人の人間として見つめ合っていた。

やがて、泣き疲れた小林が、譲の肩に寄りかかったまま、すーすーと静かな寝息を立て始めた。それを見た剛が、ぶっきらぼうに立ち上がり、自分が着ていた分厚く、そして乾き始めたジャケットを脱ぐと、小林の小さな肩に、そっとかけた。その仕草は、彼の巨体と荒々しい言動には不釣り合いなほど、優しさに満ちていた。

玲奈が、ふと、譲の方へと向き直る。炎に照らされた彼女の横顔は、いつも纏っている氷のような仮面が剥がれ落ち、驚くほど穏やかに見えた。

「あなたのその頭脳は、誰かを守るための力よ、譲。決して、誰かと比べるためのものじゃないわ」

彼女は、静かに、しかし確信に満ちた声でそう告げた。そして、ほんの少しだけ、本当に、ほんの少しだけ、その完璧な形の唇の端を上げて、微笑んだ。

それは、譲が初めて見る、彼女の心からの笑顔だった。

その温かな光のような微笑みを受けながら、譲は、この不思議な感覚の正体を考えていた。

そうだ、と彼は思う。どんなに優秀な個が集まっても、それだけでは意味がない。ただの要素の集合体に過ぎない。極限状況という「縁」が、彼らの間に今まで存在しなかった「関係性」を生み出したのだ。バラバラだった要素が、この洞窟と焚き火という場で相互作用を始め、全く新しい性質が、今、この瞬間に「創発」したのだ。

洞窟の外では、まだ嵐が吹き荒れている。ゴウゴウと風が唸り、ザアザアと雨が世界を洗い流している。しかし、その轟音は、もはや恐怖の対象ではなかった。むしろ、この小さな共同体を優しく包み込む、世界が奏でる壮大な子守唄のように聞こえた。譲は、初めて「チーム」というものの一員になれた気がした。燃え盛る炎の暖かさと、隣で眠る仲間の体温を感じながら、彼の意識もまた、穏やかで、深い眠りの底へと、ゆっくりと、ゆっくりと沈んでいった。
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