無能と蔑まれた僕だけが知る世界の嘘。敵であるはずの怪物の少女に恋したので、人類を裏切り世界を滅ぼす。

Gaku

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第2部:討伐部隊・転機編

第38話:喰われる知識

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空が、裂けた。
まるで天そのものが怒りと悲しみに耐えかねて、一気に決壊したかのような、猛烈なゲリラ豪雨だった。視界は一瞬で白く煙り、廃墟と化した工業地帯のビル群は、その輪郭を曖昧な水墨画のように滲ませる。巨大な鉄骨を、地面を、そしてヴァルキリーの装甲を叩きつける雨音は、他のあらゆる音をかき消し、この世の終わりを告げる不規則なドラムのように、狂ったリズムで鳴り響いていた。地面には瞬く間に濁流が生まれ、それはまるで、この戦場で流された血を洗い流そうとしているかのようだった。

宮沢譲は、司令車両の床に膝をついたまま、動けずにいた。
鼻腔の奥にこびりついた、自らの吐瀉物の酸っぱい匂い。鼓膜の奥で、無限ループのように再生され続ける、あの断末魔の叫び。そして、モニターの片隅で、今もなお無感情に点滅を続ける、赤い『ロスト』の警告ランプ。
その全てが、彼の完全な敗北を物語っていた。
(僕が、「脳」だって?)
自嘲の笑みが、乾いた唇から漏れる。
(笑わせるな)
この戦場(システム)で最も冷静で、最も合理的であるべきはずの司令塔が、誰よりも先に恐怖という感情(ノイズ)に汚染され、思考を停止させたのだ。安全な場所から数字を眺めているだけの自分が、血と泥にまみれて戦う仲間たちの恐怖を、一体どれだけ理解していたというのか。その傲慢さが、あの兵士を殺したのだ。
自己嫌悪が、冷たい泥水のように彼の身体を満たしていく。もう、何も考えたくなかった。何も見たくなかった。ただ、この音のない静かな箱の中で、全てが終わるのを待っていたい。

だが、戦場は、彼の個人的な絶望が終わるのを、待ってはくれなかった。

『クソッ! こいつら、動きが変わったぞ!』
インカムから、赤城剛の焦りに満ちた声が響き渡る。それを皮切りに、通信回線は再び地獄の様相を呈し始めた。
『囲まれる! さっきまでの単調な動きじゃない!』
『陽動だ! こちらの動きを完全に読んでやがる!』
その混乱した報告は、譲を無理やり現実へと引き戻した。彼は、鉛のように重い身体を引きずるようにして、再びコンソールの前に座り直す。そして、モニターに映し出された戦場の光景に、息を呑んだ。
怪物たちの動きは、先ほどまでとは全くの別物になっていた。無秩序な暴力の塊だったはずの彼らは、まるで高度な訓練を受けた特殊部隊のように、統率された動きを見せていたのだ。数体が囮となって味方の注意を引きつけ、その隙に別動隊が建物の影から回り込み、部隊の側面を突く。地形の僅かな高低差を利用して死角を作り出し、そこからの一斉射撃で孤立した機体を確実に仕留める。
その戦術に、譲は見覚えがあった。いや、忘れるはずがなかった。それは、先ほど命を落とした、あのベテラン兵士――ヤマシタ隊長が得意としていた、教科書には載っていない、彼独自の老獪な戦い方そのものだった。
全身の毛が、総毛立った。
卒業前に、自分が立てた一つの仮説が、脳裏に雷鳴のように轟く。
『ゴースト・イン・ザ・マシン』
荒唐無稽だと、誰もが一笑に付した、あの忌まわしい言葉。怪物は、人間を捕食することで、その肉体だけでなく、脳に蓄積された知識や経験、戦闘技術といった情報(ゴースト)すらも吸収し、自らのものとして進化するのではないか。
それが今、最悪の形で、現実のものとなっていた。
「……は、はは……」
乾いた笑いが漏れる。呼吸が浅くなり、指先が再び氷のように冷えていく。恐怖が、また彼の思考を麻痺させようと、その冷たい指を伸ばしてくる。
(ダメだ)
ここで僕が思考を止めたら、本当に、全員死ぬ。
譲は、強く、強く奥歯を噛み締めた。口の中に、鉄の味が広がる。その痛みが、かろうじて彼を正気の世界に繋ぎ止めていた。そうだ、この戦いは、もう単なる殺し合いじゃない。
これは、僕の脳と。
ヤマシタ隊長の知識を喰らい、その頭脳を手に入れた、あの怪物の脳との。
一対一の、思考のチェスなんだ。

譲は、自分の中に渦巻く恐怖という名の濁流を、データという名の分厚いガラスの向こう側へと、無理やり押しやった。震える指でキーボードを叩き、超人的な集中力で、思考を強制的に再起動させる。
『全隊に告ぐ。敵は、ヤマシタ隊長の戦術データを完全に模倣している。これより、敵の思考ルーチンを逆手に取る』
彼の声はまだ微かに震えていたが、そこには先ほどまでの絶望の色はなかった。
『ポイントG-7の立体駐車場。あれは、ヤマシタ隊長なら必ず罠を仕掛ける場所だ。敵もそう考えている。だからこそ、我々はそこを拠点にする』
インカムの向こうで、仲間たちが息を呑むのが分かった。常識では考えられない、敵の罠のど真ん中に飛び込むという指示。しかし、その声には、先ほどまでのパニックとは違う、冷徹な光が宿っていた。
戦いは、一進一退の攻防となった。譲が怪物の思考を読み、カウンターとなる指示を出す。すると怪物は、まるでその指示を嘲笑うかのように、さらにその裏をかく二手先の動きを見せる。譲がさらにその裏をかくと、怪物はまたその上を行く。
それは、もはやチェスですらなかった。まるで、自分の脳内を、思考の全てを、直接覗き込まれているかのような、言いようのない悪寒。怪物の学習速度は、譲の予測と分析のスピードを、確実に上回り始めていた。
(なぜだ……なぜ、これほどまでに僕の思考が読める?)
その時、譲はある可能性に行き着き、背筋が凍りついた。ヤマシタ隊長だけじゃない。この戦場で死んだ、全ての兵士たちの知識を、怪物はリアルタイムで吸収し、アップデートし続けているのではないか。だとしたら、相手は一人の天才ではない。無数の兵士たちの経験と知識が融合した、集合知能とでも言うべき、神のような存在だ。
世界は、常に変化し続けている。過去の常識は、たった数分で陳腐な遺物と化す。この世に絶対などないという真理が、牙を剥いて襲いかかってくる。
このまま合理的な予測を続けても、いずれジリ貧になる。それは、火を見るより明らかだった。
譲は、決断を迫られていた。論理と確率の世界に生きる彼が、最も忌み嫌い、最も恐れていた最後の手札。それは、論理そのものを破壊する、狂気の一手だった。

司令車両のモニターに映る、豪雨に打たれる仲間たちの姿。彼らの機体の損耗率は、危険水域を示す赤色に染まりつつあった。時間は、ない。
譲は、一度だけ、深く、深く息を吸い込んだ。そして、インカムのマイクに、自らの魂を叩きつけるように、叫んだ。
『颯太、聞こえるか!』
『譲! どうなんだ、何か手は……!』
親友の必死の声に、彼は非情な指示を返す。それは、チェスで言うところの、「わざと自陣のキングを、敵のクイーンの目の前に晒す」ような、常軌を逸した作戦だった。
『今すぐ、部隊を後退させろ! 廃液処理施設の広場まで! そして、わざと、敵に包囲されろ!』

その瞬間、インカムの中は、完全な沈黙に包まれた。
豪雨の音だけが、その信じられない言葉が、確かに発せられたことを証明していた。
やがて、その沈黙は、怒号と混乱の爆発へと変わった。
『……何を、言っているんだ、お前は!』
最初に叫んだのは、颯太だった。その声には、信じられないという響きと共に、かすかな失望の色が混じっていた。
『司令部は、狂ったのか!』
『譲、お前、正気か! 自殺しろって言うのか!』
兵士たちの悲鳴と罵声が、嵐のように吹き荒れる。
譲は、唇を噛み締め、必死で説明しようとした。
「違う! 敵の思考の前提を破壊するんだ! 合理的に考えれば、我々がわざと不利な状況に飛び込むことなどあり得ない! その予測不能な行動こそが、奴らの完璧な思考ルーチンに、唯一バグを生み出せる可能性なんだ!」
しかし、その論理的な説明は、極度の恐怖と緊張状態にある彼らの耳には、もはや届かなかった。
一度失われた信頼。
安全な場所から聞こえてくる、血の通わない、非情な声。
パニックに陥った司令官の、狂った戯言。
彼らには、そうとしか聞こえなかったのだ。

誰も、動かなかった。
譲の指示は、ただの空虚な音となって、豪雨の中に虚しく消えていった。そして、その数秒の躊躇が、全てを決定づけた。
怪物は、譲が予測した通り、しかし、彼が望んだ形とは真逆の形で、部隊の僅かな隙を突いた。モニターの隅で、二つのバイタルサインが、音もなく、消えた。新たに点灯した二つの『ロスト』の信号が、彼の作戦が正しかったこと、そして、その作戦が誰にも理解されなかったことの両方を、無慈悲に証明していた。

司令車両の中、譲は、コンソールの上に置いた拳が、怒りと無力感で小刻みに震えているのを感じていた。
どんなに優れた論理も。
どんなに高い勝率を弾き出した作戦も。
それを信じ、命を懸けて実行してくれる仲間がいなければ、ただの紙屑に過ぎない。
論理だけでは、人は動かせない。そのどうしようもない現実を、彼は、またしても、骨の髄まで痛感させられていた。
雨は、まだ止みそうになかった。
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