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第2部:討伐部隊・転機編
第37話:本物の戦場
しおりを挟む夜明けは、まだ遠かった。
大型輸送機の低い唸りが、分厚い雲に覆われた青黒い空を震わせている。機内は、兵士たちの荒い息遣いと、機械油と汗の入り混じった生々しい匂い、そして死と隣り合わせの濃密な緊張感で満たされていた。誰もが口を閉ざし、ただ手元の武器を握りしめ、来るべき瞬間に備えている。窓の外には、全てを飲み込むかのように深い霧が立ち込めていた。それはまるで、これから彼らが足を踏み入れる世界が、常識も道理も通用しない、異界であることを暗示しているかのようだった。
宮沢譲は、その喧騒の只中にありながら、まるで深海にいるかのような静寂に包まれていた。
彼の定位置は、輸送機の貨物室の奥に鎮座する、後方支援用の司令車両の中。無数のモニターに囲まれた、無菌室のような電子のコクピットだ。手元のコンソールには、仲間たちのバイタルデータや機体の損耗率、弾薬の残弾数が、どこか他人事のような無機質な数字の羅列となって、青白く表示されている。分厚い防音壁が、外の生々しい緊張感を遠い世界の出来事のように遮断していた。
しかし、床を伝って微かに響いてくる仲間たちのざわめきや、武器を整備する硬い金属音は、ここが訓練ではないという揺るぎない事実を、嫌でも譲の皮膚に直接伝えてくる。卒業式の日に与えられた『特別戦術観測員』という、前例のない役職。それが今、初めて本物の戦場で試されようとしていた。
(大丈夫だ)
譲は自分に言い聞かせた。
(やることは変わらない。情報を集め、分析し、最適解を導き出す。それだけだ)
彼の脳内では、これから起こりうる全ての可能性が、無数の分岐を持つ巨大な樹形図のように展開されていた。敵の出現パターン、地形の有利不利、天候の変化が戦局に与える影響。その全てを計算し、最悪の事態すらもシミュレーションの中に組み込んである。恐怖はない。あるのは、これから始まる巨大なチェスに対する、冷たい興奮だけだった。
やがて、機内に作戦区域への到達を告げるブザーが鳴り響く。後部ハッチが轟音と共に開き、湿った、そして腐臭の混じった外気が機内へと流れ込んできた。
「全機、出撃!」
インカムから響く颯太の張りのある声。それを合図に、純白のヴァルキリーを先頭にした鋼の巨人たちが、次々と夜明け前の暗闇へと飛び出していく。譲は、メインモニターに映し出される彼らの勇姿を、まるで映画の封切りを待つ観客のような、どこか浮ついた気持ちで見送っていた。
戦闘は、譲の予測通りに始まった。
作戦区域である廃墟の工業地帯。その複雑に入り組んだ配管や建物の残骸は、怪物たちにとって格好の隠れ蓑となるはずだった。しかし、譲は事前にこの地域の三次元マップを完璧に記憶し、敵が潜伏しうる全てのポイントを確率順にリストアップしていた。
『全隊に告ぐ。ポイントC-4、旧化学プラントの地下貯水槽。敵影多数。確率92%』
彼の冷静な声がインカムに響くと同時に、颯太の部隊が貯水槽の分厚いコンクリートの蓋を爆砕する。その下から、予測通りの数の怪物が、奇襲を看破されたことに驚くかのように姿を現した。
「もらったァ!」
赤城剛の駆る重装甲のヴァルキリーが、巨大なヒートアックスを咆哮と共に振り下ろす。その一撃は大地を割り、怪物の群れをまとめて薙ぎ払った。
「陽葵、上空を警戒! 玲奈さんは右翼から回り込んで!」
颯太の的確な指示に、仲間たちが完璧に応える。陽葵の機体が氷上のバレリーナのように宙を舞い、玲奈の機体が放つ光弾が、逃げ惑う怪物の急所を寸分の狂いもなく撃ち抜いていく。
モニターに映し出されるその光景は、まるでよくできたアクション映画のようだった。次々と表示される『撃破』のログ。安定していく仲間たちのバイタルサイン。全てが、譲の脳内で描かれたシナリオ通りに進んでいく。自分の頭脳が、この混沌とした戦場を完全に支配している。その全能感にも似た感覚は、甘美な麻薬のように彼の心を痺れさせた。
(やれる。この戦場(システム)は、僕の頭脳(ルール)に従う)
彼は、自分がこの戦いの脚本家であり、監督であり、そして神であるかのような錯覚に陥っていた。仲間たちの命運は、この指先一つにかかっている。その重いはずの責任が、今は心地よいスリルと感じられた。
だが、その映画は突如として、残酷なドキュメンタリーへと変貌した。
それは、ほんの僅かな綻びだった。
一体の怪物が、譲の予測ルートからわずか3メートルずれた地点にある、古いマンホールから奇襲を仕掛けてきたのだ。出現タイミングも、予測より0.8秒早かった。
たったそれだけの、誤差と呼ぶにも些細なズレ。しかし、複雑に絡み合った戦場というシステムにおいて、その小さな非線形的な入力は、システム全体を崩壊させる致命的なバグとなるのに、十分すぎた。
その牙は、部隊の最後尾で警戒任務に当たっていた、顔も名前も知らないベテラン兵士のヴァルキリーに、音もなく突き刺さった。
メインモニターに、その映像がアップで映し出される。怪物の巨大な顎が、まるで熟れたトマトを握り潰すかのように、ヴァルキリーのコックピットを無慈悲に圧搾した。装甲が悲鳴を上げて歪み、内部のケーブルが火花を散らす。そして、画面に、一瞬だけ、鮮血ともオイルともつかない赤い液体が、ぶしゅりと飛び散った。
次の瞬間、譲が装着していたインカムから、鼓膜を破るような、およそ人間のものとは思えない絶叫が響き渡った。
「ぎぃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!」
それは、肉が断ち切られ、骨が砕ける音と、生命そのものが根元から引き裂かれる音が混じり合った、この世の地獄を凝縮したかのような悲鳴だった。
その絶叫が、譲の脳天を巨大なハンマーで殴りつけた。
モニター越しの、どこか他人事だった戦争が、その音を媒介にして、彼の鼓膜を突き破り、脳髄に直接流れ込んできた。
頭の中では、ずっと前から理解していたはずだった。「死」という概念。それは、データ上ではただの『ロスト』という記号であり、バイタルサインがゼロになるだけの、無機質な状態変化に過ぎなかったはずだ。
だが、違う。
今、彼の全身を駆け巡っているのは、そんな冷たいデータなどでは断じてなかった。それは、圧倒的な質量と、焼けるような温度と、鼓膜にこびりついて離れない音と、そして実際にはありえないはずの、鉄錆のような血の匂いを伴った、どうしようもない「現実」だった。
譲は、胃の底からせり上がってくる熱い塊を抑えきれなかった。
「う……おぇええええええええええええッ!!」
司令車両の冷たい床に、彼は胃液と、消化されかかった朝食を叩きつけるように、激しく嘔吐した。喉が焼け、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。だが、嘔吐は止まらない。先ほどの絶叫が、脳内で何度も何度も繰り返し再生され、そのたびに彼の内臓を内側から鷲掴みにした。
彼の誇るべき脳は、この想定外の入力に対して、完全にフリーズしていた。思考が、停止する。モニターに映る無数の数字の羅列は、もはや何の意味もなさない、ただのノイズにしか見えなかった。仲間たちの位置を示すアイコンも、敵の侵攻ルートを示す矢印も、ただの無意味な光の点滅にしか感じられない。
(死んだ)
(人が、死んだ)
(僕の、すぐ近くで)
(僕の、せい、で?)
論理的な思考は完全に麻痺し、原始的な恐怖だけが、冷たい水のように彼の身体を満たしていく。データや理論では決してシミュレートできなかった、生々しい現実。それは、譲が今まで築き上げてきた、知識という名の分厚い壁を、いとも容易く突き崩し、彼の剥き出しの魂を蹂虙した。
「司令部! 応答しろ! 状況はどうなってる! 一人がやられたぞ!」
インカムから、颯太の切羽詰まった声が響く。その声が、かろうじて譲を現実へと引き戻した。そうだ、仲間が、今も戦っている。僕が、指示を出さなければ。
恐怖でガチガチと震える手で、譲は再びコンソールの前に座り直した。マイクのスイッチを入れる。しかし、彼の口から漏れたのは、自分でも驚くほど上ずり、か細く、誰の耳にも届かないような、情けない囁きだった。
「……ぽ、いんと……B-3に……た、たいひ……」
声にならない。言葉にならない。恐怖が、声帯を氷のように凍りつかせている。
「クソッ、司令部はパニクってやがる! 通信が途絶えたぞ! 各自で判断しろ! 生き延びることを最優先しろ!」
インカムから聞こえてきた、別の兵士の怒声。
その言葉は、情け容赦なく、譲の心を深く、深く抉った。
そうだ。
自分は、パニックになっている。
たった一人の、顔も知らない兵士の死を前にして、恐怖に飲み込まれ、何もできなくなっている。この戦場(システム)で最も冷静であるべきはずの「脳」が、たった一つの想定外の入力(ノイズ)によって汚染され、誰よりも先に、無様に機能を停止している。
譲は、自らの無力さを、骨の髄まで痛感していた。
司令車両の中は、先ほどまでの興奮が嘘のように静まり返っている。床に広がった自らの吐瀉物の酸っぱい匂いだけが、彼の完全な敗北を証明していた。
モニターでは、警告を示す赤いランプだけが、彼の凍りついた瞳に、無感情な光を、何度も、何度も、点滅させていた。
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