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第2部:討伐部隊・転機編
第36話:異端児の誕生
しおりを挟む春だった。
四月も半ばを過ぎ、まるで世界のすべてを祝福するかのように、うららかな陽光が惜しげもなく降り注いでいた。地球防衛隊養成所の広大なグラウンドを縁取る桜並木は、今を盛りと咲き誇り、時折吹き抜ける柔らかな風に花びらを舞い上がらせる。その薄紅色の吹雪は、純白の真新しい制服に身を包んだ卒業生たちの肩や髪に、まるで天からの祝福のように静かに舞い落ちていた。空気は甘く、新しい門出への期待と、ほんの少しの感傷的な気怠さが心地よく混じり合っている。誰もが、輝かしい未来だけを信じて疑わない、そんな完璧な春の一日だった。
宮沢譲は、その完璧な世界の片隅で、まるで自分だけが白黒映画の中にいるような、奇妙な感覚に囚われていた。
周囲の誰もが、希望に満ちた表情で談笑し、互いの健闘を称え合っている。しかし、その熱に浮かされたような喧騒は、譲の耳にはまるで分厚いガラスを一枚隔てた向こう側の出来事のように、どこか遠く、現実感なく響くだけだった。彼はただ、その他大勢の卒業生の一人として、決められた椅子に深く腰掛け、この茶番が早く終わることだけを願っていた。
やがて、厳かなファンファーレと共に、卒業証書授与式が始まった。
壇上に立った白髪の総監が、手にした証書の束から一枚を抜き取り、張り上げた声で名前を読み上げる。
「討伐科Aクラス、赤城剛!」
その名が呼ばれた瞬間、会場の一部から野太い歓声が上がった。名前を呼ばれた剛は、まるで岩山が動くかのようにのっそりと立ち上がると、一歩一歩、大地を踏みしめるように壇上へと向かう。その巨大な背中は、仲間からの信頼と期待を一身に背負っているかのようだった。
「同、橘陽葵!」
春の日差しそのもののような笑顔で、陽葵が駆け足で壇上へ向かう。彼女が通った後には、ふわりと甘い花の香りが残るような錯覚さえ覚えた。
「同、神楽院玲奈!」
誰とも視線を合わせず、まるで氷の彫像が滑るかのように静かに進む玲奈。彼女が動くだけで、会場の喧騒が水を打ったように静まり返る。その圧倒的な存在感は、他の誰とも違う、孤高の光を放っていた。
そして、ひときわ大きな拍手と歓声と共に、その名前が呼ばれた。
「同、朝倉颯太!」
颯太が立ち上がった瞬間、会場の空気が変わった。まるで、それまで曇りがちだった空が、一瞬で快晴になったかのように。彼は、そこにいるだけで周囲を照らす、太陽のような男だった。悪戯っぽく仲間たちに片目を瞑って見せると、颯爽と壇上へと歩みを進める。その姿は、誰もが幼い頃に絵本で読んだ、竜を退治する王子様そのものだった。
譲は、ただ、黙って拍手を送っていた。手のひらがじんわりと汗ばむ。仲間たちが英雄として喝采を浴びる姿を、自分はまた、こうして見上げている。一年前、この養成所の門をくぐった日から、いや、物心ついたあの日から、何も変わっていない。
人生とは、どうしようもなく思い通りにならないものだ。
この世の現実は、本質的に苦しみである、という真理。それは、決して悲観的な思想などではない。ただ、どうしようもない事実を、ありのままに受け入れろという、極めて現実的な世界のOSなのだと、彼は理解していた。太陽があれば、必ず影ができる。光が強ければ強いほど、その影もまた、濃く、深く、冷たくなる。そして自分は、どうしようもなく、その影の側の人間なのだ。
仲間たちの名前が全て呼ばれ終わり、残るは一般枠や後方支援科の生徒たちだけとなった頃、会場のざわめきは少しずつ、好奇と憐憫の入り混じったものへと変質し始めていた。誰もが、まだ名前を呼ばれていない一人の生徒の存在に気づいていたからだ。
「なあ、宮沢は?」
「あいつ、なんかやらかしたんじゃないのか?」
ひそひそと交わされる囁き声が、無数の小さな針となって譲の皮膚を突き刺す。大丈夫だ、と彼は自分に言い聞かせた。心などとうの昔に殺してある。プライドなど、一年前の戦闘訓練でライフル一発撃てずに吹っ飛ばされたあの日に、粉々に砕け散ったはずだ。だが、それでも、身体の芯が氷のように冷えていくのだけは、どうすることもできなかった。
やがて、卒業生総代として、再び颯太が壇上に立った。
「俺たちは、この二年間、多くのことを学びました」
太陽の光を一身に浴びたような、自信に満ちた笑顔。彼の言葉一つ一つが、会場の心を掴み、揺さぶり、一つにしていく。
「多くの仲間を失い、多くの涙を流しました。ですが、その度に俺たちは強くなった。仲間の屍を乗り越え、俺たちはここに立っています。俺たちの背後には、守るべき人々がいる。俺たちのこの手が、この身体が、人類最後の希望なのだと、俺は信じています!」
割れんばかりの拍手。涙を流す女子生徒たち。彼の言葉は、一点の曇りもない正義と希望そのものだった。
だが、譲の耳には、その英雄的な言葉が、まるで遠い国の物語のように空々しく響いていた。彼の言う「仲間」の中に、果たして自分の居場所はあったのだろうか。彼の言う「希望」の光は、果たして自分の足元まで届いているのだろうか。
羨ましい、と思った。心の底からそう思える颯太が。そして同時に、吐き気をもよおすほど、その光が、憎かった。
式が終わり、解放感に満ちた空気がグラウンドに広がる。仲間たちが、少し気まずそうな、それでいて心配そうな顔で駆け寄ってきた。
「譲、お前、結局どこ配属なんだよ?」
剛が、ぶっきらぼうに尋ねる。その言葉には、以前のような剥き出しの侮蔑はなかった。
「さあな。あるいは、このまま存在を抹消されるのかもしれない」
譲が自嘲気味にそう答えた、その時だった。
会場に設置されたスピーカーから、あの鬼教官の事務的な声が響き渡った。
「卒業生、宮沢譲。至急、総監室へ出頭せよ。繰り返す――」
その瞬間、仲間たちの間に流れた憐れみと好奇の入り混じった、あのどうしようもない空気に、譲は耐えきれなくなった。彼は誰の顔も見ず、「じゃあな」とだけ呟くと、逃げるようにその場を後にした。背後で、陽葵が何かを叫んでいたような気がしたが、もう振り返る気力もなかった。
総監室は、息が詰まるほど静かだった。
分厚いペルシャ絨毯が足音を完全に吸い込み、壁一面に並べられた歴代総監の肖像画が、そのガラスの瞳で静かにこちらを見下ろしている。革張りのソファの匂いと、年代物のマホガニーのデスクが放つ古い木の匂いが混じり合い、空気が物理的な重さを持っているかのようだった。
窓の外では、あれほど美しかった桜並木が、まるで音のない映像のように、ただ風に揺れている。この部屋だけが、春の喧騒から完全に切り離された、別の時空に存在しているかのようだった。
「まあ、かけたまえ」
デスクの向こう側で、白髪をオールバックにした総監が、表情一つ変えずに言った。譲は、言われるがままに、身体が沈み込むほど柔らかなソファに腰を下ろす。緊張で、喉がカラカラに乾いていた。
総監は、しばらくの間、値踏みするように譲の全身を眺めていたが、やがて引き出しから一枚の辞令を取り出すと、こともなげにデスクの上を滑らせた。
そこに書かれていたのは、譲が今まで一度も、教科書のどこにも見たことのない、奇妙な役職名だった。
『討伐第一部隊付 特別戦術観測員』
「……討伐、部隊?」
思わず、声が漏れた。それは、彼が喉から手が出るほど欲していた、しかし、絶対に手が届かないと諦めていた場所の名前だった。心臓が、痛いほど激しく脈打つのを感じる。だが、その役職には、彼の心を再び氷点下まで凍てつかせるのに十分な、奇妙な但し書きが添えられていた。
『原則として、戦闘行為への直接参加を禁ずる。任務は、後方司令車両からの情報分析、及び戦術立案の補助に限定する』
「宮沢君」
総監は、初めてそこで彼の目を見て言った。その瞳は、まるで熟練の職人が希少な鉱石を鑑定するかのように、冷徹で、一切の感情が読み取れなかった。
「君の頭脳は、疑いようもなく、人類の至宝だ。君があの卒業試験の最終局面で見せた分析能力と状況判断は、歴戦の司令官ですら舌を巻くものだった。あれは奇跡などではない。無数の混沌とした情報の中から、ただ一つの最適解を導き出す、君だけの才能だ」
そこまで言って、総監は一度言葉を切った。そして、まるで汚物でも見るかのような目で、譲の華奢な身体を上から下までゆっくりと眺めた。
「だが、その身体は、戦場の脅威に対してあまりに脆弱すぎる。ライフル一発で肩を脱臼し、ヴァルキリーに乗ればただの鉄屑に変える君を、最前線に送り出すことは、組織にとって許容できないリスクだ」
総監は立ち上がり、窓辺に立つと、外の桜並木を眺めながら続けた。
「君のような、いびつで、アンバランスな存在(エージェント)を、我々の組織(システム)の中でどう活かすか。これが、我々が熟慮の末に出した結論だ。君は、我々の『目』であり、我々の『脳』だ。だが、我々の手足ではない。分かるかね?」
その言葉は、彼の能力を最大限に評価した賛辞であると同時に、彼という人間を安全な鳥籠に閉じ込め、その脳髄だけを啜り尽くそうという、組織の冷たく、そして合理的な意思表示に他ならなかった。
英雄ではない。兵士ですらない。自分は、組織という巨大な機械を円滑に動かすための、前例のない、ただの特殊な「部品」なのだ。
譲は、辞令を持つ手が微かに震えていることに気づいた。それは、喜びからではなかった。どうしようもない無力感と、静かな怒りからだった。自分という存在は、結局、このシステムの都合のいいように、定義され、利用されるだけなのだ。
「……謹んで、お受けいたします」
絞り出した声は、自分でも驚くほど、平坦で、感情が欠落していた。
総監室を出ると、春の生暖かい風が、やけに肌寒く感じられた。心配していたのだろう、仲間たちが桜の木の下で彼を待っていた。
「譲! よかった、クビになったわけじゃなかったんだな!」
颯太が、心底安心したように駆け寄ってくる。譲が手に持った辞令を覗き込んだ陽葵が、ぱっと顔を輝かせた。
「すごい! 討伐第一部隊配属じゃない! やったね、譲! これで、またみんなと一緒だ!」
その言葉に、剛も、玲奈も、わずかに目を見開く。
「おめでとう、譲! これで、俺の背中はお前に預けたぜ!」
颯太が、何の屈託もなく、力強く譲の肩を叩く。その純粋な善意が、今は何よりも重かった。また、みんなと一緒? 馬鹿を言うな。お前たちと俺の間には、もう決して越えることのできない、透明な壁があるんだ。
「チッ」
その壁の存在に、誰よりも早く気づいたのは、やはり剛だった。彼は、辞令の但し書きの部分を盗み見ると、あからさまに侮蔑の色を浮かべて吐き捨てた。
「なんだよ。結局は、安全な司令車両からの高みの見物ってわけか。ふざけやがって。これだから頭でっかちのモヤシは気に食わねぇんだ」
「剛君!」
陽葵が咎めるように叫ぶが、剛の言葉は、譲が自分自身に抱いていた自己嫌悪を、的確に言語化したものだった。何も言い返せない。
「まあ、いいじゃないか。譲には譲の戦い方があるんだろ?」
颯太が、必死でその場を取り繕うように、明るく笑う。だが、その笑顔には、どこか痛々しい同情の色が滲んでいた。やめてくれ、と譲は心の中で叫んだ。同情されるくらいなら、いっそ侮蔑される方が、ずっとましだ。
その、どうしようもなく気まずい空気の中、譲はふと、一人の視線に気づいた。
神楽院玲奈。
彼女だけが、少し離れた場所から、いつものように氷のような無表情で、じっとこちらを見ていた。だが、その瞳に、同情や侮蔑の色はなかった。
その視線は、まるで全てを理解しているかのようだった。この前例のない役職が、譲に何をもたらすのか。組織の中で、彼がこれからどれほどの孤独と摩擦に苛まれることになるのか。そして、その孤独こそが、彼を唯一無二の存在へと変える可能性があることすらも。
彼女の視線だけが、これから始まる譲の新たな戦いを、ただの「事実」として、静かに認識しているように感じられた。
風が、また強く吹いた。無数の桜の花びらが、まるで世界を覆い隠すかのように、激しく舞い上がる。
仲間たちの輪の中心にいながら、譲は、自分だけが厚いガラスでできた箱の中に閉じ込められているような、絶対的な孤独を感じていた。
英雄の誕生ではない。これは、組織という巨大なシステムが生み出した、一人の異端児の、静かな始まりの物語だった。
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