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第1部:養成所編
第35話:夜明け前の決断
しおりを挟む卒業試験、最終日の夜明け前。
旧首都圏第7封鎖区域の中心部に設置された、野戦司令部のテントの中は、息を呑むような静寂と、酸素が燃え尽きてしまいそうなほど濃密な緊張感に支配されていた。壁一面のメインモニターには、最終目標である巨大な地下エネルギー施設の最深部に巣食う、怪物の女王個体『クイーン』の巣の、不完全なスキャンデータが映し出されている。
その光景は、悪性の腫瘍をCTスキャンで見たかのように、おぞましかった。蟻の巣のように複雑怪奇に入り組んだ通路。そして、その至る所に蠢く、無数の赤い光点。それは一体一体が、屈強な兵士の命を容易く奪う、怪物たちの生体反応だった。
最後の作戦会議は、開始から一時間も経たないうちに、完全な行き詰まりを見せていた。
歴戦の教官たちが、これまでの経験と理論の全てを注ぎ込んで立案した作戦は、無慈悲なシミュレーション結果によって、次々と木っ端微塵に打ち砕かれていく。
「外部からの bunker buster 攻撃はどうか?」
「駄目です! 数十メートルに及ぶ特殊合金の岩盤に阻まれ、効果は期待できません!」
「ならば、正面ゲートから精鋭部隊による電撃的な突入作戦を!」
「それこそ最悪です! シミュレーションによれば、狭い通路で敵の波状攻撃を受け、突入部隊の生存率は、わずか1.3%! 全滅は免れません!」
一つ、また一つと、希望の灯火が消えていく。残された選択肢は、多大な犠牲を覚悟の上で、無謀な消耗戦を仕掛けることだけ。「これでは、犬死にだ」。誰かが絞り出したその一言が、テント内の全員の心を代弁していた。誰もが、絶望という名の分厚い鉛の毛布に、思考を、そして魂までも絡め取られていた。
その重く、冷たい沈黙を破ったのは、会議の末席で、誰にも気づかれずに膨大なデータを解析し続けていた、宮沢譲(みやざわゆずる)だった。
彼は、幽霊のように静かに立ち上がった。その猫背の、およそ英雄とはかけ離れた頼りない姿に、テント中の視線が、訝しげに、あるいは憐れむように注がれる。
譲は何も言わず、メインモニターの表示を、手元の端末から操作して切り替えた。そこに映し出されたのは、誰もが見向きもしなかった、この施設が建設された五十以上も前の、古びた設計図だった。そして、その青写真の片隅に、忘れ去られたように記されていた、一本の細い線。
『作戦を、提案します』
譲の声は、この絶望的な空気の中では、あまりにも静かで、場違いなほど冷静だった。
彼の作戦は、常軌を逸していた。正面ゲートから、朝倉颯太(あさくらそうた)と赤城剛(あかぎごう)が率いる陽動部隊が、あたかもそれが本隊であるかのように、総攻撃を仕掛ける。敵の全ての注意が、その一点に集中した、ほんの数分間の隙。その隙に、神楽院玲奈(かぐらいんれいな)と橘陽葵(たちばなひまり)、そして数名の精鋭からなる少人数の別動隊が、設計図にだけ記された、この忘れ去られた地下の『冷却水用排水路』から巣の中枢に直接侵入し、女王の首を獲る。
一瞬の静寂の後、教官の一人が嘲笑うように言った。
「馬鹿げている! その設計図は半世紀前のものだぞ! 今はもう崩落しているかもしれん! それに、もしルートが生きていたとしても、内部は怪物が張り巡らせた生体センサーや、未知のトラップで満ちているはずだ! 地図のない迷宮を進むようなもの、いや、それ以上に無謀だ!」
そうだ、と誰もが思った。その作戦には、致命的な欠陥があった。複雑怪奇なルートをリアルタイムで解析し、無数に仕掛けられたであろうトラップを瞬時に見抜き、解除しながら、最短ルートで中枢へと部隊を導く、超人的なナビゲーター。そんな存在が、この世にいるはずがなかった。
その全員の心の声を、譲はまるで読んでいたかのように、静かに、しかしはっきりと、告げた。
『その別動隊のナビゲーターとして、僕が、現場に出ます』
その一言が、司令部の空気を爆発させた。
『馬鹿を言うな!』
『貴様、死にたいのか!』
『一般枠のお前が、精鋭たちの足手まといになるだけだ! 自殺行為だぞ!』
教官たちの怒声が、嵐のように譲に叩きつけられる。だが、その嵐を切り裂いたのは、彼が命を懸けて守ろうとしている、仲間たちの声だった。
最初に口を開いたのは、玲奈だった。彼女は、氷の彫像のような無表情のまま、しかしその瞳に確かな信頼の光を宿して、静かに告げた。
「彼なら、可能です。いいえ。この作戦を、この絶望的な状況を覆すことができる人間がいるとすれば、それは彼にしか、できません」
次に、腕を組んで忌々しげに顔を歪めていた剛が、吐き捨てるように、しかしどこか誇らしげに、呟いた。
「チッ。気に食わねぇが、このモヤシ野郎の頭脳(計算)だけは、なぜか、寸分の狂いもなく当たるんだよな。あの無人島でも、こいつに命を拾わされた」
そして、陽葵が、目に涙を溜めながらも、力強く、何度も頷いた。その瞳は、譲に絶対の信頼を寄せていた。
颯太だけが、言葉もなく、ただ複雑な表情で譲を黙って見つめていた。親友を守りたいという気持ちと、自分には決して思いつけなかった作戦を提示した親友への嫉妬。そして、自分ではもはやこの状況を打開できないという無力感。その全てが、彼の心の中で渦巻いていた。
譲は、全身から噴き出す、死への恐怖からくる冷たい汗を、鋼の理性で心の奥底に抑え込んだ。そして、仲間たち一人一人の顔を見渡し、最後に、自分自身に言い聞かせるように、はっきりと宣言した。
『英雄には、なれません。僕のこの手は、引き金を引くことすらできない』
その瞳には、かつて彼を夜ごと苛んだ、劣等感の黒い影は微塵もなかった。
『でも、みんなを勝たせるための、みんなを生きて帰らせるための『脳』に、僕なら、なれる』
そこにあったのは、自分だけの戦う意味を見つけ、自分にしかできない役割を受け入れ、仲間たちのために自らの命を懸けることを決意した、一人の男の、静かで、しかし何よりも強い覚悟の光だった。
その時、テントの隙間から、夜の闇を切り裂く最初の朝日の光が、一本の鋭い剣のように差し込んだ。その光は、まるでスポットライトのように、譲の横顔を劇的に、そして神々しいまでに、照らし出した。
彼の無謀で、しかし唯一の希望に満ちた決断が、物語を最終局面へと、大きく動かそうとしていた。
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