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第1部:養成所編
第34話:颯太の焦り
しおりを挟む橘陽葵(たちばなひまり)の一件以来、部隊の空気は、誰の目にも明らかなほど、しかし誰も口にすることのできない形で、静かに、そして確実に変質していた。
以前の彼らにとって、朝倉颯太(あさくらそうた)は絶対的な太陽だった。困難な状況に陥れば、誰もが反射的に彼の名を叫び、その英雄的な判断に全てを委ねた。「颯太、どうする!?」という一声が、どんな絶望的な状況にも希望の灯をともす魔法の呪文だった。
だが、今は違う。
模擬戦闘で部隊が窮地に陥った時、兵士たちがインカム越しに無意識に求めるのは、太陽の輝きではなかった。
「クソッ、囲まれた! 司令部の宮沢! 状況はどうなってる! 指示をくれ!」
彼らが求めるのは、後方の暗い司令車両から届けられる、氷のように冷静で、機械のように正確な、あの神がかり的な声だった。颯太が長年の戦闘経験から最適解を導き出すよりもコンマ数秒早く、宮沢譲(みやざわゆずる)からの完璧な回答が、戦場の全てのユニットに共有される。それはもはや、個人の経験則やカリスマ性が通用しない、情報という名の絶対的な暴力だった。
颯太は、自分がこの部隊の「太陽」であり、仲間を導く「英雄」であると信じて疑わなかった。いや、そうあるべく、血の滲むような努力を重ねてきた。しかし、戦況が複雑になればなるほど、戦場が混沌とすればするほど、自分の力が及ばない領域が増えていく現実を、嫌というほど突きつけられた。
後方から、戦場という巨大なチェス盤の駒を全て動かす、見えざるプレイヤー、譲。仲間たちが彼の声を頼るたびに、颯太は自分がただの「最強の駒」の一つに成り下がってしまったような、耐え難い無力感に襲われた。それは、じりじりとした焦りとなり、やがて彼の心の中で、醜い嫉妬という名の毒草となって芽吹き始めていた。
食堂で昼食をとっていても、その毒は彼の思考を蝕んだ。少し離れたテーブルで、赤城剛(あかぎごう)と神楽院玲奈(かぐらいんれいな)が、珍しく真剣な表情で譲と作戦について議論している。陽葵も、最近は「譲がね」と、彼の名前を口にすることが増えた気がした。
いつからだ。いつから、俺たちの中心は、あいつになったんだ。
幼い頃から、いつも自分が真ん中にいた。泣いている陽葵の手を引き、いじめられている譲の前に立ちはだかった。自分が二人を守るのだと、それが当たり前だと思っていた。その関係性が、今、静かに、そして完全に逆転しようとしている。守られる側になること。それは、颯太のプライドが最も許さない、最大の屈辱だった。
彼の英雄というアイデンティティは、仲間からの賞賛と信頼という名の光を浴びて、初めて輝くことができる。その光が奪われ始めた今、彼の内なる太陽は急速にその輝きを失い、冷たい影を落とし始めていた。
その影が、決定的な形で噴出したのは、卒業試験も終盤に差し掛かった、ある日のことだった。
その日の訓練舞台は、旧工業地帯に打ち捨てられた、巨大な廃プラントだった。錆びついた鉄骨が空を突き刺し、無数のパイプが巨大な蛇のように絡み合う、無機質で殺風景な迷宮。オイルと鉄錆の匂いが混じり合った淀んだ空気が、颯太の荒んだ心を映し出す鏡のようだった。
「よし、行くぞ!」
先行部隊を率いていた颯太は、長年の戦闘経験から、最も効率的だと信じるルートを即座に判断した。頭上を走る、巨大な冷却用の配管。あの上を渡れば、敵の防衛ラインを無視して、一気に中枢部へと奇襲をかけられる。それは、過去に何度も彼を勝利に導いてきた、成功体験に裏打ちされた「勘」だった。
「A班、俺に続け! あの配管の上を渡る!」
颯太が高らかに指示を飛ばした、その直後だった。
『待て、颯太。そのルートは罠だ』
インカムに割り込んできたのは、やはり、あの氷のように冷たい譲の声だった。
『何!?』
『その配管の熱センサーに、異常な反応が出ている。通常稼働時ではありえない、不規則なエネルギーの集積パターンだ。配管そのものが、熱感知式の爆弾になっている可能性がある』
その言葉に、颯太の全身の血が逆流するような感覚に陥った。まただ。また、俺の判断を、あいつが否定する。
『ふざけるな! 俺は今まで、このやり方で勝ってきた! 現場にいる俺の勘を信じろ!』
『データは、君の勘が間違っていると、確率89%で示している!』
『データだと!? 戦場は、お前のいる安全な部屋のモニターの中じゃねぇんだぞ!』
初めてだった。二人の意見が、部隊全員が聞いているインカム越しで、ここまで公然と、そして激しく対立したのは。周囲の兵士たちが、戸惑ったように動きを止める。太陽であるはずの颯太と、影の司令塔である譲。どちらの光を信じればいいのか、誰も判断できずにいた。
一瞬の躊躇。だが、颯太のプライドは、もはや引き返すことを許さなかった。ここで譲の指示に従えば、自分が彼の風下に立ったと、部隊全員に認めることになる。それだけは、絶対にできなかった。
「俺に続け!」
颯太は、譲の警告を完全に無視し、部隊に前進を命じようとした。
その刹那だった。
一条の閃光が、颯太の目の鼻の先を掠め、彼が渡ろうとしていた配管に寸分の狂いもなく着弾した。
神楽院玲奈が放った、一発の警告射撃だった。彼女は、颯太の勘ではなく、譲のデータを信じたのだ。
次の瞬間、配管は凄まじい轟音と共に大爆発を起こした。灼熱の爆風が部隊を襲い、衝撃で吹き飛ばされた颯太は、地面に無様に叩きつけられる。もし玲奈の射撃がなければ、もしあのまま進んでいれば、部隊は跡形もなく消し飛んでいただろう。
もうもうと立ち上る黒煙の中、インカムは死んだように静まり返っていた。誰もが、声もなく、爆心地と颯太の姿を交互に見つめている。その視線が、憐憫と、失望の色を帯びていることに、颯太は気づいていた。彼のプライドは、あの爆発の轟音と共に、粉々に砕け散った。
訓練後、譲が司令車両から降りてきたところを、颯太は待ち構えていた。夕陽が彼の顔に深い影を落とし、いつもの太陽のような笑顔は、どこにもなかった。
「……お前は、いつからそんなに偉くなったんだ?」
絞り出すような声だった。
「安全な場所から、俺たちに指図するな!」
それは、親友の身を案じる言葉ではなかった。自分の絶対的な領域を侵され、聖域であるはずの戦場での輝きを奪われたことへの、剥き出しの敵意と、嫉ITに満ちた言葉だった。
譲は、ずっと焦がれ、目標にしてきたはずの親友が浮かべる、初めて見る醜い感情に、言葉を失った。何か言わなければ。だが、どんな言葉も、今の彼には届かないだろうということが、痛いほど分かった。
颯太は、そんな譲に背を向け、まるで自分自身に言い聞かせるかのように、吐き捨てた。
「俺は、お前に守ってもらうために、ここにいるんじゃない!」
その背中は、譲がずっと追いかけてきた、頼もしい英雄の背中ではなかった。ただ、失いかけた自分の存在価値を守るために意地を張り、震えている、脆くて小さな男の背中に見えた。
二人の間にできた溝は、もはや修復不可能なほどに、深く、そして暗かった。夕闇が、その亀裂を静かに飲み込んでいった。
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