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第1部:養成所編
第33話:陽葵の涙
しおりを挟む卒業試験は、三日目に突入していた。戦いの舞台は、旧首都の地下深くに、まるで巨大な蟻の巣のように張り巡らされた広大な地下街へと移っていた。そこは、地上の光が一切届かない、永遠の夜の世界だった。
壁に設置された非常灯が放つ、力ない緑色の光だけが、水浸しになった通路や、固くシャッターが閉ざされたままのゴーストタウンを不気味に照らし出している。天井の配管の裂け目から滴り落ちる水滴が、忘れた頃に水たまりを叩く音。その不規則なリズムだけが、この死んだ街に唯一残された脈拍のようだった。カビと、湿ったコンクリートと、遠い昔にここで生活していた人々の残り香が混じり合った、重く淀んだ空気が肺を満たし、兵士たちの尖った神経をじわじわと、しかし確実に蝕んでいた。
閉塞感。そして、闇のどこに敵が潜んでいるか分からないという、終わりのないプレッシャー。それは、肉体を疲弊させるよりも遥かに効率的に、人間の精神を削り取っていく。
後方の司令車両で、宮沢譲(みやざわゆずる)は、モニターに映る橘陽葵(たちばなひまり)のバイタルデータに、危険な兆候が現れているのを見て取っていた。心拍数は平常時より常に高く、血圧の変動も大きい。何より、普段は春の日差しのように温かい彼女の表情が、今は強張った仮面のように硬い。操縦桿を握るその手に、どれほどの力が入っていることか。氷上のバレリーナと称される彼女の繊細な操縦技術は、完璧な精神の安定の上に成り立つ、極めて脆い芸術品のようなものだった。
(陽葵、限界が近いな…)
譲がそう結論付けた、まさにその時だった。
『敵襲! 3時の方向、第4ブロックの連絡通路から!』
斥候からの絶叫に、部隊の緊張が一気に沸点に達する。闇の奥から、蜘蛛のような多脚を持つ、俊敏な怪物が複数体、カサカサという乾いた足音を響かせながら姿を現した。
『陽葵、後退して距離を取れ! 颯太が前に出る!』
朝倉颯太(あさくらそうた)の的確な指示が飛ぶ。陽葵も、頭では理解していた。後退し、颯太の射線を開ける。それがセオリーであり、最適解だ。だが、彼女の脳から指先への神経伝達は、蓄積された疲労という名の分厚い壁に阻まれ、コンマ数秒、致命的な遅れを生んだ。
ほんの僅かな、しかし絶対的な遅れ。
焦りから、彼女が握る操縦桿が微かに震える。回避行動に入ったヴァルキリーの巨大な脚が、濡れた床に僅かにグリップを失った。
『あっ――』
陽葵の短い悲鳴と共に、純白の機体はバランスを崩し、巨大な体躯がスローモーションのように傾いでいく。そして、凄まじい轟音を立てて、通路脇の分厚いコンクリートの壁に激突した。衝撃で天井の構造物が無数に剥がれ落ち、けたたましい破壊音と共に、部隊が通ってきた唯一の退路を、完全に塞いでしまったのだ。
砂塵が舞い、静寂が訪れる。そして、その静寂を切り裂いたのは、親友である颯太の、悲痛な叫びだった。
『陽葵っ! 何をやってるんだ!』
その言葉は、非難ではなかった。だが、純粋な驚きと絶望が込められたその声は、何よりも鋭い刃となって陽葵の心を突き刺した。退路を断たれ、袋の鼠となった颯太の先行部隊に、怪物の群れが牙を剥いて殺到する。
絶望的な状況。しかし、その地獄を終わらせたのは、英雄である颯太の力ではなかった。
『玲奈さん、敵の関節部だけを狙って動きを止めろ! 剛さん、そこのシャッターを破壊して第5区画へ! そこが唯一の迂回路だ! 颯太、陽葵の機体を盾にしろ! 今の彼女にできる唯一の仕事は、最高の壁になることだ!』
後方司令部にいる譲からの、血も涙もない、しかし神がかり的なまでに正確な指示が、インカムを通して響き渡る。神楽院玲奈(かぐらいんれいな)の放つ弾丸が、時間を操るかのように怪物の足だけを寸分の狂いもなく撃ち抜き、赤城剛(あかぎごう)のヒートアックスが、分厚いシャッターを紙細工のように切り裂いて新たな活路を開いた。
部隊は、なんとか窮地を脱した。しかし、その代償は大きかった。数名の負傷者と、何よりも、部隊の絶対的な信頼を一身に受けていた橘陽葵という天才パイロットの、砕け散ったプライド。
作戦終了後、他のパイロットたちが安堵のため息と、陽葵への無言の非難が入り混じった重い空気を引きずりながら機体を降りていく中、陽葵だけは、薄暗いヴァルキリーのコックピットから降りてくることができなかった。
ハッチは固く閉ざされたまま。暗いコクピットの中で、計器類の緑色の光だけが、彼女の顔をぼんやりと照らし出していた。その頬を、大粒の涙が、後から後から止めどなく伝っていく。自分のミスのせいで、仲間を、そして何よりも大切な颯太を、死の淵に追いやってしまった。その許しがたい事実が、彼女の心を押し潰していた。声を殺し、肩を震わせ、ただ一人で泣いていた。完璧なパイロット、明るいムードメーカー。そんな仮面の下に隠していた、本当の弱い自分が、もう隠しきれずに溢れ出していた。
その時、コン、コン、と、彼女の機体の装甲を誰かが軽く叩く音がした。
ハッチを開ける気力もなく、外部カメラの映像をモニターに映し出すと、そこに立っていたのは、整備班の作業着を着た、見慣れた猫背の幼馴染、宮沢譲だった。
『陽葵、聞こえるか。機体システムにエラーが出てる。ハッチのロックを強制解除するぞ』
譲の声は、いつもと同じ、感情の読めない平坦なものだった。やがて、プシュー、という音と共にハッチが開き、地下街の湿った空気が流れ込んでくる。陽葵は慌てて涙を拭うが、その痕跡は隠しようもなかった。
譲は、アナリストとして「ミスの原因は、三日間の平均睡眠時間4.3時間に対し、戦闘時の平均心拍数が15%上昇したことによる、複合的な疲労蓄積。十分な休息を取れば、パフォーマンスは85.3%まで回復する」といった、無粋なデータの話は一切しなかった。
彼はただ、よじ登るようにしてコクピットの脇まで来ると、何も言わず、その場にどかりと腰を下ろした。
狭い空間に、不器用な沈黙が流れる。昔、彼女がまだ小さかった頃、公園のブランコから落ちて膝を擦りむいて泣いていた時も、この少年はそうだった。慰めの言葉も、励ましの言葉も言わない。ただ、何も言わずに隣に座り、彼女が泣き止むのを、日が暮れるまで黙って待っていてくれた。
やがて、譲がぽつりと呟いた。
「陽葵は、昔からそうだよな。全部、一人で抱え込む。転んで痛い時も、テストの点が悪かった時も、いつも俺と颯太の前では無理して笑って、後で一人でこっそり泣いてる。俺も颯太も、何度お前に心配させられたか、分かってるのか」
その言葉が、陽葵の心の最後のダムを決壊させた。
「う…うわああああああああん!」
子供のように、声を上げて泣きじゃくった。ヒーローでなければならない颯太の前では、決して見せることのできない顔。いつも完璧で、明るく、頼れる存在でいなければならないという、重い重い鎧。その全てが、この不器用な幼馴染の前でだけは、バラバラに剥がれ落ちていく。
譲は何も言わず、ただ、作業着のポケットから何かをごそごそと取り出した。それは、彼の体温で少しだけ溶けて、銀紙が張り付いてしまった、一本のチョコレートだった。
「ほら」
無言で差し出された、歪な形のチョコレート。その不器用な優しさが、陽葵の涙をさらに加速させた。
二人の間に流れる、甘くて、少しだけ苦い、切ない時間。
その光景を、誰も気づいてはいなかった。少し離れた通路の、非常灯の光が作る深い暗がりの中から、朝倉颯太が、握りしめた拳が白くなるほどに力を込め、複雑な表情でじっと見つめていることには。
親友を慰める、もう一人の親友。そこには、自分の入り込む隙間など、一ミリもないように思えた。
三人の幼馴染の関係性が、もう二度と、昔のままではいられない。その胸が締め付けられるような予兆を、地下街の冷たく湿った空気が、静かに運んでいた。
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