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第20話 さよなら、穏やかな日々
しおりを挟むあの黒い蒸気船が港にやってきてから、数日が過ぎた。最初は遠巻きに眺めるだけだった街の人々も、その異様な威容に少しずつ慣れ始め、日常の中に溶け込みつつあるように、見えた。だが、水面下では、街を構成していた穏やかな空気の粒子が、一つ、また一つと、不吉な何かに置き換えられていくような、そんな静かな変化が確かに始まっていた。
収穫祭を前に、あれほど活気に満ちていた街から、少しずつ笑い声が減っていったのだ。
最初に異変に気づいたのは、ギルドの酒場で働くマスターだった。日雇いの労働者や、身寄りのない浮浪者たちが、ぱったりと顔を見せなくなったのだという。彼らはその日暮らしの者が多く、数日姿を見せないことなど珍しくもなかった。だから、誰もそれを本気で心配する者はいなかった。
次に、夜の仕事を終えた若い女性が、家に戻らなかった。恋人との痴話喧嘩の末の家出だろうと、衛兵隊はまともに取り合わなかった。
そして、ついに、路地裏でかくれんぼをしていたはずの、パン屋の幼い息子が、忽然と姿を消した。
街は、目に見えない恐怖の影に、じわじわと覆われ始めていた。日が暮れると、人々は足早に家路につき、店のシャッターはいつもより早く下ろされる。子供たちの甲高い笑い声が響いていた路地裏は、まるで墓場のように静まり返っていた。誰もが口には出さない。しかし、その視線は、港に停泊する、あの黒い鉄の塊へと、疑いと恐怖の色を込めて、静かに向けられていた。
僕たちデコボコパーティーも、街の不穏な空気を感じ取り、独自に調査を始めていた。リリアナにも協力を仰ぎ、黒服の男たちの行動パターンを分析する。彼らは常に二人一組で行動し、無駄口一つ叩かず、まるで精密機械のように正確な歩幅で街を巡回していた。彼らの目的は、リリアナの分析によれば、この街の地理的な情報や、土地に流れる微弱なマナの経路を、極めて系統的に調査しているようだった。しかし、その調査が失踪事件とどう結びつくのか、尻尾を掴ませない。鉄壁の守りだった。
そんなある日の午後、僕はギルドのカウンターで、信じられない光景を目にした。
いつも太陽のように明るい笑顔で、僕たち冒険者を迎えてくれる、受付嬢のアンナ。その彼女が、カウンターの陰に隠れるようにして、一人、声を殺して泣いていたのだ。栗色のポニーテールが、小刻みに震えている。
「アンナさん……?」
僕が声をかけると、彼女は慌てて涙を拭い、いつもの笑顔を作ろうとする。しかし、その笑顔は、あまりにも拙く、痛々しく、見ている僕の胸が締め付けられるようだった。
「ご、ごめんなさい、優さん。何でもないんです。ちょっと、目にゴミが」
気丈に振る舞おうとする彼女だったが、僕の顔を見ると、ついに堪えきれなくなったように、その瞳から大粒の涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
「幼馴染の、ミナが……昨日の夜から、帰ってこないんです」
ミナ。僕も顔だけは知っていた。アンナとよく一緒に、市場で買い物をしていた、そばかすが可愛らしい、花屋の女の子だ。
「私、あの子と、約束したんです。今度の収穫祭で、一緒に、ダンスを踊るって……。二人で、新しいリボンも買ったのに……」
嗚咽が、彼女の言葉を途切れさせる。
「優さん……お願い……あの子を……」
その涙が、僕の心を決める、最後のひと押しとなった。守りたい、と思った。この、太陽のような笑顔を。彼女の、ささやかで、かけがえのない約束を。この理不-尽から、必ず。
事態を重く見たギルドマスターは、その日の夕方、僕たちデコボコパーティーを、個室へと呼び出した。年季の入った革張りのソファ、壁には歴代ギルドマスターの肖像画。部屋には、重々しい沈黙が満ちていた。
ギルドマスターは、深く、長い溜息をつくと、テーブルの上に一枚の依頼書を置いた。それは、正式な羊皮紙ではなく、ただのメモ用紙に走り書きされた、非公式のものだった。
「衛兵隊は、外交問題になることを恐れ、動けん。いや、動かん。見て見ぬふりをするつもりだ。だが、このままでは、この街は静かに殺される」
依頼書に書かれていたのは、たった一行。
『異国の船の内部調査、及び、失踪者の救出』
「極めて危険な任務だ。相手は、我々の常識が通用しない、高度な技術を持つ武装集団。生きて帰れる保証は、どこにもない。成功報酬は、ギルドが傾くほどの額を支払おう。だが……」
彼は、言葉を区切り、まるで懺悔するかのように、僕たちの顔を一人一人見つめた。そして、この街で最も偉いはずの男が、僕たちのような若造に向かって、ゆっくりと、その頭を下げた。
「この街の未来が、君たちにかかっている。どうか、この街を救ってくれ」
部屋を出て、僕たちはギルドのテラスで、夕日に染まる港を眺めていた。依頼を受けるかどうか、話し合うためだ。しかし、そこに議論の余地など、最初から存在しなかった。
空と海が、まるで街の悲鳴を映したかのように、どこまでも、血のように赤く染まっている。その中央に、巨大な黒船が、全てを飲み込む巨大な口のように、不気味なシルエットとして浮かび上がっていた。港は、不気味なほどに静まり返り、聞こえるのは、波の音と、遠くで鳴くカモメの悲しげな声だけ。
最初に口を開いたのは、アレクだった。彼は、夕日に照らされた自分の拳を、ただ、じっと見つめていた。
「アンナ殿を、泣かせたまま、騎士を名乗れるか」
その声は、いつものような脳天気な大声ではなく、静かだが、鋼のような決意に満ちていた。
「あんな気味の悪い連中に、この街を好き勝手させてたまるもんですか」
ソフィアが、腕を組み、忌々しげに黒船を睨みつけながら、吐き捨てるように言う。
エマとノアは、何も言わなかった。ただ、静かに、しかし、その瞳の奥に、これまで見たこともないほどに固い意志の光を宿して、力強く頷いた。
彼らの答えは、最初から決まっていたのだ。この、不器用で、非合理的で、どうしようもなく優しい仲間たち。彼らが、目の前の理不尽を見て見ぬふりなどできるはずがなかった。
僕もまた、同じだった。
日本にいた頃の、無気力な自分はもういない。この世界に来て、僕は、かけがえのないものを見つけてしまった。
守りたい「居場所」と、命を懸けてでも守りたい「仲間」。そして、太陽のような笑顔で僕を迎えてくれた、あの少女の涙。
それらを守るためなら、どんな理不尽にだって、立ち向かってやる。
僕たちは、顔を見合わせると、誰ともなく、静かに頷き合った。
夕焼けが、港を真っ赤に染め上げる中、僕たち五人は、ギルドマスターにだけ行き先を告げると、覚悟を決めて、港の隅に隠されていた一艘の小舟に乗り込んだ。
ギシ、ギシ、と、オールが水を掻く音だけが、静かな港に響き渡る。僕たちの小舟は、まるで巨大なクジラに挑む小魚のように、あの黒い鉄の怪物へと、静かに、しかし、確かな意志を持って、進んでいく。
穏やかだった日々は、もう終わった。
この世界の、本当の理不尽との戦いが、今、始まろうとしていた。
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