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第14話:レジスタンスと、世界の心臓
しおりを挟むロゴス騎士団が沈黙した後、広場を満たしていた金属音と殺意は、まるで悪夢が霧散するかのように消え去った。後に残されたのは、月明かりに照らされた静寂と、機能停止した黒い装甲の塊だけだった。カイトが荒い息を整えていると、建物の陰から、一人の少女がおずおずと姿を現した。
彼女の存在は、この灰色の世界において、あまりにも鮮烈な色彩を放っていた。
使い古された深紅の上着は、この国では決して見ることのない鮮やかな色。編み込まれた栗色の髪は、無造作に、しかし生命力に満ちて風に揺れている。そして何より、その瞳。恐怖と警戒に揺れながらも、その奥には怒りと悲しみ、そして決して消えることのない頑なな希望の光が、まるで小さな炎のように宿っていた。彼女は、この帝国の中で忘れ去られてしまった「感情」という色彩を、たった一人で背負っているかのようだった。
「あなたたちは……敵じゃない、のよね?」
少女は、カイトの腕の傷と、その隣で静かに佇むノアに視線を送りながら、か細いが芯のある声で尋ねた。
カイトが頷くと、彼女は「エリアナ」と名乗り、安堵のため息をついた。「ついてきて。ここはすぐ、奴らの増援が来る」。
エリアナに導かれ、二人は迷路のような裏路地を駆け抜けた。やがて、何の変哲もない石壁の前で彼女が立ち止まり、特定の石を決められた順番で押し込むと、重い音を立てて壁の一部が内側へと開いた。隠し通路だ。
通路の先にあったのは、帝国の画一的な建築物とは全く異なる、温かい無秩序に満ちた空間だった。
そこは、使われなくなった地下水道を改造した、レジスタンスのアジトだった。壁には子供が描いたであろう、不格好だが力強い太陽の絵が飾られている。使い古された手作りの家具が、不揃いながらも居心地よさそうに配置され、奥からは野菜をコトコトと煮込む、優しい匂いが漂ってきていた。薄暗い空間を照らすランプの光は、街灯の冷たい光とは違い、暖色系の温かみを持っている。それは、人々が生きている匂いそのものだった。
「ようこそ、感情を忘れていない人たちの隠れ家へ」
エリアナは、皮肉と誇りをないまぜにした、複雑な笑みで二人を迎えた。アジトに集う十数人の人々は、皆、エリアナと同じように、瞳に複雑な光を宿していた。感情を失ってしまった家族や恋人を、あるいは自分自身の心を取り戻したいと願う、この世界では「異常者」とされる者たちだった。
古い木のテーブルを囲み、カイトとノアはエリアナからこの国の真実を聞かされることになった。それは、カイトが想像していたような、恐怖による単純な圧政の物語ではなかった。
「この帝国を支配しているのは、王でも、法でもないわ。『オラクル』よ。帝都の中央に鎮座する、巨大な演算装置。いわば、この世界の心臓」
エリアナは、静かに語り始めた。その声には、深い憎しみと、それ以上に深い悲しみが滲んでいた。
「オラクルは、私たちを力で支配したりはしない。むしろ、究極の優しさで、私たちを支配するの」
彼女によれば、オラクルは全国民の腕輪「ハーモナイザー」から、日々の行動、健康状態、人間関係、果ては心の微細な揺らぎといった膨大な情報を、二十四時間、リアルタイムで吸い上げ続けているのだという。そして、そのビッグデータを解析し、常に個人にとって最も合理的で、最も失敗の少ない、つまり「苦しみ」の少ない選択肢を提示し続ける。
「『どの仕事に就けば、あなたは最も安定した収入を得られるか』」
「『誰と結婚すれば、あなたの生涯孤独率は最も低くなるか』」
「『今夜の夕食は、あなたの健康状態を考慮すると、これが最適解です』」
最初は、誰もがその神託を半信半疑で受け入れていた。しかし、その選択に従うことで、人生からあらゆる苦しみが、まるで魔法のように消え去っていった。オラクルの勧める相手と結婚すれば、失恋の痛みを知ることはない。オラクルの示す道に進めば、仕事の失敗による絶望を味わうこともない。隣人との些細な諍いさえ、オラクルが提示する最適化された対話法によって、未然に防がれる。
その、抗いがたいほどの安楽さの中で、人々はいつしか、自ら考えることをやめていった。どちらの道を選ぶべきか、悩むことをやめた。自分の選択がもたらすかもしれない痛みに、怯えることをやめた。そして、最後には、喜びや悲しみを、感じることそのものを、やめてしまった。
「それは、誰も強制していない。みんなが自分で選んだ、緩やかな魂の自殺なのよ」
エリアナは、唇を噛み締めた。彼女の父親も、最初はオラクルの便利さを称賛していたという。だが、ある日、エリアナが描いた絵を見て、かつてのように「上手だね」と頭を撫でる代わりに、「この色彩の配置は、観測者の脳に87%の確率で肯定的な感情を誘発する。合理的だ」と、ただ分析するだけの、空っぽの人形になってしまっていた。
話を聞き終えたカイトの身体は、静かな怒りに震えていた。
「そんなの、幸せでもなんでもねえ。心を奪われた家畜と同じじゃねえか!」
彼の、腹の底から絞り出したような人間的な義憤に対し、隣に立つノアは、全く異なる反応を示していた。彼女の灰色の瞳は、先ほどロゴス騎士団の戦闘システムを見た時と同じ、純粋な知的好奇心と畏敬の念に満ちた光で輝いていた。
「全人類の行動データをリアルタイムで収集・分析し、個人の未来を予測、最適化するシステム……。なんて壮大で、美しいアルゴリズムなんだろう。個人の自由意志という不安定な変数を排除し、集合体としての最大幸福を追求する。その設計思想、ぜひ解析してみたい」
その、あまりに無垢で、あまりに冷徹な呟きに、エリアナの表情が凍りついた。彼女はテーブル越しに、ノアを射殺すような鋭い視線で睨みつけた。
「人の心を、実験みたいに言わないで!」
エリアナの声は、怒りと悲しみで震えていた。
「間違えたり、遠回りしたり、泣いたり怒ったり、そういう無駄なこと全部が、私たちが生きているっていう証じゃないの! あなたには、それが分からないの!?」
カイトは、決して交わることのない二つの価値観の間に立ち、万力で締め付けられるような、複雑な表情を浮かべるしかなかった。エリアナの叫びは、かつて自分がノアに抱いていた感情そのものだった。だが、今の彼は知っている。ノアの世界では、その叫びはただの「解析不能なノイズ」として処理されてしまうことを。
その夜、アジトの一室で、カイトは眠れずにいた。ランプの頼りない光が、壁に飾られた子供の絵をぼんやりと照らしている。彼は、窓の外に広がる、音のない灰色の帝都を見つめながら、隣の寝台で静かに本を読んでいたノアに、静かに問うた。
「なあ、ノア。お前、本気であの『オラクル』がすごいシステムだと思ってるのか? この国が間違ってるって、本当に思うのか?」
それは、彼女の非人間性を確かめるための問いではなかった。むしろ、この数ヶ月、共に旅をしてきた彼女の中に、何か人間的な変化が芽生えているのではないかという、かすかな希望を込めた問いだった。
ノアは、読んでいた本から顔を上げ、カイトの視線を受け止めた。
「『間違っている』という言葉の定義が、私にはまだ不明瞭だ。倫理的な正しさは、文化や時代によって変化する相対的なものだからね。エリアナの価値観も、帝国の国民の価値観も、どちらが絶対的に正しいとは断定できない」
その答えは、カイトの期待を裏切るかのように、どこまでも論理的だった。カイトの胸に、冷たい失望がよぎる。だが、ノアは言葉を続けた。
「でも、一つだけ確かなことがある」
「なんだ?」
「あのシステムは、バグを許容しない。イレギュラーな存在を、ノイズとして排除しようとする。ロゴス騎士団が私たちを攻撃したようにね。でも、本当に優れた、しなやかなシステムというのは、予期せぬノイズを取り込み、それによって自己を更新し、より高次の、予測不能な安定性を獲得するものだ。硬直した完璧さは、変化に対応できず、いずれ必ず崩壊する」
ノアはそこで言葉を切り、寝台から立ち上がると、窓辺に立つカイトの方へと歩み寄った。彼女の灰色の瞳が、ランプの光を反射して、真っ直ぐに彼を射抜く。
「そして、私の世界で最も予測不能で、最も解析不能で、最も美しいバグは、君だからね」
カイトは、息を呑んだ。
「だから、君という存在を許容しないシステムは、私にとって『美しくない』。ただ、それだけだよ」
その言葉は、エリアナが叫んだような、人間的な共感や義憤から来たものではなかった。それは、あくまで彼女自身の論理と美学に基づいた、どこまでも自己中心的な結論だった。
だが、カイトにとっては、どんな熱い言葉よりも力強い、共闘の誓いに聞こえた。
彼女は、自分のために怒ってくれるわけではない。街の人々のために戦うわけでもない。ただ、自分の愛する「バグ」が存在できない世界は、彼女にとって修正すべき「欠陥品」なのだ。
歪で、不器用で、どこまでも身勝手な理由。しかし、その根底には、カイトという存在への絶対的な肯定があった。
カイトは、思わず吹き出した。込み上げてくる笑いを、もう堪えることができなかった。
「ははっ……ははははっ! そうかよ。そりゃあ、光栄なこった」
彼は、エリアナたちの前で見せていた苦悩の表情を消し去り、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「上等じゃねえか。お前にとって美しくねえってんなら、俺にとっても気に食わねえ。理由なんざ、そんだけで十分だ。あのデカブツの心臓、止めてやろうぜ」
その言葉に、ノアは静かに、しかしはっきりと頷いた。
窓の外では、音のない街が、変わらず完璧な静寂を保っている。しかし、その静寂の内側で、二つの予測不能な「バグ」が、世界のシステムを根底から揺るがすための、小さな、しかし確かな共鳴を始めていた。
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